第1話 十二月二十四日 水奈川鐘夜の場合

 カーン。


 この街のシンボルともいえる時計塔が、昼の十二時を告げる鐘の音を鳴らした。澄み渡る鐘の音が街全体に響き渡っていく。鐘夜という名前は、私が生まれたちょうどその時にあの時計塔の鐘の音が鳴ったことから付けられた名前なんだよ、とお母さんは言っていた。


 申し遅れたが私の名前は水奈川鐘夜みながわかよ。公立高校に通う恋に勉強に忙しいごくごく一般的な高校生だ。

 私の名前はこうしていとも単純につけられたけど、実は自分の名前を結構気に入っている。私自身、ヨーロッパの古代建築を意識したあの時計塔の造りや、遠くまで響く鐘の音がとても好きだった。


 美しく鳴り響く鐘の音を聞きながら、私はぼんやりと外を眺めていた。本日は高校の終業式であり、明日からは冬休みに入る。高校三年生であれば志望大学の受験勉強で大忙しであるところだけれど、私はまだ高校二年生であり、残された自由な高校生活を盛大に謳歌していた。


 終業式は午前中で終わり、成績表や冬休みの課題を抱えた生徒たちは早足に下校していっている。その姿を横目で見やりながら私は教室の机に顔をうずめて唸っていた。

 決して、決して成績表の内容が悪くて落ち込んでいるのではない。むしろ私は小学校の頃から勉強は得意で、定期テストでは常に学年の上位五位以内に入っている。


「鐘夜ちゃん、ねえここ何でこの式になるわけ?ねえねえ鐘夜ちゃん、鐘夜ちゃんっ

てば」

「うっっるさいっ!」


 私の頭を先程からぺしぺしと軽く叩いている幼馴染に最大限の八つ当たりをする。彼はふてくされたように頬を膨らませて黙り込んだ。


 彼の名前は小田島悠斗おだじまゆうと。私の幼馴染である。家が隣同士なこともあり、幼い頃からよく一緒に過ごしていた。

 私は彼のことを「悠斗」と呼び、悠斗は私のことを「鐘夜ちゃん」と呼ぶ。くりくりと天然パーマがかかった栗毛色の髪の毛は柔らかく、色白で大きな目を持つためにたまに女の子と間違えられることを本人はえらく気にしている。


 神様は不公平だ。なんでこいつなんかにアイドルみたいな顔のパーツを与えたんだ、私にくれ、私に。


 私はどちらかというと相手にきつい印象に見られる顔立ちらしく、自分のきりりとした目つきや通った鼻筋があまり好きではない。どこか可愛らしい子犬のような悠斗の顔立ちが本当に羨ましいのだ。


「僕このプリント出さないと物理の単位が本当に危ういんだ、お願い鐘夜ちゃん、助けて!」

「…そこ、前にあんたに教えたとこでしょうが」


 悠斗は勉強に関しては彼なりに努力しているものの成果はいまひとつである。というか、正直卒業できるのかすら危うい。


 この間の英語のテストでは、『英語が分からないなら自分で言語を作って公用語にすれば良いじゃない!』と言い出し、意味不明な言語を答案用紙に書き連ねて先生に呼び出しをくらっていた。後から「鐘夜ちゃん…僕のウィッシュ・ダイ語は世界中の人たちが使うには難しすぎたみたいだ…僕でさえ読めないんだからね…」と誰にも自分の理論を受け入れてもらえない天才科学者のようにしょんぼりしていた。悠斗が天才科学者と大きく違うところは、自分の作った言語を自分で理解していないところだ。つまるところただのバカだ。

 

私からすると悠斗は出来の悪い弟のようなもので、よく勉強を教えている。今回悠斗がうんうんと唸りながら向かっているプリントも、期末テストで先生方の顔を真っ白に漂白させるような点数を叩き出した悠斗になんとかして単位をやろうという、先生方の優しさという名前の課題である。


「テスト前にあれだけみっちり勉強教えたのに、なんで赤点取っちゃうかなぁ」

「うっ…だって、だって物体があんな計算式に従って動くわけないだろ!?何が運動方程式だー物事を簡単な式にまとめるなー」


 「そうだ物事にはもっと複雑な事情があるはずだ、よしこれをオダジマ論と名付けよう」と鼻息を荒くしながら力説する悠斗の頭を私は力の限りひっぱたく。その際悠斗の頭があらぬ方向に曲がったことは気にしない。


「あーもう分かったから、ほら見せてみ」

「うわぁありがとう、鐘夜ちゃん!」


 私は本当にこいつに甘いよなぁと内心ため息をつきながら悠斗の机に向き直る。彼はゾンビのように素早く蘇生してキャッキャと喜んだ。


「ねえ悠斗。明日駅前のタルト屋さん行こうよ」


 私は悠斗に物理の問題を解説しながらふいに提案した。明日は世間一般クリスマス。今日はクリスマスイブである。近頃女子高生に人気の駅前のタルト屋は、明日限定のクリスマスタルトが売り出されることになっていた。


