6月19日 城下町での出来事

 今朝九時。わたしとベルシーは少し早めに城を出て、城下町の時計台がある広場でマシューを待っていた。


 宮廷女中服じゃない服なんて、久しぶりに着た気がする。ベルシーは黒と赤のなかなか上品な、けどやっぱりどこか魔女めいたロングスカートのワンピース。わたしはお気に入りの茶色の膝下丈のワンピースで出かけた。スカートの裾と両袖に白のレースをあしらった、去年ミングの町で流行ったワンピース(主都オリエントだったら、一世紀前に流行っていたかもしれない……)。

 

 いいの。大事なのは着心地と動きやすだから。いつ馬車がわたしの真横をかすめるとも限らないんだから。これまでの経験から、身に着ける衣服でさえ生死を左右するものだと心得ている。お腹のあたりを絞めつけてばっかりの服じゃ、いざというとき屈めないもの。

 

 とにかく、自分の生死を左右する出来事が待っているなんて夢にも思えない、とてもすがすがしい朝だった。コバルトブルーの空と、はちみつ色の朝日を反射する石畳の城下町。お店の看板が上がり始めるのを見るといつだってうずうずする。


 それに、わたしは一人じゃなかった。隣にはベルシーがいる。もうすぐマシューも来る。友人三人と大都会オリエントを散策できるって思ったら、もううれしくてうれしくて。


 わたしとベルシーは、円形広場の長椅子に座って、広場を行きかう人々を眺めていた。かかとの高い編み上げブーツが流行っていることを覚えておかなくちゃ。

しばらくしないうちに、ユービリア城へと続く街道方面からマシューがやって来た。近くに来るまで分からなかったのは、白と青のかっちりしたユービリア国兵士の隊服を身につけてなかったからだと思う。


 苔色の上着に、黒のすっきりしたズボンとブーツを履いたマシューは、いかにも町の若者という感じで、なんだか良い線いってた。陽の光を浴びた茶髪が白っぽく輝いて、わたしたちの姿を見て和んだ翡翠色の双眸を見たとき、ほんとに誰?って思ったもの。

 でも、相変わらず腰帯に剣を吊っていたから、やっぱりどこへ行こうと兵士なんだよね。


「さて、お嬢さまがた」

 

 わたしたちの目の前まで来ると、マシューは大げさにおじぎをしてみせた。


「しがない護衛役ですが、本日は全力を尽くしましょう。背後は気にせず、安心して城下町の散策をお楽しみください」

 

 なんだか、そんな風に言ってもらえるのって、悪くない。


 わたしはマシューの演技にのっかって、


「あら。でしたら、お言葉に甘えて。ねえ?ベルシー」

 

 短い間だけでも、護衛役を得た貴族の令嬢のふりをした(まあ、一応は子爵家の娘だけど、名ばかりですから)。

 

 わたしたちはまず、ベルシーご用足しの店に向かった。


 で、まさかいきなり危険いっぱいの裏通りに入ることになろうとは。短剣を握った通り魔、酒臭い酔っ払い、不気味な予言をしてくる黒フードのおばあさん、お腹をすかせた野良犬、人食いドブネズミ……考えただけでも恐ろしい生き物たちがひしめく裏通り。


 オカルト主義の同室仲間はやっぱりあなどれない。わたしのたった一つしかない命を使って、いったい何を試そうとしているの?


 爽やかさが微塵も感じられない湿った薄暗い裏通りに、ベルシーが足しげく通うらしいお店があった。そうね。正直、しょっぱなから帰りたくなった。作り物の二匹の黒ヘビがだらりと看板にぶらさがる、おどろおどろしい怪しげなお店。張り出した窓には厚ぼったいカーテンがかかっていて、中は全然見えない。まともな人間なら、まずのぞこうともしないはず。


 まあでも、これは友人との初めての楽しい外出だから……。


 わたしはベルシーの陰に隠れるようにしてお店に入った。狭い店内には、平和に生きている一般の人々の目にはおよそ触れないような商品が棚にずらりと並んでいた。濃い赤や緑、紫色のドロっとした液体が入った小瓶や、動物の肝の瓶詰め、大トカゲの尻尾、六芒星が描かれた羊皮紙、灰色の石を彫ってつくられた頭蓋骨の置物……。

