【非日常】????【真性怪異ウェアウルフ 八】


                    ◇


 月が見下ろす夜の街。

 むき出しの素肌を夜気が突き刺す。

 ワタシの毛皮が恋しくなるが、それは真神はずきが許さない。

 だからワタシはヒトの形をしたままで、夜の街中を歩きまわった。

 現在時刻は解らない。既に太陽が消えた闇の中。

 カラダの檻に閉じ込められたまま、私はそれの匂いを嗅いだ。


 ワタシにとっては慣れ親しんだ夜の徘徊も、私にとってはまだ二度目だ。

 意識ははっきりしているけれど、体は全く動かない。自分でない自分が私の体を歩かせている。狼と人間の二重乖離は今日になって、中途半端に入り混じった。


 服装は半裸の人間のままだ。狼になっていないのは、無駄な抵抗が実ったからか。だけど下着だけで歩き回る姿を誰かに見られたらと思うと、心臓が変に跳ねそうになる。こんな状態になるぐらいなら狼姿の方が良かったと思う。鮎川くんからもらった首輪はあの時からずっとつけたまんまだし、もし見つかっても野良だと思われることは無いだろうから。


 だけど幸いなことにどうしてか、今夜の街の人影は、異常なまでに少なかった。

 その理由を私は知らない。ワタシだって知りはしない。ほんの少しだけある人の目を器用に回避しつづけながら、ワタシは匂いを探して闇夜を抜ける。


 鮎川くんは言っていた。狼である事を認めてしまえば暴走は止まると。

 私自身の認識では、十分以上にそれを認めてるつもりだった。

 あの夜から続く散歩を繰り返して、隷属や四足歩行に慣れてきた。

 みんなとのお喋りの些細なとこから、未来予想図を脳裏に描いてみたりもした。

 だけど現状はどうだろう。ワタシは相変わらず私の事を気にかけず、私の体を勝手に使う。

 一体何が足りないのか、私には何も解らない。


 不安が覚めないサイレントナイト。

 出口の見えないラビリンス。

 どうにもならないデッドエンド。

 問いを月へと投げてみたいけど、そもそも口に出来なくて。


「――、」


 私が迷い悩んでいるうちに、ワタシは足を止めていた。

 ワタシの興奮がこちら側にも伝わって来る。

 心臓の脈動が示すのは高揚。恐れや緊張にも似た昂ぶりが、私の体中に行き渡る。

 探し求めていたものが来るという予感に、全身の震えが止まらない。


 そして。


「――ご、――かっ」


 苦痛の声を漏らしながら、見知った顔が地面に倒れた。

 宮雨くん、と叫ぼうとした声は、もちろん音になりはせず。

 ワタシは変わらず無言のままで、少年の姿を見下ろすだけだ。

 その視線もすぐに上へ向けて、ワタシは他のものを見た。

 待ち望んでいたそれは、暗い暗い闇の先から、汚臭と共に現れた。


                    ◇


 まず感じたのは匂いだった。

 雨の後に泥だらけになった鉄棒のような朽ちた匂い。

 私は自由にならないカラダの中で、ワタシの興奮を感じ取る。

 ワタシがずっと夜の街で、探していたのはこの匂いだ。

 その発生源は目の前に。

 一言で表すなら、それは怪物だった。

 その怪物は全身に一分の隙もなく灰色の毛皮を纏っていた。

 その怪物は片足で宮雨くんを踏みつけながら立っていた。

 その怪物はなんだって咬み殺せそうな牙をその口の中に揃えていた。

 その怪物は二メートルを超す巨体で私の事を見つめていた。

 御伽噺のウェアウルフ。

 童話の中の怪物と、ワタシの視線が交差した。


「――、ツケタ」


 怪物が口を開く。どろどろしたヨダレが牙の間で糸を引く。