「…駅前のタルト屋さんって『デリカテッゼ』のことでしょ?僕ならあそこの店よりもっとおいしいタルト作れるもん」


 あそこのタルトは見た目は可愛いけどおいしくないんだよな、と悠斗はむくれながら言う。彼の家は両親が洋菓子店を営んでいる。幼いころから洋菓子作りに親しんだ悠斗は、勉強の方はからっきしであるが洋菓子作りに関しては大の得意としている。名だたるパティシエ選手権や洋菓子コンクールでいくつか賞をもらったこともあり、もっと腕を上げて両親の店を大きくすることが夢だと言っていた。


 私はプリントに目を落としている悠斗の頭をむんずと掴むと、無理矢理自分の方に顔を向かせる。


「じゃあ明日作ってよ、おいしいタルト。どーせ予定もないんでしょ?」

「あ、明日はクリスマスだよ!僕にだって予定くらい…」

「へえ、あるの?」

「……………ないです」


 悠斗はがっくりと肩を落とした。どこぞのアイドル集団の一味のような容姿をしているにもかかわらず、悠斗には何故か今まで一度も彼女がいたことがない。先日は学年で一番可愛いと噂される二年三組の本庄珠ほんじょうたまきの告白を断ったという噂である。影で男子たちに「たまキュン」と呼ばれ崇め奉られている彼女をふることは一般男子にとっては信じがたい行為なのだ。


「悠斗、どうしてたまキュンと付き合わなかったの?たまキュン非公式ファンクラブのオタクどもが発狂してたわよ」


 たまキュン非公式ファンクラブのオタクどもは通称「たまキュニスト」と呼ばれ、絶大な勢力を誇っている。たまキュンが悠斗に告白したという噂はその日のうちに全生徒に一気に駆け巡り、おかげで悠斗はしばらくたまキュニストどもに追われる羽目になった。多くの男子生徒が悠斗に「わしゃ、ワレの命もらうも、虫歯抜くんも同じことなんでのォ」と仁義なき戦いを迫っている現場を私は何度も目撃している。


 後に事態を把握したたまキュンがたまキュニストどもを聖なる力で鎮め、事態は沈静した。しかしこの話は紆余曲折して多方面に広がり、久々に会った別の高校に通う友達には「鐘夜の高校、本庄珠って女ボスが学校のヤンキーを牛耳ってるんだって?あそこの女ボスを怒らせたら戦争が起こるって聞いたんだけど」と言われ気が遠くなった。どう事実が伝わったらそんな話になるんだ。


「…別に、本庄さんが嫌だってわけじゃないよ」


 肝心の悠斗はそっぽを向いて言い放つ。たまキュニストどもが聞いたら確実に悠斗にありったけの手榴弾を投げつけるだろう。


「何よ、他に好きな人でもいるっていうの?」


 うぐ、と悠斗は黙り込む。なんだ、そうだったのか。え、ちょっと待てよそうなのか?!


「えーっ誰よ誰よ教えなさいよていうかさっさと告白しちゃいなさいよっ」

「わーっ鐘夜ちゃんちょっと声が大きいよ!」

「どうせ誰もいないじゃないのよ」

「そ、そうだけど…」


 終業式はとっくに終わってしまったので、今教室にいるのは私と悠斗だけである。他の生徒はもう既に下校しているか、部活動に精を出している頃だ。


「そっかぁ悠斗にも好きな子ができたのかぁ、お姉ちゃん感激しちゃう」


 目尻に涙を浮かべる私を悠斗は頬を赤らめながらじとりと睨んでいる。こいつにもこんなに可愛げのある一面があったのか。


「明日はクリスマスでしょ?明日告白しなよ、きっとうまくいくよ。どんなにダメな男でもクリスマスに告白すれば女の子はオッケーしてくれるって」


 それがクリスマスマジックだ。


 悠斗は余計なお世話だと言わんばかりに盛大にため息をついて、自分の顎を教室の窓の方に軽くしゃくった。


「鐘夜ちゃん、人のクリスマスの心配より自分のクリスマスの心配したら?」


 ほれ、と悠斗が顎で示した先に、上下をウィンドブレーカーに身を包んだ男子生徒が立っている。私の身長は女子の平均身長くらいであるが、彼の身長は私よりも頭一つ分大きい。柔らかな眼差しはどこか大人びていて、同級生なのに自分よりも年上であるかのような落ち着いた雰囲気を醸し出している。一見細く見えるが案外しっかりとした体つきなのは、彼が常日頃から部活動で鍛えているからだろう。


