ゲンジとヨイチ

夕星 希

第1話 

過去は追ってはならない

未来は待ってはならない

ただ現在の一瞬だけを

強く生きねばならない

    ーブッダのことば 

 

1575年 陰暦晩秋

ヨイチ二十一歳 讃岐国小豆島・修験道の行場

 

隼が天を舞う。

その初列風切は鋭く空を裂き、断崖の獲物は瞬く間に捕えられる。

ヨイチは真白い脚絆と手甲を付け、袈裟をまとい、身支度を整えた。

魔よけのための安息香を手のひらで軽くこすると、甘い匂いがほの

かに漂う。

多くの陶酔した虫たちの羽音が喧しくヨイチを覆う。

雷鳴が轟くと同時に、

「超克せよ」

との声がどこからか聞こえて来た刹那、衝天の勢いで島の断崖に吹

く風が唸る。

彼の身体は揺蕩う。

風雨に晒された足場の岩はぎらぎらと煌き、それは奈落の底を照ら

す幾つもの光のすじのようである。

魍魎たちがヨイチの四肢を捕らえる。

「うぬっ!」

諸行無常

諸法無我 

一切皆苦

行場の主がやおら三印を唱えると瞬く間にヨイチの身体がふっと軽

くなり、躯体には力が漲った。主がヨイチの迷いをすばやく見抜い

たので、彼の死を賭す行は事なきを得た。ややしばらくして頂を制

覇したヨイチは呼吸を整えて、言った。

「なぜこの俺を助けた」

ヨイチは納得のいかない様子で尋ねた。

「……お前は現世に対しわずかばかりの執心があるのではないのか」

主の厳かな声が谷に響く。

「……執心?そんなものは断じて無い」

しかし主はヨイチの心を見透かしたような声で

「女人の……」

「女人の声がお前のなずきに絶えず囁くのであろう」

「うぬっ……」

ヨイチはあまりの羞恥に全身身震いをし、直ちにこの行場から去り

たくなった。

「女人への執心がある限りお前は永遠にこの業から抜け出すことは

出来ない。今、 悪しきスダマたちが地獄の門で地蹈鞴を踏んでお

るわい」

「くっ……」

ヨイチは烈風が吹き荒れる中で、激情に窶された俘囚びとのように

その場に座り込んだ。

 

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