【日常】飛倉ちぎり【吸血鬼の夜】
◇
牛乳を飲みましょう。
そんな健康法のような一文が、クウェンディ症候群患者に渡される手帳の「吸血鬼」の項目には書かれている。冗談ではなく本当にそれが新人吸血鬼にお勧めされているのだ。
そもそも吸血鬼とはどういう生き物かというと、物凄く単純に説明できる。
血を吸いたがる性質がある。以上、終了。
あまりにもぞんざいすぎる括りだけども、これ、本当にそのぐらいだから困るのだ。
吸血鬼と聞いて一般の人が思い浮かべるイメージは多分次のような感じだろう。
血を啜るための尖った牙。
人を惑わす紅い瞳。
鏡に映らず影もない。
霧に変じる不死身の肉体。
日光、流水、十字架に弱い。
そして何より永劫を生きる夜の王者。
二つ目まではいざ知らず、それ以降の特徴はあまりにもオカルトだ。
クウェンディ症候群は肉体を変化させる病だ。幻想の異人種になるといっても肉体が変化するだけのただの病気だ。魔法でも奇跡でも、勿論オカルトでもないイルネスだ。
吸血鬼の持つ特徴は、クウェンディ症候群では得られない。
せいぜいが牙と瞳の変化ぐらい。人によっては蝙蝠の翼が生えることもあると聞くけどその程度。そもそもこれらの特徴自体大半がブラム・ストーカーの影響下にある新しいもので、それ以前の吸血鬼は格好よさの欠片もない動く屍体だというのだけども閑話休題で、吸血鬼という存在が持つエッセンス、闇夜に無敵のノスフェラトゥには程遠い。私たちが実際に出会える吸血鬼は、単純に血の成分を好むように変化した人間以外のなんでもない。名前に反して血を吸う必要なんてものは、嗜好以上のどこにもない。
だというのに変異後のテンションで人を襲って血を求めるおバカさんが時々いるというので、そんなことより牛の血から作られている牛乳でも飲んどきなさいと、そう政府は勧めてるのだそうだ。
だから、現実に存在する吸血鬼にロマンはない。
――ただ一人、剣月まおりを除いては。
だって彼女は吸血鬼だから。そんな自らを騙すような真似なんてしないで、本当に血を吸い生きる存在でなければならないのだから。
◇
世界中のお姫様が抱き望んで見る夢といえば、王子様の腕に抱かれること。
逞しい腕に抱き寄せられて、耳元に愛の言葉を囁かれて、硬い胸板に身を預ける。
だけどお姫様なんてガラでなかった私は、もっと別のものに抱かれている。
「…………」
灯りを消した薄暗い部屋は、窓から差す街の灯りだけが光源だ。
現在時刻は夜八時。十二月の低い太陽はもう完全に沈みきって闇。
天蓋付きのベッドに体を沈ませ、クマのぬいぐるみを抱きしめながら、私は私を食べにくる彼女を待っている。
「ダメ、心臓どきどきしてきた」
お風呂上がりの火照った素肌は既に冬の夜気に冷まされているはずなのに、顔が熱くなるのが止まらない。心臓の鼓動も高鳴って鳴り止まない。こればっかりは何度経験しても慣れないっすなあと思うし、何度経験しても興奮するものだと感じ取れる私自身に感謝する。
――私、飛倉ちぎりは、吸血鬼の
もちろん奴隷、の前には『愛の』という一言がくっついている。
もうめろめろ。らぶらぶ。いちゃいちゃ。人目をはばからずに愛情行為するなと怒られた回数は片手の指では収まらなくって、最近はもう何も言われなくなってるぐらいには日常の光景と周りの人から受け入れられている。両親にはまだ内緒っすけど。
学校広しといえど吸血鬼と付き合っているのも女子同士で付き合ってるのも私たち一組だけなので、その特別性に少しだけ優越感みたいなものを抱いてみたりもしたりする。常識だとかジェンダーだとかそういったものは知ったことか。そんなもの、まおりの前には場違いだ。
そう。まおり。剣月まおり。私が愛するヴァンパイア。この世界の何よりも価値があると奉じるただ一つ。
そんな彼女と触れ合うために、そんな彼女の特別であるために、
――私は今日も、彼女に体を捧げるのだ。
◇
「ごめんなさいね、少し遅くなってしまっちゃって」
「……遅いっすよ」
少し拗ねたフリして、持っていたぬいぐるみで顔を隠す。
ちょろっと出した右目に映るまおりの姿は、最低限の下着だけつけた扇情的な格好で。
すらりと伸びた細い腕も、薄いけれどもしっかりと主張している胸も、指でついぃっと撫でたくなるようなおへそのラインも、はっきりとこちらに見せつけて、思わずごくりと喉を鳴らす。正直飛びつきたくなるぐらい可愛いけども、ここでイニアシチブを取っておかないとすぐに向こうのペースに持って行かれてしまうから我慢我慢。
「今日はどんな格好にすれば悦んでくれるかしらって思ってたら長くなっちゃったのよ」
「言い訳なんて聞いてないっすから」