「あれ、駿じゃん。今練習じゃないの?」

「今は昼休憩中。一緒に飯食わないかと思って」


彼の名前は海堂駿かいどうしゅん

私の彼氏だ。


「あー、ごめん、さっき食べちゃった。陸上部の子たちと食べなよ」

「そっか。それじゃあしょうがないな…鐘夜、今日は練習で遅くなるから、先に帰っててくれ。それで、明日なんだけど―――」

「練習でしょ?大会近いもんね。しょうがないなぁ、私の分まで頑張ってよね」

「…うん。クリスマスなのにごめんな」

「いーよ」


 じゃあ、と言って駿は廊下を小走りに走っていった。私は駿の背中にぱたぱた手を振って息をつく。


「鐘夜ちゃん、さっきご飯なんか食べてたっけ?」


 悠斗が目を眇めながら私に尋ねる。私はゆっくりと鞄から未開封のお弁当を取り出した。


「…だって、部活中なら部活の子たちとお昼食べた方が良いじゃん。駿に気を遣わせるの嫌だし、駿が部員たちにハブられるかもしれないし」


 仲間外れとは、本当に些細な出来事によって起こるものだ。閉鎖的な学校の友達関係や、部活動の中では尚のこと。


「鐘夜ちゃんも大変だねえ、彼氏持ちが必ずしも幸せってわけじゃないわけだ」


 どこか上から目線な悠斗を蹴り飛ばし、私はお弁当を一気に口の中にかき込んだ。おかずは全部自分で作ったものだけれど、我ながらおいしくできていると思う。


 私と駿は付き合い始めてそろそろ一年になる。高校一年生のとき、私は駿と同じ陸上部に所属しており、自然に彼とも仲良くなった。彼に告白されてめでたく付き合うことになり、そのまま今に至る。駿は高校二年になって陸上部の部長になり、一方私は諸事情で高校二年の夏に陸上部を辞めてしまい、今や帰宅部状態だ。


不機嫌な私を見て悠斗は困ったように苦笑した。


「鐘夜ちゃん、明日何のタルト作ってほしい?」

「…好きな子に作ってあげなよ」


 きっと喜んでくれるよーと投げやりに返す。悠斗の作るお菓子は本当においしいのだ。あれならどんな女子だって喜んでくれるに違いない。


「ちょっとは自分のこと考えなよ、鐘夜ちゃんはいつも他人の子とばっかり考えてるんだから」

「……チーズタルト」

「おっけ。明日残ってたら店のクリスマスケーキもくすねてくるよ」

「ん」


 悠斗はくすくすと笑いながら私の頭を優しく叩いた。彼なりの慰めのつもりなのだろう。すべての事情を察してくれる彼の気持ちがありがたかった。タルトおいしくなかったら承知しないからね、と言うと、僕はおいしくないお菓子なんて作らないよと自信たっぷりに答えた。そんな悠斗を私はどこか眩しく思ってしまう。


「…悠斗はいいなぁ」

「へ?なんで?」

「自分のやりたいことがあって、それに向かって真っすぐ努力してるからよ」


 私は肩を落として自分の机の中から一枚の紙を取り出した。


「それ、進路希望調査?先週までに提出じゃなかったっけ?」

「うん、そう」


 でもね、と小さく付け加えて目の前の進路希望調査用紙をぴらぴらと閃かせた。白い紙に黒字で印刷された「第一希望」「第二希望」「第三希望」の欄は綺麗に空白になっている。


「どうしたら良いかわかんなくてさ」


 悠斗は困ったように眉根を寄せて顔を傾ける。


「まあこの高校はいわゆる『進学校』ってやつだから、大半の生徒は大学進学でしょ。鐘夜ちゃん頭良いし、そういう人は一般的に偏差値が高い大学とか目指すもんなんじゃないの?」


「…そうだね。先生にも、とりあえず今の成績からいくと東応大狙えるんじゃないか、とりあえずそこ書いてみれば良いんじゃないかって言われた」

「東応大って、あの東応大?!日本一難しい大学だよ、僕でも名前知ってるよ!」


 私は担任の木山先生に言われた言葉を思い返す。


―――水奈川、お前は東応大目指せ。今のままなら十分狙える成績だ。

―――あの、先生。私何やりたいかもよく決まってなくて…その、偏差値だけで大学を選ぶのは正しいんでしょうか…。

―――いいか、上の大学に行くほど国からの大学に対する補助も多くて質の良い教育が受けられる。就職にだって学歴は関係ないとか言うがある程度大学によってふるいにはかけられるもんだ。とりあえず上を目指しておけばその分選択肢が増えることになるんだぞ。

―――はあ…。


「先生の言ってることはまあ正しいと思うけど…」

「うーん、間違ってはないと思うよ」


 でもね、と私は続ける。木山先生は熱血系の中年教師で、学年主任である。昨年は高校三年生の学年主任をしており、受験に関してはこの学校では最も詳しい教師だ。木山先生は、私たちがテストで悪い成績を取ったり、たるんでいたりするとすぐさま学年集会を開いて怒号を飛ばす先生でもある。


―――いいか、お前ら。去年の先輩らは東応大三人現役合格した。受験した三人とも合格した。これは合格率で言ったら百パーセント!県内のトップ校よりもうちの高校の方が合格率で言ったら高いんだ!京帝大学には現役で五人行った!旧帝大は全部で六十八人!これは過去最高の成績だ!いいか、うちは現役が強いんだ。現役が一番成績が伸びるんだ、浪人しても変わらないぞ!


