第17話 迷走4 (31~40 重)

 翌日の8月3日、北見方面本部で覆面パトカーを借りた二人は、午前中だけの伊坂組への非公認捜査活動に入った。過去、篠田の部下だった社員や同僚だった役員などに話を聞いた。社長の伊坂については、相変わらず社に居なかったので聴取できなかった。ただ、先代の大吉が2年前の1993年12月に死んでいて、今の2代目社長である息子の政光が、東京の大手建設会社を辞めて社長になったのが93年4月ということもあり、基本的に事件とは関係なさそうということで、これまで同様特に事情聴取を無理にする必要もないという理由もあった。


 役員では、喜多川、篠田と同じく専務として過去に同僚で、今は副社長の三田が、喜多川逮捕時の捜索の時と同様応対した。まず向坂は喜多川が警察で倒れた件について、三田に説明をし、同時に謝罪した。三田も当然状況は知っていたようではあるが、特に警察に文句を言うことはなかった。というより、いちいち警察との関係を悪くするメリットもないと考えていたのかもしれない。篠田の人柄については、三田は悪くは言わなかったが、出世については、やはりよく理由はわからないと言葉を濁した。ただ、何か隠しているというより、本当にわからないだけだろうという雰囲気を、向坂も西田も感じ取ってはいた。


 それなりの時間を費やして篠田について聞き込みをしたが、社員同様三田からも、今まで以上の話を聞くことは出来ず、諦めかけてそろそろ方面本部に戻ろうかと思った時、向坂の目に三田の腕時計が留まった。喜多川の時計と同じものに見えた。

「あれ、その時計は……」

「刑事さん、何か?」

「その時計って、伊坂組の記念贈答品の時計ですか?」

「ええ、その通りです……。あれ、刑事さん、どうしてうちの会社で配ったものってわかったんですか!?」

三田は超能力者でも見るように、向坂の顔をまじまじと見つめた。

「ああ、驚くのもわかりますよ。ただ、それがわかったのは種も仕掛けもなく、喜多川さんの時計の裏に、「伊坂組40周年記念」ってのが彫ってあったからですよ。で、それと同じのを三田さんがしてたのが見えた。そういうことです」

「ああ、そういうことでしたか。それならそうと言ってもらわないと」

三田は安心したかのように笑みを浮かべると、自分から外して見せた。西田は当然初めて見る時計だ。三田から時計を受け取って、食い入るように見ていた西田が、

「ロイヤル・フェリペですか。これ高いんですよね?」

と聞くと、

「そうですねえ。私も配られたものをもらっただけなんで、幾らしたかは実際に聞いたわけではないんですが、時計に詳しい人に見てもらったら、おそらく100万はしたんじゃないかって話でした。まあ特にあの頃はバブル末期だったので、もっとしたかもしれないですけどね」

と三田は答えた。

「100万ですか……。それを社員さんに配ったんですか?」

西田は驚きを口にした。

「いや、一般社員にも別の記念品を配ったような記憶がありますが、ただの置き時計みたいなもんだったはずです。これと同じのをもらったのは、当時の部長クラス以上の社員と役員でしたかね……。それにしてもバブルってこともありましたが、やっぱり先代の大吉社長は創業者なんで、そういう豪快なところがありましたよ。戦後の1950年に身一つで起業して、ここまでにしたんですから。当時は一人親方みたいなもんで、国鉄の保線なんかから始めて、今じゃそういう大して金にならないことはやめて、公共事業や大規模建設から住宅建設までやっちゃってるわけでね。2年前の12月に亡くなりましたが、すごいバイタリティのある人でした。ワンマンでもありましたが……。その年の春から継いだ息子の政光社長も、そのうち貫禄が付いてくれるといいんですがね……」

三田は含みのある言い方をして懐古した。

「それで、喜多川さんもその時計をもらったというわけですね?」

向坂は横道にそれた話を修正するために、確認した。

「そうですね。丁度喜多川と篠田の二人が部長から専務に就任した年の5月になりますか、この時計が配られたのは。90年の5月が丁度伊坂組の40周年だったので」

三田が答えた。


「しかし、こんな時計ただで貰えるなんて羨ましいの一言ですね」

西田が時計を三田に返しながら言うと、

「まあ私はそう思って大事にしてますけどね。皆がそう思ってるわけでもない」

と三田は皮肉混じりに答えた。

「と言いますと?」

向坂が会話の流れのまま尋ねた。

「それこそ、喜多川と篠田の話ですよ。特に篠田ですね」

「ほう。どんな話ですか」

特に何か事件に関係しそうな話でもないが、今更特に聞くべきこともないので、向坂は今度は興味本位で話の続きを更に促した。

「刑事さん達にとって面白い話ではないと思いますけど、リクエストなら仕方ない……」

と軽く前置きすると、返してもらった時計を見ながら三田は話を再開した。

「あれはいつだったかな……。そうだ、喜多川がアメリカに長期出張する直前でしたから、92年の7月か、喜多川と篠田は、まあそれなりに仲も良かったんで、一緒に出かけることがよくあったらしいんですが、この二人が釣りに佐呂間湖? 辺りに行って、帰りに温泉で入浴したらしいんですわ。で、その時にこの貰った時計を取り違えましてね。ところが、その翌日から喜多川はアメリカに出張することになっていて、二人共その時まで、取り違えたことに気付かなかったので、そのまま、喜多川は篠田の、篠田は喜多川の時計を身に付けたまま過ごしたって話ですよ。取り違えた当時、篠田が笑い話として私にしてくれたのを思い出します。まあその後はちょっと事情が違ってきますけど」


 さっきまでただの興味本位で聞いていた向坂と西田だったが、3年前の喜多川の長期出張の話が出た途端、アリバイの件にも重なっている話だけに、真剣な顔で三田の口元を見つめる。