 

 ベルシーはいつになく楽しそうに商品を眺めていた。マシューでさえ、興味深そうに石で作られた(石よ。あれは絶対に石)頭蓋骨の表面をなでていた。わたしはいつでも店から逃げられるように、入り口に一番近い場所で待機してた。


 最初の悲劇は、天井からツーっと降りてきた手のひらサイズの大蜘蛛に驚いて、後ろにのけぞったときに、手がぶつかって床に落としてしまった商品――黒紫色に染められた、誰かの、奥歯と八重歯、計六個――をお買いあげしなくてはならなくなったこと。それに触れてしまった者の歯が、六年後に全部真っ黒になって抜け落ちてしまうっていう呪具だって聞いたときは体温がひゅんって下がった。


 店主とベルシーは丁寧に解説してくれた。いわく、呪いを解くには、すべての歯を小瓶に入れて、呪いを封じ込める魔術がかけられたコルク栓で蓋をして、一年間保存しておかなきゃならいとかで、わたしはその小瓶とコルク栓を買うためにいきなり三千リギーも失った。しかも、これからはこの、誰かの黒紫色に染められた歯を大事に保存しておかなきゃならない。

 

 わたしはその呪われた店で、あろうことかお土産を買おうとしていたマシューの首根っこをつかんで外に出て、ベルシーに聞こえないように訴えた。


「ねえ、兵士さん!人の歯に恐ろしい呪いをかける道具をひそかに売ってる店が街の中にあっていいわけ!?ここって、人々に害なす闇商店なんじゃないの?ユービリア国の法にひっかかってたりしないの!?」


「ほんとに闇商店だったら違法だけど、証拠がないと摘発ってできないんだ」

 

 マシューは他人事みたいに肩をすくめた。わたしは食い下がった。


「三千リギーよ、三千リギー!見てたよね、さっきのやりとり!ほとんど脅しじゃない!脅しは違法でしょ!」


「脅し?おれにはからかってるように見えたけど……そんなもん買わなきゃ良かったのに」


 聞き流した。


 オカルト主義の同室の子がいたら、マシューだって絶対に買わずにはいられないはず。


 マシューは素晴らしいこと思いついた、みたいな顔で、


「返品してきたどうだ?お金も戻ってくるし、しかも闇商店として国に訴えれるかもしれないぜ」

「証拠がないじゃない」

「六年後、コレットの歯が全部真っ黒になって抜け落ちたら、それが証拠になるだろ?」


 聞き流した。


 ベルシーが赤黒く染まった爪(あれは絶対血じゃない血じゃない血じゃない……)が何枚も入った小瓶を買ってでてきたところで、その店を後にした。


 マシューがおやっさんから夜話で聞いたという、その裏通りで起こった数々の悲劇について語り始めるので――無実の罪で処刑された男が、首のない姿のまま徘徊するだとか、切り裂き魔に襲われた娘が血だまりの足跡を残すだとか――うう、耳をふさいだのに全部聞こえちゃったし……(おやっさんも、おやっさんよ。夜語りで子供に聞かせる話じゃない!)


 ええい、とにかく、あんな店二度といくもんか。


 表通りに戻れたときは心からほっとした。ふつうに生きている人の気配が満ちてる場所って、なんて尊いんだろう。ふつうの服屋とか、ふつうの靴屋とか、ふつうの帽子屋を巡ってると、誰かの抜け歯に三千リギー払って落ち込んでた気分もだいぶ晴れた。


 オリエントは大都会だけあって、いつも最先端のお洒落な商品が店頭に並んでるから、ずっと見ていても飽きない。一方、ふつうの十代の女の子が訪れるような店を回ってるときのベルシーは無表情で、何度見ても分からない。楽しいの?楽しくないの?


