第一章 ―春―

 殿下に拾われ一年が経った。

 拾われた当時は身分の高い方だとは知らず、無礼な態度を沢山取ってしまった。それでも殿下は僕に名を与え、住む場所と学ぶ機会を与えてくれた。

 殿下曰く、『衣食住を保証する代わりにトールウの為に学び、トールウを良い方へと導く為に時間を使え』との事。

 自分の知らない事を吸収できるのは何よりも楽しかったが、周りはそうでもなかった。

 それも当然。

 大金を払って教師を雇い、科挙を受ける資格をやっとの思いで得る者が居る世界だ。そのような人にとって僕の存在は面白くないのも分かる。疎まれて当然だ。

 だからこそ、勉強は楽しいと思う反面、結果を出さなければという重圧も感じていた。結果が出なければ殿下の面目丸つぶれだ。それだけではない。科挙を受ける資格を得るまでの間、散々色んな事を言われ続けて来たのだから、これで落ちたらまたこの苦しい状況を一年繰り返さなければいけないのだ。

 殿下は『初めての科挙なのだから雰囲気だけでも感じ取り、来年以降に通るくらいの軽い気持ちで臨め』と仰ってくれたが、僕はもう二度とこんな苦しい生活はしたくなかった。

 飢える事無く、知識を得る事も出来る。幸せな事のはずなのに、幸せだと思えない部分もあった。可笑しな話だ。

 そんな圧のお陰か、科挙を首席で通った。

 流石に首席ならば文句の付けようがないだろう。

 そう思いながら配属される場所を待つ間、一番落ち着ける書庫へと足を運んでいた。

「ハル!やはり此処に居たのか!捜したぞ!」

 書庫で本を探して居るところに殿下が現れた。

「殿下、どうかなされたのですか?!」

 僕を捜していたという殿下に、僕は本を探す手を止め慌てて頭を下げる。

「そう畏まらなくて良いといつも言っているだろ。そんな事より!おめでとう!!」

 そう言って殿下は僕の肩を軽く叩く。

「科挙を首席で通ったと聞いたぞ!」

 凄く嬉しそうな顔を浮かべてくれる。

「ありがとうございます。殿下が学ぶ機会を与えて下さったお陰です」

 僕は再び頭を下げる。

 同じ人間なのに不平等だと恨んだ事もあった。でも、僕にも知識を得るチャンスがあった。チャンスは誰にでも与えられるものだと、神は平等にチャンスを与えてくれるのだと、そう思えた。

「出逢った時は言葉もまともに喋れず、不安もあったが……ハルの飲み込みの早さには本当に驚かされた。これで父上も文句の付けようがない!」

 殿下は嬉しそうに何度も頷き、ひとつ咳払いをして改めて僕と向き直した。

「という事でハル!」

「は、はい」

「今日からハルは私の側近だ!」

「はい!……え?」

 殿下の勢いに乗って思わず頷いてしまったが、凄く重大な宣言をされて耳を疑った。

「で、殿下、今何と仰ったのでしょうか……?」

「だから、今日からハルは私の側近だと――」

「ちょ、ちょっと待って下さい!そんな重大な任を、僕みたいな官吏になりたての者がなるわけには……」

「何を言う?私はハルを側に置くために学ばせ、科挙を受けさせたのだ。首席で通ったのだから誰も文句の付けようがないだろう!うん!」

 確かに、皇太子の側近ともなれば今まで散々言ってきた奴らに対し、ぐうの音すら言わせられないので有難い。でも、皇太子の側近は新任の官吏にやらせるものではない。殿下がそれを知らない訳ではないはずなのだが……。

 殿下の顔を恐る恐る覗いて見ると、満面の笑みで圧が凄い。

「で、早速だが、ボルク国へ向かうぞ!」

「…………え?」



 殿下に言われるままボルク国へと足を踏み入れた。

 ボルク国は北に位置する国。トールウ国の隣の国だ。四国の中では最も広大な大地に恵まれた自然豊かな国で、守護神は玄武。水を司る神だ。その清らかな水で育まれた作物は世界一だと言われている。

 そんなボルク国に僕達は少数の護衛を引き連れ訪れていた。

「殿下、本当に補佐役として僕が同席して大丈夫なのでしょうか……?」

 ボルク城へ到着した僕らは客間へと案内された。もまなくボルク皇がお見えになるはず。その僅かな時間に僕は不安を口にしていた。

「皇太子の側近とは本来、官吏の中でも上位の者が皇の信頼を得てなるものです。僕のような官吏になりたての新人が就く仕事ではないはず……。些細なミスでも外交問題になりかねない位置に存在する職を新人に任せるなんて……」