「そうね、謝るんだったら言葉よりも――こっちのほうがいいかしら?」
「――む、きゃっ」
瞬動。
私の目にはとまらない速さで、まおりはこちらにとんできて。
そのまま、ベッドの上へ押し倒される。
「ふふ、」
そして、私の上に覆い被さってくる。
まおりの体は重さを殆ど感じさせない。
ひょっとしたら羽毛布団よりも軽いかも。
だから、ほんの少しだけ、軽く力を込めるだけでも振り払ってしまえるはずなのに。
「…………」
私の体、ちっとも動いてくれなくて。
私を食べようとしている相手の前に、無防備をさらけだしてしまう。
「……んっ」
イニシアチブなんてもの、やっぱり握れないんだなあと、観念して私は身を委ねる。
全身に残ってる力を軽く抜いた途端に、まおりの重さをはっきり感じた。
ベッドに沈み込む心地よさと、恋人に触れられている心地よさ、二つの快感の二重奏。
「くす、」
細い指が、柔らかい指が、私の首筋を撫でてくる。
初めての時からいつもそうだ。
まおりが私を食べる時にはいつだって、まずはそこから触ってくる。
だからすっかり、そこは敏感になってしまって。
小さく体、よじらせる。
「気持ちいい?」
「……んん……っ」
顔を寄せて、まおりが私に問いかける。
私の素肌とまおりの素肌が触れ合って、柔らかさと気持ち良さで目が回ってしまいそう。
弱いところを愛撫されて、吐息を直に感じちゃって。
心臓の鼓動、どきどき、これ以上なく高まってくる。
「おいしそうよ」
吸血鬼は笑う。
「でも、もっとおいしくしてあげたいわ」
そう言って、まおりは私の体の上からどく。
もっと気持ち良さを感じていたかった私はきっと、物欲しそうな目をしてただろう。
「じゃーん」
部屋の隅の戸棚からまおりが取り出したのは、一本のボトル。
中にはどろりとした淡い赤黄色の粘液がたっぷりと詰まっていて。
「味つけ。してあげるわね」
その中身が、私の胸に注がれる。
蜂蜜の甘い香りが、私の鼻腔を犯してくる。
汚されちゃう。
料理されちゃう。
味つけされちゃう。
まおり好みに、されてしまう。
「あぅ……」
すっかり甘ぁくなってしまった私の体を、まおりが視線だけで舐め回す。
そんなに焦らさないで、早く舌の方でも舐めて欲しいのに。
ベッドの上でのまおりは、ちょっといじわるすぎると思う。
「こんなに焦らして楽しいっすか?」
「ええ。とても」
いい笑顔で言い放つまおりはやっぱりいじわるで。
「飛倉ちぎり。私の可愛い仔猫ちゃん」
「んっ……」
「紅茶やケーキやアイスみたいに、私に食べてもらいたい?」
「うん……」
「おいしいおいしい愛してるって、私に言ってもらいたい?」
「うんっ……」
「一滴残らず、吸い尽くして欲しい?」
「……うんっ!」
「それじゃあ願い通りに遠慮なく」
いただきますと、呟いて。
◇
「あっ……んっ……」
肌の上を生暖かくぬるりとしたものが這い回る。
まおりのしてくる口づけが、私の胸を拭ってくる。
為すがままにされている。
啄ばまれている。
食べられている。
「……らめ、首筋は、わた、弱く」
「知ってるわよっ」
軽く噛まれる。
血が出ないぐらいの軽い捕食。
それでも刺さる牙の痛みが、焦らされてるようでもどかしい。
「こうされるの、好きなのよね?」
「…………知ってる癖に」
「あなたの口から、聞きたいのよっ」
そう微笑んで、もう一度首筋を喰むまおり。
ベッドの上での剣月まおりは、いつも以上に意地悪だ。
こうやって私のことめちゃくちゃ焦らしてくるし。
恥ずかしいこと。言わせようとしてくるし。
私がそうされて悦ぶってことを知っててそうしてくるんだから、もう、本当、意地悪っす。
「はむ。かぷ。ぺろっ」
そんな擬音を口で言いながら、まおりは私を舐め続ける。
まるで砂糖菓子にでもなった気分だ。
歯向かうことなんてとても出来ずに、ただただ舌に弄ばれる。
……このまま舐め溶かしてくれたらいいのにって、そんな思いを胸にして。
「それじゃあそろそろ、本命行くわねっ」
「――! 待ってまだ心の準備がっ」
「だーめっ」
私の求めを棄却して、まおりの唇が首元へと近づいて、
「――――!」
痛みは一瞬、だけどもそれははっきりと。
ほんのちょっぴり、体が跳ねた。
ずきずき。じくじく。痛む傷から血が漏れる。どくどく。
「ふふっ、おいしそう。いただきまぁす」
その傷跡に、まおりが吸い付くように口付ける。
いやらしく。艶めかしく。
「…………」
吸血鬼の唾液には鎮痛作用があるのだと、彼女は前に教えてくれた。
その通りに、ひりひりした痛みは弱くなって。
むき出しの神経を刮がれる感覚も、くすぐったい痒さになっていく。
