エオニオティタ

海野てん

エオニオティタ

 「本日のドラキュラ、予約・午前二件」―――その短い伝言は、出勤したばかりの真直瀬まなせの目に、嫌でも飛び込んでくる派手な蛍光色の付箋に書かれていた。

 同様の予約はここ数年で増加の傾向にある。しかし、『ドラキュラ』に至るまでの長い道のりを想像すると、嫌でも真直瀬の肩は重くなるのだ。

 今度は妙なお家騒動に巻き込まれなければいい。そんなことを願いながら、真直瀬は白衣に袖を通し、ネームプレートを胸に留めた。

 

 某大学附属病院、そこに二十年ほど前から増設された遺伝子再生科こと通称『ドラキュラ科』は、更衣室から一番離れている。診察室へ向かう足取りは、自然と早くなった。

 まだ外来受付まで時間はあるが、院内を歩き回る入院患者で、病棟は早くも賑やかだ。待合室でいっとう人気の新しいテレビの前では、顔見知りになった患者同士が番組に興じている。

 最新の大型有機スクリーンには、外国人の歌手が如何にも華やかな様子で大写しにされていたが、報じられている内容は歌手が過去に受けた、否認可の延命医療問題だ。

 現在の技術が確立する以前、大枚をはたいて実験台となった彼女は、後に『ドラキュラ』と称される存在になった。それが成功したのは、百年の歳月を経ても変わらぬ若さが証明している。

 美容整形に関する芸能人のニュースは昔から尽きないものの、確立されていない医療技術を金で買った彼女については、その名を良い話題で引き合いに出されることは、ほとんど失くなってしまった。けれど、その施術が成功したことが判明した瞬間は、現在の遺伝子再生科の設立に大きく貢献した瞬間だったとも言える。

 スクリーンの歌手を綺麗だと誉めそやす、彼女よりもずっと年下の老人たちを見守りながら、真直瀬は複雑な気持ちで診察室に向かった。

 「中村さん、一番診察室へどうぞ」

 その呼びかけとともに、今日も真直瀬の一日が始まる。

 

 遺伝子再生科の創設は凡そ二百年ほど前、東欧の片田舎で聖人と崇められる男性が発見された頃にまで遡る。

 彼は怪我をたちどころに治す奇跡の人として、その地域では有名人だった。尤も、治せる怪我は自身のものだけで、他人の怪我を治す場合には、患者に噛みつかなければならないという欠点のために、不気味がる者も多かったらしい。

 現代科学は彼の奇跡を解析し、彼の唾液中から特殊な酵素・エオニターゼを発見するに至った。ギリシア語で『永遠』を意味する『エオニオティタ』からその名を得た酵素である。

 人間の染色体の端・テロメアと呼ばれる部位は、酵素の一つであるテロメラーゼにより常に修復を受けているが、この酵素の働きが弱くなると遺伝子の修復が追いつかなくなって、人間に老化、ひいては死をもたらす。発見されたエオニターゼはテロメラーゼの働きを補うものであった。しかも動物実験においては、生体由来のテロメラーゼが不活化した場合にエオニターゼがその役割を担う作用も見せ、実験動物体内での自己増殖も成功している。

 エオニターゼの働きが解明された時点で、それを如何に人間に利用するかが議題になるのは時間の問題だった。

 最も期待が高まったのは、早老症に苦しむ患者たちだ。テロメラーゼの働きが著しく低い彼らにとって、エオニターゼはまさに時間を正常に刻むための希望であった。動物実験の域を出たばかりの技術でありながら、難病患者らと支援団体の強い希望でエオニターゼを医療に取り入れる遺伝子再生科は誕生に至ったのだ。

 手探りながらもスタートを切った遺伝子再生科の医師らにとって、厄介であったのは、難病治療の域を超え、不老不死を実現できるかもしれない可能性に沸き立つ健康な人々であった。

 宗教的倫理観に反するとして、各宗教団体はエオニターゼの人間への利用を反対する生声明を上げたし、死者が出なくなる可能性を恐れ、葬儀会社らも激しい反発を見せていた。

 政治の面では、対立する国や組織のリーダーが不老不死になってはたまらぬという危惧と、自分だけはエオニターゼの恩恵に預かりたいと望む私欲が正面からぶつかり合い、世界各地で泥沼の有様を見せた。

