1日目 22時15分


「おかえり」


 908号室の扉を引き開き、赤絨毯を踏み付ける。先に部屋に戻っていた凍子さんが、ベッドの上でまた煙草に火をつけている。煙が視界を縦に横切り、天井付近で風景へと溶けていく。


「何か買った? 残念だけど、買ってもすぐには手に入らないよ? 買ったものは、全部次の食事のときに一緒に届けられる。今買うと、明日の朝8時の朝食と一緒になるね」


 エレベータホールの端末では、凍子さんの言うとおり沢山の物品が購入できるようだった。高級料理やゲーム機、コンドームやアダルトグッズなんてものまであった。こう言ってはなんたけど、正直馬鹿馬鹿しい限りだ。


「凍子さんは幾ら持ってるんです? ゲームってので、coin稼いだことがあるんですよね?」


 端末の液晶画面をみる限り、僕は今300coinを所持しているようだった。だったら、凍子さんは幾ら持っているのだろう。

 ゲームは2日に1回と、凍子さんは言っていた。1ヶ月前からここに監禁されているのなら、単純計算で15回、彼女はゲームに参加しているはずだった。


「8628。お金持ちでしょ?」


 少し口角を吊り上げるようにし、凍子さんは自嘲気味に言った。思っていたよりもずっと少ない。僕は重ねて尋ねる。


「今までに何を買いました? 液晶テレビ100個くらい買ってて貰えると嬉しいんですけど......」

「あはは。やっぱり君頭いいね。次のゲームの情報ってやつを1回買った。500coinの方ね。それから煙草。こっちは昨日初めて買ったから、遣ったのは全部で600coinかな」

「笑えますね、それ」


 凍子さんは1ヶ月この場所にいる。15回ゲームに参加している。そうやって稼げたのが、9228coin。僕が仮に凍子さんと同じペースでcoinを稼いだとして、脱出権を購入できる10万coinが貯まるのは10ヶ月以上後のことになる。こんな場所に1年近く。正直に言って、気が狂わずにいられる自信はない。


「ゲームにはね、それぞれ難易度があるんだよ。自分じゃある程度までしか選べないんだけどね。難易度は1から5までの5段階で、難易度1のゲームの賞金総額は、200coin×参加人数。例えば20人参加のゲームなら、200coin×20で、4000coinがゲームの勝者に均等に分配されるんだ。この1人頭のベース賞金は、難易度が1上がるごとに2倍されていく。難易度2なら400coin、難易度3なら800coin、一番上の難易度5のゲームなら、3200coin×参加人数が総賞金になる」

「凍子さんは、難易度4とか5のゲームに勝ったことあるんですか?」


 恐らくないのだろうと、そう思いながら訊いた。ゲームの勝率を50%、つまり2人に1人が勝つと仮定すると、難易度5のゲームに1度勝てば6400coin手に入る計算になる。だけど凍子さんは、15回前後ゲームに参加して、僅か9000coinしか持っていない。難易度1から3までのゲームを、それなりの勝率で潜り抜けてきている、と見るのが正しいような気がした。

 尋ねれば、果たして彼女の答えは想像の通りだった。


「ないよ。ゲームには14回参加した。だけど全部、難易度3以下のゲームだった」

「そのうち何回勝ったんですか? 例えば、難易度3のゲームは何回中何回勝ちました......?」


 目覚めれば、見知らぬ場所だった。広大な森の中に立つホテル調の建物。そのワンフロアに閉じ込められ、いつ帰れるのかも分からない。目の前の先輩の話が全て真実であるのなら、一年近くもここにい続けるハメにだってなりかねない。普通に考えれば、絶望的な状況。泣き叫んで我が身の不幸を嘆いたって誰にも責められやしない、そんな境遇。

 泣きたい気持ちはあった。毒づきたい気持ちも、当たり散らしたい気持ちも勿論あった。

 だけど僕はそれと同じくらい、わくわくしてもいた。

 退屈な日常が唐突に終わりを告げた。自宅と学校を往復するだけの平和な毎日が脆くも崩れ去った。友人等には暫く会えない。両親にだって暫く会えない。明日になれば、明後日になれば、僕がいなくなったと家は大騒ぎになるかもしれない。