 そして町を歩いてて気づいたんだけど、マシューってけっこう、年頃の女の子たちの興味を引くらしい。わたしたちのそばを通り過ぎた貴族風の娘や、平民らしい娘たちが、ちらちらとマシューを盗み見してるのが分かった。当人は気づいていないのか、無関心なのか分からなかったけど。


 恐ろしい夜語りを聞かされてから、わたしはマシューの話に耳を傾けなかったので、彼はベルシーに魔術的なことを訊いてた。友人におしゃべりなやつがいるんだけど、そいつの口をふさぐ良い魔術はないか、とかって。


 ふむ。それは少し興味がある。


 で、ベルシーはしれっと答えてた。危険がつきまとうけど、悪魔を召喚して血の契約を結ばせる方法があるわ、って。そのやり方を淡々と説明するベルシーに、さすがのマシューも顔を引きつらせていた。わたしはふたたび耳をふさいで、目だけで街歩きを楽しむことにした。


 わたしの中の欲しい、の衝動が最高に達したのは、三軒目の帽子屋の前。つばの広い、柔らかなベージュの帽子リボンがまかれに、緑とピンクの可愛い花と木の実が飾られていた。一目見た瞬間、運命を感じた。これを買わないと、わたしはお墓に入ってもきっと後悔する!

 

 で、わりとすぐに後悔するはめになった。なにって、察しの通りお金が足りなかったのよ。ええ、あの、“歯”のせいでね。六年後に歯が真っ黒になって全部抜けおちてもいいから、闇商店に戻って返品しようかとも思ったけど、挫折。やっぱり、歯は大事だし……。

 

 たぶん、店の中でよだれを出しそうなくらい物欲しそうな顔してたせい。店番をしていた可愛い看板娘の子がにこにこ笑って近づいてきて、どうぞお試しくださいって、鏡まで用意してくれた。被るまでは無料だから、わたしはそのベージュの帽子を手にとって、頭の上にのせてみた。自然と笑顔になるような、最高に素敵な帽子だった。


 でも、お金足りないしー!

 常連じゃないから、ツケで、とも言えないしー!


 わたしに買わせる気満々の娘さんを前に、わたしは帽子を手にとったままへどもどしてた。名ばかりの貴族の誇りが、「やっぱり、また今度にします」っていう言葉を伝えるのを邪魔してた。


 外で待機のベルシーを呼んで、お金貸して、っていうのも情けない。


 ほとほと困り果ててたら、わたしの後ろから伸びてきた手が帽子を取り上げて、


「これ、贈り物用に包んでもらえますか?わたしから、彼女に」

 

 マシューの言い方は、まるでお金持ちの貴族みたいだった。でも、彼の顔は完全に、貸しを作ってやったぜ、という感じだったから、吹きださないように苦労した。


 貸しを作るのはなんだか悔しかったけど、同時にちょっとだけうれしくて、


「あら。どうもありがとう」


 て、貴族の令嬢になりすまして鼻にかかった感じでお礼を言った。贈り物用の箱に入れてもらった帽子と一緒に店の外で出たところで、わたしはすばやく情けないコレット嬢に戻った。


「ありがとう、マシュー。助かっちゃった。今度ちゃんとお金返すから」


「いえいえ、けっこうですよお嬢さん。おれの失言のせいで、居心地悪くさせたこともあったし」


 マシューは謝ろうとしていたみたい。例の……誤解の件を。


 でも、そう改めて反省されると、わたしのほうが小さくなりそうだった。5月25日の件は、他ならぬわたしが引き起こした騒動だったし、マシューは不運にも巻きこまれただけなのだから。それなのに、彼は無条件でわたしに協力してくれた。


「いいの、もう。そもそもあれは……全部わたしが悪かったんだから。わたしの勘違いで、マシューとベルシーを振り回しちゃって……本当にごめんなさい」

「どうしてコレットが謝るんだ?」


 マシューは目をまるくした。


「勘違いで良かったじゃないか。本当に何かあってからじゃ、いまこうしていられなかったんだし」


 なんで?


