3話 青色区(ケルレム)の老婆②


「はい、いらっしゃい」


 しわくちゃな笑顔を見せる老婆は、見かけによらず、しゃんとした声で応対した。

 老婆は杖をつき、ゆっくりと腰を上げ、やさしい目を少女に向ける。

 何だかきゅうに恥ずかしくなった彼女は、顔を赤らめ、どうにかまず、話のとっかかりをつくろうとした。


「おばあさん、これ、『パァンの笛』ですよね?」


 少女は軒先にかかる笛を指さした。


「まあ、知ってるの? これは同じ葦でも、数少ない『青葦』でできたものでね、笛として使うほかに、こうやって飾って、魔除けにもするのよ」


 軒先から、老婆は棚の上の笛に目をやり、小さな青いパァンの笛を手でいじった。


「それでね、この小さいのはお守り用。ただ、これは小さすぎて、誰にも吹けっこないのよね、ンフフフッ!」


 老婆は独特な笑い声で、顔をさらにしわくちゃにする。

 少女は耳が赤くなった。


「お守り、ですか?」

「そう。パァンの神は、『風使いの神』っていうでしょう?……あら? もしかして、あなた知らないのかしら? 食べる〈パン〉とは、違うのよ?」


 少女は思い出すように、ゆっくりうなずくと苦笑いした。


「まぁ、要するに『風の神様』なの。それで、その笛を大切にするものに、風を吹かせて幸運を運んでくれたり、魔物を追い払ったり、目的の街へひとっ跳びで、連れていってくれたりするのよ。もちろん迷信よ、ンフフフッ!」


 老婆はまた独特な笑いで、にっこりと顔のしわを深くさせた。


 この世界には、かつて実在した英雄「パァン」を唯一神とする、「パァン教」というものが広く伝えられる。

 英雄パァンとはその大昔、まだ霧も生命魂もいない時代、かろうじて山や森の懐に育まれていた人々や動植物をふたたびの危機から守り、解放した人物として知られる。

 その英雄を崇めるパァン教は、ヘイルの国にも信仰があり、小さい頃に童話として読み聞かせてもらったものも少なくない。


 少女も、名前くらい知っていてもいいはずなのに、おまじないや風習ならまだしも、こういった誰それを崇めるという宗教には、どうもうとく、関心もあまりない。

 どちらかといえば〈パァン〉よりも、丹精こめた小麦でつくられる〈パン〉のほうが大事、と思うのが少女らしさだった。


 そろそろ少女は、本題を切りだそうと胸にしまった小さな青いパァンの笛を取り出し、老婆に見せた。


「あら? あなた。それ、持ってらっしゃるじゃない」


 老婆は少女に近づき、首に下げられたその笛を手で引き寄せた。

 すると彼女は、その笛にいたく関心を示し、大きくうなったのだった。


「これは、本物の『青葦』ね。どこで手に入れなさったたの?」

「ええ、おそらく両親がくれたもので……」

「おそらく?」


 少女は自分の笛のこと、広場でのことを老婆に話した。

 彼女が物心つく頃から、この笛を持っていたこと。

 「東の国」のこと。

 「笛吹」のこと。

 そして、「とある老婆」と「鞄」のこと……。


 老婆は東の国「セパン」の出身で、パァンの笛を今もつくっているそうだ。

 けれども、笛吹のことを知らなければ、あの鞄のことも知らない。

 当然、「とある老婆」でもなかった。


 今、老婆はわけあって、ヘイルからずっと北の外れにある「チャボカ村」に住んでいるという。

 この街に来るのは、はじめてのことで、村の若者たちの仕事ついでに連れて来てもらったのだった。

 ここでの笛売りは生活のためというより、ほとんど趣味らしい。


 老婆は、パァンの笛をつくって六〇年以上にもなるそうだ。

 葦原の豊かな故郷、セパンならではの伝統工芸品だという。


 その原料となる葦は、早朝に、山と森の間の湖へと出かけて刈り取るのだという。

 中でも青葦は希少性が高く、めったに手に入らない。

 なかなか手に入らない貴重なものだから、同業職人の間で大事にされ、よっぽどいい状態のものでない限り、軒先にあるような大きな笛はつくらないそうだ。


 かわりに、職人たちは生育の悪い青葦を間引いて、少女の持っているような、お守り用の小さい笛をつくって生活の糧にしていた。

 老婆が言うに、少女の持つ笛はセパンのもので間違いないと言う。


「笛をどこで手に入れなさったのかは、ご両親に聞いてみることね」

「えぇ、今度そうしてみます」


 少女は朗らかに顔をくずし、小さな青いパァンの笛を胸の中にしまった。


「ところで、今もつくられているんですか? 青いパァンの笛は?」


 きゅうに老婆は悲しい目をした。

 少女はまずいことをしたと気づくと、口もとに手をやり、思わず目を下に逸らした。


 沈黙が支配した。

 壁にかかった時計の振り子が鈍く、重い音を平然と揺らす。

 次に老婆が何を口にするか、少女にはおおかた予想がついた。


「青葦はもう、ないの……何十年も前に、なくなってしまったのよ」


 老婆の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 ずっとつくりつづけてきたものには、それ相応の思い入れがあって違いない。