「なーんか、先生は大学名と数字しか見てないと思うんだよねぇ」

「まあ、この学校は現役の合格率がウリの高校だから、先生が必死になるのも分かるけど」

「…一年のとき、部活で私にすごく良くしてくれた先輩がいてね」


 彼女は幼い頃から医者になるのが夢で、部活もやりながら勉強も本当に努力していた。普段は明るくて部活の中でもみんなのムードメーカーになる存在だったが、学校では休み時間は常に図書館で自習していた。普通医学部の学費は国立で約三百五十万、私立なら約三千二百万程度かかる。彼女の家はそれほど裕福ではなく、私立大学の学費なんてとても払える金額ではない。彼女はなんとか国立大学に進学しようと努力していたのだ。しかし国立大の医学部の偏差値レベルはとても高い。私の地元の大学の医学部と、日本一難しい大学とされる東応大学の一般学部とでは偏差値はそれほど変わらないのだ。


 一生懸命頑張って勉強していたにもかかわらず、結局彼女は医学部受験を諦めたのだそうだ。


「お前は現役で医学部合格なんて絶対に無理だ、俺はお前を医学部には受験させない。現役なら旧帝大狙えって言われたんだって。たとえ浪人してもお前は受からないって」

「うわ、怖…」


彼女は地元の大学に進学したものの、未だに医学部に対する未練が残っているそうだ。


「あの時諦めずに受験してればよかったって後悔してた。でも先輩が諦めちゃったのも無理ないよ、毎年何百人ていう受験生を見てきた先生の言葉は説得力があるもの」


 ましてや「お前を受験させない」とまで言われたらなおさらである。


 受験によるストレスに追い詰められた彼女にかけられた「絶対に無理だ」と言う言葉は、彼女をがんじがらめにしてしまったことだろう。


「でもね、そういうこと言われたのはその先輩だけじゃなかったんだって。医学部志望の人は皆先生に『お前は合格できない』って言われたんだってさ」


 噂によれば、医学部に行くことができるくらいの偏差値があるなら有名大学に進学してこの高校に箔をつけてくれることを教師は望んでいるらしい。たとえ医学部だったとしても地元大は地元大。さして大学に詳しくない人にも、名前の通った大学であれば学校の成果が分かりやすいのだろうか。


「東応大目指すにしても、なんだか学校に良いように扱われてるだけみたいな感じがするんだよねえ…」


 教師たちは学校の進路成績のためなら本人の気持ちなんてどうでも良いのだろうか。教師が生徒に受けたい大学を、学部を受けさせない権利なんてあるのだろうか。

 自分たちは、教師にとってはただの駒でしかないのだろうか。


「でも鐘夜ちゃんはその先輩みたいにやりたいことがはっきりしてるってわけじゃないんでしょ?だったら学校に乗せられて上の大学に行ってみるっていうのもありなんじゃない?」

「それは、そうなんだけど…やりたいことを追えばどうにかなるってもんじゃないのよ」


 特に、私の場合は。


 悠斗は何かに気づいたように目を瞬かせて口を開いた。


「鐘夜ちゃん、勉強の他に何かやりたいことあるの…?」


 真っ白な進路希望調査用紙を持つ手がわずかに震えた。私は何も言わずにそれを自分のカバンの中に無造作に突っ込む。


「そろそろ私帰るね。ちゃんと物理のプリント仕上げなさいよ」


かよちゃん、と悠斗はか細い声で呼びかける。なんで悠斗がそんなに不安そうな顔をしてるんだろう。


「タルト、楽しみにしてるからね」


 じゃあね、と私は手を振って教室を出た。


 廊下までは暖房が効いておらず、冬のひんやりとした空気が肌を包み込む。

 明日も冷え込むらしいから、もしかしたらホワイトクリスマスになるのかな、などとつらつら考えながら帰路に就いた。



◇◆◇◆◇◆



ただいまー、と玄関の方で声がした。それに次いで、寒さで鼻の頭を赤らめたお母さんがリビングに入ってくる。


「おかえり。ご飯できてるよ」

「ありがとう、鐘夜。もーあなた本当に良い子ね。職場の人にも、水奈川さんの家は

娘さんが頭良くてしっかりしてて羨ましいって言われちゃったわ。もうお母さん鼻高々なんだから!」


 お母さんは嬉しそうににこにこ笑いかけながら椅子に座る。私は自分とお母さんの分のご飯を用意して同じように椅子に座った。


 私の家にはお父さんはいない。私が生まれてすぐに亡くなったのだそうだ。おかげで私はお父さんの顔も覚えていないし、そもそもお父さんとはどのようなものなのかすら分からない。


