番外4:巣立ちの楔
少女はあるカフェである人物を待っていた。趣味で見つけたこのカフェは、最近になってやっと日本に上陸した、まだ店舗数の少ないが、海外ではメジャーなチェーン店だった。初めてここに来た時には、今は亡き『親友』が一緒だったのだが、生憎と彼女は卒業式予行のあの日に……決別した。彼女と最後に遊びに来たのがこの店なので、余計に感傷的になってしまう。
少女――一色若葉は初めて来た時の気分で頼んで以来、ずっとこの店ではこれだと決めている、甘いキャラメルマキアートを注文した。彼女の私服姿のお洒落ぶり、大人びたその姿に、アルバイトらしき青年店員はこっそりちらりと盗み見ている。
待ち合わせの相手が到着したのは、あらかじめ決めていた時刻をピッタリ十分過ぎた頃だった。……彼はいつも若葉と待ち合わせをする時は一秒のズレもなく、ちょうど十分遅れてくる。これも彼なりのこだわりなのだろうか?
「……待たせたな。元気だったか?」
その声は『父親』らしい、『娘』を気遣い。彼女の気持ちを尊重した声音だった。ただこの一言だけで、若葉はこの父に大事にされている事を再認識する。これがこの父娘の愛情のカタチだった。
それはこれからもずっと続くものだと考えているし、相手もきっとそのつもりだろう。相手――相変わらず不定期に居場所を変えている大西隆はそういう男で、そういう『父親』だった。それは今も昔も変わらない。母であるクリスティに見せる気まぐれな愛情も、どこか洒落ていて素直に尊敬できる。いくらプライドが異常に高いと自分で認めている若葉でさえも。
「ううん。わたくしもたった今、来たところよ。もう少し遅くても良かったのよ? 読書の途中に水を差されるのも嫌なモノですもの」
「それは悪かったな。おい、俺にはアメリカンを。ガムシロもミルクもいらん」
彼は店員にそうオーダーした。そしてつい数日前に十三歳で高校の卒業式が中止になった『娘』を気遣うように、優しい目をした。若葉はわざと留年していたのは、まだ若い自分の進路をこれほど早くから決めてしまう事に戸惑っていたから、に他ならない。勉強も簡単すぎて暇だったため、三年生に進級してから今年まで、ずっと続けて生徒会長を務めていた。……大西には、そんな若葉が可愛くて仕方がないらしい。
「……そうか。それで、当然大学には進学するんだろう? どこにした?」
「明倫館よ。医学部が進んでいて、ドイツ留学も盛んだから」
「医学部、だと?」
それまで機嫌がいいように見えた大西の笑みがゆっくりと歪んでいく。少なくとも『義姉』とは長い付き合いなので、彼の細やかな変化の意味くらいは知り尽していると、若葉はタカをくくっていた。……それが彼にとっての『地雷』だったとは、この時は全く、考えもしなかった。
若葉が心から『尊敬』する、『父親』の顔がまず不快の色に染まり、やがては彼女も一度も見た事のない、残虐なその正体、『爆弾魔』の顔に豹変した。
「若葉ぁ! お前はそれでも『俺の娘』かぁ!」
この広いカフェ中に響き渡りそうな大音量で、それまで優しい『父親』の顔をしていた大西は叫んだ。あまりにも突然の事で、流石の若葉もどう対処すればいいのか、とっさには思いつかない。すっかり『爆弾魔』の凶悪な顔になった『父親』は、若葉の胸元を乱暴に掴み、軽々と彼女の身体を持ち上げた。……悲しい事に、この後の行動が若葉には容易く読めてしまった。
「何をなさっておられるんです! おやめください!」
先ほど大西のオーダーを取った店員が、コーヒーを手に慌てて寄ってくる。しかし、一度変貌した大西の勢いは止まらない。彼は若葉の予想通り、鳩尾に拳を入れた。一切の躊躇いもなく。
「かはっ!」
思わず唾液と喘ぎ声が漏れた。意識が遠のくかと思うほどの重い痛み。それは生まれてきて十三年間の間、一度も味わった事のない『暴力』だった。
「俺の信念を忘れたのか? お前はあの豚児とは違って、賢い娘だと思っていた。……それもどうやら買いかぶり過ぎだったという訳か!?」
「……一体、なにが、気に、入りませんの?」
若葉は肋骨が折れているのかもしれないと直感で思った。でなければ、これほど呼吸が圧迫されるなんてことはないはずだ。
「……『燃やし尽くす事』、それが俺の昔から変わらない、ただ一つの信念だ。信念というモノは何かがあったから、誰これに影響を受けたからといって、そう簡単には変わらないモノなんだ。だからこそ誰も譲らないし、譲れない。……こんな簡単な事も知らずに、よくもまあ『天才少女』などと呼ばれて満足していられるものだ!」
コーヒーを運んできた店員は、やっと大西の正体に気づいたようで、慌ててスマートフォンを取り出そうとした。しかし、それを若葉が制す。
「どうしてですか!?」
「……貴方には関係のないことですし、巻き込まれたら文字通り地獄の底まで追われる羽目になりますわ。それがお望み?」
痛みに耐えながらも、頭の回転速度は落ちてはいなかった。この場で最も『父親』を刺激せず、穏便に済ませる最善策を打つ。幸いな事に、平日の午前中だ、客など数えられるほどしかいない。……この程度の人数ならば、若葉が得意の話術で煙に巻くことが出来るだろう。
「……わたくしの憧れはパパ――『父親』である大西隆という立派な方でした。わたくしが幼い頃から可愛がってくださった事、あの『義姉』とは大きな差があった。当然だと思っていましたわ、数日前までは。……あの時、わたくしは大事な『友』を喪いましたの。もう二度と得難い大事な『友』を。もしもあの時、わたくしにもっと……、これほどまでに後悔なんてしなくても済んだかもしれませんのに」
大西は若葉の主張を、冷めかけたコーヒーを片手に聴いている。それはまるで初めての授業参観に参加する親の気持ちに似ているのかもしれなかった。
「……そもそも、わたくしはいつまでパパの『お手伝い』をしていれば良いのですか? 成人するまで? それともパパの『実の娘』である限り、一生? ……でしたらわたくしも覚悟を決めますわ。思えばあの時、鏡病院で『彼女』と再会した時から決めていたのかもしれません。医学を極めよう、と。そして、パパの『信条』が『燃やし尽くす事』である以上、わたくしたちは一緒にいてはいけないのです。……だって、互いに傷つけあうことしか出来ないのですから。『信条』がほぼ正反対なのですから。わたくしは『人間を助けたい』と思ってしまったのですから」
大西はコーヒーを飲み終え、一万円札を無言でテーブルに置いた。
「……好きにするがいい。それがお前の出した『答え』なのならば。だが、一つだけ言っておく。もう二度と俺の『娘』として振る舞うな、甘えるな、連絡するな」
それは彼の最大限の譲歩だった。若葉は未だ痛む肋骨に手を当てて呟いた。
「……いたい」
それは身体の痛みであり、長年一緒にいた、大好きで大切な『父親』との別れの痛みでもあった。
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