 地獄の門のように開く顎から溢れ出すのは血と臓物の混ざった腐臭、そして何処かで聞いたような気がする掠れた音。

 私は嫌悪感に顔を背けたかったけれども、ワタシの体は動かない。

 そんな私の感情と裏腹に、眼前の人狼の表情は、歓喜の色で染まっていた。


「みつケタ――」


 音のつながりが言葉であると、一瞬遅れて理解する。

 抱いた感覚は恐怖よりもむしろ困惑。人狼が言うのもなんだけれども、あれが言葉を喋るものだと、ケダモノでないと知って混乱する。

 闇夜はどんどん現実味を失って、まるで夢の中のように思うけれども。

 だけど肌に刺さる夜気の冷たさと、落ち着かない心臓の脈動が、私を現実に繋ぎ止める。


「ア、あ――、ずっト、ズっとオレ、は、サガして、いたン、だ、この、におイ。

 オオカミのカラダ、を、エテから、オレのホンノウが、もとめテ、いたん、ダ」


 そう呟くウェアウルフの顔は、本当に原始的な喜びに満ち溢れていて。

 一体何を、と思う私の疑問符は、きっとただの現実逃避。

 だって答えは分かっている。私も最初から知っている。

 あの残暑激しい秋の頃からワタシが求めていたそれとは、鏡写しのはずだから。

 人狼の顎が開く。

 囁くように、呪うように、とどめを刺そうと大きく開く。

 それが落ちる瞬間を、待ちわびるように私は恐れ―― 


「アイたかっタぞ花嫁――オレ、の、ツガ、イ――」


                    ◇


 ワタシに向けられたその言葉に、私は戸惑い絶句する。

 くらりと来た感覚に、できれば意識を手放したかった。

 まともに受け止めたなら告白だ。怪物から送られたラブコールだ。

 いや、今の私もそんな人のこと怪物とか言えるような体質じゃないけれど。


 人のこと――だけど、あれは果たして人間と呼んでいいのだろうか。

 クウェンディ症候群でここまで人間離れした姿になる例を自分以外に私は知らない。

 あれは幻想の異人種になる病気であっても、全身が怪物に変わる病気じゃない。

 人の心を失う訳ではなく、完全に人でなくなる訳でも無い、所詮はただの思春期の病。

 だから目の前の人狼が、オカルティクスの怪物でないと、私でさえも断言できない。


 それにあの獣からは臭いがする。とても嫌な臭い。危険と恐怖をもたらす臭い。

 血の臭い――それも人間の鮮血の臭いを、あれは全身から漂わせている。

 大怪我程度じゃ済まなくて、致死量なんて超えていて、何人分も混ざった臭いで。

 つまりはああ、あの人狼は――

 人食いの獣を前にして、私はずっと探していた答えを得た。


「ズっと、探してタんだゼ、真神はずき――」


 人狼は私の名前を呼んだ。

 どうしてそれを知っているのか解らないけれど、確かにそれは私の名だった。

 怖い――だけど体は動かない。

 ワタシは何も言わないまま、ただ人狼を見つめている。


「オレは、仲間が、欲しかッ、たのサ」


 どうして、という私の心に気付いたように、人狼は理由を語りだす。


「オレはオレが率イるオレの群れが欲しカった。夜を食い荒らシ、伝説にナる軍勢が」


 想像する。夜を統べる狼たちの群れ。

 月光の下、屍の山を積み上げて、その周囲にひしめき騒ぐケダモノたち。

 山の頂点には彼がいて、血の匂いを纏って笑うのだ。


「だケど、オレの、ようなモのは、オレの側にハ、いなかッ、た。匂いで近くにいることは解ってタが、幾ら探しテも、見つからナ、かった」

「…………」

「ダから、オレ、は考えタのさ、オレが同類ニ飢え、テいるナら、きッとオマエだっテ、そうダろう、はずき。だから、オレがいる、トいう、しるべとナるよ、うに、盛大に印をブチまけタ、のさ!」


