センター街2020年//30_センター街2020年、朝
センター街2020年//30_センター街2020年、朝
1号機のコクピット…
彼は、自分の手でキャノピーを開いた。
そして何をすべきかを忘れてしまったように正面を凝視していた…
外気が流れこむ…
彼の腕時計は朝の六時四十五分を指していた。
キャノピー側のアッパーコンソールやサイドパネルが、驚くほど湿っている。
汗の水分が凝結したものだろう。
そして、シートまわりや床に飛び散ったかなりの量のフケ。
しかし、彼自身にしてみればさして気になるものではなかったかもしれない。
生来の無精者の性癖と、今日の件で気が異常に高ぶっていたせいもあって、彼は三週間以上風呂に入っていなかった。
そのためか、本来の体臭に、何かの饐えた臭いすらかすかに身にまといつつあった。
彼自身、極限まで汗をかいたせいか、体臭がわずかに変わっているのに気づいた。
目の前に映像屋がビデオカメラを構えていた。
カメラは回っている。
「日本なんて、とっくに終わっちまってるんだよ」
これは、映像屋への彼なりの報告だった。
小心者の太ったヒーローの両目から、涙が流れ始め、そして止まらなくなった。
2~3分程の間、ハリソンは、彼の表情を黙って撮り続けた。
「あぅ、あううう、え、えっ、えっく…」
声が止まらなくなった。
ハーフだかクォーターだか、本人はすっとぼけて一切明らかにしないが、あつかましいほどに陽気なその男の行為は、コミュニケーションとしては十分に意
味のある行為であるといえた。
彼自身に、今、何故涙が止まらないのかはよくわからない。
「う、うう、うぁ…」
また、彼自身にとってこれが何の涙なのか、説明することも出来そうにはなかった。
説明可能な言葉は思い付くが、それを並べてみて彼自身に相応しい言葉にすることができるかどうかは全く不可能なことのように思えていた。
「あ、あぅ、あああ…」
今は、泣くしか手だてが無いのだ。
「ぁあああああああああ…」
彼は、コクピットの両縁に手をかけた。
ばんっばんっばんっばんっばんっばんっばばんっばんっばんっばんっばんっばんっばん…
彼は、両手で、コクピットシールドの縁を何度も叩き続けた。
正面を睨み据えるようにして声を振り絞り続けた。
彼の叫びは、気持ち、大きくなった。
彼の最愛の妻と娘は惨殺されたのだ。
その実行犯達の罪と裁きをになう力の萎えた社会がここにある。
その社会の姿をもって、彼の内面的世界を詳述する理由を得た、と騒ぎ出す人間はまだいることはいた。
そのような人間の中には、人が生きていくために重要なこととそうでないことを分別することのできない愚か者が、かなりたくさんいることにも注意してお
く必要はあるだろう。
誰もが、自らの人生を歩むことについて、他人から作意的な強制を受けたりすることがあってはならないものである。
許可なく自らの存在を土足で踏み越えた他者の意志に屈服する必要は無いのだ。
ある人間が、その人自身の人生をその人なりのやり方で脚色して人生を生きてゆくのと同じように、彼は、彼の人生を彼なりのやり方で脚色してきただけで
ある。
ただそれだけのことなのだ。
その脚色を喜劇によって行うか、あるいは悲劇によって行うかは、それこそ神仏の思し召しである、と言わざるをえないだろう。
「うぅ、ああぁぅ、あああ…」
彼の叫びは、腹から振り絞るような音となっていった…
それは、人の背負う重荷の実態そのものを暗示させた。
重荷は、それを背負う者の前向きな試練ともなり、怠け者をつけあがらせる口実ともなる。
そして、祈りによって照らされている彼方に、わずかに光が差し込んでいる。
その光は、背負った重荷を軽くしてくれるわけではない。
ただ、真っ暗闇より、光がある、というのはたまらなくよいものだ。
そして、たとえ他人ごとであっても、自らの価値観という名の檻の隙間から、その人の歩む様くらいは覗くことができるはずである。
人生とはそういうものなのだ。
個の理解者であることと、正義の実践者であることを同時に両立させようと取り組み続ける救われないお人好しに、歴史の女神は、おそらくもっとも濃い中
身のページを開いてくれるかもしれない。
彼がこれから何日か後に何かを語ろうとする時のことを映像屋は注目し、期待していた。
映像屋自身は、その理由をここまで言語化してはいなかっただろうが、この一件、カメラ撮りはあと一週間は必要だと直感していた。
やがて…
「うぅ、うあっく、ひっ、ひっく…」
涙は枯れた。
うつむいたままの彼に、映像屋は正面からカメラを回し続けていた。
まるで“オレは普通の神経は持ち合せていないぞ”とでもいわんばかりの姿勢だった。
映像屋のカメラに写り続けた彼の心は浄化されつつあったかもしれない。
泣くことはいいことだ。
苦しかったら泣いてみればいい。
それは救いの道を歩むことである。
「お、おぉ、お…俺はこんな国…大嫌いだっ、」
振り絞るようにして言葉を解き放った。
しかしもう、泣ける涙は残ってなかったような気がした。
「そういいなさんな」
真正面の表情に合わせ、わずかにパンする。
これはドキュメンタリーのはずだったが、映像屋は遠慮なく優しい言葉を被写体に投げかけてゆく。
非常識きわまりない。
「食うだけならこまらないだろ」
「そういう問題じゃないっ」
「まぁ聞け、まず食って生きろよ。」
「それは俺の体形を見て言ってる嫌みか?」
「ば~か、話は最後まで聞けよ、な」
「…」
「こんな国だからな、怒ることもたくさんある」
「…」
「あんたが関ったそいつらを、俺が地球全土にニュースにして流してやる」
「!」
