終章

第261話 終章1 (16~17 時を経て2016年春)


 2016年3月25日金曜日の午前8時過ぎ。3月末で晴れているとは言え、氷点下5度を下回る気温の最中さなか、北見市留辺蘂町昭栄地区、通称温根湯地区にあるホテル松竹梅のエントランスから、1人の初老の男がタクシー乗り場に出て来た。因みに余談ではあるが、温根湯地区のある旧・留辺蘂町は、2006年の3月5日から北見市に吸収合併されていた。同様に遠軽町は、2005年10月1日を以て、旧・生田原町、旧・丸瀬布町、旧・白滝村を吸収合併した形になっていた。


 話を戻すと、その男の出で立ちは、ニット帽を被り、ダウンジャケットを着て、ズボンは耐寒用の厚手のものを履いていた。更に、靴は丈の長いスノーブーツでリュックサックを背負っており、とても温泉宿に宿泊した旅行客とは思えないもので、せいぜい地元の湯治客にしか見えなかった。


 男の名前は西田敏弘。現在の立場は、北海道警察・旭川方面本部・刑事部・捜査一課長である。ただ、今年度末の3月27日を以て、現時点で59歳ながら1年早目の退職をすることとなっており、今は有給休暇の消化中でもあった。


 西田は2003年以来、道警の第一線の捜査官として出世し職務に励んでいた。しかし定年間際になって、やや燃え尽き気味になったことに加え、現在は組織のかなり上層に位置し、自分の信じる正義だけ追及していれば良いという訳でもないことがどんどん肥大化していた。つまり、組織防衛を心ならずも考えなくてはならない立場でもあり、色々と悩みも大きくなっていたのだ。そのせいもあり、自分のこれからの人生を改めて考える必要性を感じ、早期退職することを決意していたのだった。


 本来であれば、西田の最後のポジションからして、早期退職であれ、それなりの再就職先も見つけられたはずだが、敢えて何も決めないままで道警を去ることとしていた。


 最初に妻の由香に相談した時は、かなり驚かれたものの、特に異論も挟まず夫の発作的な決定をそのまま受け入れた。その理由としては、娘の美香が既に独立して結婚していることに加え、西田が人知れず悩んでいたことに勘付いていたこともあったのは間違いない。


 ただ、由香自身が3年前から、趣味だったハーブティーについての知識を利用して、知り合いがやっていた自宅近くの札幌市中央区旭ヶ丘地区の小さな喫茶店を受け継ぎ、ハーブティー専門の喫茶店を始めていたことも大きかったに違いない。特に儲かっているという訳ではないが、既に老後のやり甲斐と生き甲斐を見つけていた妻からすれば、年金が出るまでの生活や、これから日々長時間顔を突き合わせることになるだろう、腐れ縁の伴侶の存在は、それ程気にならなかったということなのだろう。それどころか、暇になったら店を手伝うようにと、西田は古女房から笑いながら提案されていた。


 職場や道警側からはかなり驚かれたものの、それなりに名を知られた歴戦のベテラン刑事とは言えども、所詮は「ワンオブゼム」に過ぎず、一定期間過ぎれば慰留の声も小さくなり、退職は既定路線として扱われた。むしろ天下りとしての再就職をするつもりがないことを、「再考すべき」という声の方が長期間続いていたのは皮肉だった。


 一方で、西田自身の第2の人生に対するモヤモヤ感は、退職が内定した後も、全く払拭されていなかった。そして今月23日に、既に戻っていた札幌の自宅から、特急オホーツク1号で北見に入った際、途中の遠軽駅のホームから1年弱振りに見た瞰望岩は、薄曇りということもあって、余りスッキリとは見えなかった。否、それはただの事実であると同時に西田にとっての「印象論」であり、これまでの瞰望岩を見てきた時と同様、やはり西田自身の心境が色濃く反映されたからという方が正確だったかもしれない。西田も「さもありなん」とだけ呟き、一度降りたホームから再びオホーツクの車内へとスゴスゴと戻っていた。


 因みに今回、北見にやって来た理由は大きく2つあった。まずは退職の報告を、亡き北村と奥田の墓前にすることであった。


 到着初日の23日中に、北村刑事の墓参りを、警備会社からも完全にリタイアしていた向坂と共にしていた。向坂は早期退職以上に再就職しないことに大層驚いていたが、特に何かアドバイスしてくることもなかった。この年齢の相手の決めたことに、今更とやかく言っても仕方ないという考えだったのだろう。