 マシューはどうしてそう、いつも寛容に笑っていられるんだろう。


6月6日の件にしたってそう。あんなに危ない目に遭ったのに、彼は怖くなかったのだろうか。


 だとしたら、どうしてそう強くいられるんだろう。


 うう、ダメだ。帽子なんか買ってもらっちゃ。

 彼のような人に、甘えちゃダメだって思った。わたしがマシューから恩恵を受けても良い理由なんか、どう考えたって、一つもないんだもの。


「とにかく、男に恥をかかせるのもナシだ。その帽子、もちろん受け取ってくれるだろ?」

 

 もしあのときマシューがわたしの心境を察していたというなら、オカルト主義の陰謀を疑っていたかもしれない。でも、マシューは自然にそう言ったように聞こえた。

 

 そうよ。これ以上彼に恥をかかせるわけにはいかない。


 わたしは心からマシューに「ありがとう」と伝えた。彼が買ってくれた帽子は、家宝にするつもり。だって、その帽子を被っていたらわたしも強くいられそうなんだもの。


 それから、今度こそマシューにきちんとお礼をしようと思った。やっぱり彼、ものすごく良い友人だから。マシューが困ってるときは、今度はわたしが全力で助けるの。


 とにもかくにも、お昼前まではこんな感じで、和気藹々としていた。マシューがベルトを買いたいっていうから、三人で若者用のベルトを扱っているお店に入って、一緒に選んだりもした。わたしは金のバックルがついた赤い牛皮のベルトを勧めたんだけど、


「……派手じゃないか?」

 

 お気に召されなかった。ベルシーは銀のバックルがついた、あまり面白味のない黒いベルトを引っ張り出してきて、


「これにしなさい。運が良くなるわよ」


 魔女的見解まで示してきた。マシューはそれをお気に召して、お買い上げ。


 うーん、わたし思うんだけど、マシューってベルシーのこと好きなんじゃないの?


 マシューのお勧めで、お昼は円形広場の露店で売っていたハムナックっていうパンを買った。軽くあぶった厚切りハムと、レタスと、トマトと、ピクルスをかりっと焼き上げたパン二枚に挟んだ食べ物を、そのまま紙で包んで手渡された。大きいのに、一個五ブロンと素晴らしい庶民価格で、しかもすっごく美味しかったの!

マシューはわたしが知らないことをたくさん知ってたから、一緒に過ごすのは楽しかった。オリエントに来てから、こんな楽しい休日を過ごせるなんて思わなかった。女補の陰謀で、非番の日はやたら仕事で埋めつくされていたし……。


 ハムナックを食べ終わったあと、ベルシーが出し抜けに言った。


「わたし、これから魔女同盟の定期集会に行くから。あとは二人で好きにして」


 そのまま立ち去って行こうとするから、わたしは慌てて引き止めた。マシューがベルシーのことを好きかもしれないのに、何もしてあげないわけにはいかない。


「ねえ、ベルシー。せっかくだもの。集会場所まで、マシューに送ってもらったら?」


「魔女同盟は男子禁制なの」

 

 あいたた……。もうちょっと気を遣ってあげてー。


 わたしが渋い顔をすると、ベルシーは肩をすくめた。


「コレット=マリー。彼の背中を押すのを忘れないようにしなさい」


 正直、すっかり忘れていた。そういえば、そんな使命があったのよ。三日前の6月16日に言われたことを、もう忘れていたなんて。


 本物の助言者のようにそう忠告したわたしの同室の子は、黒いスカートをなびかせながらすたすた歩いていった。彼女を追いかけるのは不可能な気がした。華奢な子なのに、後ろ姿につけいるすきがないというか……。


「おれもそろそろ、城に戻らないと」

 

 マシューがそう言うので、わたしたちは二人で一緒に大通りまで戻った。わたしは他愛無い話を彼と交わしながら、マシューの背中を押すチャンスをうかがっていた。けど、兵士だけあって、さすがにマシューもすきがない。

 