 自分の偉業を誇るかのように、ウェアウルフはけたけた笑う。

 目の前に立つ人狼は、己が連続殺人の犯人だと、自慢げにそれを喋っている。


 それが解った時、私の心をよぎったのは何よりもまず安心だった。

 人間の血肉を貪っていたのは私の知らないワタシじゃなかった。

 昼に学校で楽しく話しておきながら、夜に人間を食い襲う怪物じゃなかった。

 私は日常に混ざってはいけない存在じゃなかったんだと、場違いに失礼だけど安堵して。

 そして目の前に立っている、非日常の存在を意識する。


「楽し、カったぜェ……ああ、これコそが趣味と、実益とイう、奴だ。だけド、効果がなイのを、繰り返すことニは、流石に疲れ、始めてキ、てなぁ」


 殺人を楽しかったとか疲れただとか、何を言っているのか理解もしたくない言動。

 それは共に生きるを是とする人間のルールから外れていて。

 それは生きるために喰らう獣の道理からすら外れていて。


「だけド、六回目をや、ろうとしタこの、今、お前は、ヨうやく、オレのこと、を見つけてくれタ――こレを、運命と、言ワ、ず、何とイう!」


 人狼は歓喜を歌い上げる。

 その姿はまさしくモンスター。

 人間社会を破壊する、異形の怪物に他ならない。

 秩序も人もなにもかも、壊して砕いて高笑いする暴虐極まるジャガーノート。

 あんなものに同族だと思われて、求められていることが恐ろしい。

 すぐ否定して逃げ出したい。飛んで帰って鮎川くんの足元で尻尾を丸めて抱きつきたい。

 だけど体は動かない。ワタシは何かを待つかのように、その場に立ち尽くしているだけで。

 それに人狼の足元には宮雨くんがいる。私がここから逃げ出したら、きっと人狼は彼を引き裂き殺すだろう。


 抜き差しならないフリーズモード。

 進退不能のコールドポーズ。

 どうしようもないデッドロック。

 奇跡が起きて助からないかと願うけど、流れ星なんて空には無い。


「さァ、こっチにコい、よ、真神はずき――」


 人狼の誘いは脅迫にも似た強引さで、私の名前を声に乗せる。

 どうすればいいのか答えが出ない。怖い。逃げ出したい。逃げられない。


 敵は恐ろしい人食いのケダモノ。

 天秤に乗っているのはクラスメイト。

 選べる道は一つしか無いのに、私の体は動いてくれない。


 そう、私は未だにワタシ自身が解らない。

 人狼を見つけて興奮するワタシ

 未だに逃げ出しも恭順も示さないワタシ

 一体 ワタシが何を求めてあの怪物を探していたのか、自分のことなのに解らない。


「メス、の、幸福ハ、つよい、オス、に、付き従うコと、ダ」


 人狼は招く。


「オレは、そレを、あたエらレる。血肉モ、シモベも、快楽も、子供だッてくれてヤる」


 自分にとって魅力的だと思うものを提示して、ワタシにしきりに求婚する。

 だけど人狼が語る獣の道理は、私に通じるものじゃない。 

 私はそんなもの欲しくない。人食いの獣になんてついていかない。


 だけど。ワタシはどうなんだろう。

 人とのつながりを断ち切って、自由気ままに生きる日々。

 食べたい時に食い荒らし、眠たい時に惰眠を貪り、愛したい時に相手に甘える。

 そう翻訳したならば、私もそれは否定できない。

 問題はたったの一点で、隣にいるのが怪物であるというところ。

 それをあなたは気にしないのか。同類の隣にいたいと望んでいるのか。

 だからお願い、それをどうか私に教えてください、私が全く解らないワタシ


 ――じゃあさ、私は一体何が欲しいの。


 そんな問いかけが脳裏に響く。

 私が欲しいもの。それは勇気だ。人狼を否定する勇気が欲しい。


 ――だったらどうして出せないの、とワタシは私に尋ねてくる。


 勇気の源泉が枯れているのは、自分の無力を知っているから。

 ワタシのような爪も牙も、人間わたしは有していないから。

 ――力。暴力。傷つけ引き裂くための武器。大切なのはそんなもの?


