第8話 ロッククライマー 亜紀①

 亜紀アキは、16歳の高校2年生になったばかりの頃、交換留学生としてサンフランシスコに三ヶ月間暮らした。ホストファミリーのフォード一家はとても親切で、アクティブ。三ヶ月間の間、亜紀は色んな所に連れて行ってもらい、色んな人に出会い、そして衝撃的な運命を与えて貰った。

 

 ヨセミテ国立公園。

 

 フォード家の人々はサンフランシスコから片道四時間半ほどで来れるこの地が大好きだった。年に数回はキャンプに訪れるという。

 亜紀が初めてこの地を訪れた時は丁度、新緑のころ初夏の風が気持ちいい時期であった。

世界遺産のこのヨセミテ国立公園の事はサンフランシスコのガイドブックに大きく載っていて、知ってはいたが、さほど物珍しいとは思わなかった。女子高生である亜紀にとっては自然に興味あるより、ファッション雑誌やら、青い目のボーイフレンドができるかどうかの方が重要な事だった。しかし、交換留学生と言う立場上、そう言う本音は表には出せ無い。

フォード家にはナタリーと言う12歳の女の子がいた。

ブロンドの髪にグリーンに光る目は典型的なアメリカン美人タイプだ。スタイルも良くて、亜紀よりも四歳も歳下なくせに妙に大人びてどっちが歳上か分からないほどだった。実際、亜紀よりもナタリーよ方が背が高かった。日本人である亜紀は平均的な女子高生だと思っていたが、日本で言えば小六の少女なのにその色っぽさでも全く敵わない相手であった。

まだ覚えたての英語を手振り、身振りで話し、今となっては親友とまで言えるほどの仲になったナタリーだったが、当時は意思の疎通があまり出来なかった。それでも、ナタリーは異文化で育った亜紀に親切に、優しく根気良く付き合って遊んでくれた。

ホストファミリーが日本からやって来た女子高生を喜ばせる為に企画してくれたヨセミテ国立公園へのキャンプ場に虫がいたらイヤだとか行きたく無い。とかは当然言え無い立場であった。交換留学としてサンフランシスコにやって来たのだ。自然に興味は無くても多少我慢しなければなら無い。しかも、サンフランシスコのホストファミリーの暮らしぶりを報告しなければならない。適当に真面目な題材のエピソード、特に世界遺産的な題材は不可欠であった。レポートには事欠かない。ホストファミリーの休日は大事なテーマだった。


 ヨセミテ国立公園はカリフォルニア州の中東部、シェラネバダ山脈に広がる自然公園で、世界的に最も有名な国立公園のひとつである。

  ーー日本人は富士山に始まり、山を見るのが好きな人種である。世界遺産となると必ずツアーで訪れた日本人はこのヨセミテ観光は外さない。特に日本人に馴染みの深い高原、高山、川、森林という上高地や尾瀬。北アルプス山脈に似ている。と、ガイドブックにはあったが、亜紀は名古屋で産まれ育ったが、北アルプス山脈が地図の上でその場所を知ってはいたもの、実際には訪れたことも見た事もなかった。

ただ、ガイドブックに載っている雪景色の山々の写真の印象しかなかった。

 

両親はインドア派だった。兄も一人いるが歳が7歳も離れていた。その兄も滅多に外に出かけることもなく、家の中にいるのかどうかさえわからないほどの大人しい性格の人だった。ついこの前まで大学生だと思っていた彼だったがスーツを着て出かける姿を目にした時・・・。

 遠くの方に・・・。

亜紀とは別世界に行ってしまったような気がして寂しかった。

 

兄は今で言うイケメンだった。

 物静かだったが、亜紀の所に遊びに来る友達は兄目当てが多かった。

 

『亜紀ちゃんのお兄さんいる?』


友人たちはそれが合言葉のように家に遊びに来た。


 身長178㎝。やせ型。メガネは掛けているがその方が知的でカッコいいと評判だった。スポーツはからきしダメな兄なのに、なぜかモテる。その兄が結婚相手に選んだ彼女も絶世の美女と噂されるほどの人だった。


そして、その美男美女との間に産まれた子供。

 

 莉央は両親のその美しさを全て受け継いで、


不幸を背負った。

 