 お母さんは女手一つで私を育ててくれた。そのため普段は働きに出ており、掃除や洗濯、ご飯作りなどの家事は大体私の仕事になっている。


 お母さんは夕飯のハンバーグを口に運びながらふと私に問いかけた。


「そういえば、学校から連絡があったわよ。あなた、まだ進路希望調査用紙出してないんですって?」

「…うん」

「鐘夜、お金のことは気にしないで良いのよ。あなた頭も良いんだし、先生は東応大現役合格も目指せるって仰ってたわ。そうね、できれば大学出て地方公務員になってくれるとお母さんとっても嬉しいなあーなんてね。あ、学校の先生でも良いのよ。お母さん実は学校の先生になりたかったのよね。それで地元の子と結婚して子供産んでくれれば、お母さんいつだって面倒見てあげるから!さすがに一緒に住むのは大変だから、二世帯住宅が良いわね。それかここの近所に一軒家を建てるの。ね?鐘夜」


 私は何も言わずにただハンバーグを噛む。なんでだろう、ちゃんと味付けしたはずなのに全然味がしない。


「県庁に勤めるのも良いわね。最近は地方大出身者も県庁には入られないんですって。もう東応とか京帝出身の人しかいないそうよ。とにかく公務員ね、公務員。公務員が一番安定した道なんだから」


 お母さんは乾いた笑みを浮かべながらテレビを見やった。「夢を追う若者百人に突撃インタビュー!」と称して、今人気の男性タレントが若いデザイナーやカメラマンにインタビューしている場面が映っている。


「この厳しいご時世、こんな仕事だけしてて一体いくら儲かるのかしら…。夢を見るだけじゃごはんは食べていけないのよ」


 きりきりと頭が痛い。耳が痛い。胸がちくちくする。


 私は残りの夕食を一気にかき込むと、食器を洗浄機に入れてリビングを出る。


「私、部屋で勉強してるから」


 後ろでお母さんが何か言ってるけど、よく聞こえない。


 二階の自室に駆け上がってドアを閉めると、私はずるずると床に崩れ落ちた。

 さっきのお母さんの言葉がやけに耳に残って離れない。


―――できれば大学出て地方公務員になってくれるとお母さんとっても嬉しいなあーなんてね。


 やめて、やめて。私に何も望まないで。


―――とにかく公務員ね、公務員。公務員が一番安定した道なんだから。


 うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。

 安定した道だけが良いことなのか。私に他の選択肢は許されないのか。


―――夢を見るだけじゃごはんは食べられないのよ。


 夢を見ることはいけないことか。安定さえ求められれば、自分の気持ちなんてどうでもいいのか。


 私は机の引き出しからA4サイズの封筒を取り出した。中を見ると、「東和美術大学」と整然とした文字が並んだパンフレットが入っている。東和美術大学は、地元でも有名な美大であり、数々の有名なデザイナーや映画監督、イラストレーターなどを輩出している名門校だ。しかし、美大を出たからといって必ずしもその世界で安定した生活ができるほど世の中は甘くない。美大を出ても就職先はなかなか見つからないと聞く。


「…やりたいことで食べていけないなら、進路なんて持つ必要ないじゃない…」


 知らず知らずのうちに目尻から涙が零れ落ちた。なんで私、泣いてるんだろう。


 と、自室のドアがノックされる音が聞こえた。返事もしないうちにドアが勢いよく開く。いきなりのことに驚いた私は、はずみで持っていた大学の資料を床に一気にぶちまけてしまった。


「鐘夜、そういえば明日なんだけど…あら、どうしたの?」


 お母さんが怪訝そうな顔で床に散らばった資料に視線を落とす。みるみるうちに顔がこわばって、部屋の温度が一気に下がっていくのが感じられた。


「…鐘夜、あなたもしかして、美大に行きたいの…?」

「…っ」


 私は何も答えない。それを肯定と取ったのか、お母さんは感情を押し殺したような声を出して私に詰め寄った。


「なんで今更美大なんて、せっかくあなた勉強できるのにそんな!東応大よ?!せっかく東応大目指せるのに…第一、就職だって厳しいんでしょう?そうよあなただって知ってるでしょう、五丁目の優理ちゃん。美大行って、就職先見つからなくて就活すっごく大変だったんだって。今のところに就職できたのが奇跡だったって、あそこのお母さん泣いてたんだから。鐘夜、一体どれだけの人が美術の世界で生きられると思ってるの?自分がそこで生きていけると本気で思ってるの?どれだけ大変か分かってるの?お母さんはあなたに苦労してほしくないだけなのよ?」


「…私が何しようが、お母さんに関係ないでしょ?」


 言いながら私は、しまったと後悔した。こんなこと言うはずじゃなかった。お母さんを怒らせて、面倒なことになってしまうのは避けたいと思っていた。


 しかし私の思いとは裏腹にお母さんの甲高い声が私の耳朶に突き刺さる。


「鐘夜、誰のおかげで今まで暮らしてこれたと思ってるの?!お母さんはあなたのスポンサーよ!お母さんが学費払わないとあなた大学にも行けないんだから!」


 そんなこと分かってるよ。分かってないわけないじゃない。自分一人じゃ生きられないってことちゃんと分かってる。


 でもね、お母さん。


「お金払ってたら…育ててもらったら、何でもお母さんの言うこときかなきゃいけないわけ…?なんでもお母さんの言いなりにならなきゃいけないわけ…?」


 涙で揺らぐ視界に、何か信じられないものでも見るかのような顔をしたお母さんが映っている。それはなぜだがだんだんとぼやけていって、同時に私の口からは嗚咽のような言葉がこぼれた。