「――」


 人狼と目が合う。回答を待つ彼の視線は獰猛で。野生の飢餓に満ちている。

 恐怖に怯んでしまいそうだ。あの視線を振り払うためには、何かの力が必要で――


 ――まだ気付かないのかな、と、ワタシは何かを待っている。


 大事なことをこの瞬間に、思い出してと誘っている。

 思い出すべきことは何なのかと、私はワタシに尋ねてみる。

 答えはすぐに返ってきた。鮎川くんとの思い出をと。

 夏の始まりに助けられたこと。冬の始まりにまた救われたこと。

 どっちも鮎川くんの勇気を受け取った場面で、私に勇気が足りなかった場面。

 彼のようになってみせろと、ワタシは私に言うのだろうか。


 ――そっちじゃない、とワタシは言う。


 鮎川くんとの他の思い出。

 秋の始めに話しかけたこと。――そこから関係を作り始めて。

 始めて誰かの家に訪れたこと。――それにとてもドキドキして。

 首輪をつけてとお願いしたこと。――結びついたと感じられて。

 他にも名賀さんの前で犬の振りした時だとか、お弁当のあーんを頼んでみたことだとか。


 勇気なんてものはとっくの昔に出せてたと、ワタシは私にそう告げる。

 真神はずきはちゃんと出来る子であると、ワタシは既に知っていた。


 ……ああ。そうだ。私が戻りたいと思うのは、あの日常の風景なんだ。


 私がいて、名賀さんがいて、宮雨くんがいて、剣月さんと飛倉さんもいて、そして鮎川くんがいる――そんなやっと出来た友達たちのいる日常が、私の帰りたい場所なんだ。


 だから――そう、だからこそ、私はあれを認められない。

 あれは人間を捨てたものだ。

 人と違うものになった程度で、人間を踏みにじっていいやって思ってるものだ。

 そんなものとは私は違う。当然、ワタシだってあいつと違う。

 同類だなんて勘違いだ。真神はずきは狼である以前に人間で――獣ですらないウェアウルフとは、何から何まで別物なんだ。


 ワタシはあいつを探していた。夜を歩いて彷徨っていた。

 それが何故だか、今の私にはちゃんと解る。

 同族を求めていたからなんかじゃない。体のつくりは近そうで、だけど決定的に遠いあのウェアウルフを、どうにかしなきゃと思っていたからだ。近種として本能があれを止めなきゃとワタシに命じていたからだ。


「オマエ、は、オレ、の、モノ、だ――」


 ウェアウルフは私を誘う。この世でたった一匹の同族であると信じきって手を伸ばす。

 だけど向こうの求めは意味がない。あれと私がお互い出会いたいと思っていた訳は、何故なら全く違ってたんだから。

 全然別のウェアウルフに、求められても答えられない。

 それに第一、私もワタシも、一緒にいたいと思う相手は、既に決まってるんだから――!