 わたしのほうは、じょじょに不運の本領を発揮し始めていた。


 頭上から植木鉢が落ちてきたり(マシューがすんでのところでわたしの腕を引いてくれていなければ、わたしはいまこの日記を書いていない)、大通りを走っていた辻馬車の車輪がはずれてこちらに飛んできたり(マシューがわたしを突き飛ばしてくれなければ、わたしはもう羽ペンを握ることすらできなかっただろう)、店の前に飾られていた色彩豊かなガラス瓶の塔がわたしのほうに倒れてきたり(マシューが店先に天日干しされていた厚手の絨毯ですばやくガラス瓶の雨を防いでくれなかったら、裏通りに血だまりを作っていたのはわたしだったかもしれない……)。

 

 ここまで来ると、さすがにマシューも困惑を隠せないようだった。石畳の上で粉々に砕け散ったガラス瓶の残骸を見て、


「危なかったなあ……それにしても、なんだかツイてない日だな」


 ごめんね―――!!

 

 たぶん、それ、赤毛で丸鼻の不運が近くにいたせいだ―――!!!


「は、早くお城に戻ろう、マシュー」

 

 なんだか、マシューがわたしの生死を左右する人物だというベルシーの予言が、あながち間違ってもない気がしてきて……。同室の子の魔女めいた力に心底怯えると共に、自ら棺に入りたくなるくらいマシューに申し訳なかった。


 これ以上彼を災難に巻きこまないように、わたしは彼の袖を引っ張って早く城下町を離れようとした。


 でも、いつの間にか表通りに人だかりができ始めていた。大道芸人がたくさんいたのだ。彼らは派手な衣装を身に着け、ジャグリングを披露したり、口から火柱を立てたり、棒切れを使って逆立ちしたり、帽子や広い袖のなかからネズミやハトを取り出していて、町の人々を大いに楽しませていた。


 中には明らかにクロスタン国出身の者だと思われる役者がいた。さ来週あたりにクロスタン国のお偉いさんを迎えるので、ユービリア国で働いている彼らを呼び寄せたのかもしれない。


 日焼け肌で、目元だけを羽のついた仮面で覆った、背の高い屈強そうな男たちは、通りの真ん中で木棒を使った剣舞を披露して、多くの見物客を集めていた。孔雀を思わせる極彩色の派手な衣装を着て、木剣を自分の体の一部のように縦横無尽に操る男たちを見ていると、いかにも好戦的に見えた。


 わたしたちは城へ急いでいたことも忘れて、しばらく彼らの剣技に見入っていた。


「すごいね」


 というわたしの呆気にとられた感想は、マシューの耳には届いてなかったみたい。彼は真剣な表情で彼らの動きを追っていた。もしかして、頭の中では彼らと剣を交えていたのかも。


 親善試合への出場を強く勧められた兵士だもの。気になるのも無理はない。マシューの顔に嫌悪感はなかった。それよりも、好奇心がのぞいていた。わたしには分からないけど、好敵手を見つけた、というような感じだった。


 本人はクロスタン国との親善試合に出ることに「興味がない」って言ったけど、あれは嘘だったのね。本当は彼も、試合には出たがっている。なんとなくだけどそう確信した。じゃあどうして志願しないのかしら。何か事情があるんだったら、ロラン隊長に、正直に言えばいいのに……。


 そのとき、わたしははっとした。マシューは足を止めて、すっかり異国の剣舞に目を奪われている。わたしたちの周りには人だかり。


いける、と思った。わたしはそろそろとマシューの背後に回り―――。

 

 えいっと言いながら、そっとマシューの背中を押した。マシューはけげんそうな顔で振り返った。


「コレット?」

「あ、いや……えへへ」


 わたしはこのとき、よっしゃ、と心の中でこぶしをにぎっていた。だって、ちゃんとマシューの背中を押せたんだもの!これでわたしの延命は約束されたはず。


 わたしは安堵して、マシューの隣に戻った。


「それで、やっぱり出ないの?親善試合には」

「何の話やら」

 

