第3話

 細く暗い獣道を、巫女の白い背が駆けていく。


 集落を焼く轟音が、次第次第に遠ざかる。

 夜風に、梢がかすかに鳴る。


 暗く閉ざされた視界がひらけた。


 樹海の狭間、鬱蒼と生い茂る旺盛な木立が、そこだけぽっかり払われている。

 天から射しこむ月光が、白々と装束を照らしていた。

 中ほどまで走り出た巫女は、小柄な肩をあえがせて、脇目も振らずに歩を進める。 


 音もなく足を止め、赤髪は行く手に目を凝らした。

 巫女の白い背が向かう先、広場の奥まった暗がりに、何かがひっそりと紛れている。


 古ぼけた祠のようだった。


 木立が払われた寂れた場所に、ぽつんと一つだけ建っている。息を整える暇もなく、巫女は祠に背をかがめ、古い扉に手をかけた。


 蒼い月明かりの暗がりで、かすかに軋んだ音がする。


 ほむらの音が、遠く聞こえた。

 凍てつく夜闇に風は凪ぎ、森は黒く佇んで、月は夜空に冴えわたる。

 祠にかがんだ背を戻し、巫女は安堵の息をつく。


「案内、ご苦労」


 ぎくり、とその背が強ばった。

 ゆっくりと、ぎこちない動きで、白い覆布が振りかえる。「……いつから、そこに」

「なるほど。どうりで見つからねえわけだ」


 ジャリ──と靴裏の小石を鳴らして、赤髪は苦笑いで近づいた。

 後ずさりを始めた覆布は、腕に何かを抱えている。

 密やかな広場を囲む木立に、赤髪は視線をめぐらせる。


「こんな隠し場所があったとはな。しかし、ずいぶん無用心だな。これじゃあ、誰にでも持ち出せるじゃねえかよ」


 満月だった。

 月の蒼光に包まれて、巫女の白い姿が浮き立つ。深い樹海の暗がりに、長い覆布がいっそう白い。


「そいつを渡してもらおうか」


 赤髪は手を突き出した。

「さあ、素直に渡しちまいな。命まではとらねえからよ」

 懐深くに掻きいだき、覆布が顔を振りあげた。「あ、あ、あなたは、なんということを!」


 足を止め、赤髪は怪訝に見返した。


「た、た、民を、あなたはっ!」

「──俺に説教する気かよ」

 こみあげた失笑に顔を歪める。「この期におよんで、この俺に? 自分の立場わかってる?」


 非難しようというらしい。この悪党の無体な所業を。

 だが、非難などというものは、対等な者にのみ通じるたわ言。


「ま、そんなことは、どうでもいい。さあ、早く、そいつを寄越しな」


 巫女はじりじり、宝珠をかかえて後ずさる。

「さっさと出せよ。身の為だぞ」

「──嫌です!」

「そりゃあ、ねーちゃんの頼みなら、俺だって聞いてやりてえが、そこはこっちも仕事だからさ。な~に、命までは取りはしねえよ。用があるのは、そいつだけだ。お前をどうこうする気はない。さあ!」