「――お断りです!」


 声が出た。


 ワタシ人間が重なった。


「ナ、ぜだ? どうしテ、やっと見つケた同族なのに――」

 ワタシ人間わたしに否定されて、ウェアウルフは訳がわからないと狼狽する。

 運命なのニと、タノシイ思いをさせてやるからと、見当違いな勧誘理由を並べ立てて。

 ああ、その態度、その言動、覚えがあると思ったら。

 今の私なら、あれが誰だかはっきりとわかる。


 夜の怪物。

 人食いのケダモノ。

 真性怪異ウェアウルフ。

 全部全部、それは正体を隠すため、ただの虚勢に過ぎないと、私は理解して呼びかける。


「あなた、先輩ですよね。――三年生の、倶猛くもう先輩」


 その名前を呼んだ途端、ウェアウルフはさらに狼狽えた。

 きっと気づかれるなんて思っていなかったんだろう。

 別のものになって、捨て去ったと思っていたんだろう。

 なんて――哀れだし、愚かだし、そしてとっても悲しいんでしょうね。

 姿が人でなくなった程度で、何から何まで変われたんだと、そんな誤解をしてたなんて。


「違ウ――、オレは、もう、違うんダ、真性怪異ウェアウルフ、夜の怪物、人の上に立ツ化ケ物、闇夜の頂点に位置をトる、残虐無敵の捕食怪物プレデター――」

「違いませんよ。あのとき私に無理やり迫った、私の嫌いな人間のままです。倶猛先輩」


 再び名前を呼ぶと、先輩はそれを否定するかのように両手をばたばた動かした。

 まるで駄々をこねる子供みたいだ。コミュニケーションを取る気がない。

 足元の宮雨くんをもう一度強く踏みつけて、剥き出した爪で彼を指差して、


「殺ス――殺すゾ! 貴様、オレのものニならないナら、この人間を、殺、ス――!」


 その虚勢に、私は口元に笑みさえ浮かべてしまう。

 人間。そう。本当にあなたはそんなことを言うんですね、先輩。

 本当に自分は人間以外なんだって、人間以上だって、そう思い込んでるんですね。


 可哀想だと、そう思う。

 だけど助けたいなとは思えなくて。

 私って結構イジワルなんだなって、そんな自分に気づいて笑う。

 それでもいい、知らない自分の特徴なんて幾らでもあるさとワタシも笑う。

 第一そんなだから、私がなびいたりしないんだって、このは何も解っていないんだ――!