 数十歩先で繰り広げられる剣の舞を眺めながら、マシューはしらばっくれた。


「出ればいいのに」


 人々の喝采と歓声に混じって、カン、カン、と木剣が激しくぶつかりあう音がしていた。マシューはひたすら無言。


「マシューが歴史的快挙を成し遂げる瞬間、見たいなぁ」

「なんだよ、それ」

「だから。マシューがクロスタン国の剣士に勝って、ユービリア国の名誉剣士の称号をもらうの」

「称号なんか、ただの飾りだよ。なんの役にも立たないぜ」

「そうね。帽子とかドレスだって、いわばただの飾りだわ。でも、飾りがあるから世の中華やぐんじゃないの。それに、自分で手に入れた飾りって、けっこう愛着がわくと思うわ」


 マシューがちらっとわたしを横目で見た。


「妙な考えかたするんだな、コレットって」

「褒め言葉としていただいておきます」


 剣舞が終わり、クロスタン国の役者たちが一礼すると、割れるような拍手が起こった。息を切らした日焼け肌の男の一人が、にこやかに笑いながらこっちに近づいてくるので、わたしもマシューも目を丸くした。


 白い歯を見せて笑った異国の男は、異国語でマシューに話しかけた。マシューは困惑顔になって、わたしに助けを求めた。異国語どころか自国語さえ満足に操る自信がなかったわたしは、小さく首を横に振った。

 

 見事な剣舞を披露した男は、ようやく言葉が通じないことを思い出したみたいで、マシューの腰の剣を指さし、自分を指さし、それから木剣を軽くふってみせ、マシューの顔と自分の顔を指さした。

 

 何となく分かった。腰から剣を下げているマシューを見て、手合わせしたくなったのだろう。なんたって、好戦的な感じだったもの。

 

 マシューももちろん、相手が何を求めているのか分かったようだった。でも彼は激しく首を横に振り、数歩ばかり後ずさった。


 けど、周囲にいた人々は「いいぞいいぞ」とか、「行け、兄ちゃん!ユービリア国の実力を見せてやれ!」などと叫び、けっこう盛り上がっていた。

 

 マシューは屈強そうな男に腕をぐいぐい引っ張られてたが、渾身の力で抵抗していた。けど、わたしもマシューが皆の前でカッコよく戦う姿が見たかったので、悪ノリして、


「いいじゃない。行ってきなよ」

 

 と背中を押した。これで、マシューの背を二回押したことになったはず。

 

 わたしに押されたマシューは体勢を崩し、前のめりでよろけながら進み出た。


 いっそうの歓声が沸き、剣舞のもう一人の相方が大声で何事かを叫びながら、笑ってマシューに木の棒を投げ渡した。マシューは呆然とした顔でそれを受け取った。


 マシューを誘った役者のほうが、マシューに頭を下げた。それから、片足立ちになって、腕を伸ばし、頭の上で木剣を構えるという異国風の独特な構えを見せた。

 

 マシューはやれやれと抵抗をあきらめて、真剣な表情で相手を見据え、静かに木剣を構えた。


 というか、そうするんだと思ってた。


 だって、マシューだもの。目の前で乱闘が起これば、果敢に飛び込んで沈静化させ、目の前に不法侵入した賊が現れれば、自らの危険も顧みず反撃に転じて―――そういう若者なんだもの。


 だから、木剣の切っ先を下げて、のろのろと後ずさりする少年を見たとき、なにか引っかかった。なにかが変だなって思った。


 わたしは愚かにも、ようやく気づいた。


 マシューの足は震えていた。視線は揺らぎ、唇は少し半開きだった。


 屈強そうな男相手に、完全に――気圧されてしまったのだと思った。わたしは彼の背を押したことを後悔した。あのマシューにも、怖いものがあったのだ。大衆の前で友人に恥をかかせるという暴挙に走ってしまったと気づいたとき、わたしの体温がひゅんと下がった。

 

 なけなしの勇気を発揮して、マシューを大衆の舞台からひっぱり降ろそうと、一歩前に踏み出したときだ。


 大変なことが起きた。


 合図の太鼓が鳴らされる前に、マシューの手から木剣がこぼれ、カランと乾いた音が響いた。彼は口元を押さえて前かがみになった。赤い雫がその手の間から零れ落ちたとき、吐血したんだと思った。