「いいえ! いいえ! これは大事な──!」


 巫女が緋袴をひるがえした。


 一目散に樹海へ駆けこむ。

「俺と追いかけっこでも始めようっての?」

 小首をかしげて、赤髪はながめた。


「しょせん、無駄な悪あがきだけどな」


 苦笑いして、軽く地を蹴る。

 今にも転げそうな白い背が、ふわふわ闇で揺れなびく。

 もつれる足を踏みしめて、巫女が必死に逃げていく。赤髪はたちまち間をつめた。


「放してっ! あなた方が持っていても、何の役にも立ちません! ですから──!」


 ふわりと一瞬、風をはらんで、白衣が地面に転がった。


 その肩を、赤髪は踏みつける。

「諦めろって。あんたが俺から逃げられる訳がねえだろう?」

 地面に転がる白衣の肩を、赤髪は無下に引っ立てた。「出せよ。ほら!」

「お、お願いです! これだけは──!」

「まだ分かっていねえらしいな」


 かたくなに抱えこむ細い首に、赤髪はすばやく腕をかませた。

「仲間は、み~んな殺っちまったぜ~? 助けなんか、もう来ない」

 ぐっ、と首を締めあげられて、巫女はもがき、首を振る。

「お前に逃れる術はない。さっさとそいつを引き渡せ。それとも、ここで死にてえか」

「放してっ! だめなの、これは──これは──!」


 叩きつけられた白い衣が、土の地面に転がった。

 すかさず胴に乗りかかり、赤髪は肩を引っつかむ。「ほら! どっちの手だよ。出してみな」

 必死で抗う両手をつかみ、仰向けの腕を開かせる。


「へっへっへえ! コレコレコレ!」


 胸元から奪い取り、巫女を打ち捨て、立ちあがった。

 月明かりにそれをかざして、赤髪は品を確認する。


 それは球形のぎょくではなかった。

 いびつに割っ欠けた翠玉のかけらだ。だが、わずかに残った曲面から、かつての形を推定できる。


 月の蒼光に、翠玉がきらめく。

 手のひらに収まるほどの薄汚れた小さなかけら。これが、秘宝と呼ばれる夢の石──


「か、返してください!」


 足にすがった白衣の肩を、赤髪はすげなく突き放した。

 転げた地面から身を起こし、覆布の巫女は訴える。「だめ! 返して! それは大事な──それがないと、私たちは!」

 再びすがりついた巫女を見おろし、赤髪は、ふと、うるさそうな顔をした。


「……どうしても、死にてえらしいな」


 白衣の肩を引っつかみ、すらり、と腰の短刀を抜く。

 夜空に白刃を振りあげた。


「だったら、望み通りにしてやるぜ!」


 ざわざわ、梢が夜空で鳴った。

 静まり返った祠の広場を、月光が蒼く照らしている。家屋が燃えはぜる遠い音。


「──なーんてな」


 首をすくめた覆布の巫女が、へたりこんだ地面で、びくびく仰いだ。

 引き返しつつ赤髪は、シッシと手を振り、追い払う。

「ほら、さっさと、どっか行け。もう、お前に用はねえよ」




 足どりも軽く、赤髪は歩いた。

 ここ数日まとわりついた、得体の知れぬ気鬱と不調は、跡形もなく霧散していた。

 疼くようなようなむかつきも。指の先が焦れるような、胃の腑がひりつく不快感も。そう、強く手のひらを握って、何度、感覚を取り戻したか知れない。


 粘り気のある重い沼地を、一歩、また一歩と、苦労して進んでいくようだった。泥土から足を抜き、足を前へと踏み出して。

 それでいて、気は急いた。

 胸の奥に、異物感があった。色も形も不確かな、気分をざわめかせる曖昧なゆらぎ。そう、とでもいうべき、かすかな兆しが。だが──


 煙草に火を点け、一服し、赤髪は夜空に紫煙を吐く。それもこれも済んだこと。

 身も心も軽かった。

 黒々とよどむ有象無象は、すっかり払拭されている。あとは宿に戻って寝るだけだ。行く手には白々、街道への帰路。


「か、返してっ!」


 ふと、赤髪は足を止めた。

 怪訝に声を振りかえる。


 夜目にも白いその姿が、月下の道に立っていた。

 置き去りにしたあの巫女だ。あのあと駆け回って捜したか、肩で息をついている。白い装束はよれ曲がり、袴の裾は土くれにまみれ──。


 先の気分に引き戻されて、赤髪はげんなり嘆息した。

「……あー、あんた、まだいたの」

 止めていた足を、無視して踏み出す。あわてて巫女は回りこみ、両手で腕にしがみついた。「返して下さい! それは大事な──」

「うっせーんだよ。このアマ」

 赤髪は肩を引き剥がし、道のかたわらに突き飛ばした。

 あえなく転がった緋色の袴に、赤髪は軽く背をかがめる。

「おいこら、甘く見んなよ巫女さんよ~。こう見えても、お仕事なの。あんまりしつこいと、あんたも闇に葬っちゃうよ?──ほら、怪我しねえ内に、さっさと消えな」


 苛立ちまじりに言い捨てて、月下の道を歩き出す。

「返して! お願い! それを返して! それがないと、わたし達は、時を紡ぐことができないわ!」

「──たく。なに訳のわかんねーこと、ごちゃごちゃと」

 足にすがった白い覆布に、赤髪は辟易と天を仰ぐ。

 舌打ちして、帰路をながめた。

「俺、今、機嫌悪りぃの。さっさと戻って、お寝んねしたいの。いつまでも、まとわりついてっと危ねーぞ。命はお互い大事にしよーや。な?」

「返して下さい! あなた方がお持ちになっても、なんの役にも立たないものです! ですから、お願い! それを返して!」


 悲鳴まじりの懇願を、つくづく赤髪は見おろした。


 点けたばかりの煙草を弾く。

 小柄な巫女をかかえあげて立たせ、肩をおもむろに引き寄せる。


 びくり、と覆布がのけぞった。

 動きを止めた覆布越しの耳元、薄く笑って赤髪はささやく。


「──だから言ったろうが、危ねえって」


 白衣に包まれた小柄な肩が、小刻みに打ち震えていた。

 薄い絹の覆布越しに、浅い呼吸がみてとれる。


「……か、返……して……極楽鳥、の……それは、大事な……」

「残念だったな、巫女さんよ。そういうことは、もっと信心深い奴に言えや。あんたの子分は有り難がるかも知れねえが、あいにく俺は神様なんざ信じてねーの。どれほど尽くしてやったところで、なんの見返りもねえからな」

 あふれ出した鮮血が、白い衣を流れ落ちる。

「用も済んだし、そろそろ行くわ」


 ひときわ強く、巫女の背がのけぞった。


 一瞬強く肩をつかんで、細い指が滑り落ち、支えをなくした白衣の肩が、月下の道にくず折れる。


「はい、終了っと」


 刃の血を振り払い、足にもたれた白衣で拭く。

「余計な手間暇とらせやがって」

 無造作な手付きで鞘へと戻して、力ない肩を突き放した。

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