「選挙野郎」

消雲堂(しょううんどう)

第1話 「参議院議員選挙の壱」



2020年3月の始めのことだった。滅多にかかってこない自宅の電話が鳴った。前年の暮れに行われた衆議院議員総選挙で、地元の政治家、園井真司の手伝いをした際に知り合った村野藤吾からの電話だった。村野藤吾は園井真司の秘書をしていた。村野は関西出身で、いつも慌てたような話し方をする。


「田辺さん、僕です、村野ですぅ。元気ですかぁ?」

「村野さん? どちらの村野さんですか?」

「やだなぁ、村野藤吾ですよ、園井真司さんの秘書だった村野ですよぅ」

「ん? 園井さん? あ、あああ、あの時の村野さん、どうも、どうもお久しぶりです。あの時はお世話になりました。選挙運動の手伝いなんて初めてだったので良い経験になりましたよ」

「そうですか? そういえば田辺さん、今の仕事は何をされているんですか? ライター業は忙しいですか?」

「僕は相変わらず無職のようなものです。貧乏暇ありです、あははは」

「あ、そうなんですか、田辺さん、TwitterやFacebookをやってましたよね、インターネット選挙というのを知っていますか?」

「え、なんですかそれ?」

「今回の選挙から取り入れるようなんですが、パソコンとかインターネットに慣れている方に手伝ってもらいたいそうなんですよ」

「今回の選挙?」

「夏の参議院議員選挙です。僕は河野広栄さんの秘書をしているんです」

「え、でも村野さんは暮れの衆議院議員選挙では園井さんの秘書をされてたじゃないですか? 園井さんはめでたく当選されたし…」

「僕は選挙時のみの臨時秘書として雇われているに過ぎないんですよ、園井先生が当選したら僕はお払い箱なんです。今回は河野先生の秘書として雇われているんですよ」

「時間があるようでしたら、河野先生の参議院議員選挙のお手伝いをしていただけませんか。新たにインターネットを使って選挙告知ができるインターネット選挙のお手伝いです。僕はTwitterもFacebookもやっていないので田辺さんに助けてもらいたいんですよ」

「はぁ…」

「一度、船橋の事務所まで来ていただけませんか?」

「船橋のどちらですか…」

「はい、海老川の…市場の前にある徳田ビルの3階ですよ、来ていただければすぐにわかります」

「はぁ…」

「あ、ボランティアですから給料は出ませんから、そこのところよろしくです」

「はいはい、わかってますよ、じゃあまた連絡します」と言って電話を切った。

とりあえずは船橋の事務所まで行って、話を一通り聞いてから断ろうと思ったいた。




船橋の海老川は、かつて日本武尊が東征の際に、地元の漁師たちがこの川に船を並べて橋を作り日本武尊の一行を渡したという謂れがある。船で橋を作ったことから船橋の地名の由来ともなっているらしい。海老川沿いにはソメイヨシノと八重桜など500本の桜の樹が植えられ、毎年桜の季節には多くの花見客が訪れる。海老川を船橋駅から船橋大神宮に向かってしばらく歩くと宮本という地区があり、この一角には太宰治がパビナール中毒のまま「虚構の春」などの作品を書いた住居跡がある。


僕は、海老川に沿って作られた散策路を歩いて河野広栄の事務所に向かっている。雲一つない晴天に恵まれ、幾分涼しい春の陽気は歩みを活性化してくれる。僕は生来、怠け者で歩くのが大嫌いなのだ。


海老川散策路をしばらく夏見の台地方面に向かって歩くと、市場の前の広い道に出た。周辺を見回すと古臭い小さなビルに「河野ひろえ」と書かれた大きな看板が見えた。あれが徳田ビルらしい。その由来は知らないが、政治家というのは苗字だけを漢字で、名前をひらがなで書くというのが彼らの業界の常識のようだ。積極的に投票に行くのは高齢者だから読みやすいようにひらがなでということも言われるが、そんなことはどうでもいい。何かそんなところに僕は媚びたようないやらしさを感じるだけだった。


ビルの下まで歩いて、村野に電話をいれた。徳田ビルはずいぶん昔に建てられたようなコンクリート打ちっぱなしの壁は、斑に変色して、あちこちにひび割れが見える。事務所がある3階を見上げると河野広栄のニッカリとシバイじみた笑顔のポスターがベタベタと貼られている。