 不老不死の夢を前にして獣となった人間の群れへ一石を投じたのは、各国の医療団体だった。

 エオニターゼの発見は素晴らしいが、それにより人間が人間としての矜持を失うようでは、その存在に価値は無いと彼らは訴え、現状が続くようならば、人間として我々は世界中に保管されているエオニターゼを一斉に廃棄すると申し立てたのだ。

 エオニターゼはその有用性の代償とでも言うべきか、培養に使う寒天培地から分離すると、ごく短時間で失活し二度と利用できなくなるという欠点がある。そのため、世界中で一斉に培地を破棄してしまえば、再び人類の意思で利用するに十分な量のエオニターゼを得るまでかなりの時間と資金が必要になるのだ。これが、医師らがエオニターゼを人質にできた大きな理由であった。

 そうなれば、騒ぎに騒ぎ立てていた連中も黙らざるを得ない。

 結局、人類の宝としてエオニターゼを利用する技術は守られることになったが、それを施術するのは、担当医師による綿密な聞き取りと適正判断を経た対象に限られることになった。

 

 「だからねえ、息子たちにくれてやるような金なんてないんですよお、先生」

 診察室の丸椅子からはみ出るほど、でっぷりと太った男性が真直瀬に捲し立てる。

 ふっくらと肉が乗ってはいるものの、顔面で光る禿鷹のような目のせいで、大黒様とは程遠い印象だ。声まで脂ぎって聞こえるのだから不思議である。

 「家庭の事情がおありなんですね」

 相槌を打ちつつ、真直瀬は腹の中で大きな溜息を吐く。

 昨今の遺伝子再生科の予約は、いつもこんな具合だ。

 財産だけはたんまりある中高年。男も女も、皆自分が築いた財産や地位、時には愛人が惜しいと真直瀬に訴え、エオニターゼの投与をせがむ。

 「今まで自分が築いたものを任せられる相手がいないというのは不安ですし、だから自分で守りたいという気持ちは分かります。しかし、そのために施術を行った人の中には……」

 その訴えに一見同調しつつ、真直瀬はその意気込みを砕くような例を訥々と挙げていく。

 

 財産や地位に固執するあまり人間関係をこじらせ、最終的には孤独のうちに自殺した者。同様の背景で殺人未遂に発展した家族。銃が市井に溢れる諸外国では、同じ理由で殺し屋が雇われる殺人事件が増加傾向にある。無限の時間を生きる遺伝子を持っていても、致命傷に至る怪我までは治癒できず、死に至るのだ。不老不死のドラキュラ伝説を真に受けて、生きながら心臓に杭を刺したり、死体を焼いたりと、殺された者の死体が凄惨な状態になっているのも、この手合いの問題の特徴だ。

 はた迷惑なことに、この物騒なお家騒動は施術を行った医師までも巻き込むパターンが多い。真直瀬の場合も、身内の不老不死化を良しとしない者から脅迫まがいの電話を受けたことがある。

 命を奪われないまでも、家族や友人が次々に死んでいき、一人遺されて鬱を発症した例は少なくないし、いつの間にか身内に手の平を返され、身ぐるみを剥がされてしまうパターンも聞く。

 そして何より、と真直瀬は前置き、早くも顔色を悪くしている中村の目を覗き込んだ。

 「何より恐ろしいのは、時間の経過と共に、社会情勢も変化していくことです。未来の社会で不老不死が受け入れられるかは、まだ誰にも分からないんです」

 ことキリスト教圏においては、バチカン市国が公式に遺伝子再生科へ反対を掲げているために、欧米での同科の肩身は日本よりもずっと狭い。

 あのテレビに出ていた歌手は、バチカンと足並みを揃える自国の時勢へ逆らい、科学的探求心を抱く同志の医師らと結託して施術を行った。故に、バチカン市国は彼らの破門をも発表していた。

 エオニターゼの生みの親である男性も、その特異な酵素を保有することが発見された後、『奇跡の人』から『神に与えられた寿命を拒む者』『天国の門に背を向けた者』として周囲から疎まれ、最終的に自殺へ至っている。しかし、彼の命と引き換えに遺されたエオニターゼは、未だ他の如何なる生命からも発見されていないのだ。