 警察に捜索願だって出されるだろうし、もしかしたらニュースにだってなるかもしれない。勉強だって遅れてしまうし、そもそもが今は、受験シーズン真っ只中だ。大学進学を希望していたけれど、これで1浪、いや2浪は確定だろう。それでも。それでも胸が浮き立つのが止まらない。僕にとって退屈な日常は、それほどの痛苦だった。


「7回参加して7回勝った。難易度1のゲームも2のゲームも同じ。全部勝ってる。だからこそ、今こうして座っていられる」

「凄いじゃないですか。ゲームってのがどんなのかは分かりませんけど、負ける人だって当然いるんでしょう?」


 自由を勝ち取るためにゲームに参加する。勝って勝って勝ち抜いて、平和な日常への帰還を目指す。悪くない。ゲームを勝ち抜いた先にあるのが退屈な日々というのがちょっとアレだけど、贅沢は言っていられない。

 凍子さんが一緒にいるというのも大きい。今だってホテルの一室に2人っきりな訳だし、もしかしたら、関係性の進展だって望めるかもしれない。

 そういえば、端末の販売品目一覧に教科書なんてものもあった。あれを使って、凍子さんに勉強を教えて貰うなんてのもいいかもしれない。凍子さんは頭がいい。大学だって、確か偏差値の高いところに通っていたはずだ。きっと分かりやすく教えてくれることだろう。


「このフロアね、全部で20部屋あるの。わたしがここに連れてこられた1ヶ月前は、満室だったんだよ。だけど今は誰もいない。わたしと、それから君だけ」

「他の人達はどこに行ったんです? 先に脱出しちゃったんですか?」


 やっぱりそうだ。人の気配を感じないからもしかしたらと思っていた。9階には、僕と凍子さん以外誰もいない。つまりは2人っきりだ。正真正銘文字通りの2人っきりだ。

 黒のトレンカに包まれた凍子さんの脚を見つめる。ほっそりとした形のいい脚。程よく肉のついた太腿。左右均整のとれた脹ら脛に、きゅっと引き締まった足首。脚に特別な魅力を感じるような変わった嗜好はなかったはずだけれど、それでも正直たまらない。滅茶苦茶綺麗だ。

 もし今、その太腿に手を伸ばしたら、凍子さんは怒るだろうか。9階にいた他の人達が脱出を果たしたのがいつのことなのかは分からないけれど、凍子さんだって多分寂しいはずだ。僕が求めれば、寂しさから受け入れてくれたりしないだろうか。

 時間が経てば経つほど、頭の中は馬鹿な妄念に支配されていく。この状況に、明るいのか暗いのか判断のつかないこの現実に、僕は確かに、興奮していた。

 脚の綺麗な凍子さんは、小さな声で言う。僕の質問に、囁くようなソプラノで答える。

 美しい桜色の唇から発せられたそれは酷く、現実感を欠いた言葉だった。


「死んだよ。皆死んだ。この腕輪から、毒物を注入されて死んだの。ゲームに負けたせいでね」


 少しずつ少しずつ、熱を持ち始めていた下腹部が冷め往くのを感じる。熱くたぎっていたおかしな欲求が萎えて萎んで消え失せるのを感じる。

 死んだ? 凍子さんは今、死んだと言ったろうか。


「え? どういうことです?」


 相変わらずの馬鹿な質問。これっぽっちの知恵すら含まない、子供みたいな問い掛け。


「だからさ、ゲームは全部命懸けなの。負ければ殺される。青黒く鬱血した顔を歪めて、涙と涎を撒き散らしながらのたうち回ることになる。理解できる? 日下部君。君の人生はもう、残り13時間後を切ってるかもしれないんだよ」


 嗤う。そう言って、美しい僕の先輩は嗤う。

 浮き立つような気持ちはもう、砂粒ひとつほども残っちゃいなかった。

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