「その事情というのは?」

西田が催促した。

「ええまあ。その後のことでした、篠田が時計を失くしましてね。もともと落ち着きが無いところがあった人間でしたが、よりによって、人の高い時計を失くしたとなると、大騒ぎになりまして、会社の人間巻き込んで色々探したんですが、結局見つからなかったんですよ。アメリカで連絡受けた喜多川はそれほど怒らなかったらしいんですが、日本に戻ってきてからは、やっぱりしばらく不機嫌でしたがね。篠田は自分のを代わりにやるつもりだったらしいですが、名前が他人のものじゃあ、喜多川も受け取れませんわな」

三田は軽く笑うと、話を続けた。

「あれはいつだったかなあ……。湧別にある国道の橋の補修工事が遅れていて、その工期の遅れを取り戻すため、いつも8月8日ぐらいから始まるはずのお盆休みが、その工事に関わった連中分だけ数日遅れた時……。篠田が現場を見に行った前後の話だったんで、8月の初旬から中旬の間ぐらいだったかなあ」

三田の話を聴き終わった向坂は、一つの疑問をぶつけた。

「あれ、話がおかしいですね。当時篠田さんは喜多川さんの時計を失くしたんですよね? じゃあなんで喜多川さんは、今自分の時計をはめてたんですか?」

西田も同じ疑問を抱いていたので、三田の回答を待った。

「なるほど。言われてみればそうでした。それがですね、面白いことに、つい一ヶ月程前ですか、あなた方のお仲間から連絡が来まして」

「お仲間?」

向坂が怪訝そうな声を出したので、三田はバツが悪そうに、

「すいません。警察の方から連絡が来まして」

と訂正した。しかし、向坂は表現が気に入らなかったのではなく、警察から連絡が来たという話の流れに違和感があったからだと、西田は理解していた。


「いや、警察から連絡があったってことは、一体どういうことなのかと」

向坂の発言に三田は一安心したのか、

「そういう意味ですか……。えーっと、『おたくの会社に喜多川という人物がいるか?』とね。それで、喜多川の所有物らしき時計が、警察が捕まえた窃盗犯の持ち物から押収されたので、確認して欲しい』と」

向坂は声のトーンを変えて、更に聞いた。

「それは北見署ですか?」

「いや、どこだったかは私はわからないですね。私も喜多川とか秘書から、大まかに聞いただけなもんですから……。多分、電話は秘書が取り次いでますから……、坂崎君かな、ちょっと確認してみます」

そう言うと、三田は電話を取り内線に掛け、呼び出された女性秘書がすぐに三田の部屋に入って来た。

「坂崎君、喜多川専務に警察から電話来た話、覚えてる?」

「副社長、勿論覚えてます。確か……」

秘書はシステム手帳を広げると、ページをめくった。

「あ、ありました。6月26日の月曜日の14時ぐらいに、旭川西署(小説上の架空)の館林という刑事さんからの電話でした」

「なんて言ってたんだっけ?」

「私が聞いた限りでは、時計の件と、うちに居た富岡という人間の在籍履歴確認でしたね」

「富岡? その話は聞いてないが」

「すみません。喜多川専務に言うなと指示されてまして……」

秘書は如何にも失敗したという顔付きになったが、三田はそれを責めるよりも、中身を問いただそうとした。指示したのが喜多川本人だとすれば、それは秘書の責任には出来ないと感じたのだろう。

「それは仕方ない。で、富岡ってのは、1年以上前にうちを辞めた富岡 正の話か?」

「はいそうです。富岡がどの期間在籍していたか確認したいとのことでした。それについては、すぐ調べて喜多川専務に報告し、警察に専務から連絡したと思います」

三田は秘書の報告を聞き終わると、

「話を聞く分には、うちに居た富岡という社員が、篠田から何らかの形で喜多川の時計を盗って、それがつい最近、旭川西署の管轄内で発覚したということになるんですかね?」

と、二人に聞いた。

「おそらくそういうことだと思います」

西田がすぐに答えた。

「身内が犯人でしたか……。喜多川はそれを伏せたかったのかな?」

三田は釈然としないようだったが、

「とにかくお聞きになった通りのようです」

と短く言った。向坂が、

「ついでと言っては何ですが、坂崎さん。すいませんが、その富岡という人間、いつからいつまで会社に居たか、調べてもらえますかね?」

と改めて聞くと、

「いえ、専務に報告するために手帳にメモしてますから、すぐわかります……。91年の9月から93年の9月までですね」

と答えた。

「話を聞く分には途中入社の人なのかな?」

西田が坂崎に問うと、三田が代わりに、

「そうですね。入った当初が30半ばだったと思います。建設会社を流れ歩いてるような奴だったはずです。腕はあるが、時間にややルーズだったのと、手癖が悪いという噂もあって、結果的に自主退職という形で辞めていきました。旭川に行ってから窃盗で捕まるとは、さもありなんってところですよ。うちに来た時点では、『前』はないということを警察の人に調べてもらっていたはずなんですが……。話を総合して考えると、私の記憶では奴の居た部署は、丁度湧別大橋の工事に関わっていたんで、おそらく篠田がそこに来た時に、どうにかして盗ったんじゃないかと思います」

と呆れ気味に言った。

「それで、盗られた時計は喜多川専務が旭川まで取りに行ったんですかね?」

西田が尋ねると、

「いえ、旭川西署の人が、その時は確認のために北見に持ってきてくれたんです。事情聴取のついでということで。北見と旭川じゃ距離がありますから、便宜を計ってくれたようです。会社で会うと面倒なことになると専務は気にして、6月28日ですね、その日に会社の近くのファミレスで待ち合わせたみたいです。その際私は同席はしてませんが、警察の方とアポを取ったのが私なので記録していました。後から専務に聞いただけですが、専務はこの件での起訴はしないように要請したらしいです。起訴されると時計がちゃんと返ってくるのも遅くなるみたいでしたから。ちゃんと戻ってきたのはそれから1周間程後の7月5日前後だったように記憶しています。専務が嬉しそうに腕にはめた時計を私に見せてくれた記憶がありますから」