 

 既に様々な形で社会的な保護や立場を失う者が出ているというのに、この先、状況が好転していくと考えるのは、あまりに軽率だ。

 金が惜しいという目の前の男は、その財産を支えるための社会から見放される可能性を考えて、脂汗を浮かべていた。

 こんなものか、と真直瀬は内心独り言ちる。

 こんなものなのだ。財産が地位が惜しいと言ってやってくる連中は、彼らの抱えるものよりも、よっぽど大きな災禍がやって来る可能性など考えていない。だから、悪い未来を想像させて足元を揺らしてやれば、すぐに膝を付くのだ。

 中村という男も、青い顔のまま「もう少し考える」と言い残して帰って行った。

 

 また気持ちよく施術にあたれる患者に会いたいものだと、真直瀬は次の予約者を待ちながら思う。

 本当に、極めて稀ではあるが、純粋に自らの生命のためだけに遺伝子再生科を訪れる者はいる。未だ道半ばの科学者だったり、未完の大作を抱える芸術家、紛争地域の平定に勤める活動家だったこともあるが、彼らは一様に、やり遂げるまでの時間が欲しいと言う。

 人類への貢献、未知への探究、自己の表現、人命の救済―――目的は様々だが、それらは燦然と輝き、いかなる災禍にも人を立ち向かわせた。

 彼らにエオニターゼの投与を行う時、早老症の患者らへの投与とはまた違う幸福が決まって真直瀬を襲う。

 患者を通じて、世界が変わるのだ。真直瀬という始点から広がった波が地球を覆っていくような、それは一種の誇大妄想なのだけれど、その波に自身を投影し浸る快楽は、なかなか逃れ難い。

 有体に言えば、仕事に『遣り甲斐』を感じる瞬間なのだ。批判されがちなこの仕事だが、自分なりに価値を見つけられる瞬間だ。

 けれど、きっと次の患者もそんな人物ではないのだろうなと嘆息しながら、真直瀬は次の予約者の名を読み上げた。

 

 仕事の合間をぬって、大学病院付属医療センターへ行くのは、真直瀬の日課だ。

 ここには多様な検査室が設けれていて、少し変わった病態の患者でも受け入れられるようになっている。遺伝子再生科を受診する早老症の患者らも、よく出入りする場所だ。

 「真直瀬先生」

 廊下を歩く途中で、背後から呼び止められる。

 聞き覚えのある声に振り向くと、顔馴染みのナースが小学生くらいの男の子を連れているのが見えた。

 「カズくん、こんにちは」

 真直瀬は少年の方にも面識がある。

 まだ生後間もない頃、早老症の診断を受けてこの病院にやって来た男の子だった。当時最新の、しかし怪しげな視線を集めていた遺伝子再生科に治療の望みをかけ、彼の両親はやって来た。

 小児への施術例は国内では皆無であったものの、何枚もの書類にサインして、両親は自らの子供にエオニターゼを投与するように懇願し、結果的にその望みは叶うこととなる。

 「……こんにちは」

 経過観察のためにカズ少年は院内でほとんどの時間を過ごし、教育も院内学級で受けている。そのせいか年の割に大人しい子供に育ったが、人見知りせず病院のスタッフにも病棟の患者らにもよく懐いた。

 「こんにちは、調子はどうかな?」

 視線を合わせるようにしゃがめば、恥ずかしそうにナースの後ろに隠れてしまう。

 それこそ赤ん坊の頃から、お風呂を嫌がって泣き喚いた時も、歯が生えた時も、おねしょをしてしまった時だって知っているのに、今更のように恥ずかしがるのが面白い。

 「?」

 しかし、顔を近づけたことで、真直瀬は彼が恥ずかしがる理由に気付いてしまった。

 「またお風呂入ってないのかな?」

 「だ、だって……」

 微かに漂う体臭は汗くさい。

 「最近はちゃんと入ってたんですよ。ね、今日はちゃんと入るもんね?」

 助け舟を出したナースにさえ、心底渋々と頷き返す有様だ。自身の体臭を気にしているくせに、風呂に入るのは気が進まないらしい。

 赤ん坊の頃から変わらないその性質。その理由に心当たりがある真直瀬は、あまり強く少年を諌めることはできなかった。真直瀬だって、水が好きではないのだ―――子供の頃、川で溺れたという、覚えのない記憶のために。