「――、」


 体が溶ける。

 砂山を手刀で裂くように、バターが熱でとろけるように、私の体が崩れていく。

 認めた転化は一瞬だった。

 狼姿になった私は、先輩がそれに気づく前に、神速で彼の足に噛み付いた。

 口の中に滲む血と肉の味は、やっぱり、美味しいモノじゃなくて。


「ガ、ア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――」


 血の出る痛みに先輩が叫ぶ。

 頬をかすめた熱さと匂いは多分先輩がこぼした涙。

 なんだ、やっぱり弱いものいじめしていただけなんですね。

 爪が私の背中に刺さる。

 もう片方の足が私の脇腹を蹴り飛ばそうと嬲ってくる。

 だけど離さない離さない離すものか――


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――、」


 ひときわ大きい叫びがあがり、私の噛みつきが空を切った。

 勢いよく噛み合わせた顎の衝撃が、脳を思いっきり揺らしてくる。

 何故かぼやけた視界の中、四足になった人狼が、走り去っていく姿が見えた。

 足の力が抜けていく。体に力が入らない。

 全身に疲れを感じながら、狼姿を解く気力もなく、私は路上に倒れこむ――


                    ◇


 沈黙に沈む夜の街。

 暗闇を引き裂いて駆けるように、一匹の狼が走っていく。

 その右足は血まみれで、その顔は恐怖に歪んでいて、何かから逃げるかのようだった。


 ――ハ、ハハ、許さナい、オレに刃向かう奴が出たなんて。


 狼の思考を満たすのは怒り。

 それが恐怖からの逃避であると、しかし本人は気づいていない。

 引き裂く。バラす。食いちぎる。手足をもいで腐らせる。

 殺害手段を無数に脳裏に走らせておきながら、彼の体は殺意の対象から遠ざかる。


 無人の夜を駆けながら、狼は過去を思い出す。

 夏の終わり。まだ狼がただの人間でしか無かった頃。

 もはや朧にしか思い出せないその時も、自分を拒んだ誰かがいたような気がする。

 確かメスだったような記憶がある。見目麗しかったかどうかは彼の記憶にはもう無いが。

 その時の自分はまだ人間でしか無かったから、人間らしくそいつに上下を教え込もうと襲いかかって――

 その結果がどうだったかを、狼はもはや思い出せない。

 一体相手が誰だったのかも、今の狼は覚えていない。


 覚えているのはただの屈辱。失敗した。属していたコミュニティから追い出された。

 群れから追われたということだけは、今でもはっきりと覚えている。


 残暑激しい秋の日々。

 一人きりで歩く街の中には、自分の居場所はどこにもない。

 ストレス解消の肉袋も、自分を讃えてくれるような連中も、己の周りには存在しなくて。

 街を歩く塵の欠片たちの見分けはちっともつかないのに、そいつらが何も考えずに生きてられそうなことにどうしようもなくイライラした。

 己の居場所がないということを悩みもしない歯車どもに囲まれて、気が狂いそうな不快感に感情の全てを蝕まれていた。

 生きるということが退屈で、ぱーっと何かを破壊したくてたまらなくて、しかしその力が両手の中にないことが苦しくて苦しくて耐えられなくて、爆発寸前になっていた。

 弾けてしまいたいと思っているのに、失敗の記憶が邪魔になって弾けられずにくすぶっていて、フラストレーションで死にそうだった。

 怪物になりたかった。望んだ時に食って壊して寝て遊んで、しかしそれを誰も咎めず恐れて従ってくるような、そんな存在になりたかった。


 今宵と同じく月の綺麗なこの夜に――彼はそれと出会ったのだった。


 それは人間だった彼に言った。

 ――退屈を壊せる力が欲しくないか。

 ――非日常の世界に飛び込んでみないか。

 ――キミならきっと、セカイに夜を届けられる――


 その意味は全く解らなかったけれど、彼の言う力は欲しかった。

 もう二度と誰も自分に逆らえないように。誰もが自分に跪くように。

 自分を無視して廻る世界を否定するため、彼は悪魔の手を取った。


 そして狼は過去から覚める。

 一体何を悩んで怒って恐れていたのかと、自分自身に呆れ返る。


 何故なら己は夜の王。

 闇夜に君臨する捕食怪物プレデター

 誰よりも強いジャガーノート。

 今の自分は人間だった過去とは違うと、当たり前のことを確認する。

 だからこの程度でショックを受けるはずさえないのだ。

 そうだ怪物は一人でいい。つがいなんてものは必要無い。

 これからも食って暴れて楽しもう、夜に伝説を刻むのだ。

 食って殺したその果てに、己が楽園を築くまで。


 己の栄華を夢想していたウェアウルフの視界に、滲みのように影が映った。

 人の姿だ。己のものである夜の世界に、無作法にも入り込んだ者がいる。

 いい。丁度いい。あれは供物に違いない。

 食らって、引き裂いて、花弁のようにバラまいて、それを盛大に見せつけてやる。

 夜に怪物がいるのだと、自分はここにいるのだと、月光の下全てに知らしめてやる。

 ああ、だけど、一体それはなんのためにだったっけ――?


 疑問を抱くのは一瞬で、彼は即座に獣に戻る。

 人影まではあと少し。己の体を四足から二足に切り替えて、なぎ払おうと直進する。

 さあ、臓物をぶちまけるぞ。

 さあ、絶望が見られるぞ。

 その表情に歓喜を満たし、真性怪異は直進する。

 前足を濡らす血の熱さを、響く絶叫の心地よさを、思い浮かべて喜悦して――


「いいや、ここで終わりだよ。真性怪異ウェアウルフ」


 自分の姿とそっくりな、その人影に絶句した。


                    ◇


 その人影は、間違いなく倶猛と呼ばれていた人間そのものだった。

 親子ではない。血縁でもない。兄弟姉妹もありえない。

 今やウェアウルフと化した倶猛本人の記憶に残るそのままに、完全無欠に当人だった。


「夜の街を歩く獣。人を引き裂く真性怪異。それは確かに恐ろしいものであるかもね」


 なんだこれは――、とウェアウルフは困惑する。

 もはや自分は人間ではないが、しかし倶猛と呼ばれた存在は自分一人だけであるはずだ。

 では眼前にいるコレはなんだ。

 それは人間倶猛の顔をしていた。それは人間倶猛の声を出していた。それは人間倶猛の匂いがしていた。指の長さや黒子の位置、毛穴の一つに至るまで、人間倶猛そのものだった。


 人間である眼前のソレと、人間でない今の己。

 倶猛はどちらかと他人に問えば、きっと答えは明白で――


 崩壊してくアイデンティティ。

 侵害されてくサンクチュアリ。

 自己同一性はバラバラになって。


「だけど、それは恐ろしいだけなんだ。人を殺すだけなら獣でなくとも人にも出来る。人でなくとも車にだって石ころにだって、その辺の街を歩く塵の欠片にだって出来ることなんだ。世界中に転がっている危険の一つ以外の何物でもないんだ」


