VIVID
加藤ゆうき
第1話高校生
一部の生徒の間では、絶対に立ち入ってはいけないと言われている。
そこは、法に背いて悪を裁く異常な世界だ。
一人の生徒が、危険を顧みることなく踏み入った世界で、頂点に昇った。
彼女は、やがてこう呼ばれるようになった。
クイーン・オブ・ザ・ヴィヴィッド。
「VIVIDの女王」と。
市内に建つ、とある通信制高校。
牧村朱夏はそこの一生徒として、灰色の校門をくぐる。
通信制高校で単位を取る手段はレポート提出が主で、週に一、二回登校し、人によっては四年で卒業する。
この日がその登校日である。
下駄箱の近くには、校風を表した奇妙な絵が飾られており、それが目に入ってから、教室へと向かう。
無数の小人を踏みつける巨人の絵が、生徒の背中を見送る。
通信制高校には、さまざまな生徒が在籍する。
高卒という肩書きを得て、より良い仕事に就きたい中年。生涯現役で勉学に励む高齢者。アルバイトと学業との両立に励む十代の若者。そして朱夏のように、育児中の母親。
しかし現実では学業との両立が難しく、入学者の大半が一年足らずで現職を選ぶのが現実だ。
それに加えて、この高校では校風に則ったいじめにより、卒業者は一、二割程度にまで減る。
態度の大きい教師が、社会的立場の弱い生徒を虐げるという、非道徳的な越権行為が、この高校の特徴だからだ。
中には教師に取り入ろうと、教師のいじめに加担する生徒もいるが、そのほとんどが主婦であり経済的に余裕のある者ばかりだ。それが不倫に繋がることもある。
朱夏はどちらかと言えば、いじめられる立場にあった。
朱夏は普段、一人息子の夏樹を保育所に預け、ベストスマイルというレストランで正社員として働いている。
全日制高校を中退して母親となった朱夏には、頼るべき親も夫もいない。
たった一人で育児、仕事、そして学業に奮闘している。
呼吸も忘れそうになる日常が、この高校に入学したことで少しずつ崩れていった。
「一度高校を辞めておいて、よくこの学校に入ったな」
「宙ぶらりんのまま子どもを産んでいるから、こんな稚拙なレポートしか書けないのか。ああ?」
「県立とはいえ、授業料はタダではないし、お子さんのために早めに退学したほうが良いのではないかしら?」
朱夏なりに吸収したことを何度まとめても、教師からは家庭環境を理由に、レポートの中身や朱夏自身を否定する。言葉通り退学を促進する者もいる。
朝川、井手、内田がその主な教師であり、彼らのリーダーは大塚正という。
さらに大塚は、一部の生徒をも従えていた。
「大塚先生も大変ね。こんな訳アリの生徒を受け持っているなんて」
「ただでさえ教師って大変な職業なのにね」
「この学校だって、私たちみたいに、純粋に勉学に励むだけの生徒ばかりだと、どれほど良いかしらね」
教師に取り入り校風の荒波から逃れるのは、主にクラスメイトの赤田、青崎、白川の主婦三人組だ。
彼女らは真面目で優秀な生徒だと自称しているが、男性教師と不倫関係にあるともっぱら噂になっている。
それを棚に上げ、十代で母親になった朱夏を、登校日のたびに非難する。
周囲の偏見により登校も苦痛に感じるが、それでも朱夏が耐えられるのは、一人息子の夏樹の存在が支えとなっているからだ。
将来夏樹がどのような進路を選ぶにしても、金がかかる。
朱夏の勤務先であるレストラン・ベストスマイルの賃金や待遇はそれなりに良いが、高卒以上の学歴を要する仕事には到底及ばない。
より多くの教育資金を蓄えるためには、一度中退した朱夏が高卒という肩書きを、さらにより待遇のよい仕事に就く必要があるのだ。
しかしその思いを踏みにじるように、朱夏への非難は一向に強まるばかりだった。
中には同情したり、赤田たちに直接訴えてくれる生徒もいるが、赤田たちの行動を阻止するまでには至らない。
やがて朱夏は、二度目の高校中退を考え始めた。
別の通信制高校には、教師によるいじめがないかもしれない。
苦痛を感じることなく、四年足らずで卒業できるかもしれない。
知らぬ世界に期待を寄せていた朱夏は、ある日初めてクラスメイトに好意的な声をかけられた。
「あんた、ずいぶんと我慢強いねえ」
山田敏子、九十歳にしていまだ学習意欲のある老婆だ。
彼女は赤田たちのグループに加わることなく、他の生徒へのいじめをも戒めることが何度かあり、教師からも煙たがられていた。
それでも誰にも媚びることなく勉学に集中できるのは、歳とともに重ねてきた豊かな人生経験のおかげなのだろう。
「ま、とりあえず食べようか。好きなものを選びなさい」
敏子はそう言って、朱夏に個包装のチーズと煎餅を一つずつ見せる。