 「先生にバイバイして」

 「……」

 ナース服を掴んだまま、それでも少年の片手は真直瀬に向かって小さく振られたが、病棟で仲良くなった患者を見つけると、すぐにそちらへと興味が移っていった。

 きゃらきゃら笑い合う子供たちを見送りつつ、視線だけで周囲を伺ったナースは真直瀬に向き直る。

 「……先生、気にしてらっしゃいますか?」

 「……」

 古株のナースが何を問いたいのか、皆まで聞かずとも真直瀬には理解できた。

 気にしていないと言えば虚勢になるが、彼女のように事情を知りながらも、こうして一緒に仕事ができるというのは幸せだ。

 しかし、その幸福でさえ真直瀬の体に根付いてしまった数百年の孤独を埋めることはできず、真直瀬はナースに是とも非とも答えることができないでいた。その沈黙をどう受け取ったのか、彼女もそれ以上問うことはせず、会釈をすると自身の仕事へと戻る。

 小さくなる白い背中を見送りながら、真直瀬は身に覚えのない寂寥が湧き上がるのを感じていた。

 皆、最後にはああして背を向けて行ってしまう。あるいは、自分から背を向けざるを得なくなるのだと、体の奥底から声がする。

 一見人懐っこいカズ少年も、もう同じ思いを自覚しつつあるのかもしれない。彼の人懐っこさは、裏を返せば孤族を埋めるものを探して、誰彼となく懐いているようにも見えるのだ。

 

 同センターには患者のための施設だけではなく、細菌管理室というものも存在する。その中で最も厳重な管理を施されている一室に、エオニターゼは保管されていた。

 赤血球を含むチョコレート寒天培地でのみ増殖するエオニターゼは、発見されたのが人々に噛み付いて治療していた男の口内からだったことも相まって、怪しげなオカルト愛好者からも視線を集めている。そのせいで、妙な連中からの問い合わせが最近増えており、病院は対応に苦慮しているのが現状だ。

 施術患者を『ドラキュラ』と呼称するようになったのも、彼らが最初だったように思う。

 しかも、ドラキュラ伝説と絡めて、エオニターゼは処女童貞にしか効果がないという下世話な噂を流されたこともあった。

 こんな時代でも、尾籠な話についつい走ってしまうのは、最早人間の性なのだろうか。この噂はオカルトや都市伝説を信じないような層からも、問い合わせが来たほどだ。

 しかし、その人間の下世話な部分を刺激する噂話を、真直瀬は一笑に付す。

 下らない話だ。

 エオニターゼの研究を進めていたチームは、チョコレート寒天培地でしか生きられないという事実が分かった時から、エオニターゼを保有していた『ドラキュラ』に噛み付かれた人間が同族になってしまうのは、噛まれた際にエオニターゼが血液中に入り込んでいたからではないかという仮説を出していたし、噛まれた後に死亡例についても、単純に噛み傷からの感染症が原因になっていたという見解に落ち着いていた。

 まだ細菌というものを人類が知らず、病気は魔がもたらし、神の奇跡や祈りで治癒できると信じられていた時代のこと、貞操と魔を呼び寄せた原因を結びつけても仕方がなかったのだろう。

 だが、尾籠な話に走りがちなのは、数百年の時を超えても変わらないらしい。

 それだけではない。ドラキュラの不思議な能力や特徴に纏わる伝説だって、後の世の人々に脚色されて生まれたものが多い。

 例えば、流れる水を苦手とされたのは、単純に幼少期に溺れために泳げなくなってしまったのが原因だ。心臓に杭を打ち込まれれば死ぬと言われるが、ドラキュラどころか人間だって、こんなことをされれば死ぬに決まっている。

 日光が苦手なのは、生来色素が薄いせいで、皮膚炎を起こすことが多かったからだろう。尤も、これについては、少々周囲と異なる外見がよりドラキュラとしてのインパクトを植え付ける要因になったのだとも思う。

 十字架に怯むと言われる原因ははっきりしないが、恐らく、まだ土着の古い習慣が根付いていた故郷をキリスト教と比較して、主の威光の元に平伏す異教、あるいは邪悪なものと描く過程でそうなっていったと推測できた。多分、聖水やワインを使う方法も同様だろう。

