番外1:コンプレックス

 春のこの時期は過ごしやすい。しかし、智也の部屋は別だ。彼と和也の部屋はゴミだらけ。とてもではないが、明の安住の地ではない。

 ある休校の日、溜まった課題を片付けようと、明は智也の部屋から脱出した。彼の行き先は一ヶ所しかなかった。



「はー! やっぱりここは静かではかどります!」

 明は教会内の机の上に、教科書とルーズリーフを広げたままで、大きく伸びをした。まだ一時間しか経っていないのに、予定の三分の一は終わった。智也がいてはこうはいかない。彼はいつも明を振り回し、邪魔をし、困り果てる様子を見ては笑い転げるのだ。

 そんな人間の傍にいては身の破滅だと理解はしても、なぜか憎めない。それが幼馴染ゆえの事なのか、それとも別の要因なのかは明には解らない。

 それにしても、やはり教会という場所は、訪れる敬遠な信者が多いためか、静かで落ち着く。神父が淹れてくれた紅茶も美味しい。クリスチャンでも何でもない明を笑って迎えてくれた神父はやはり心が広い。そんな彼は、今、懺悔室に籠っている。  今がらんどうなお堂に入るのは明と茜だけ。そういえば先ほどから、彼女は何も言わず、ハードカバーの本のページをゆっくりと捲っている。

 まるで明の事など目に入らない、とでも言いたいげに。

「……あの、茜さん?」

 課題にも一息ついたので、場所を提供してくれたお礼くらいは延べたい。そう思った明は茜に話しかける。読書に夢中のような彼女には無視されるかもしれない、と思ったが、それならそれで別に構わない。

「……ん。なに?」

 出窓のに腰掛けたままで、茜は空返事をした。

「僕の言葉を聞いてたんですね……意外です」

「僕だってたまには、明の言う事くらいは聞くよ。あ、智也は嫌いだから聞かないけどね?」

 返事はしたが、本の文面から視線を外すこともない。

「……」

 これには何と言ったら正解なのか解らなくて、迂闊なことは言えない。この静かな場に、嫌な沈黙が訪れる。話題に困っていると、茜が窓の外を見ながら呟いた。

「……そろそろ髪切ろうかなー?」

 それがあまりにも突然の事で、明の反応は大幅に遅れた。もごもごと口ごもった後、明は彼女の頭部を指差した。

「ちょっ、茜さん! あなた女の子でしょ? それ以上短くしたら、もうそれは坊主でしょ!」

 元々ショートカット、しかもギリギリで女子に見られる長さだ。明も初対面の時には少年だと勘違いしたくらい、彼女の髪は短い。

 茜は夕陽の光に自分の髪を透かして見ている。明の目には、そのこげ茶の髪が、淡くて優しい色に見えた。

「……君くらいだよ? 僕の事を女子扱いする人ってさ」

 そう言って薄く笑う彼女は、どこか危うく見える。

「そもそも、なぜ茜さんはそんな恰好をして、男みたいに振る舞うんです?」

「……なにを今更の事を?」

 彼女は本を閉じると、まだ終えていない課題が残っている明を、無理やり教会から追い出した。



 日が暮れて、神父と二人きりで夕食を摂っている時、不意に明の言葉を思い出した。

「……そんなに変かな? 僕としては普通のつもりなんだけど」

「いや、仕方がないだろう?」

 肉魚が一切入っていない、薄いスープを口元に運んだ神父は穏やかな声で応えた。

 あの雨の日、濡れ鼠だった少女を救ったのは自分だ。彼女のこげ茶の長い髪は、栄養失調気味で、すっかりで痛みきっていた。彼女は怖々と彼を見つめ、無言で助けを求めた。

 ――どうしたんだい?

 ――ぬれていたいきぶんだから。

 優しく事情を尋ねると、それだけ答えた。少女の表情の特徴は、忘れもしないあの男と酷似していた。最初は、見捨てようと思った。しかし、幼子にはなんの罪もない。 ……それになにより、少女のいたいけな瞳に魅入られていた。

「……ぷ。神父?」

 あの時の事を思い出していたら、不審げな顔で茜が睨みつけている。

「なにを考えてたの? やらしいこと?」

「……聖職者をからかうんじゃない!」

 ニヤニヤ笑いながら自分をからかう彼女の、どこか救われたようないつもの言動に、神父自身も安堵するのだった。

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