「あ、村野さん?田辺です」

「ああ、どうもですぅ、今、どちらにいてますのん?」

「急で申し訳ないんですが、今、ビルの下まで来ているんです」

「え、事務所の?徳田ビルの?」

「はい、今日はちょうど、西船橋まで用事があったもので、その帰りに寄ってみました。お忙しいようでしたら、日を改めて伺います」

「う、大丈夫ですよぅ、歓迎します、ほんじゃあ上がってきてください。エレベーターがないので階段を上がってきてくださいな」

「はい」

電話を切って入り口から中に入ると左側に階段が見えた。とんとんとコンクリートの階段を上がって行く。さすがに60歳近くなると体力の衰えを感じる。3階まで駆け上がると息が上がってしまった。事務所のドアの前で息を整えてから中に入ろうとしていると、勢いよく開かれたドアは、ガツンという鈍い音をたてて僕の頭部を直撃した。



鉄製だろうと思われる事務所のドアが僕の額を直撃すると、ギャグ漫画の登場人物のように目から火花が出るほどの衝撃に襲われた。危うく倒れそうになるのを僕はなんとか踏みとどまって耐えた。

「痛ててぇ…」額を押さえて呻いていると、村野の妙に明るい声が聞こえた。

「ああああ、すんまへん、田辺さん、大丈夫でっか?」どうやら彼が勢いよくドアを開けた犯人らしい。

「そのドアは危ないね、ドアの前に注意を促す張り紙しといた方がいいな」明るい村野とは違ったドスのきいた野太い声が事務所の奥の方から聞こえた。誰だろう。

「ほんまですわ、これで三回目ですもん」

被害者は僕なのにまるで他人事のような会話だ。

「一応大丈夫ですがね、いててて」額を押さえていても、まださっきの衝撃から立ち直ることができない。

「またぁ、大袈裟なんだから田辺さんは…」村野はパンと僕の肩を叩いて「イヒヒヒヒヒ」と気味の悪い笑い方をした。

「さ、奥に入ってくださいな」

公示前の事務所は、まだ選挙事務所化されていないが、選挙活動のためのパイロンとそれを結束させるバーにロープ、街頭演説用の拡声器、ポスター掲示に使用するのであろう大きな板切れなどが雑然と置かれている。部屋の奥をみると、窓側に大きなオフィスデスクが対面型に二つずつ、これを一セットとすると、計六セットがどんと置かれ、その一つに目つきの悪いヤクザにも見えるコワモテの男が座っている。

「稲田さん、田辺さんが来てくれましたよ」村野がその男に向かって声をかけると、男は面倒くさそうな顔をしながら僕の方を見た、見たというより僕は睨みつけられている。怖い。

「はい、よく来てくれました、んで、村野くん、田辺さんに何をしてもらうの」稲田と呼ばれた男はゆっくりと立ち上がって僕の方に近づいてくる。背の大きな男だ、怖い。若いのか老けてるのかよくわからない見た目…もしかしたら僕より若いのかもしれない。

「こないだお話ししたネット選挙の対応ですがな。田辺さんはSNSのフォロワー数が一万を超えてるって言うてはったんで…あ、田辺さん、政策秘書の稲田です」

「稲田って、お前、呼び捨てにしたな」

「だって、お客さんの前やしねぇ…」

「ばぁか、冗談だよ」

「趣味の悪い冗談やなぁ、ほんまに」

「ネット選挙っていっても、うちは何も計画してないんだよなぁ…」

2013年の参議院議員選挙からインターネット選挙が解禁になったが、あれは言葉だけのお遊びのようなものだった。だが今回のインターネット選挙は大きく違う。投票がネットでできることになったことで、公示日からは本格的なインターネットによる選挙運動が可能になったのだ。

「田辺さんはライターさんなの」稲田がギョロリと僕を睨みつけた。ただし、この人にとっては睨みつけている感覚はないのかもしれない。

「あ、はい…」萎縮し切った僕は恐怖で尿漏れしそうだった。



「ほい、コーヒーです。田辺さん、砂糖とミルクいらないんでしたよね」村野が両手にコーヒーが入ったカップを持ってきた。

「あ、はい、覚えていてくれたんですね」

「当然でんがな」村野が僕の肩をポンと叩いてニッカリと笑った。

「田辺さんってネットが得意なの」稲田がズズゥっとコーヒーをひと啜りながら、また睨んだ。怖い。ん、ネットが得意?何だか変な質問だなと思いながら、「いや、僕はネットもパソコンも得意じゃないです、どちらかというと嫌いな方ですよ。ただ、そういう仕事ができればいいなぁって、いろいろと企業さんのネット通販のお手伝いをしていたりするんです」