 因みに、向坂も95年の捜査中、遠軽と北見の行き来の中で金華の慰霊碑をたまたま訪れた際に、同行していた竹下と一緒に水上の霊と遭遇していた(作者注・この遭遇についての本書の直接の記載は、1995年11月11日のカラオケ店での竹下による言及のみです)。そして霊の正体が警察OBであったことを、沢井から詳細を聞いた西田に03年の春に教えられると、相当驚いたものの、同じ留辺蘂出身の刑事だったこともあり、ある種の親近感すら覚えていた模様だった。


 さて、北見市内中心部のホテルに宿泊した翌日の24日には、捜査で大変世話になった奥田老人の墓参りを西田1人で済ませた。だが、こちらは親族が地元におらず、雪が積もったままだったので、雪かきまで自分でする羽目になり、少々苦労もしていた。しかし、今の西田の格好が表している様に、雪中での作業にも十分耐えられるべく用意していたことが功を奏していた。


 そして、やっと開けた墓前で手を合わせた西田の脳裏に、在りし日の饒舌な奥田の姿がはっきりと思い浮かび、それと連なる様に、一連の事件捜査に奔走していた頃の熱い想いも、退職間際になって改めて蘇っていた。昨日の北村の墓前では、横に向坂が居たこともあり、感慨にふける余裕が無かったのだろう。そして、迷いの中にこそあったが、最後の最後まで、刑事としてそれなりに警察官人生を全う出来たことに、ここに来てようやく多少の満足感が湧いていたことも事実だった。その後は、訓子府町からそのまま留辺蘂地区のホテル松竹梅までタクシーでやって来て、宿泊して今に至っていたのだ。


 本来であれば、ホテルのオーナーでもある松重・常紋トンネル調査会長と会えると思っていたが、アポも取らないまま来た為、彼が心臓の持病の治療で旭川で入院中だと一切知らず、結局会えなかった。とは言え、昨年妻の由香と共に正月休みに宿泊した際には会っており、仕方ないと簡単に諦められる程度の気持ちでホテルを後にしていた。尚、ホテル自体は既に4代目である息子が5年前に実質的に継いでいたので、松重会長はホテルの経営の、あくまで補助という立場に徹しているようだった。


 西田は、客を待っていたタクシーにすぐに乗り込むと、

「金華駅まで」

とだけ運転手に告げた。中年の運転手はその言葉を聞いて、やおら振り返ると、

「お客さん、今、金華駅って言ったかい?」

と、怪訝な顔をしながら確認してきた。

「ああ、金華駅まで行ってもらいたい」

再び同じ言葉を繰り返したが、

「JRの金華駅だよね?」

と運転手もしつこく尋ねてきた。

「そうそう、それでお願い」

少し苛立った言い方だったが、表情を変えることはなかった。運転手ははっきりと確認が取れたので、車を静かに発車させたが、国道39号に出て1分程すると、突然話し掛けてきた。

「お客さん、金華まで行くってことは、地元の人かい?」

西田の格好を見て、観光客とは思えず、特に何か「観光資源」がある訳でもない金華地区まで行こうとしているので、地元に人間と勘違いしたのかもしれない。


「いや、札幌。……もっとも、正確に言えば、つい最近まで旭川だったが、札幌に戻って住むことになるけど」

回りくどい返事の内容については意に介さず、

「じゃあ、金華に親類でも?」

と更に食い下がってきた。

「否、住んだこともなければ親戚も居ない。ただ、昔仕事の関係でちょっと縁があってね……」

「ふーん、そうかい」

運転手はそう言ったまま、やっとしばらく黙ったが、

「ここでタクシーの運転手になってから10年ぐらい経つけど、あそこは年に1回行くか行かないかぐらいで、珍しいもんだから、思わず色々聞いちゃって申し訳ないね……。まして温根湯温泉から乗せるなんてことは、まずないから」

と、根掘り葉掘り探ってきた理由をバラした。


「まあ、あそこは俺が知ってる14年ぐらい前でも既に、ほとんど人が居なかったからなあ」

西田もそう応じて、昔のことを軽く振り返っていた。

「へえ、じゃあお客さんも、しばらく金華には行ってないんだ? じゃあまた何で今日は?」


 タクシー運転手には、客と世間話したがるタイプも居れば、自分から話し掛けることは滅多にないタイプも居るが、この中年の運転手は、良くも悪くもズカズカと踏み込んでくるタイプらしい。かく言う、踏み込まれている側の初老の男も、職業柄、人の私的な領域に踏み込まざるを得ない局面も多く、人のことをとやかく言える立場ではなかったが……。