と坂崎は手帳を確認しながら教えてくれた。

「喜多川さんは旭川西署の刑事に、『起訴しないでくれ』と言ったんですね?」

向坂は念を押した。

「はい、そう本人から聞きました」

坂崎の返答を向坂はメモすると、西田を一瞥した。向坂の言いたいことは、西田もよくわかっていた。そして、

「無理言って申し訳ないんですが、その篠田さんが時計を失くした日は、こちらでは特定できませんかね?」

と西田は尋ねた。

「特定ですか? そう言われましてもねえ……」

しばらく三田の沈黙が続いたが、

「そうか! 工事日誌に、篠田が来たことが書いてあるかもしれないな……。坂崎君、工事部の土木課に行って、工事日誌もらってきてくれ。えーっと、確か湧別大橋の補修工事だ、92年の夏のな。そう言えば相手もわかると思う」

と言うと、坂崎秘書は急いで部屋を出て行った。


それから15分弱掛かっただろうか、西田達が景気の話で時間を潰していたところに、坂崎が戻ってきた。

「ありました。これですね」

坂崎が三田に日誌を手渡すと、三田はパラパラと該当箇所を探し、すぐに探り当てた。

「あったあった。やっぱりな……」

そう呟くと、広げた日誌を向坂と西田の方に向けて見せた。

「何度か行っていますが、8月は10日と翌日の11日、12日と3日連続で行ってますね。そして12日がお盆前の最後の工事日で、その後20日から工事が再開されてます。3日連続して行ったのは、おそらく時計を失くしたので、探す目的もあったんじゃなかったかな。それにしても私の記憶も年齢の割にはなかなかのもんでしょう」

三田はそう笑って言ったが、向坂と西田は日誌の日付、特に8月の10日のことが頭から離れず、生返事を返すにとどまった。そして向坂が、

「この工事の担当者だった方に話を聞きたいんですが?」

と思い出したように尋ねると、

「担当者と当時の工事関係者で、うちにまだ居る連中は今、斜里の現場の橋脚工事で出ていまして、しばらく戻ってこないんです」

と三田は申し訳無さそうに言った。

「そうですか、それは残念ですね。まあ本当に話を聞く必要が出てきたら、我々が自分で伺うことになるかと思いますので、その旨伝えておいてください」

向坂は残念そうにそう返した。


 西田と向坂はその後も多少のやりとりを三田、坂崎と交わしたが、大したことも聞き出せず、関心はある意味新たな捜査へと向いていた。それだけの材料を既に手に入れたからだ。適当なところで事情聴取を終えると、急いで方面本部への帰途に就くことにした。


※※※※※※※


「向坂さん、時計よく気が付きましたね」

「本当にただの偶然だ。喜多川が倒れた時に、預かってた持ち物を家族に引き渡さなきゃならないと思って、確認しておいたんだ。その時に時計を見つけて気になっただけの話だ」

伊坂組の駐車場で車に乗り込むや否や、二人はすぐに「捜査会議」に入った。西田はエンジンを掛けすぐに車を出す。


「喜多川が実質完璧に近い『海外』というアリバイがあったにも関わらず、何故あんだけ必死に米田の遺体を探していたのか。そこがどうにもはっきりしなかったが、この取り違えた時計の紛失がキーになっている可能性が出てきたな。失くした時期も、三田の話が本当なら、米田のおそらく行方不明になり直後殺害されたであろう8月10日の可能性が高い。単なる偶然とは思えない」

西田はそれを受けて、

「自分が考えるところでは、3年前の92年8月10日、米田を殺害したのは篠田ではないかと。そして篠田はその際に時計を失くした可能性を考え、米田の遺体が埋められた近辺にでも落ちていれば、当然その時計に名前が刻まれた人物、つまり同僚の喜多川が疑われるわけで、焦って探したが発見できなかった。おそらく米田が埋められたところも掘り返して探したかもしれない。そして喜多川は時計が失くなったこと自体に怒ったのではなく、篠田から米田殺害の件に時計紛失が関係している可能性を打ち明けられたことに怒ったと。つまり殺害現場のどこかに、篠田がしていた喜多川のネーム入りの時計が落ちているか埋まっている可能性があった」

西田はそこまで言うと、信号待ちで一旦頭を整理するために喋りを止め、ギアに手をやり、クラッチを踏み込んだまま1速と2速を行ったり来たりさせたが、すぐに話を再開した。


「そうなると万が一遺体発見と時計の発見がほぼ同時に起こると、喜多川が一番に疑われる可能性がある。勿論米田の殺害が発覚する可能性は、それほど高いとは思っていなかったので、それほど喜多川は当時怒り狂いはしなかった。事実、米田の殺害はこれまで知られることはなかった。ただ、そこに今回の遺骨採集騒動が起きた。喜多川としては、時計の発見と米田の殺害発覚が同時に起こることを避ける必要があったので、篠田から聞いていた、いや、もしかしたら生前の篠田と一緒に確認していた米田の遺棄現場を探し出して、最低限遺体の回収を図ろうとしていた。おそらく、同時に時計の再捜索も兼ねていたと。こういう考えでどうでしょう?」

と自分の考えを述べた。

「うむ。俺も全く同じ考えだ」

「しかし、そうなると問題もありますね。時計が仮に手元に戻らないままで、遺体と共に発見され、喜多川が疑われたとしましょう。しかし喜多川には確実なアリバイがありました。いざとなればこれを主張できる。米田の殺害時期はある程度曖昧ですが、奴がアメリカから帰ってくるまで生きていたというのは無理がありますから。時計が同時に遺体周りから出てきたとしても、これは絶対的な切り札です。今回の取調べでも、最初主張しなかったが、これを結局使っています」

「アリバイは実際かなり強力で、その意味はわかっていただろう。遺体と共に時計が出てきたとしても、盗られたとでも言って誤魔化す方法も普通にあったろう。ただ喜多川にとって問題なのは、おそらく8年前の佐田の失踪についても、篠田含め関わっている可能性があったということだ。自身の周辺を警察に探られると、『痛い』腹を探られることにもなる。これは是非とも避けたいもんじゃないか? だからこそ、時計も含め遺体を回収しようとした」

