第37話 月蝕 いざ一条戻橋へ

 翌日。

 そして、いよいよ月蝕の当日。

 目醒めた私の目元は案の定、涙を流し過ぎたためにまぶたが腫れ上がっていた。式部さんにはたかれた左頬も心なしか腫れている。

 もし、月蝕と共に元の世界に帰れるゲートが開いたなら……。

 そんな外見のことなど気にする必要などないのかもしれない。

 でも、帰る前にもう一度……できれば式部さんに逢いたかった。

 周防さんがまた用意してくれた濡れた布で、瞼と頬を冷やしながら、私は周防さんに尋ねる。

「帰る前に……もう一度、式部さんにご挨拶できるでしょうか……?」

 これは、私の未練でしかない。それは重々承知している。

 それでも……、もう二度とこの先逢うことが叶わないのなら……最後に一目逢って起きたかった。

「さあ……あちらも、出仕ということで朝からお支度でお忙しいことでしょう。それに、普通の出仕とは違って、女性に見えないとなりませんから……きつとお支度は入念にされているはずです」

「そうですよね……」

 私は周防さんの返答に、わかってはいたが溜息を吐く。

「ですから、御簾越しにそっと……覗いてみてはいかがでしょうか?」

 覗き……というのは、少しばかり心が罪悪感で胸が痛んだが、今日は本当に最後なのだ。そう思うと、私の足は自然と式部さんの対屋へと向かっていた。


 御簾越しにそっと覗くと言っても、いつも以上に支度のための女房たちが頻繁に出入りしているので、簀子縁にぼーっと立っていたら、すぐに見つかってしまう。

 私は、装束の裾を端折って庭へと降りた。

 式部さんの部屋の正面辺り。こんもりと茂った木の影に隠れ、式部さんの様子を窺う。

 女房が出入りするタイミングで御簾が捲られるので、そのタイミングでチラリと式部さんの姿を見ることができた。

 いつもより念入りな化粧。

 今日は、女性としてのたしなみであるというお歯黒もほどこしているようだ。

 そして、中宮様という身分の高い女性の元に出仕するということで、いつもより豪勢な衣装を身につけているようだ。

 私がこの世界にやって来たときに身に付けていた装束と同じように、腰にはというものを付けている。これを付けるのが、正式な女房装束ということらしい。

 遠くから見た式部さんはいつもより綺麗だ。

 しゃべらなければ……きっと、男性だとバレることはないだろう。私などよりよほど美しいのだから……。

 一瞬、風で御簾が大きく捲れた。

 髪を整えてもらっている最中の式部さんと、目が合ったような気がした。

 しかし、それは私の思い込みかもしれない……。

 私は、式部さんに一言も別れの挨拶を告げられなかったことに、肩を落としながら私が間借りしている対屋へと戻った。

 あとは……。夜に国時さんの訪れを待つばかりである。


 の刻。

 国時さんは約束通り、私のことを迎えに訪れてくれた。

 とはいえ、私自身まだ、の刻というのが、だいたい何時頃を指すのか漠然としかわかっていない。

「草木も眠る丑三つ時」なんて言葉が現代にもあるので、丑の刻は真夜中の二時ぐらい、子の刻はそれよりも前、亥の刻はさらにそれよりも前だから、日付かが変わらない辺りなんだろうな、と推測するばかりである。

 私は国時さんに促され、周防さんと共に牛車へと乗り込んだ。

 国時さんは、今日は馬に乗っている。貴族とその警護の武士辺りを装うのだろうか。

 間もなく牛車が門を出るというときになって、惟規さんが必死の形相で走って来た。

 牛車の後ろに垂れる御簾越しに、私へと声をかけてくる。

「香子さん……」

 息を切らしながら、でも、御簾越しに私をしっかりと見据えているのがその気配からわかった。

「私はあなたに出逢えて……幸せでした。あなたと過ごした日々は一生忘れません……。どうか、これを形見と思ってお持ちくださいませ」

 牛車の御簾の下、隙間から惟規さんは手を伸ばし、私の手に扇を握らせてくれる。扇を受け取るその瞬間、惟規さんの震えた指が私の指先に触れた。

「私こそ……惟規さんに拾っていただけなかったら……きっと、この世界に来てすぐに命を落としていたと思います。私も……」

 思わず涙が溢れて言葉に詰まる。

「絶対に惟規さんのこと……忘れません。ありがとうございました」

「それでは参りますよ、我が君……一条戻橋へ」

 涙を袖で拭いながら、私は

「はい」

と、国時さんに答える。

「よろしくお願いします」

 牛車は、門からゆっくりと滑り出した。

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