 とにかく不安しかない。胃に穴が開くのも時間の問題だ。

 そんな僕に殿下は口を開いた。

「この一年間でハルの人となりは分かったつもりだ。何事にも頑張る姿勢、飲み込みの早さ、対応力、何よりハルに側近になって貰えると私の気が楽だって事だ。前任の者は口煩くてな……ああだこうだ煩かった」

 最後に何かぼやいていたが聞かなかった事にしよう……。

「人間、一度や二度の失敗は当たり前だ。そんな気負いせず、今まで通り、やれる事を精一杯やれば大丈夫だ。誠実な人柄に多少の事は皆許してくれるだろう!」

 失敗して当然だと言っていただけるのは有難いが、政では一度の失敗がどれだけ大きい事か分からないはずないのに……時々、この楽天的な性格は人の上に立つ者として大丈夫なのか心配になる……。

「殿下が間違わないように、僕がしっかりしなくては……」

 思わず声に出ていた。

「ん?何か言ったか?」

「あ、いえ、何でもないです!」

 殿下には聞こえていなかったようだ。

 僕のようなものがそんな大それた事出来るとも思えないけど、殿下に助けられたこの命、殿下の為に尽くしたい。以前からそう思っていた。

「御待たせしてしまって申し訳ない。ジン皇太子殿下」

 突然の第三者の声に、僕の緊張は一気に増した。

「お久しぶりです。コクトウ皇帝陛下。こちらこそ、お忙しいところお時間を頂きありがとうございます」

 そう言うと殿下は一礼する。この方がボルク国の皇様か。僕は跪き、頭を下げる。

「随分と大きくなられた。前回お会いしたのはいつだったかな」

「そうですね……私が十かそのくらいの頃だったかと思いますので七年程前でしょうか……」

「という事は、ジン皇太子も、もう十七になるのですな。御立派になられた」

「ありがとうございます」

 頭を下げた状態では表情は分からないが、声の感じからにこやかに挨拶を交わしているようだ。

「ところで、そちらに居られるのは……」

 頭を下げたままでも視線を向けられたのが分かった。トールウ国のカイ皇帝陛下もそうだが、皇という存在の圧は凄いものだと実感する。

「ああ、私の側近です。今年の科挙を首席で通った将来有望な官吏です」

 殿下の紹介の仕方にプレッシャーを掛けられた。

 僕は頭を下げた状態で口を開く。

「お、お初にお目に掛かります!ハ、ハルと申します!」

 名乗るだけで精一杯だった。

「ハル閣下、ずっとその状態ではお辛いでしょう。どうか頭を上げてください」

 か、閣下!?

 自分に付けられた敬称に驚き、汗が噴き出る。

「そそそそんな、閣下なんて!ぼぼぼ僕にはみみみ身に余る大役!官吏になりたての僕などに閣下とは恐れ多いです!」

 自分でも何が言いたいのかよく分からない。

「ん?だが、皇太子の側近なのであろう?皇太子の側近とは官吏の中でも高い位の職。それとも、側近というのは嘘で、本当は低い身分という事を隠し、皇族同士の会合に居合わせたとでも言うのか?」