「な?」
売れる映像を撮り続けてきた男のこだわりだった。
「そういうもんなのかな」
「そうさ、今夜のあんたの個人的イベントは最高だったぜ」
「21世紀になって20年もたつってのにさ、この国の本質は何もかわっちゃいないんだ、」
「そんなセリフで嘆くのはやめろって、だから日本人は暗いって言われるんだ。」
「ななな、な、なんだと!」
どもった…
が、今、口から放った台詞自体、今の自分にそぐわないかもしれない、という妙に醒めた気分もあることはあった。
自分にとっちゃ、たったこれだけでも、今の瞬間、まんざらでもない切り返し文句が言えたとも思っていた。
彼は、生まれてこのかた、けんかというものををしたことがなかった。
いじめられた経験なら星の数ほどあったが、大声で他人とやりあった経験など、この28年の人生のなかでほぼ皆無に等しかった。
そういう人間だったのだ。
そういう人間はいるものなのだ。
彼の中にある優しさは、客観的に優しさと呼べるものになるまでには、現時点では、人格的にまだかなりの処理を必要としているのは確かだったが、その処
理が完了するのに、それほど時間がかかりそうには思えなかった。
根っからの酒飲みのこの映像作家は、やんわりと荒木田の胸ぐらをつかみあげるように押しとどめた。
そして、男らしさとは無縁のヒーローに、言い聞かせるように口を開いた。
「あんたは…」
笑顔のまま言葉は途中で終わった。
この映像作家が嫌いな言葉が何なのか。機会あれば聞いてみるときっと面白いだろう。
映像屋のレンズを眺めて、ふと彼は、何か語れることがありそうな気がしていた。
それは、彼が初めて他者へ表明する彼自身の人間的誇りに違いなかった。
それが、彼自身が戦い抜いて勝ち取った平和をもとにして語られるものであろうことはいうまでもなかった。
彼は、現実に対峙し、戦い抜いたのだ。
「…」
「メシがうまけりゃ明日はいい日だって、素直に信じてみろよ。」
彼は、目の前でカメラを回している男は、まるでばかみたいなやつだと思った。
たまらなく愉快だった。
「腹へったな…、」
彼は、だぶついた肉をコクピットから抜き出した。
虚偽と偽善と欺瞞が満ちあふれた時代だ。
およそ人の口が発しうるすべての穢れによって、人の迷いと不安は、なかば永久機関化したように再生産をくり返す。
それがこの時代の本質だったともいえる。
その穢れの生き地獄から一線を画すための光の隔絶を立ち上げることを可能となすものがもしあるとすれば、それは祈る、という行為のみである。
真摯に祈り、そして真摯に実践することのみが人に真実の道程を指し示してくれる。
それは、本来は、単純なことだった。
『正直は最良の戦術、誠実は最良の戦略』
暫定治安維持機構は、時代と対峙するための剥き身の刀身のような叡智を、常にこの展望のもとに偽装しておかなければならなかった。
それが人の生に有害な虚無を破壊し、生存のための力を確保するためであるとする、ならば、語らなければならない物語は数多くある。
この文明の果てるともない曇天に、彼自身が、光の差し込む雲の切れ目を見い出すことは可能であろう。
彼自身が、ただ流されるだけの主体をもたない夥しい人間の一人であった、という厳粛なる過去が存在していたことが、その理由である。
少なくとも彼は、彼自身の行動力によって過去に対峙した。
そして、その理由をもって、彼に明日にチャレンジをする資質があることは確かだった。
彼の右手は、何かにぶつけたらしく血が滲んでいた。
彼は、垢で真っ黒になった指を、一瞬見つめた。
嬉しさが込み上げていたのかもしれない。
愛しき亡き家族になすべきことができた満足感、とでも書いてもよさそうである。
彼の1号機は、機首のヘッドカメラを渋谷駅の駅ビル方向に向けて停止させてあった。
陽の出の太陽は、彼の目の前から上がってくるはずだった。
吐く息の白さが、やけに美しかった。
1号機の左手数十メートルの所に、
『渋谷センター街』の看板表示が見えている。
看板の遥か向こうに、もうもうとたち昇る黒煙が、行く筋も伸び上がっている。
破壊された街が吐き出す黒煙が、その恐ろし気な姿を明確に浮かび上がらせることができるのはもうまもなくだった。
新玉川線への乗り場へ通じる入り口にべたべたと張られた選挙のポスターがある。
『○○錠太郎(火災と爆発の煤で、名字は読めなくなっている)27才ノリのイイ男 東京の治安回復に全力を尽します。第三次外国人参政権拡大キャン
ペーンを強力に推進します。都議会議員選挙、2020年1月18日』
ゆっくりと腐った町が起きだしてくる。
立ち入り禁止のテーピングのむこう側に溢れ帰った野次馬は、年があけてまだまもないこの年の空気を、相変わらずの狂躁の中に押し込めようとするような
騒ぎ様だった。
場違いな世間話も演出の一つだ。
映像屋が口を開く。
「なぁ、オリンピック、見にいくか?」
「興味は無い。」
「気分転換しろよ、そして祈れ。」
「あ、あぁ、そうか…そうだよな…、そうする。」
「そうしろ、な?」
映像屋のカメラは、快調に回り続けていた。
映像屋は、カメラを回しながら、主観たっぷりのさそいを心地よく提示した。
「ビール、飲みに行こうぜ、」
「あぁ。」
BGM Good Luck [Feat. Lisa Kekaula] Basement Jaxx
Appleseed Original Soundtrack (Disc 1)
戦史記録_暫定治安維持機構『センター街2020年』_____終劇
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