「私はお母さんのために生きてるんじゃないの」


 私は呆然と立ち尽くすお母さんの横をすり抜けて勢いよく階段を駆け下りる。コートもマフラーも何も持たずに、スニーカーの底を踏んづけたまま玄関を飛び出した。



◇◆◇◆◇◆



「…寒い」


 家を勢いよく飛び出してきたものの行くあてもない私は、自分の名前の由来となった時計塔に来ていた。夜も更けてあたりはすっかり暗くなっているため、時計塔に近づく人は誰もいない。三階建てのビルと同じくらいの高さのある時計塔は、普段から誰にでも入ることができるようになっている。小さな丘の上に建てられているため、最上階まで上ると街の景色を一望することができるのだ。


 私はレンガ造りの時計塔の窓の部分に腰かけてきらきら光る街並みを見つめた。窓と言っても何もはめ込まれておらず、遙か下にはコンクリートの床がきらめいている。


 今日はクリスマスイブだもんね、みんなきっと楽しく過ごしてるんだろうなあ。


 街の光がじわりと滲んだ。冷たい夜の空気が容赦なく私の肌に突き刺さって、痛い。


「―――鐘夜ちゃん!」


 ふと背後から、聞きなれた優しい声が響いてきた。

 ゆっくり振り返ると、ぜいぜいと息を切らした、年の割に小柄な幼馴染が立っている。


「…ゆう、と?」

「あはは、鐘夜ちゃん走るの速いからさあ、途中で見失っちゃったよ」


 やっぱりここにいたんだね、と悠斗は笑みを浮かべて私の隣に腰かけた。


「うわ高い、なんでこんなところに座ってるの」


 下を見ながら悠斗は私に自分の着ていたダッフルコートを羽織らせた。外に足を放り出して座っているため、冷たい風がひゅぅひゅぅと全身に吹き付けている。


「なんで、ここに」

「んー?ああ、店番してたらさ、鐘夜ちゃんがコートも何も着ずに走っていくのが見えたからさあ、何かあったのかなーって」


 それに、と悠斗は続ける。


「鐘夜ちゃん、何か嫌なことがあるといっつもこの時計塔で一人で泣いてるでしょ?」


 誰にも見つからないように、この場所で。

 誰も心配させないように、たった一人で。


 今日も僕の思い過ごしかなって思ったんだけど、ここ来てみたらやっぱり鐘夜ちゃんがいるんだもん。


 私の幼馴染は、そう言いながらぐしゃぐしゃと私の頭を撫でまわした。

 やめなさい、髪の毛が鶏の巣みたいになっちゃったじゃない。


「海堂駿に何か言われたの?」

 やめなさい、ていうか何でフルネームで呼んでるの。


「陸上部の子にまた嫌がらせされたの?」

 やめなさい、そんなことでいちいち落ち込むもんか。


「何があったの?我慢しなくていいんだよ」

 やめなさい、我慢できなくなっちゃうじゃない。


「…ほんとは自分が一番悪いってこと、分かってるの。私は悠斗みたいに強くないから、やりたいことに対してまっすぐ努力することが、できないの…」


 自分の中から涙と一緒にぼろぼろと言葉が溢れ出た。

 悠斗は何も言わずに私に寄り添ってくれている。


 私は幼い頃から絵を描くことが好きで、小学生の時は絵を描く仕事をすることが夢だとよく言っていた。しかしその話をお母さんにするたびに、彼女は困ったような顔を見せた。


―――絵描きなら趣味でもできるでしょう?絵の世界で食べていくってすごく大変なのよ、もっと安定した職業に就いてほしいわ。鐘夜、お母さんはあなたが心配なのよ。


 小学生の時はその言葉の意味をあまり理解してはいなかったが、お母さんが良い顔をしないことが怖くて私がその夢を口に出すことはなくなった。

 お母さんは私がテストで良い点を取ったり、先生に褒められたりするととても喜び、私は無意識のうちにお母さんが喜ぶように、勉強や家事をこなすようになっていった。


 でも、夢を口にしなくはなったものの、そう簡単に夢を捨てることはできなかった。


 高校に通いながらも美術職に就くことは頭をちらつき、テストで良い成績を収めて偏差値が上がるごとに、周りから東応大受験を薦められるたびに、胸が軋んだ。


 「やりたいこと、私がやりたいこと、ほんとはあるの。でも、やりたいって、やるって言えなかった。やりたいことを選んだら、その他のことは全部捨てなくちゃいけない。捨てずにやりたいことをやれるなんて甘い世界だとは思ってない。…でもね、他のことを全部捨ててやりたいことだけに全てを捧げる覚悟が私にはないの。『お母さんや先生が東応大を薦めるから美大には行けない』なんて、ただ私がやりたいことをできない理由をお母さんに、先生に、押し付けてるだけなの…」