 声色が急に変わった気がした。

「あ、いえ、その……」

 どうしよう……やってしまった……。

 頭を下げたまま、目を強く瞑る事しか出来なくなった。

 いっそこのまま首を斬ってほしい……。

 凍り付いた空気がしばらく続いた。

「……フ、ははははははは!!」

「え?」

 突然のボルク皇の笑い声に少し視線を向けた。

 そこには怒っている姿はなく、腹を抱えて笑っている姿があった。

「あー、すまない。悪戯がすぎたな!」

「コクトウ皇帝陛下、ハルを虐めないでやって下さい」

 殿下も怒っている様子はない。

「いやー、カイ皇帝陛下から凄い新人が現れたというのを聞いていてな、ちょっとからかってみたかったのだ。悪い事をしたな」

 そう言って、跪いている僕の両脇を掴み、立たせた。

「こんな幼子が科挙を首席で通ったとは、本当にトールウ国は良い方に向かっておられる。未来は安泰ですな!」

「はい」

 物腰柔らかなボルク皇と、嬉しそうな殿下。僕は緊張からの安堵で涙が零れそうになった。



 その後は、今後のトールウ国とボルク国の話が繰り広げられていた。

 トールウ国は四国の中でも一番貧しい国だ。地質にも恵まれず、中々作物が育たない。隣国のボルク国からの輸入に頼っている部分が大きい。そういう事もあり、今後も友好関係を続けていきたいという意思表示をし、地質改善が上手く行った際には倍にして返すという約束を再びした。トールウ国の守護神は青龍だ。木を司る神で、本来、ボルク国よりも植物に恵まれているはず。それもあり、ボルク皇はこの無謀とも思える約束にもきっと植物に恵まれた国へと変わっていくと信じて快諾して下さった。

 話し合いも終盤に差し掛かり、僕もようやくこの緊張から解放されると思っている時だった。殿下が口を開いた。

「それと、最後に一つご報告、と言いますか、ご相談がございまして……」

 殿下の表情が少し曇った。

「この場で言うのはどうかとも思ったのですが……コクトウ皇帝陛下には良くして頂いているので知って頂いた方が良いと思いまして……」

「ん?どうした?気にせず申してみろ」

「はい……。実は、父の体調が最近良くないようで……」

 え?

 僕も初耳だった。というか、僕が聞いて良かったのだろうか……?

「それは……ただの風邪とかではなさそうって事か?」

「はい……。父は皇として心配かけまいと気丈に振る舞っておりますが……人が居ない場所でよく咳込んでいるのを見掛けます。年齢も年齢なので……」

「確かに。こう言っては難だが、子宝に中々恵まれずジン皇太子が生まれるのも遅かったからな……」

「はい……」

 確かに、殿下が現在十七歳なのを考えると、カイ皇帝陛下の御年齢は少し高いような気もする。世継ぎに重きを置いている皇族というのを考えると殿下が生まれた年齢は遅すぎるくらい。

「カイ皇帝陛下とは昔からの馴染みだ。余から些細な贈り物だとでも偽ってそれとなく身体に良さそうな物を逐一贈るとしよう」

「ありがとうございます!」

 殿下は今日一番、深々と頭を下げた。

「ジン皇太子、感謝しているのは分かったから頭を上げなさい。相手が他国の皇とは言え、皇太子の其方がそんなに頭を下げるのは良くない」

 そう言われ、殿下は頭を上げた。

「母は私が幼い頃に亡くなりました。血の繋がった家族はもう父しか居ないのです……」

 皇太子に万が一の事があった場合に備えて、皇は子供を数人儲けるのが常識なのだが、先程ボルク皇が仰った通り、カイ皇帝陛下は子宝に恵まれず、やっとのことでジン皇太子を授かった。その後も何度か頑張ったらしいが授かる事はなかったらしい。

「ああ、分かっている」

 ボルク皇は殿下の肩を軽く叩いた。

 僕も既に両親を亡くしているので殿下の気持ちが分からなくもなかった。流石に、僕のように両親が虫に集られるという醜怪な姿を目の当たりにする事はないにせよ、死別は『悲しい』『辛い』と一言で言い終わらせる事の出来ない感情が湧く。

 そんな事を思っているとボルク皇が僕に向かって言葉を発した。

「ハル殿、ジン皇太子の事を支えてやるのだぞ」

 政は勿論の事、私的な部分も支えるようにと言われた気がした。

「はい」

 支える事が恩返しになるのならと、僕は強い意志を持って頷いた。

 話も終わり、ボルク城を出る際にもボルク皇がお見送りに来て下さった。

「次はザフリイ国に向かわれるのだろう?」

「はい。ザフリイ国の第一皇女様にハルの話をしたところ、是非会ってみたいと仰ってくださいまして」

 え!?僕の話って、一体何を話したんだ……?

 変な事を話されていないか不安になった。

「ああ、きっと妹君の自慢大会でもしたいのであろうな」

「そのような気がします」

 二人して苦笑いしている。第一皇女様とは一体どんな方なのだろう……?

「ザフリイ国は四国で一番商いが栄えている国だ。もしかしたら良い薬の話とかも訊けるかもしれない」

「そうだと信じて行って参ります」

「ああ。とにかく、有意義な時間だった。また何かあれば遠慮なく来てくれ」

「ありがとうございます」

 ボルク皇の優しさに後ろ髪惹かれつつも、僕達一行はザフリイ国へと向かった。

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