 ヨセミテ国立公園は4000m級の山々、1000mの絶壁、巨大な滝、裾野に広がる草原、深い森林と美しい小川は世界中の旅行者を魅了した。広大な広さと手つかずの大自然、観光客が集中するヨセミテ渓谷は全体の1%にも満たず、道路、建物、トレイルといった人工物を全て入れても全面積9割は全く人の手が入ってないと言うから驚きだ。

 1984年には世界遺産に登録された。

 シェラネバダ山脈が隆起してきたのが今からおよそ1,000万年前、山脈は西側に緩やかに傾く高原と、東側の急峻な岩肌を形成した。太古から流れる川の流れにはロマンが宿り、相次ぐ氷河期の到来により急峻な渓谷は滑らかなU字谷と変わっていったらしい。

 100万年前の氷河期には、氷河がヨセミテ渓谷全てを埋め尽くすほどの時期があったらしい。野生動物も多く、ブラックベア、アライグマ、鳥類、とにかく数えられないほどの種類が多く存在している。

 先住民も一万年前頃からいた。ガイドブックによると、1848年、カリフォルニア州コロナの町に流れる小川から金が見つかり、1849年にかけて約10万人がカリフォルニアに押し寄せてきたらしい。先住民のアワニーチーズ人達がヨセミテ渓谷で平和な狩猟生活を送っていたが1851年、白人のマリポサ大隊はヨセミテ渓谷に攻め込み、土地をカリフォルニア州のものとしてしまい、テナヤ酋長率いるアワニーチーズ達は必死の抵抗をしたが、弓矢に鉄砲相手では敵わなかったらしい。その戦いはマリポサ戦争と言われて歴史に残っている。

 ヨセミテは大きく分けてヨセミテバレー/ヨセミテビレッジ、グレーシャーポイント、マリポサグローブの3箇所に分けられる。ヨセミテビレッジは観光客が集まる一番人気のスポット、全ての観光の中心で、手軽に観光できるスポットの殆どがここに集中している。


ーーと、後に亜紀が観光ガイドをするようになってから覚えた知識である。



 フォード一家と共にこの公園内のキャンプ場で一週間過ごした。そして、後の亜紀にとってこの時の一週間が、亜紀の未来の全てを左右しようとは夢には思わなかった。

今でも覚えている。


『エル・キャピタン』


そこは、ロッククライマーの聖地と呼ばれた所である。

その壁を見た時、衝撃を受けた。

ロッククライマーを見たのも初めてだったが、彼らがエル・キャピタンの岩壁に張り付いて蓑虫のようにぶら下がっていた。


凄い光景だった。


ナタリーと、その岩壁の真下に立ってクライマー達を見上げたら足が震えて止まらない感覚を味わった。

『恐怖』

イヤ、亜紀にとってあの時ほど興奮を覚えた事は無かった。

『登りたい』

そう思ったのだ。いつか、自分のこの手で、この身体で、今、真上でぶら下がっている彼らの様に。彼らが今見ている景色が知りたかった。その場所はどれだけ凄い所なのか?そこに行った事のある者だけが見れる景色を見て見たかった。


それはナタリーも同じだった。

ナタリーは、その場所が初めてでは無い。何度もロッククライマー達を岩壁の下から眺めていた。


彼らが岩壁を這って登る様は、圧巻だった。時にはスピードディーに目的の岩の窪みを見つけてはそれに向かってジャンプする。中には華奢な女性もいたりしたが、彼女達のしなやかな動き、アクロバッティング的な動きには魅せられた。

その場に立ち尽くし、動け無くなったクライマーもいた。フォールする瞬間も見た。


それでも彼らの筋肉、一旦動き出すと全身の筋肉が綺麗にこれでもかと言うくらい、筋肉の役割を果たす様が見て取れた。挑戦する彼らの誰もがこの筋肉を持っていた。一見華奢に見える彼女達の筋肉でさえ、登攀とうはんしているその後ろ姿は筋肉の塊であった。


「あの壁に登るのはトレーニングが必要ね。まだ、私達にはムリだけど、いつかは登頂するわよ。」


「必ず登って見せる。」


ナタリーが言った。私も必ず登って見せる。クライマーへの情熱を初めて味わった瞬間であった。

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