 周りがざわめいた。わたしは真っ青になって、マシューの傍に駆け寄ると、うずくまる彼の体を支えた。マシューの前で木剣を構えていた剣舞の男は呆然としていた。まだ戦ってもいないのに、マシューの動悸は激しく、額にはうっすらと汗がにじんでいた。


 あのまま失神してしまうんじゃないかと思っていたマシューはしかし、口元を手で押さえ、顔をうつむけたまま、驚くべき速さでその場から離脱した。わたしが気づいたときは、彼は人混みの中をすり抜けて、路地裏に駆けこんだ後だった。


 大通りの真ん中に残されたわたしも、その場にいた大勢の人々同様、ぽかんとした表情で立ち尽くしていたけど、わたしだけ一足先に我に返り、慌ててマシューの後を追いかけた。

 

 マシューは細い路地に積まれていた木箱の影にうずくまっていた。呼吸はまだ乱れていた。


 悪い病気なんだ、彼は。


「マシュー」


 声が震えた。わたしは汗ばんでいるマシューの背中をさすった。


「ごめん、ごめんね、無理やり、あんな……医者を、すぐ医者を呼んでくるから。大丈夫だからね。ここで休んでていいよ。すぐ、すぐ呼んでくるから」


 駆け出そうとしたとき、マシューに強い力で腕を掴まれてよろけた。


「大丈夫だから」

 

 彼は消えそうな声でそうつぶやいて、わたしの腕を離し、背後の壁に背を預けてぐったりとした。苔色の上着に血がついていて、わたしは泣きそうになった。


「大丈夫なわけ、ないじゃないの。口から血を吐いて……」

「……鼻から血だよ」

 

 マシューは観念したように顔を上げた。本人の言う通り、真っ赤な血は鼻から流れ落ちていた。まだ血が止まらないようなので、わたしはスカートの裾を引きちぎってマシューの鼻に押しつけた。


「あーあ……スカートが」


 蒼白な顔で、そんなこと気にするんだもん。目頭が熱くなった。


「悪い病気なの?」

「まあ、良い病気じゃないのはたしかだな」


 マシューはスカートの切れ端で鼻を押さえて、吐き捨てた。「アガリ症なんだ」


 わたしは鼻をすすりながら聞き返した。


「え?」

「あ、が、り、症。大勢の人前に出て注目を浴びると、極度に緊張して、手足が震えて、汗が吹き出して――人によっては鼻血を出すっていう――体質らしいんだ。情けないことに」


 わたしはまじまじとマシューを見つめた。


「それって――命に関わるものなの?」

「いや、全然」


 アガリ症。あがってしまう体質――つまり、かなり度が過ぎるはずかしがり屋さんってこと?


 なんでもいい。わたしはとにかく、マシューの命に関わるものじゃないと聞いて心から安心した。


「医者には診てもらったの?」

「……下町の医者に、一度だけ」

「治療法は……」

「いまんとこ、ないってさ」


 ようやく鼻血が止まったところで、マシューは鼻に当てていた布の切れ端をとった。顔はまだ少し青ざめていた。


「頼む。他の皆には内緒にしておいてくれ」

「えっ!?誰も、このことを知らないの?」


 驚きが隠せなかった。だって、手足が震えて、動悸が激しくなって、鼻血まで出ちゃうっていうのに―――誰も気づかなかったの?


 マシューはわたしと目を合わせずに告げた。


「隠し通せたんだ。医者にも口止めした。人前に出なきゃ、なにも問題ないんだ」

「でも、兵士なんだから、人前に出る機会は多いんじゃないの?だって、建国記念のパレードとか……あるでしょ」

「そういうときは、何かと理由をこじつけて辞退してた。個人練習で、わざとケガをこしらえたりとか」

「そう……なんだ……」


 その話を聞いて、思い出したことがあった。


「先月、浴場で倒れたっていうのも……」

「ああ、コレのせいだ」


 マシューは苦々しげに鼻を拭った。


「あのとき、隊長に言われたんだ。親善試合に出ないかって。そしたら、湯を浴びてた他の兵士たちがいっぱい集まってきて、いろいろ、ほら、激励の言葉とか、かけてくれて……すごい注目を浴びたんだ。で、ぶっ倒れたってわけ。皆、のぼせたと思って勘違いしてくれたから助かったよ」