「なるほど。心理的に、やっかいなことは予防しておきたいという部分は理解できますね」

「時計の問題については、時計が警察という思わぬところから出てきて、喜多川にとっての当初の心配はなくなった。俺と竹下が、米田の事件で伊坂組を訪れて最初にコンタクトした時に、米田の殺害が表沙汰になった割に妙に余裕があったのは、そういう状況がさせたのかもしれない。あの日は確か7月1日だったから、喜多川が実際に時計を見せてもらって確認した後だ。あの状況では、米田の事件と喜多川と結びつく情報もなかったからな。しかし、時計から喜多川に直接振りかかる危機は回避できたが、米田の殺害事実自体は、西田達によって、米田の遺体発見と共に暴かれてしまったわけだ。今回アリバイの存在を最初から主張しなかったのは、それを主張すると、今度は事件に関係していない喜多川が、何故あの場所を知っていたのかというところを、俺達が当然突っ込むだろうからと考えると、これまた筋が通る。そうなると篠田から聞いていたであろうことをゲロしないといけなくなる可能性があった。そしてそれは場合によっては佐田の失踪の件まで及ぶかもしれない。色々都合が悪くなる。切り札を切っても、次のやっかいな問題が顔を出すということだ。それでも殺人犯として扱われるよりはマシという弁護士のアドバイスで、やっと警察にその件を訴えた。時計の件で富岡の起訴を止めさせたのも、事件化すると、事情聴取も本格的になるし、色々やっかいだと思ったんじゃないか?」

「確かに時計の件については、そういう推測も成り立ちますね。それにしても、アドバイスしたであろう松田弁護士は何処まで知っているんでしょうね?」

「それはわからない。何かマズイことを喜多川が抱えていることは、おそらく知っているんじゃないかと思うが……」

西田はその言葉に頷きながら、丁度信号が赤になったので車を止めた。そして、

「ところで、篠田が米田を殺害したとなると、問題はその動機ですね。2人の間に接点が全くない」

と話を変えた。

「そこだ。俺もそこを考えている。そこだけは喜多川の関与が疑われる前からの、『何故米田が殺されたのか』という大きな謎でもあるな……。しかし、以前からの見立て通り、米田が事件に偶然巻き込まれたとするなら、佐田の失踪事件と喜多川、篠田の関係……。何か繋がっていそうな臭いはプンプンする」

向坂は助手席の窓から吹き込む風に顔を向けながら話した。


「話のついでと言ったらなんですけど、佐田の失踪には今日の三田とか、伊坂組の他の連中は関わってたと思いますか?」

西田は以前より疑問に思っていたことを、話の流れで口にすると、

「少なくとも俺が捜査に加わっていた時には、それらしい話は出てこなかった。だが、捜査の強制打ち切り後に、今度の喜多川と篠田じゃないが、そういう関与の疑惑が出てきたわけだから、この時点で伊坂組の他の人間が関わっていないか、断定は出来ないだろう。ただ、三田についてはそういう臭いはしないな。あれは犯罪を隠すための饒舌さという感じはしない」

向坂はそう言って、視線をフロントガラスの向こうに戻した。


※※※※※※※


 午後の捜査会議を前に向坂と西田は、大友と倉野に時計の件を事前報告した。二人共昨日の聴取のせいか疲れた表情をしていたが、二人の新たな情報と推理を聞くと、かなり興味を示した。正直、寺島には向坂が許可を実質的に受けてはいたが、西田の参加についてはグレーであり、また大友捜査本部長などには一切許可を取っていなかったこともあって、ある程度文句を言われることは覚悟していた二人だった。


 だが、割と部下に優しい今回の捜査責任者の二人が向坂と西田を責めることはなかった。勿論、独自捜査が「結果」を出したからこそとも言えるが。特に倉野はこの報告についての関心と期待が高かった。詳細については会議で詰めることを示唆したが、会議の前に旭川西署に確認しておくと二人に告げた。ただ、篠田が米田殺害の張本人だとすれば、既に死亡していたということは、事件は解決できても警察としてはある意味負けを意味していたことを4人とも痛感していた。警察から書類送検はできても、検察が死亡者を起訴することは不可能だからだ。


 午後2時前に始まった会議では、道警本部の飯原監察官と刑事部長の遠山より、喜多川の勾留中の入院を受けた監察官聴取の結果がまず発表された。別件逮捕自体は、それ自体が本件逮捕出来るレベルとして十分適正であり、取調べでも大きな違法行為はなかったと言う結論が出された。但し健康に十分配慮していなかった可能性が問題になり、結果として高圧的な取調べをしていた道下が、地方公務員法に基づく戒告処分を受けた。

 

 一方、北見方面組では、大友と倉野が訓告、比留間が厳重注意という処分を受けることになった。あくまで結果責任を捜査責任者に負わせるという意味合いの処分であることは明白だった。道下の処分は法律上の処分だが、大友、倉野と比留間の処分については、あくまで法律上の懲戒処分ではなく、法的処分の必要性はないが、不問に付す程でもないという場合における名目上の処分であることが、それをよく示していた。


 道下は責任を取る形で、昨日の内に夜行列車で札幌に戻されていて、既に捜査本部には姿はなかった。大友捜査本部長始め、捜査本部の責任者である、倉野、比留間の表情は固かったが、明白な違反がなかったことは監察でも認められた部分もあり、そう暗いものでもなかった。多少は先程の「成果報告」が表情の「緩和」に役立っていたかもしれない。


 監察官による報告が終わると、大友が責任者として捜査員に一連の騒ぎの謝罪をした。それが終わると、喜多川の入院を受けた後の捜査についての討議が始まった、向坂がまず、時計の件を説明し、倉野がそれに対する捜査方針を提案する。


「向坂の話と考えは理解出来たと思う。あの状態になった以上、喜多川から何か聞ける可能性は、今後ほぼないというのが現実だろう。もはや最後の頼みの綱になるおそれすらある。今回の件はそういう意味ではかなり徹底的に調べておく必要があるだろう。当然捜査員も派遣しておきたい」