 自分のやりたいことをやること。それは人間として自分の人生に対する責任を持つことだ。他人の言うとおりに行動していれば、たとえ失敗したとしても他人のせいにしてしまえばいい。自分の思い通りに行動したら、たとえ失敗したとしても全て自分の責任だ。私はただ、責任を持つことが怖かったのだ。


 だから、自分のやりたいことに対して一生懸命努力して、成果も出している悠斗が本当に眩しかった。凄いと思った。羨ましかった。尊敬した。私にはできないと思った。


 こんなことを言ったら、悠斗は怒るだろうか。高校生にもなって情けないことを言うな、もっと責任感を持てと叱るだろうか。


 しかし悠斗は私の予想とは正反対の言葉を投げかけた。


「―――鐘夜ちゃんは、凄いよ!」

「は?」


 彼はいつも私に見せる穏やかな笑顔で言い放つ。

 私は意味が分からずにぽかんと口を開けた。金魚のように口をぱくぱくさせる私を、くすぐったそうな顔をして見つめる。


「あはは、鐘夜ちゃんがそんな風に僕のことを見ているなんて思わなかったなぁ。だって僕、鐘夜ちゃんみたいに頭良くないし、家事とか全然できないし、先生にも怒られてばっかだし」


 だからびっくりしちゃったよ、と悠斗は呟く。

 街の光で悠斗の瞳がきらきら煌めいていた。その奥にいつも優しい光が宿っていることを、私は知っている。


「僕にはお菓子作りしかできない…他には何もできないんだ。だからしがみついてるだけだよ。でも鐘夜ちゃんは違うでしょ?美術だって、勉強だって、家事だって、何だってできる。すごいね、選択肢がいっぱいあるんだ、何にだってなれるんだ。鐘夜ちゃんは当たり前みたいにこなしてるけど、それは誰にでもできることじゃないんだよ。今まで鐘夜ちゃんが頑張ってきたからできるんだ。鐘夜ちゃんがずっと夜遅くまで勉強してること、仕事で忙しいおばさんを助けるために料理も掃除もこなしてること…ずっと絵の勉強をしてること。僕は知ってるよ、鐘夜ちゃんが全部頑張ってたこと」


だってずっと隣で見てきたからね。


「別に今の選択で今後の人生が決まるわけじゃないんだよ。そりゃ、ある程度は関係してくるよ。でもね、銀行に就職したけど辞めて喫茶店を開く人もいるし、教師になったけどその後専門学校に通って美容師になる人もいるし、はたまた会社に勤めながら小説を書いて本を出版する人もいるし。僕らの人生は何年何十年と続いていくんだ、もしかしたら他にもやりたいことが見つかるかもしれない。…今覚悟がなくても、やっぱりこの道しかないと思う日が来るかもしれない。そしたら、迷わずに進めば良いんだよ」


 私は黙って街の光を見つめる。時間が経つと街の光はだんだんぼやけていったが、瞬きをするとまた鮮明な街並みが目に飛び込んできた。


「それに、鐘夜ちゃんはおばさんの『自分の子供には苦労をさせたくない』っていう気持ちも十分理解してるんでしょ?おじさんが亡くなって、おばさんがずっと苦労してきたことを知ってるから。おばさんが鐘夜ちゃんを心配してるように、鐘夜ちゃんもおばさんのことが心配なんだよね?」


 鐘夜ちゃんは優しいから。だから今までずっとおばさんのために頑張ってきたんだよね。おばさんを安心させてあげたいって思ってるんだよね。


「焦らなくていいよ。無理しなくていいよ。寄り道だっていくらでもすればいい。僕は僕、鐘夜ちゃんは鐘夜ちゃんだ。鐘夜ちゃんのやり方で、鐘夜ちゃんのペースで、進めばいいんだからね」


 煌めく街の景色は、いくら瞬きしてもおぼろげにしか映らなくなった。目尻から零れ落ちた雫が、ぽたぽたとスカートに小さなシミを作っていく。

 堪えきれずに口からこぼれた泣き声は、温度で白くなりながら夜空に溶けていった。


 どんどん技術が上達している悠斗を見て、私は焦っていたのだ。

 悠斗はあんなに凄いのに、それに比べて自分は何もできていないと卑下していたのだ。

 どっちつかずで前に進めない自分が、たまらなく嫌だったのだ。


 けれど、そんな自分を誰かに認めてもらいたいと、心のどこかで願っていたのだ。


「――――ありがとう、悠斗」

「…どういたしまして」


 私は隣に座っている幼馴染にくしゃりと泣き笑いを見せた。

 つられて彼も小さく微笑む。


「ついでに言っとくと、僕が勉強もそっちのけでお菓子作りに夢中になったのは、僕の昔から仲が良い幼馴染のせいなんだよね」

「…へ?」


 悠斗に私以外に仲の良い幼馴染がいるという話は聞いたことがない。

 つまりこれはあれか、私のせいということか。


 ぽかんとしている私をよそに悠斗は少し頬を赤らめながら話し続ける。


「…僕が父さんに教えてもらって初めて作ったお菓子がその幼馴染のバースデーケーキだったんだけど、もうすっごいのに失敗しちゃってさ。作り直す時間もなくてそのままその子にあげることになっちゃったんだ。きっとがっかりされるって思ってたんだけど…その子はめちゃくちゃ喜んでくれてね」


―――ゆうとがつくってくれたの?!すごいねゆうと!ありがとう!