 ただでさえ希少な青葦は、老婆が生まれて以降、年々減少をたどり、文明の発展とともにめっきり生えなくなると、故郷の開発を機に葦の生息地ごと絶滅したという。


 文明の発展にはよくあるつきものだ。

 しかし、親しい何かが失われるというのは、やりきれないものがある。

 生命はもちろん、物であっても……。

 ましてや、今まで長く大切につきあってきたものが根こそぎなくなるとなれば、誰にだって辛いものがある。


 それで老婆は、せめてものなぐさめにパァンの笛をつくろうと、葦の生える今の村に移り住んだというわけだった。


「遠い、遠い、東の故郷のこと?……」

「えぇ。遠い、遠い、東の故郷……」


 少女はうつむいた。

 暗く悲しみに澱んだ。

 まだあどけない彼女にとっても、何かを失う怖さ、悲しさは想像すればすぐに理解できた。


「まったく。弱ったものね! 最近、涙もろくて。まぁ、ないものはしかたない! ンフフフッ!」


 老婆は涙がこぼれないうちに手でぬぐうと、しわくちゃの、あの笑顔を少女にふり向けた。

 そして、棚に広げられたお守り用の笛を手に取った。


「実はね。この小さいのは、ぜーんぶ、青く色を塗っただけなのよ。もちろん、〈青葦〉とうたってますけれど、ンフフフッ!」


 またあの独特な笑い声で、老婆は明るくふる舞って見せた。

 少女はたまらず吹きだすと、涙がこぼれた。

 涙は、こぼれればこぼれ落ちるほど、瞳の澱みをなくしていった。


 老婆は、杖をぎこちなくついて少女に抱き寄った。

 何とか少女の瞳に、美しい琥珀こはく色を取り戻したかったのだろう。

 彼女の小さくも暖かい腕の中で、少女はしばらくうずくまっていた。


「ごめんなさい。もう、だいじょうぶ!」


 すっかり元気を取り戻すと、澱んでいた琥珀の瞳も美しい色に澄んでいた。


「そういえば、村の若者たちは?」

「あの子らは、朝から広場に、ものを売りにいったきり、まだ帰ってこないのよ。まったく、どこで油を売ってるのかしらね。ほらっ! 売りものはそこの棚にあるものよ。まぁ、変わったものばかりね」


 棚の上をよく見ると、奇妙な品物がずいぶんと置かれている。

 二本足に一本、足が余計に生えているような三又のゴボウや、時計の形をしたブルーベリーなど。

 中でも、祭りで使うような目鼻口をくり貫いて、顔をつくった大きなかぼちゃが目立つ。


 老婆に聞けば、それは食用であるらしい。

 ほかにも民芸品があり、かわいらしいおもちゃが多く、よくわからないガラクタのようなものまである。


 老婆は、おどけた顔をして笑った。


「私は見てのとおり、歩きまわれないから。ここでお店番をしながらのお留守番というわけ。おまけに、ここは『青色区ケルレム』でしょ? 青いパァンの笛は、何だか、縁起がよさそうで売れそうじゃない?」


 老婆は、杖を軽く二回ほど床に打ちつけた。


「口は達者なのにね? おばあちゃん!」

「あらら? あなたには負けるわよ!」


 二人は見あって、大口を開いて目尻をだらしなくした。


「さぁ。これからあなたも、ほかに寄るところがあるんでしょ? そうだ! せっかくだから、あそこにある笛を持ってくといいわ」


 老婆は、謙遜する少女に聞く耳を持たずに、杖をついて店の奥へ消えると、軒先の笛を引っかけて取るための棒を持ってきた。

 彼女は杖で体をうまく支えながら、もう片方の手で器用に笛を引っかけて下ろした。


「これは私のつくった、〈最後の『青いパァンの笛』〉なの」

「そんな大事なもの……」


 少女はどうにか断ろうとした。

 老婆の大事な思い出の笛をもらっていくことは、彼女にはできないと思った。


 だが、老婆は少女の手をつかむと、笛を包みこますように持たせた。

 そして皺の深く刻まれた両手で、彼女の手を上から覆うように力強く握った。


「生命は、いつか死んでしまう。私も、そう先は長くない。だから、死んでしまう前に、誰かにもらってもらうのが、私のいまある一番の願いなの。あなたに、もらってほしいわ」

「……なによ、おばあちゃん。まだ、元気じゃない……」


 あらためて、手にして眺める青いパァンの笛は、笛吹のものと形も感触もよく似ている。

 少し違うのは、笛を手渡す際に少女の手を握りしめた、あの手の温もりがあることだ。

 老婆のごつごつとした、でも、あのやさしい手の感触がじんと青葦から伝わってくる。


「うれしいけど。私、笛なんて吹けないし……」

「それは練習すればいいのよ。そう! 例の『笛吹』さんにでも、教えてもらったらいいじゃない。何でも、神様と同じ、〈パァン〉って言うんでしょう?」

「うーん、たしかに。食べる〈パン〉じゃないって言ってたから、平気かも」

「ンフフフッ! まぁ、もし吹けなくっても、お守りにでもしたらいいじゃない?」

店にある振子ふりこ時計が、午後三時を知らせた。


 少女はお昼もまだなことに気づくと、たまらずお腹を鳴らしてしまった。

 老婆はとぼけた顔をして、やさしく笑った。


「これから、どこかに行かれるんじゃ、サンドウィッチでも持ってらしたら? ちょうど、あの子たちのおやつにと思って、つくっておいたのだけれど、ちぃーっとも、帰ってこないから」


 少女はお腹を両手で押さえ、もじもじした。

 けれども、空腹にはまるで勝てそうにない。


「遠慮なさらないでいいのよ。持っていきなさい」


 もし、少女に祖母がいたら、こんな風だったのかもしれない。

 いつでもかわいい孫の味方みたいな。

 ただし、彼女の場合、毎日、祖母と両親との間で、取りあいのいざこざに巻きこまれるやもしれない。


 そんな幸せを思い描いていると、少女は自然と穏やかな顔つきになれた。

 きっとこの鞄を預けた老婆も、この老婆と同じ気持ちでいっぱいだったのかもしれない。


(届くといいな……)


 少女はそう思うと、この鞄がいち早く、持ち主にところへ届くことを願った。

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