倉野はそう言うと、ホワイトボードの篠田について書かれた部分の下に富岡の名前を付け加えた。倉野が電話を西署に掛けた際に、富岡は既に複数の窃盗で起訴され、名寄にある拘置所(正式名称・旭川刑務所名寄拘置支所)に収監されているとのことだった。


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 逮捕された被疑者を取調べする場合、日本以外の国の多くは、警察署とは別の拘置所に勾留され、そこで警察による取調べを受けるというのがパターンである。一方、日本では警察署内にある留置場に留め置かれ、警察署内で取調べを受けるということが常態化している。いわゆる「代用監獄」問題である。弁護士会でもこれを長年問題視しているが、流れとは逆行するように、法律にすら明記されるようになり、改善する見通しは全く立っていない。


 しかしながら、さすがに勾留における取調べの結果起訴された場合には、余程のことがない限り、刑が確定するまでは拘置所に収監される。拘置所は警察ではなく法務省の管轄下にあり、ほぼ刑務所と同じ扱いである。拘置所に居た期間も刑の執行が行われた期間に算定するのは、こういう類似性も関係している。


 因みに死刑が確定した死刑囚は刑務所ではなく、拘置所で死刑執行を待つことになるが、刑務所ではない理由は、死刑囚の刑の開始(即ち刑の終了も意味する)は「死刑の執行」があって初めて成り立つため、それまでは刑が執行されていない「未決(判決が確定していない)囚」と同じ地位にあるということが、その理由となっているようだ。


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「向坂、おまえには旭川西署と名寄の富岡のところに事情聴取に行ってもらいたい。やはりこれについては、向坂が適任というか、資格があると思う。どうだ?」

倉野は向坂を富岡の聴取に指名したが、至って順当な考えだった。ここで北見方面本部の刑事を指名していたら、時計の件からここまで引き出した「功労者」を愚弄することになる。

「わかりました。全精力を上げて、富岡を聴取してきます」

向坂はきっぱりと言い切った。倉野はその後特に付け加えることはなかったが、何も言わなかったということは、当然相棒の竹下が一緒に行くことになるだろう。西田も竹下にとって良かったと感じていた。しかし、直後それは裏切られることになった。

「そうそう、向坂には今回は満島をサポートとして付けることにする。満島は北見の前は旭川西署に居たので、話を聞くのも色々と円滑にいくと思う。それが理由だ。そういうわけで、スマンが竹下は今回はこっちに残ってくれ。満島はよろしく頼む」

と倉野の口から予想外の発言が出てきたからだ。更に、

「そうだ、折角だから西田にも行ってもらうかな。今回のネタ発掘には西田も関わってたからな。3人体制は異例だが、今回は重要だからいいだろ。それで問題ないですね、本部長?」

と付け加えた倉野のお伺いに大友は黙って頷いた。


 一連の流れを見聞きしていた西田は、自分のことよりもまず近くにいた竹下の様子を窺ってしまった。竹下は特に不満そうな顔はしていなかったが、内心忸怩じくじたる思いがあるのではないかと西田は竹下を思いやった。捜査本部の方針に楯突いた竹下への意趣返しかともいぶかったが、大友と倉野がそこまで狭量な人物だとは思えない。単純に満島の起用は、倉野が言った通りなのだろうと解釈することにした。


「さっき確認したところ、富岡の公判が明日予定されているようだから、最速で明日8月4日の午後に旭川西署、明後日に名寄という日程が良いかと思う。会議の前に向坂達から聞いた時点で、西署とは簡単な打ち合わせはしておいたが、後でもう一度きちんと詰めておくから、その後また3人には連絡させてもらう。というわけで急で申し訳ないがよろしく頼む」

倉野はそう短く言うと、次の議題である喜多川の病状の説明と聴取続行可能性の話題に移った。


 捜査会議終了後、西田は竹下に、

「スマンな」

と一声掛けたが、竹下は、

「係長が謝るようなことはないですし、自分も別になんとも思ってませんよ。倉野さんの言うことも理屈はあってますから」

と特に気にしていない口ぶりだった。

「それならいいんだが……」

西田はそれ以上言及するのもかえって悪いかと考え、この話はもうやめようと決めた。


 その後、向坂と西田は満島と軽く打ち合わせをすることにした。満島は当初より捜査本部に居たが、向坂と西田は勿論、遠軽署のメンバーとも直接絡むことはなかったので、お互い顔を知っている程度の関係だったからだ。


 満島は西田より若干若い35歳で、昨年まで旭川西署の捜査一課に居た、富良野出身の刑事だった。刑事としてのキャリアは8年程度で高卒採用のようだったが、なかなか理知的な考えの持ち主のように西田には思えた。ひとまず、性格もさっぱりしたタイプで、付き合いが短くても、コミュニケーションが難しいタイプではないことは確実だった。最終的に倉野と西署、名寄拘置所の打ち合わせで、当初の予定通り、明日午後に西署、明後日に名寄拘置所と立ち寄ることが決まった。


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 翌日8月4日、北見から向坂と満島が車でやってきて、遠軽署で西田を拾い旭川に向かった。この日は快晴で爽やかな北海道らしい夏空が上空には広がっていた。国道333号を旭川に向け、丸瀬布町(合併により現・遠軽町丸瀬布)、白滝村(合併により現・遠軽町白滝)を通り、段々と人気の無い光景が広がり始める中、ヘアピンカーブの多い急な上りの道を進むとやがて、標高857mの北見峠に出た。


「ちょっと休憩しようか」

向坂が北見からずっと運転している満島を気遣ったか、一息入れることを提案した。峠のパーキングエリアに車を駐めると、西田達以外には誰もおらず、閑散としていた。売店も閉めきったままで、交通量の少なさを物語っていた。旭川から北見に向かう場合、一般的には国道39号で層雲峡から石北峠を通り、留辺蘂を抜けるルートが通例であり、わざわざ北見峠を通る車は皆無と言って良いからだ。こちらを通るのは、遠軽や湧別方面と上川町や旭川など、相互に住居や用事がある人間だけだろう(作者注・現在は、並行して北見峠下をトンネルでパスする旭川紋別自動車道が開通しており、更に333号を通る車は少なくなっているようです)。3人は各々、身体を伸ばしたり曲げたりしつつ、眼下に広がる広大な樹海の姿に目を見張っていた。