「ふぅん…でもSNSのフォロワーは多いんでしょ」

「いえ、いえ、僕は有名人ではないのでフォロワー数は1万5千ちょいだけですよ」

「へぇ、有名人ってどのくらいなのよ」稲田はまたコーヒーをズズッっとひと啜りした。

「そうですね、数万とか数十万とか…」

「へぇええ、随分と暇な人間が多いんだなぁ」


「んでね、田辺さんにはやってもらいたいことがたくさんあるんだな」

「はぁ」

「何でもやれますよ、田辺さんは、ねぇ」

「村野くんね、

「あ、いや、できないことの方が多いですよ」


村野には僕の窮状を伝えてある。彼には昨年の臭議員議員選挙の際に僕が生活費にも困っていることを話してあった。



2019年に公職選挙法が廃止されたことで、選挙活動にいくらでも金を使ってもいいことになった。つまり金持ちであれば金持ちであるほど票を金で買えるという正直な選挙になった。もともと不公平な選挙が正直でまっとうなものになったのだ。金持ちが勝つ選挙ならば貧乏人は金持ちになることから始めなくてはならない。


「おはようございまぁす。今日の機材隊は草葉(くさば)、阿鼻可(あびか)方面で街頭演説を行う河野広栄先生のサポートを行います。街頭には前田元総理も参加すっから、今日は超大変だぜ」リーダーの安積長嶺(あさかながみね)が突き出た自分の腹をさすりながら言った。40歳を過ぎたばかりの安積はアニメオタクらしく話し方も甘ったれた子供のようにふにゃふにゃで本物のオタクっぽい。


僕は若い頃に池袋のデパートの画材売り場で働いていたことがある。その際に売り場に画材を買いにやって来るアニメオタクたちに慕われていた。理由はわからないが、僕を慕ってくれる人間が存在した稀有な時代だった。彼らの話し方も安積と同じだったので僕は安積に親しみを感じていた。


そのアニメオタクのような安積は、昨年まで臭議院議員の白田潔(しろたきよし)の秘書を勤めていたが、昨年末の臭議院議員選挙白田議員が落選したことで、急遽、河野の選挙運動の助っ人を依頼されたのだった。ふにゃふにゃした見た目とは違って安積の選挙マーケティング力では類稀なる才能を発揮していたようで、報道や県警の知り合いも多いようだった。選挙マーケティングという言葉があるのかは知らないが、あるとするならば、彼はその最高峰だろう。といっても、あくまで民臭党の議員しか知らないからね。もしかすると、この国の権力者たる自貧党の議員や秘書や選挙活動員には彼より優れた人間がいるかもしんないのよ。


そこにヤクザ風政策秘書の稲田が口を挟んだ。

「今日の気温は38度超と予想されています。各班の責任者は隊員への水分補給を忘れないようにしてちょうだいな」相変わらず全員をギョロリと睨みつけながら言った。今日は微笑んでいるつもりらしい。でも、この人は微笑んでいても睨みつけているようにしか見えない。


「僕のエルグランド班は、8時出発で東尾野出(とうびので)線の酒焼(さかやき)駅の9時30分駅頭から草場駅に移動して駅頭設置準備のあと、草場駅周辺を練り歩き、その後に昼食、それから午後一で草葉駅前で駅頭演説、それからカクエツ北草葉店前、最終的には阿鼻可駅で全員集合して終了です。じゃあエルグランド斑は早速準備をしてください。吉村君、各自への指示を頼むね」


吉村は「了解しましたぁ」と、肥えた身体をオカマチックにクネクネと動かしながら予定表を丸めてポンと机を叩くと階下に消えた。総武線路沿いにある駐車場までエルグランドを取りに行ったのだろう。今日の吉村は元気がない。でも、彼の性格の悪さを皆知っているから誰も彼に「どうしたの?」なんて気の利いた声をかけてくれない。スケジュール表を見ると当初吉村はライトエース班だったようだが、僕と交換されている。何かあったのだろうか。(今日も一波乱ありそうだな、明日で選挙活動も終わりだから、今日ぐらいは思い切り引っぱたいてやろうかな)


「んで、南田リーダーが率いるライトエース斑は、南草葉駅頭のあと、草場駅でエルグランド班に合流して練り歩きと駅頭に参加、メックス松が枝前、スポット阿鼻可とまわったあとに、最終地の阿鼻可駅で再びエルグランド班に合流するんですが、ライトエース班の方が先に阿鼻可駅に到着するので駅頭の設置準備をお願いします。じゃあ、南田君、よろしく頼むネェ」


「じゃ、まずは二階に行ってパイロンとトラバを取りに行って行きましょうか、久能さん、ロープは積んでありましたよね」

「はい、マイクが心配ですね。もしかしたらエルグランドに積みっぱなしかもしれません」

「はい、じゃあ、田辺さん」いきなり名前を呼ばれて驚いた。眠くてボーーっとしていたからだ。

「はい」

「田辺さんは、ライトエースまで行って積荷を確認してきてください」

「はい」(やれやれ、今日も大変な一日になりそうだな)








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「選挙野郎」 消雲堂(しょううんどう) @kesukumo

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