「明日(2016年3月26日)、北海道新幹線が函館まで来るんで、JRのダイヤ改正があるでしょ? その改正に伴って、金華駅が今日で廃止されることになったんで、以前仕事であそこに縁があったから、最期を看取ろうと思ってね……」


 まさに、西田が退職間際にわざわざ北見までやって来た最後の理由が、実はこれだった。そして、西田が早期退職を決意した決定打もまた、2015年の年末に道報に載った「金華駅廃止決定」の記事を見たことだった。


 金華駅そのものは、西田にとって縁が深いとまでは言えなかったかもしれない。ただ、刑事として新たな思いを抱く切っ掛けとなった、そして水上との出会いの場でもあった、タコ部屋労働者の慰霊碑の最寄り駅が無くなるという意味は、西田にとって決して小さくはなかったのだ。


 西田自身は読書家でも何でもないが、中学生時代だったか、その頃に読んだ夏目漱石の名著「こころ」を読んだ時の感情が、その時不意に蘇っていた。作中に登場する「先生」が、乃木希典が明治天皇の崩御に際し、明治という1つの時代の終わりに臨んで殉死という道を選んだことに触発され、青年時代に自殺した知人(作中ではK)の死の原因を作り出したことへの自責の念から、突如自殺するというストーリーに、多感とは無縁の西田らしくもなく軽いショックを受けていた。


 そして現在いま、「先生」にとっての、明治時代と共に去った乃木の殉死が、西田にとっては刑事人生に大きな影響をもたらした金華駅の廃止の報であり、「先生」の自死の決意は、近年抱きつつあった、「この先の人生どうすべきか」という漠然とした西田の悩みがその輪郭をあらわにし、「刑事人生をリセットしても、しっかりと向き合う必要がある」と、腹を決めたことに相当していたのだった。


「ああ、あそこ今日で駅が無くなるんですか……。まあねえ……。あそこじゃ客も乗らんだろうから当然か……。お客さんは鉄道マニアなのかい?」

運転手は田舎の人らしく、相変わらずやや馴れ馴れしい言葉遣いで聞いてくる。

「そういう訳じゃないけど、縁がある駅だったから、最後の日に駅を利用したくてね……。実は駅で直接乗り降りしたことは一度も無かったんだけど」

「以前仕事であそこに縁があったから」という、直前の話を無視されたので、もう1度繰り返す羽目になったが、既にしつこく聞かれることへの耐性が出来上がっていたので、苛立つことはなかった。


「でもそれなら、JRで行って降りれば良かったんじゃないの?」

相変わらず食い下がってくるが、いちいち「話し掛けるな」と文句を言うのも面倒なので、

「それはそうだけど、停まる列車が少ないから、列車で行って降りてまた乗ろうとすると、間隔が開いちゃって時間がかなり無駄になるからね……。それだったら、駅まで行く時はタクシーで、乗る時だけJRを利用しようって予定にした訳で」

と、しっかり行動の理由まで説明した。

「確かに特急もあそこは停まらないからね」

説明に納得したのか、運転手はそのまま黙って運転し、交差点で国道39号から国道242号へと左折した。


 旭川と北見を結ぶ主要幹線道路の国道39号までは、交通量もそれなりにあったものの、金華駅へと向かう国道242号は行き交う車もほとんど無かった。左折してから5分も掛からずに金華駅へと着いた。既に明らかに鉄道ファン、具体的に言えば、今で言うところの「葬式鉄」というジャンルのファンなのかもしれないが、カメラを抱えて駅周辺をうろつく若者や中年の男性が数人視界に入って来た。おそらく網走発の始発普通列車に乗って、午前8時前後にやって来たのだろう。西田は料金を払って駅前で降りると、金華駅のバラック小屋の様な駅舎を一瞥しただけで、タクシーが242号から金華駅に向けて入ってきた小道を、再び242号の方へと戻って行った。


※※※※※※※


 金華駅は、常紋トンネルが開通した1914年10月5日、湧別・軽便けいべん線(軽便鉄道とは、通常の鉄道よりも線路の規格が狭いもの)の留辺蘂駅と下生田原駅間開業に伴い、奔無加ぽんむか駅として開業した。尚、2年後には日本の通常の規格の線路(いわゆる国際基準では狭軌)で敷設し直している。