「北見峠は久しぶりに通ったが、相変わらず凄いな」

向坂は一服しながら感嘆の声を上げた。

「夏もいいですけど、紅葉の時期はもっと良さそうですね」

満島も相槌を打った。西田も遠軽に来てから何度か通ったが、峠で休憩したのは初めてだったので、峠の絶景を十分堪能していた。ただ、西田が峠にある石碑に目をやるまで、それほどは時間は掛からなかった。西田が近くまで寄ってみると、「中央道路開削 殉難者慰霊の碑」と大きく刻まれた石碑の下に、北見峠を通る、当時中央道路と呼ばれた道路建設の経緯と歴史が説明されていた。

http://bellac.web.fc2.com/Resized/ktouge.htm


「囚人道路の話だな……」

碑文を見ていた西田の後ろから声がした。留辺蘂出身の向坂にとっては、割と馴染みのある話のようだ。言われてみれば、西田も小学校時代に、北海道の開拓史のようなものを軽くやった際に聞いたことのある話だ。更に遅れてやってきた満島もなんとなくは知っていたらしい。


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 囚人道路とは、明治時代に対ロシアを意識した札幌から北見へ抜ける軍用道路の建設に、当時の釧路集治監網走分監(現・網走刑務所)と樺戸集治監(現・月形刑務所の前身。但し、歴史上は一度途絶えて戦後の復活である)の囚人を利用したことに由来した命名であり、中央道路、北見道路などの他称である。人跡未踏の地を短期間に開削して開通させたため、大量の犠牲者を生み、遺体は周辺に乱雑に埋葬するなど、非人道的な工事が行われた。戦後を中心に歴史の掘り起こし過程を経て、慰霊などが広く行われるようになった。後の常紋トンネルを始めとする、北海道のタコ部屋労働の起源になっているという説もある。

http://www.kangoku.jp/data2.html


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「北海道の開拓はこんなもんばっかりだな。今回の常紋トンネルもそうだけど……」

西田はなんとも嫌な気分になったが、

「そりゃそうだろ。こんなだだっ広く、木に覆われ、冬は厳しいところを一気に開拓したんだからな。無理が通れば道理が引っ込むって奴だよ」

と言う向坂の一言に納得せざるを得なかった。ただ、おそらく囚人道路の建設当時から変わっていないであろう北見峠からの眺望の良さが、何故か西田の心に沁みた。


 昼前には3人は旭川西署に無事到着することが出来た。満島の案内で玄関から署内を、館林刑事のいる、窃盗犯・詐欺犯を管轄する捜査二課へと向かう。廊下や階段を通っていると、さすがに1年前まで所属していただけに、顔なじみから声を頻繁に掛けられる満島だったが、約束の時間までには余裕があるものの、同行している向坂と西田に気を使ってか、気不味そうに、

「お久しぶりです。申し訳ないが、今ちょっと急いでるんで……」

と何度も繰り返す羽目になっていた。さすがに向坂が、

「ここまで来たら部屋はわかるから、先に行って待っていてもいいぞ?」

と気を使ったが、

「いやいや、そういうわけにはいきません。仕事で来てるわけですから」

と遠慮した。


 捜査二課の応接室でお茶を飲みながら館林を待っていると、すぐに館林は部下の永野を連れて現れた。館林は50代のベテラン捜査二課盗犯係長、永野はまだ若い平刑事だった。満島は西署では捜査一課だっただけに、両名とは特に深い付き合いはなかったようだった。同業者にありがちな通り一遍の挨拶を交わしながら会話に入った。


「それにしても、まさか盗品が殺人事件に関係してくるとは、富岡捕まえた時点では想像だにしなかったですよ。ニュースでは大体のところは聞いてましたが、北見方面本部から連絡受けて驚きましたね」

館林は、そう切り出した。

「今回の事件は事件の端緒から色々ありまして、難儀してます。今回は隣にいる向坂刑事の機転で発覚しまして」

西田はそう返した。しかし、向坂は流れを一度切るように

「では、まず富岡逮捕の経緯をお願いします」

と聴取の口火を切った。

「3月に仕事を辞め無職だった富岡は、所持金が少なくなってきたので、6月の18日にまず第一の被害者宅に押し入り、金銭とクレジットカードを盗みだしました。その後、22日ですか、第二の被害者宅に押し入り、通帳と宝石類を盗って外に出たところで近所の人間と遭遇、そこから通報を受け、緊急手配をしたところ、4時間程後、当署員により職質を受け緊急逮捕という形です」

永野が答えると、それに館林が、

「そして24日の家宅捜索を受けて、幾つか窃盗をして保管していたものと思われる、数点の物品を押収。その中に、今日訪ねて来られて原因となった、喜多川の高級時計があった、そういうことですね。簡単に時計について富岡に聴取した上で、盗品であることを確認しまして。ただ、富岡が主張した盗んだ相手と盗品の本来の所有者と思われる人物が違ったりしたこともあって、色々確認する必要がでました。それで26日に喜多川に確認の電話をし、28日に捜査員二人を北見に派遣、本人が起訴を希望しなかったので、事実上この件については不問ということで、その後証拠品を返還ということです。ここら辺はそちらさんもご存知でしょうが……」

と付け加えた。

「大体の流れはわかりました。で、喜多川と北見で会った二人のうち一人が永野刑事?」

「はいそうなります」

向坂の質問に、若手らしくハキハキと永野は答えた。

「会ってみてどうだった?」

西田が会話に加わる。

「どうと言われましても……。個人的な印象ですが、かなり上機嫌だったようには思います。高い時計が数年、えーっと、確か3年ぶりだとか言ってましたから、まあそういう気持ちになるのは理解できるかなと、その時は思いましたが」