 自嘲じみた言い方だった。 


 やっぱり、マシューは親善試合に出たくないわけじゃなかったんだ。

 本当は、出たいんだ。すごく。


 でも、出場に支障をきたす、誰にもいえない難しい体質を抱えてるから……。


「ロラン隊長に、相談してみたら?“アガリ症”のこと」

「冗談やめてくれ」


 マシューは皮肉っぽく笑った。


「こんな体質だってバレたら、兵士をやめさせられちまうかもしれないんだ」

「嘘でしょ?」

「見ただろ?あの、情けない姿を。さっきの相手が木剣をにぎった役者じゃなくて、本物の武器を持った賊だったらどうなってたと思う?役立たずな上に、仲間の足を引っ張っちまうかもしれない」

「でも……異国の海賊を、捕縛したこともあるんでしょ?おやっさんのときだって、襲撃訓練のときだって、活躍したじゃない。誰もマシューをクビになんかできないわよ。ううん、誰もしないわよ」

「誰にも言わないでくれ」


  わたしの言葉なんか、聞いてないみたいだった。マシューはゆっくりと立ち上がった。


「ユービリア国の兵士でいたいんだ。おれを育ててくれたおやっさんと、ロラン隊長に恩返しがしたい。労働階級のおれを兵士にしてくれたのはロラン隊長なんだ。あの人が推薦してくれて、あの人が“ガレス”っていう家名を買ってくれたから、おれは兵士になれた。なのに、こんなふざけた体質のせいで、除隊されたりしたら……だから、頼む。黙っててくれ」


 あんなに苦しそうなマシューの顔、初めて見た。ずっと隠してきたんだ。マシューにはマシューの決意があって、そのためなら、無理をするのも、嘘を吐くのも、何だってする覚悟なんだ。


 でも、それって、すごくしんどいと思う。負担になっちゃうんじゃないの?


 そう思ったけど、わたしなんかがいま何かを言ったところで、役には立たなかっただろう。


「もちろん、黙ってるよ。誰にも言わない」


 そう約束すると、マシューはほっとした顔を見せた。本当は、万が一のことが起こったときのために、仲間の兵士にマシューの体質のことを伝えるべきだって思った。だって、あのとき、マシューが吐血したと思ったのはわたしだけじゃないはずだもの。マシューは他の兵士たちから頼られてるっていうし、そのマシューが倒れたら、兵士たちは動揺するんじゃないだろうか。

 

 マシューは近くの公共井戸で顔と血で汚れた袖を洗った。わたしが勝手に引き裂いたスカート代を律儀に払おうとするので、しっかりお断りしておいた。マシューは自分の背中を押した極悪人に向かって「ごめん」と謝って、一足先に城へと戻っていった。


 べつに一緒に帰ってもよかったんだけど……わたしがまだ、マシューとのうわさを気にしていると思って、気遣ってくれたみたい。


 そんなこと、もうどうだっていいのに。

 

 今日、わたしはちゃんと無事にユービリア城に戻ることができた。持ち帰ったのは、マシューが買ってくれた素敵な帽子と、膝の擦り傷くらいだった(マシューがわたしを突き飛ばして、ものすごい勢いで飛んできた辻馬車の車輪からかばってくれたときの傷。これくらいで済んで、本当に良かった……)。


 とにかく、わたしがいまここにいるのは、マシューのおかげ。


 それなのにわたしは、今日もまた余計なことばっかりして―――いつも助けてくれる友人の力にもなってあげることもできなかったなんて。わたし、この世のすべての責任をとらなきゃならないような気がする。


 って、悶々としててもダメよ。何とかしてあげなきゃ。ううん、絶対になんとかする。


 なんとかして、マシューの体質を治してみせる。絶対になにか方法があるはずだもの。


 具体策はまだ……全然思いつかないけど。

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