 混乱で崩壊しかけるウェアウルフの前で、人影は姿を変えていく。

 その姿をウェアウルフは知っている。自分が最初に引き裂いた、特徴のない男の姿。

 己が冥府に送ったはずの、死者の姿がそこにある。


 理解ができない。訳が解らない。在り得ないことが起きている。

 混乱で脳髄が爆発しそうな彼の前で、人影の姿がまた変わる。


 数日前に腹を抉った少年に。


 内臓が美味かった高校生に。


 足先を食らってやった後輩に。


 先ほど刃向われた花嫁に。


 狼としての彼に関わった人間たちが、生死を問わず次々と――


「人間はきっときみにも慣れていく。きみという怪異が存在するということを前提にしてか、それとも排除する方法を考えるのかは知らないが、きみを意識すること無く日常を回す仕組みをくみ上げるだろう。どっちにしたところで、そこにはもはやきみの居場所なんてどこにも無くなっているだろうね」


 それはまるでオカルティクスの呪いのように。

 罪の裁きをここで成そうとするかのように。

 因果応報の運命が、彼の足元に追いすがる。


「きみは世界を得られない。きみはどうあがいたところで、獣以上のものではないんだ」


 姿を変える人影は、最後にある少年の形をとった。

 その少年、鮎川羽龍を狼は知らない。

 しかし、故に、だからこそ、狼は狂気を取り戻す。

 訳の解らないことを言うこの人影を、引き裂いて黙らせてやりたいと。


「チ……ガウ!」


 叫ぶ。

 爪と牙と、己のプライドを全て全て剥き出しにして、ウェアウルフは人影に吠える。


「オレ、は、真性怪異ウェアウルフ! 人を捨てテ! 人を超えテ! 素晴らしキものへ変わっタもの! 貴様たち人間を踏みつケてそノ上に立つ闇夜の王者! 殺戮者!」


「そもそもきみは何も変わってなんかいない。人を引き裂き殺したのはきみの意思でだ。

 爪も牙も無敵の体も何も無くても、きみは人を殺したがる側の存在だっただけだ。

 きみは獣になったんじゃない――

 きみという存在自身が、最初から人の形をした獣だったんだ」


 だから。


「狩られろ人獣。ここにもどこにも居場所の無い日常の敵。都市伝説の終わりの時間だ」


 鮎川羽龍の右腕が歪む。

 沸き立つ。砕ける。膨れる。溶ける。

 あらゆる形容詞を当てはめながら、別のものへと変貌していく。

 ぐちゅり、じゅぷり、どろり、ぐんにょり。

 そのどれでも無い音を立てながら、一つの不定形を形作っていく。


 逃げなければ、とウェアウルフは思った。

 直感発想魂のあらゆる全てが警告の悲鳴をあげている。

 出来上がるものは致命的だ。確実に己を終焉らせるものだ。

 今すぐにでも踵を返し離れなければ、楽園の完成を見ることも無く己は消える。


 だが。

 目が離せない。

 目を逸せない。

 まるで自分がそれを願って望んで求めているように――!


 時が凍ったウェアウルフの眼前で、粘液はだんだんと形を成していく。

 滴り落ちる黒の雫はまるで牙。

 肥大化した腕はまるで怪物の上顎。

 捕食者であるウェアウルフを、逆に呑もうと大口開けて――


 いや、まだだ。まだ下顎が出来ていない。

 今すぐ動けば逃げられる、今すぐ振り返れば生き延びられる、

 足がちぎれても構わない、凍った体よお願い動けと獣は祈るような思考を抱き、

 

「無駄だよ。きみはもう既に終わってる」


 自分はもう、口内に捕らわれていたことに気がついた。

 黒の上顎が作る影――その淵にそって並ぶ尖ったものは牙牙牙牙牙牙牙牙――

 ただの月光が落としているだけの影すらも、命があるかのように脈動している。

 血と肉と唾液の匂いを漂わせて、命の息吹を見せている。

 これから獣を飲み込もうと、歓喜に体を震わせている。


 逃げ場は絶無。未来は虚無。生き残る可能性はもちろん皆無。

 それに気づいた瞬間、彼の思考は限界を迎え――


 回避判定失敗。

 逃走判定失敗。

 正気度判定はファンブルを叩き出し、全身の感覚が消失する。


「真性怪異ウェアウルフ。きみはどこにも届かない」


 影が落ちる。顎が閉じる。 


「――諦めろ」


 そして狼は、闇へと消えた。


【NeXT】

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