永野は頬を指で掻きながら、必死に記憶を絞り出そうとしているように見えた。

「起訴をしないように希望したということだけど?」

今度は向坂が聞くと、

「はい。時計を見せて確認してもらった後、そういうことを言い出しました。ただ、実はこちらとしても助かったというか……」

と口ごもる。そんな若手をフォローするように、館林が補足した。

「つまるところ、富岡に確認した時点で、どうも湧別町で篠田という人物から盗んだという話でね……。そういうことは、結局所轄が違ってくると。湧別なら、それこそ西田さんとこの遠軽署の管轄でしょ? しかも裁判所と検察の管轄も旭川(旭川地裁)と北見(釧路地裁北見支部)で違ってくる。これはうちの処理としても面倒だなと。だから喜多川が起訴を希望しなかったということは、こっちにとっても渡りに船って奴でね、他の押収物が全部うちの管轄内だったことあって」


 昨日の伊坂組での聴取時点で、時計が湧別町で篠田から盗られた可能性が高い点については理解していたが、確かに西署の目線で考えると、そのことが色々面倒な事態を生み出しかねないことは明白だった。


「あー、わかりますね。あれ引き継ぎとか連絡とか面倒でね。そうですか……。その点については喜多川が言う前に説明したのかな?」

「向坂さん、私としてはそういう誘導はさすがにしてません。相手が起訴しないようにするのは、警察官としてはあっちゃいけないことでしょう?」

永野の言うことは至って正論だった。確かに警察官が被害者に告訴しないように誘導することはあってはならない。あったとしても、それなりの理由であるべきで、警察の手間などを理由とするのはもっての他である。言うまでもなく窃盗罪は告訴を必要としない、つまり親告罪ではないが、警察としても被害者が起訴を望まない場合には、立件化しないケースはある。


「と言うことは、喜多川は純粋に自分の意思表示として事件化を嫌がった、ということでいいですね……」

西田はメモを取りながら、確認するように言った。

「喜多川が起訴しないように言ったという話は、富岡にしたんですか?」

満島が先輩刑事二人が質問しないのを見計らって、やっと口を開いた。

「ええ、北見から帰ってきた後しました。こっちが『感謝しとけよ』と言ったら、『あいつは悪い上司じゃなかったからな、篠田と違って』みたいな憎まれ口を叩いてましたよ」

3人の刑事は、永野の話からも、篠田が余り好かれていなかったことを理解した。

「それで、富岡が時計を篠田から盗ったのはどういう状況だったか、こちらでは聴いたんですか?」

「向坂さん、起訴しないということが決まったんで、その前までは大体のことは聴いてましたが、そちらが要求するレベルでの話は、名寄で本人の口から聴いたほうがいいと思いますよ。必要なら聴取した際の資料お見せしますが」

館林は向坂にそう答えると、向坂は、

「いや、仰るとおり本人から聴いたほうが良さそうですね。明日こちらで聴くことにしますわ」

と告げた。


※※※※※※※


 旭川西署での担当刑事からの聴取は、さすが同じ刑事の間で行われただけに、一切無駄なく進み、思ったより早く終えることが出来た。一方で、事件に直接結びつくような話は、翌日の富岡への直接聴取に期待せざるを得ない程度の成果しかなかった。


 その後は刑事同士の井戸端会議のようノリの会話に終始したが、さすがに都市部の警察だけに、忙しい様子が見て取れたので、無駄な時間に付き合わせるわけにもいかず、早めの退散を西田達は選択した。遅い昼食を旭川ラーメンの老舗で取ると、満島の案内で旭川市内を軽く回った。本日中に拘置所の富岡に聴取するのは無理なため、やるべき仕事は既に終わったこともあった。観光気分というのは不謹慎だったが、休日返上で捜査に当たってきた刑事達にとってみれば、束の間の休息だったことは否定できない。


 夕方になると、本日の名寄の宿泊先に向かうため、ようやく旭川市内を後にした。大雪連峰を右手後方に見ながら、3人の車は一路北へ進んだ。


※※※※※※※


 名寄市は旭川から70キロ程北にある、旭川同様盆地地形の道北の中核市である。地形の影響で、夏暑く、冬寒いという典型的な盆地気候である。自衛隊の駐屯地もあり、そういう点でもミニ旭川と言えるかもしれない。産業は基本的に農業であり、もち米の生産で有名である。


※※※※※※※


「それにしても拘置所はなんでわざわざ名寄に作ったんだか。以前旭川に居た時にもよく思ったもんだが……」

向坂の言うことももっともだった。確かに北海道第二の都市に拘置所がなく、70キロも離れた場所に拘置所があるというのは、理解できない設定だ。普段「代用監獄」を批判する弁護士ですら、旭川市内の所轄に勾留されている方が、接見には便利だと内心思っているかもしれない。西田も旭川勤務の経験はないが、先輩の刑事から、そういう話は聞いていただけに、向坂の指摘には同意せざるを得なかった。


 そうこう話している間に三浦綾子の小説「塩狩峠」で有名な、国道40号の塩狩峠を越え、旭川から2時間程で名寄市内に入った。夏真っ盛りとは言え、7時過ぎになるとそろそろ夜の帳が下りる時期になってきていた。気温も盆地らしく、ウインドウを開けていると、半袖だと少々肌寒く感じる程にまで低下していた。途中霧雨も降ったりした。名寄市内に入ると程なく市内中心部の予約していたビジネスホテルにチェックインした。そしてホテルから捜査本部に聴取の報告書をファックスで送り、当日の業務を終えた。その後は名寄市内の繁華街に繰り出し、夕食を済ませると、3人は明日の職務に支障をきたさない程度に飲み、親睦を深めた。


※※※※※※※


 8月5日の午前中、宿泊先をチェックアウトし、3人は名寄拘置支所に出向くと、収監されている富岡との面会を果たした。3人の前に、刑務官に連れられて不貞腐れたような態度を取りながら富岡は現れた。刑事たちの自己紹介が終わると、開口一番、