朱夏は突然の親切に戸惑いながらも、煎餅の袋にそっと触れた。
敏子が朱夏の選択に驚き、理由を尋ねると、朱夏の口から「なんとなく」という返事が出てくる。
「あんたみたいな若い子は『なんとなく』が好きなようだね。良かったら聞かせてくれないか? あんたのことを」
校舎の裏庭で少しずつチーズを噛む敏子を見て、朱夏は己のことを語り始めた。
全日制高校在学中に妊娠したが、相手の男と連絡が取れなくなり、親にも勘当されたこと。
生まれた夏樹を養子に出す選択をせず、一人で育てるため、アルバイトを経て現在の職場に就職したこと。
職場の休日には高校に登校するが、毎日夏樹を保育園に預け、親子の時間が少なくて寂しく感じること。きっと夏樹も同じ気持ちでいるのではないかと憂いていること。
朱夏は惜しげなく、他にも己のことを打ち明けた。
敏子は朱夏の言葉にゆっくりと頷き、一言も口を挟むことなく最後まで聞いた。
その様子は、孫と祖母のふれあいのようだった。
朱夏が語り終えると、隣り合って座っていた敏子が顔を合わせた。
「あんた、良くお聞き。あんたが本当に息子のことを想っているのであれば、決して、決して! 『ヴィヴィッド』に関わってはいけないよ」
「ヴィヴィッド? なんですか、それ?」
敏子が口に皺を寄せて発した奇妙な言葉に、朱夏は違和感を覚えて繰り返した。
朱夏は笑っているが、敏子は逆に鋭く睨んだ。
「名前だけ知っていれば良い。それが、この学校を無事に卒業できる唯一の方法さ。なにごとにも穏便に・・・・・・ね」
敏子は一部の生徒に立ち向かうが、朱夏には大人しく過ごせと言うのだ。
朱夏は敏子を変わった人だと思った。ただでさえ全日制高校に在籍していたころとは環境が違うというのに、どこにでもあるいじめを、年上のクラスメイトが戒め、慰めてくれるのだ。
そしてお節介とも言える忠告までしておいて、それを知るなと諭す。
まだ二十代前半の朱夏にとって、知らないことを知らないままでいることがむず痒くて仕方がない。
かつて朱夏と同じ年代を過ごした敏子は、そのもどかしさを理解しているはずだったが、朱夏が何度訊ねても、ヴィヴィッドのことを教えない。
息子の夏樹が保育園で待っていなければ、朱夏は高齢者を相手に無理をさせていただろう。本来、ものごとをうやむやにしない性分なのだ。そのため朱夏は全日制高校をあっさりと辞め、両親の勘当を二つ返事で受け入れた。相手の男性と連絡が取れなくなったら、想うことをすんなりと諦めた。
そして夏樹が生まれた。
「ただいま、夏樹! ごめんね、遅くなって」
「いーよ、ママ。きょうは『がっこうのひ』だもんね。ぼく、きょうもいっぱいあそんでいたから、きにしないで」
夏樹は細かいことを気にしない性格である一方、母親である朱夏のように探求心が強い。
自宅に戻ると夕飯を食べながら、互いが見聞きしたことを教え合うのが日課だった。
ただ、校風に則ったいじめのことは夏樹には明かさない。
接客業や授業の内容は、夏樹にとっては難しすぎる。
しかしながら幼い子どもなりにきちんと理解しようと努力する夏樹。
一方、朱夏は最近の子ども事情を理解することに苦しんだ。保育園にはおおむね二種類の園児がいるそうで、夏樹は流行っているアニメの魅力を友人と共有することのほうが楽しそうだ。
反対に、私立小学校の受験を控える園児とはあまり気が合わないようで、夏樹が言うには、与えられた紙の問題をただ解くだけという行為のどこが良いのか分からないそうだ。
夏樹は勉強が嫌いなのではなく、自分で魅力を見付け、人に伝えたり、朱夏のようにレポート課題を仕上げることのほうが性に合うのだろう。
その割には話す言葉がいまだ未熟で複雑なのだが。
けれど夏樹の発する言葉や成長の一つ一つが、朱夏の大きな支えとなっている。
「ママさー、クラスメイトに九十歳のおばあちゃんがいてね。今日、その人と一緒にお煎餅食べちゃった」
「えー! がっこうにかようおとなって、ママだけじゃないの? もっともっとながいきしているひとがいるんだね。ねーねー、その『おせんべい』ってなにー?」
「固くてしょっぱいお菓子よ」
「しょっぱいのにおかしなの?」
「そうよ、大人のお菓子だから。夏樹がもう少し大きくなったら、ママと一緒に食べようか?」
「じゃあ、そのおばあちゃんに、もっと、ながいきしてもらわなくちゃ! だってぼく、あってみたいんだもん!」
「そうね、今度の学校の日に、おばあちゃんに言っておくね」
「うん、やくそくだよ!」
けれど、朱夏は夏樹との約束を守ることはなかった。
否、できなかった。
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