 1949年6月1日付けで日本国有鉄道(国鉄)に移管し、1951年7月20日に金華駅と改称し。1983年に無人化。


 1987年4月1日にJR北海道へ移管し、過疎地域であり、長年の間乗降客がほとんど居なかった為、2016年3月25日にて旅客駅としての取扱を廃止。翌3月26日より信号場(単線区間で、列車の行き違いを可能にする為にその部分だけ複線となっている施設)へと立場を変えることとなった。


※※※※※※※


 道すがら、2002年よりやや増えた廃屋を目にしながら、金華駅の廃止に続き、この金華の集落自体もまた、20年もすればおそらく完全な無人地帯となるのだろうと、西田はぼんやりと考えていた。そして更に100年もすれば、開拓時代以前の、アイヌ人が野山を自由に駆け巡っていた頃の原生林へと完全に戻ってしまうのかもしれない。しかし、既にそのアイヌ人は、和人の中に血統的にも文化的にも埋没させられ、戻るのはあくまで環境だけだというのは、何とも虚しいものがあった。


 金華駅から200m程歩いて国道242号まで出ると右折し、「常紋トンネル工事殉難者追悼碑入口」と書かれた白く細長い標識をすぐに視認すると、スタスタと早歩きになった。


※※※※※※※


 その時、突然スマホから着信音が流れ、SNSの遠軽署OBのグループに吉村からの新着メッセージが入っていた。


 それには、「西田さんの退職記念に、札幌在住メンバーで慰労会を4月の中旬に開きたいと思います」とあった。ありがたい提案ではあったが、皆それなりのポジションにあり、札幌に居る、吉村、竹下、小村、大場の全員が集まることが出来るかは疑問だった。尚、他のメンバーも相変わらず元気で、沢井も70を越えても意気軒昂だ。また、あの後沢井からは、この慰霊碑と水上の墓前に挨拶しに行ったと西田は聞いていた。


 現在吉村は、札幌東署の刑事一課長(作者注・道内の大規模所轄は、近年捜査一課ではなく刑事一課呼びになってきている模様)になっていた。遠軽署時代を思えば、西田は勿論のこと、吉村も「あの成果」が理由となってかなり出世したのは間違いない。ただ吉村としては、余程のことがなければ、道内主要都市の所轄刑事課長、つまり今のポジション辺りが打ち止めだろうと考えているらしい。それでも、多くの警察官がここまで昇進出来る可能性はほとんどない訳で、本人も出世具合に納得しているのは間違いなかろう。


 一方の竹下は、3年前に道報を退職し、未だ一線の場で活躍している高垣真一に弟子入りする形で、札幌在住のままでフリージャーナリストとして活動していた。高垣はあの後、約束通りタコ部屋労働を今に伝える為、「辺境の墓標」を執筆出版し、これまで3万部程度売り上げていた。高垣曰く「残念な話だが、この手の本で3万得れば相当上出来」と自嘲気味に語っていたが、評判自体は上々だったらしく、その点については本人も気を良くしていた様だった。


 ところで、西田や吉村が出した大島海路を検挙するという成果で、道警が得た世間的な名声は、前年に起きた岩田事件(作者注・既に作中で触れましたが、いわゆる「稲葉事件」で検索してください)の全貌が2003年の2月辺りから明らかになって来ると脆くも崩れ去って、むしろ批判へと傾いていた。そしてそのことは、竹下の居る北海道新報をも巻き込んで行ったのだった。


 岩田事件の「主要人物」である岩田・元警部は、2002年の夏に覚醒剤使用や密売で捕まるなど、それなりに大きな警察官の不祥事として認識されてはいたものの、その時点では「個人の犯罪」という意味合いが強かった。しかし、2003年の2月から公判の中で岩田が暴露し始めたことが公になり、大々的に問題になり始めた。


 銃器摘発による点数稼ぎ目的で、捜査協力者(いわゆる「エス=S(スパイ)」)であるやくざに持ち主不明の拳銃(いわゆる「首なし拳銃」)を提供させ、捜査で押収したように見せかけたり、銃器摘発協力の見返りに覚せい剤の取引を見逃したりしていたのだった。


 更に、銃器摘発目的での、覚せい剤の密輸入の見逃しを行ったものの、挙げ句銃器摘発も失敗(後述する「泳がせ捜査失敗疑惑」)したり、違法なおとり捜査にやらせ捜査まで、単に岩田の個人的な犯行というだけではなく、道警上層部も知っていた、或いは積極的に関わっていた違法行為が、白日の下に晒されたのだ。