「北見の刑事さんが俺に何か用ですかね? 捜査で来たらしいけど、時計の件はお目こぼしいただいたはずですが?」

と半分憎まれ口を富岡は叩いた。

「別にお前を捕まえようとして来たわけじゃないから安心しろ」

西田はそう諭すと、

「篠田から時計を盗ったのはどういう状況だったか、前後から詳しく教えて欲しいんだ」

と富岡に頼んだ。

「そんなもん、起訴されなかったんだから今更言いたくもないけどなあ」

と相変わらずの富岡だったが、

「殺人に関係してくる大事な話なんだ。ふざけてる場合じゃないんだ!」

と向坂に軽く凄まれると、

「殺人!? ホントかよ……。なんだかよくわからねえが、刑事さんがそこまで言うなら仕方ねえな……」

と半ば諦めたようにポツポツと語り始めた。

「あれは3年前の8月の話だったかな」

その時点で向坂は話を遮り、

「それは具体的に何日だったか憶えているか?」

と聞く。

「いや、そこまでは憶えてないな。盆休みの前だった記憶はあるけど」

「8月10日じゃないのか?」

満島も問うが、

「言われてみればそんな気もするが、はっきりとはわからん」

富岡は首を横に振って断定は避けた。ここについての富岡の確信は、証言の信憑性について大きな問題にならなかったので、3人はそのまま話を流した。

「話を続けるぞ、いいな? 俺が公共事業で湧別の橋の補修工事に伊坂組の一員として従事してた時に、工事が遅れて盆休みに入るのも遅れたんだ。それで役員の篠田が昼前に様子を見にやって来た。あいつは部下に結構厳しかったから、嫌われるタイプだったんで、みんな煙たがってたが、来てからそれほど時間も経たない内に、突然大急ぎで出て行ってたんだ。仲間と一緒に、『邪魔な奴が居なくなった』とちょっと喜んだんだ。で、来た時は背広で、会社の役員専用の黒塗りの高級車で来ていたはずが、作業服に着替えた上で、現場にあったジープを借りて出て行った。それからかなり経って、その日の作業が終わった直後に戻ってきたんだ。確か作業は毎回夕方6時には終わってたはずだから、6時前後なのは間違いないと思う。なんか疲れた顔してたな」

注目すべき話をいきなり富岡がしたので、3人は緊張感をみなぎらせて聴き入った。

「そのジープの話と着替えの話は本当なんだろうな?」

西田は事件にとってもかなり関係してくる話だけに念を押した。

「そんなに疑うんなら、当時の現場監督とか同僚とかにも聞いとけ。今更嘘言ったところで、俺にメリットがあんのか?」

顔と目線を横に向けて、呆れたような表情を浮かべた富岡に、西田は思うところがあったが、機嫌を損ねて事実関係を捕捉できないことの方が重大な問題だ。そこはグッと我慢して別の質問を投げかけた。

「確かにその通りだな。それでジープは誰のモノだかわかるか?」

「ちょっと誰のモノだったかの記憶は飛んでるわ、悪いけど……。色は憶えてる。赤だ」

「わかった。そこは憶えていて欲しかったが仕方ない。じゃあさっきの話の続きを頼む」

「じゃあ続けるぞ。そして再び事務所で背広に着替えて、来た時の高級車で北見に戻っていったんだ。ところが、事務所のロッカールームにやけに高そうな時計が落ちていたのを俺がいち早く見つけたんだ。自分で言うのもなんだが、俺は手癖が悪いから、他の同僚に見つからないように、すぐにそれを作業着のポケットにしまい込んだ。その時はよく確認しなかったが、おそらく篠田の時計だろうと考えてた。で、その後ばれないように青いゴミビニール袋に入れて、現場の土の中に埋めといたのさ。後から回収するためにな。案の定、翌日の午前中にまた篠田がやってきて、『時計をこっちに忘れていかなかったか?』と騒いでた。盗られた可能性も考えたか、現場監督の反対も押し切って、俺ら作業員や下請けの連中の所有物まで調べたが、それぐらいのことは事前に予期してるっての。で、昼過ぎに帰っていった。」

富岡は不敵且つ憎たらしい笑みを浮かべたが、すぐに話を継ぐ。


「ところが、その更に翌日の朝も来たんだよあいつは。で、さすがに俺達を疑っても出てこないことは、前日にわかってたから、俺らについて調べるなんてことはしなかったが、結局その日も前日に探したところをまた自分でひっくり返して探してたみたいだな。この日は、昼前には出て行ったように思う。とにかくその日で工事が盆休みに入ったんで、さすがにその後は諦めたみたいだったな。まあざまあみろって奴だよ。だが、悪いことはそうは上手くいかないもんだ。盆が明けた後、時計を回収したら、なんとそこには『喜多川』の名前入りの時計があったって奴。何故か知らんが、喜多川の時計を篠田がしていたんだな。さすがに名前入りの時計を売るわけにはいかなかったが、今更返すのも無理なんで、ずっと自分で持っていた。それが最近の窃盗事件でバレたって落ち。これが俺の知っている話の顛末だよ。これでいいか?」

「作業着はどうだ?前日より汚れてたか?」

「さっきの話もそうだけど、いちいちそんなところ見てないからなあ。目立つ汚れでもついてりゃわかるだろうけど。そもそも、前日と同じ作業着だったかもわからないし、洗濯してたかもしれないだろ?」

向坂の質問に苛ついた口調になったが、まあ言わんとすることは理解できた。しかし刑事としては色々なことを潰しておく必要があるのだから、向坂の言動は当然のことだ。


 それにしても富岡の話は、伊坂組で聴いた工事日誌からわかった篠田の行動日程と一致していた。それを考えれば、篠田が時計を盗まれたのは8月10日で間違いないと思われた。そして時計を富岡が手に入れた経緯は、篠田の妻から聞いていた「モノを失くす癖」そのものだと西田は思い返していた。事務所に戻ってきたのが、現時点では多少飛躍がある推理だが、米田を殺害した後だとすれば、慌てていただろうことは想像に難くない。そういう意味では、普段より更にモノを失くしかねない精神状況だったはずだ。


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