「ところどころ焦げてるし、材料がうまく混ざってないところもあって、絶対おいしくなかったんだ。でもその子は全部食べてくれて、おいしかったって言ってくれた」


―――またつくってよ!わたし、ゆうとのおかし大すき!


「それからとにかくその子の喜ぶ顔が見たくて猛練習して、気づいたらすっかりお菓子作りの虜になってたよ。…きっと本人はそんなこと言ったなんてすっかりまるっときれいさっぱり忘れちゃってるんだろうけど!」


 悠斗は諸々のことをすっかりまるっときれいさっぱり忘れちゃってる幼馴染――つまり私――に向かってんべっと舌を出した。


 すいませんねぇ、全然覚えてなくって!


「だから今の僕があるのは、その子のおかげなんだ」


 私の昔から仲が良い幼馴染が、街の光に照らされながら穏やかな微笑を浮かべた。

 

「ありがとう、鐘夜ちゃん」


 胸の奥がびくりと動いて、ぎゅっと締め付けられた。何だろう、この気持ちは。

 息が苦しくて、言葉が喉の奥に詰まって、うまく出てこない。


「…タルト」

「ん?」

 

 心なしか声が震える。なんでこんなに動揺してるんだ、私。 


「明日、作ってくれるんでしょ?楽しみにしてるから。…私、悠斗の作るお菓子大好きだから」

「んー、ついでに僕のことも好きになってくれると嬉しいんだけどなぁ」

「なっ…な、な…っ」


 目の前の幼馴染は平然とした顔でさらりと言い放つ。

 ちょっと待て、さらっと今なんて言ったこいつ。


「あはは、おちおちしてたから海堂駿とかいう奴に取られちゃったよ。いやーあいつは葬っておくべきだった」

「ゆ、ゆうとくん…あの、えっと、その、ゆうとくんの好きな人ってまさか…」


 しどろもどろになる私を悠斗は逆立ちして盆踊りする宇宙人でも見るような目つきで見る。


「…うそでしょ鐘夜ちゃん、どんだけ鈍いの」

 

 とっくに気づいてると思ってた、と言う悠斗の顔からは血の気が引いていた。

 気づくもんか、私はエスパーじゃないんだからっ。


「まあ楽しみにしててよ、タルト。とびっきりのやつ作ったげる」


 そういって悠斗はいつものように人懐こい笑みを浮かべる。毎日のように見ていた顔なのに、なんだか別人の顔を見ているようで私は思わず目を逸らした。

 顔の温度だけが上がって、変な動悸の音が聞こえる。悠斗にそんな顔を見られたくなくて、私は俯いたまま窓の縁からから時計塔の中の部屋に戻った。


「……うと……ごめ……い……」


 ふと、時計塔の中から私たち以外の声が聞こえた。泣いているのか、しゃくりあげるような声が響いてくる。


「誰かいるの…?」


 それともあれか、皿を数えて枚数が足りなくて泣いてる幽霊とかか。


「おーい鐘夜ちゃん、逃げないでよもー」


 背後から悠斗の呑気な声がした。自分の名前を呼ばれるたびに体温が上がるのが感じられる。それが何故なのか自分でもよく分からない。


「逃げてないっ」

「ねえ鐘夜ちゃんちょっと待ってよーかよちゃ、」


 ずるり。


 悠斗の声は不自然なところで消え、代わりに何かが擦れるような音がした。

 しばらくして窓の方から、どんという鈍い音が聞こえる。


「…ゆう、と?」


 私はなんだかとても嫌な予感がして、後ろを振り返った。


 先程まで窓の縁に座って穏やかな笑みを浮かべていた幼馴染の姿が、どこにも見当たらない。


「ゆうと…ねえ、隠れてないで出てきなさいよ、悠斗」


 私は声を荒げて窓の方にゆっくりと足を進める。


 なんで黙ってるの。なんで何も言わないの。


「悠斗、ねえ、悠斗ってば」


 窓の外には、街の光が煌めいている。

 恐る恐る窓から顔を出して下の方を見やると、幼馴染が地面に横たわっている姿が見えた。


 緊急事態の時ほどどこか冷めた目で物を見る癖が私にはあるらしい。時計塔の周りに備え付けられた街灯に照らされた悠斗があの穏やかな笑みを浮かべることはもう二度とないのだと、私はどこか冷静に考えていた。









本日十二月二十四日は、小田島悠斗が死んだ日である。












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鐘の鳴る夜 みづき優一 @yuichimizuki

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