 けれど、そんなものが本当に苦手なはずがない。どちらかと言えば、あの独特の臭みを持つニンニクの方が嫌いだ―――いや、『彼』は嫌いだった。

 

 『彼』の記憶を垣間見れば、ドラキュラ伝説が作られていくことになった、根っこの部分を垣間見ることができる。それから、時間とともに恩恵よりも恐怖の感情が強くなっていく周囲の人々により、社会的に追いやられてしまったことも、我が身のように感じることができた。

 自らのものではない記憶を得、知るはずのない男の人生を真直瀬が知るようになったのは、もう十年近く前、歯が生えたばかりの幼いカズ少年に噛み付かれたことが切っ掛けだった。

 その時、今まさに目の前の寒天培地に張り付いているエオニターゼが、真直瀬の体内に入り込んだのだ。

 そうして意図せずエオニターゼを受け入れてしまった真直瀬は、そのままエオニターゼ投与後の観察被検体になることを了承し、現在に至っている。その日から、事実を知っている医師らと現場に居合わせたナースたちは、真直瀬の仕事仲間であると同時に、真直瀬の観察者になったのだ。

 体調の変化など、いくつかの報告を義務付けられている真直瀬が彼らにさえ知らせていないのが、この『他人の記憶』だった。

 最初こそ、たまに夢で見る程度だった不思議な光景は、何年かの時を経て、まるで真直瀬自身が体験したもののように脳に刷り込まれていった。だが、それを他人のものだと理解できるのは、染み込んだ記憶の景色が明らかに現代日本の、つまり真直瀬の環境とは大きく異なるせいだ。

 『記憶』の人物は、欧州の随分寂れた集落に住んでいたらしい。灰色で薄暗い空の下、痩せた土地と格闘しながら懸命に生きるその人は、真直瀬が聞いたこともない言語を使っていた。何を話しているのかは分からなくても、その時何を思っていたかは理解できる。これも、彼の体験をなぞっているせいだろう。

 その人物の正体も、真直瀬は何となく感じ取っていた。彼こそ、エオニターゼが最初に宿った身体の持ち主だ。

 どうしてこんなものが自分の中に住み着いたのか、真直瀬にも定かではない。臓器移植をした際、臓器提供者の記憶や習慣が移植後の患者に伝播するという不思議な現象があるが、恐らくこれもその一種なのではないかと想像してはいたが、確証もなかった。

 エオニターゼを受け入れた後、徐々に鮮明になっていく他人の記憶は、施術後の人格改変や行異常の原因になっているのだということにも気づいていた真直瀬は、しかし、自身に起こっている変化を他言するつもりはなかった。

 この記憶は、エオニターゼが託された『遺伝子』なのだ。

 記憶によれば、エオニターゼを生み出した稀有な肉体の持ち主は、人々から畏怖されながら、ついに孤独と流浪のうちに人生を終えた。理解してくれる相手にも、子孫を残す機会にも恵まれなかった『彼』が、たった一つ残すこと叶ったものだった。

 事実を公表すれば『彼』の記憶はこの時代で潰えるだろう。けれど、既に真直瀬の一部となった『彼』がそうすることを許さない。まるで生物の本能のように、真直瀬の思考を阻むのだ。

 こうして、この記憶を持って生きることが、『彼』の生を受け継ぐということがエオニターゼを宿した肉体に課せられた役割なのだとしたら、次はどうするべきか真直瀬はしばし思案する。

 そう、次は―――思考の末、真直瀬は休憩室で携帯電話を開いた。忙しいと理由を付けて、少しばかり距離が出来ていた恋人に連絡をとるためだ。

 久しぶりに会う約束を取り付けて、少しばかり将来の話をしよう。自分の遺伝子を残せる、今最も可能性が高い異性だ。

 自分の血を彼女のものと混ぜて、また『彼』も生き残ることができる。そうしなければならないと、強く強く感じるのだ。

 短いメッセージを送ると、すぐに彼女から返事が返ってきた。それを確認してから、今度は電話番号を発信する。

 「急にごめん、××だけど……」

 口にした名が自分自身のものなのか、真直瀬にはもう分からなかった。

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