 悪いことは重なる。2003年の11月には道報の調査報道により、不正経理による裏金作り及び一部の幹部による私的流用が明らかになり、しばらく道警は批判の的にされたのだった。また、元釧路方面本部長まで務めた人物(作者注・現実には「原田宏二氏」のこと。詳細は本人著作「警察内部告発者・ホイッスルブロワー」参照)まで記者会見で実態を証言するなど、想定外の展開を迎えていた。


 岩田元警部のような悪事はともかく、組織的な裏金作りについては、それなりのポジションに居た西田や吉村は勿論、方面本部長クラスの安村も当然認知はしていただろう。だが、まさに「内輪の論理」で、そのこと自体は特別悪いことという認識は2人にも余り無かったし、安村ですら同じだったはずだ。


 一部幹部による私的流用は論外としても、事実として、捜査には予算からは賄いきれない費用が必要になることもある。残念ながら「必要悪的」な感覚と、警察全体が公金であるという意識に欠けていたのだった。内輪の論理の問題点について、経験上強く認識していたはずの2人ですら、「悪事を叩くための資金」という考えにより、正当化していたのは否めない。


 尚、安村は大島海路立件の成果を以て、キャリアの中でも順調に出世路線に乗り、今は警察庁、通称・察庁の刑事局長のポジションに就いていた。5年前に北海道警察本部長に就任した際には、数度共に飲みに出掛けたが、以前の熱い想いは未だ薄れてはいないものの、やはり組織の中に居ると組織防衛という意識が強くなるとボヤいていた。加えて、トップに近付けば近付く程、組織防衛度合いと同様に自己保身度合いの高い連中が多くなるとも嘆いていた。逆に言えば、警察官僚として本来求められる能力以上に、その悪い意味での危機管理力が昇進に問われているのだろう。


 西田としては、「もっと偉くなって(そんな状況を)変えてもらうしかない」と、人気ドラマの台詞の様な応援の言葉を口にしたが、安村は「そうありたいもんです」と苦笑いするにとどまっていた。とは言え、内心期するものはあるはずだと、西田が感じていたのも事実だった。


 話を元に戻すと、これらの不祥事が表沙汰になったことは、取材できっちりと悪事を暴いた道報の取材チームにとっても、新聞協会賞など数多くの称賛を得ながら、最終的にとんでもない結末をもたらすことになる。


 2006年、道報は、取材チームが裏金問題以外に道警の一連の不祥事を暴いていた中の、岩田・元警部も関わったという「泳がせ捜査失敗疑惑」についての1年前の記事作成において、事実関係を不明なまま記事にしたということを理由に、突如取材チームの責任者を処分した。


 だがその実情は、道報内部にもあった裏金問題を道警が背任で「立件する」と脅したことで、道報上層部が道警に屈したことが真相だったと、取材チームに元道警刑事という立場から、何度か協力した竹下には伝わっていた。


 道警としては、道警以外にも全国の警察が行っていた裏金問題は許容できても、泳がせ捜査に失敗して、大量の薬物が国内に入ったことは、誤ったプライドにかけて見過ごせなかったということなのだろう。結果として道警問題取材チームは解散し、一連の道警の不祥事は有耶無耶になってしまった。


 その頃、函館支社の社会部に居た竹下は、その内情に呆れ果て、道報を去る覚悟を決めていた。しかし、同じ様な「内輪の論理」に嫌気がして辞めた警察時代の後悔ことを思い出し、苦渋の決断で、敢えて道報に残ることにしていた。大きく変革することは出来ずとも、一歩ずつでも前進させることもまた、内部の人間として取るべき責任だと踏みとどまったのがその真意だった。そして、竹下がフリージャーナリストとなる為に道報を辞めたのは、その「僅かな」変革を確信出来たからこそだったと言える。


※※※※※※※作者注


この稲葉事件と、その後の「北海道新聞」の告発と警察との関係の経緯については、以前貼ったウィキペディアでも概要を知る分には良いですが、更に前出の原田宏二氏による


https://www.ombudsman.jp/fswiki/wiki.cgi/akarui?page=%CB%CC%B3%A4%C6%BB%BF%B7%CA%B9%A4%AC%B7%D9%BB%A1%A4%CB%B6%FE%A4%B7%A4%BF%C6%FC

稲葉氏本人のインタビュー記事の

https://www.vice.com/jp/article/bj5dz8/inaba-the-worst-police-in-japan


の記述が生々しいかと思います。稲葉氏のインタビュー記事の、泳がせ捜査や潜入捜査の述懐部分は結構面白いです。


※※※※※※※

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る