「んくっ……ぎゅっ……」
嚥下する彼女の表情は、この体勢からじゃ見えなくて。
啜る音とベッドが軋む音だけが、静寂の空気を小さく揺らす。
私はお互いの顔が見えるように指とか太ももから吸い合うのが好きなんだけど、まおりはこうやって首筋を噛むのが大好きだ。こうやってベッドの上でやるときには何時もそこ。吸血鬼として受け継いでいる本能がそうさせているのだろうか。それとも出会ってからここを責められ続けて弱くなってしまったからなんだろうか。
前者であって欲しいけど、後者なんだろうなあって思っている。まおり、ベッドの上では何時もいぢわるっすから。
まおり。剣月まおり。私のクラスメート。私の彼女。私の愛するヴァンパイア。
彼女がいるのを確かめたくって、その体に手を伸ばした。
「……冷た」
私の方から触っても、ちゃんと触れられることに安堵する。
まおりの体。冷たい――夜気のような、温度のない肌。
今啜られている私の血が、吸われている私の命が、彼女に熱をあげているのだと。
そんなうぬぼれた感情を、私は抱いていいんだろうか。
「ちぎり、」
「ふぁっ、……!?」
名前を呼ばれて我に返った私の唇に、柔らかい感触。
キスをされたのだと気付いたのは一瞬後。
感触を堪能する暇もなく、舌が、口内に割入ってきて――!
「ふ……んっ……むっ……」
混ざる甘さと塩辛さ。
蜂蜜と私の血液の味。
――ああ、私やっぱりこの味好きだ。
自分の血を舐めることは、実は小さいときから好きだった。
指先を紙で切ったとき。すりむいて転んだ膝小僧。傷つくたびにこっそりと舐め啜っては味わって。楽しんで。クウェンディ症候群が世の中に流行るその以前から、私は、ああ、吸血鬼みたいなものだったのかもしれない。
だから。だから。あの春の夜道で剣月まおりと出会ったときに。
あんなにも惹かれて、声をかけることができたのかもと。そんな幸運に感謝して。
「――っ、ぷはぁ」
たっぷりとお互いを貪った後、離れて大きく息を吸う。
真正面にはまおりの顔。
私がこんなにくらくらしてるのに、向こうはまだまだ平気そうで。
お互いに顔を見合わせてにこりと笑う。
綺麗な笑顔。可愛い笑顔。妖艶な笑顔。素敵な笑顔。
それを見つめ続けていると、なんだか、またどきどきが鳴ってきて。
私が何かを言おうとしたら、まおりがそれの一足先に、唇を指で指し止めて、
「――もっと欲しい?」
「……うん」
◇
「クリスマスパーティ。やってみたいと思うのよね」
いちゃいちゃを終えて、ベッドの上で二人ごろごろしてる時。急にまおりがそう言った。
体力をかなり消耗して、いろんなものが体から抜けて、うつらうつらとしてた私は、ぼんやりした頭でそれを聞く。
「パーティ?」
「そう。パーティ。鮎川くんとか名賀さんとか、いろんな人を家に呼んで盛り上がるのっ」
「……いいんじゃないっすかねー」
正直、嘘だ。
クリスマスパーティという概念について、私はいい印象を持ってはいない。
なぜならクリスマスは焦点を私から奪っていくから。
聖人と赤服爺さんの二千年の歴史の重みで、私のことを矮小化してくるから。
誰もがみんなそっちを向いて、私の誕生日なんて気に留めない。当然至極のロンリネス。
簡単に言うなら嫉妬心。
拭い去れない嫌悪心。
誰か私を思い出してと、喧騒と笑顔に押しつぶされて。
……だめだだめだ、まおりの前でこんなことを考えちゃだめだ。
小さく唇を噛む。私の顎の力では、血が滲んだりしないけれど。
「どうしたのかしらちぎり。あんまり浮かない顔よ?」
「はは、……なんでもないっすよ気のせい気のせい」
笑ってごまかす。
今はまおりとベッドの中。私の個人的な悩みなんて持ち込める場所じゃないんだから。
「んー、そう。ならそれでいいのだけども」
納得してくれたようで話を切り上げて、もぞもぞと体を動かすまおり。
それでいい。こんな悩みを相談するには、剣月まおりは似合わない。
彼女は俗世と関係ない、幻想のシンボルであってほしいのだから。
そう思い目を閉じた瞬間、不意に唇に柔らかさ。
「――っ、むぐっ」
「元気注入っ」
開いた視界には大写しで、微笑むまおりの顔があった。
ああ、私は幸せだ。
まどろみながらそう思う。
例えぐらついた土台の上の儚い幻想だとしても。
この幸せよ壊れないでと、無理な願いを心に抱いて。
まおり。まおり。私の天使。私の女神。私の愛する吸血鬼。
いつか。いつか。悪い私を。何もない私を。嘘つきの私を。
――殺してください。
◇
【NeXT】
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