5月26日 道化かもしれない

わたしが9歳のとき。

地方都市ミングに異国の旅芸人の一座がやってきたことがある。


上半身裸の火吹き男、サテンの美しい衣装を身にまとった踊り子、シルクハットを被った器用なサル使い、屋根の高さにピンと張ったロープの上を逆立ちで歩く軽業師。そして、おかしな言動や滑稽なしぐさで観客を笑わせる道化。


道化の行動は予測がつかなくて、周囲を振り回す。


昨晩のわたしの行動も、まさにそれだった。妄想にとらわれたおかしな言動、思慮に欠けた軽率な行動……明日以降の心の安寧のために、昨晩の出来事はすみやかに記憶から消し去りたいけど、そうやって現実から目を背けてしまうと、再び昨晩のような惨事を引き起こさないともかぎらないから、この日記帳にたしかな恥の記録としてとどめておくことにする。


 昨晩、ベルシーがいっこうに戻ってこないから、不安になって、部屋をうろうろしたあげく、ランタンをひっつかんで、思わず女中棟を飛び出した。

 

 まず、ユービリアの城内、宮廷女中が仕事のふりをして歩き回れる場所をくまなく探したの。使用人用の食堂とか。洗濯場とか。浴場とか。厨房の地下倉庫とか(※一応、ジャガイモが入ってる木箱の蓋も開けてみた。ジャガイモがみっしり詰められてた。皮むきに関してはベテランの域に達したとはいえ、しばらく見たくもない)。

 

 けど、どこにもいなくて。


 城内をうろつくのも午後十時過ぎまでが限界だった。残業を行う宮廷女中の数もすっかり減って、必要のない廊下の明かりも消され始めると心臓がどきどきした。さすがに残業許可証もなくそれ以上うろついていれば、誰かに見つかったとき厳重注意だけじゃすまされないから(真夜中に他の使用人と逢引?していたらしい新人宮廷女中の一人が、尋問部屋に連れていかれて、翌日城を追い出されたという話を耳にして……本当に軽率な行動はひかえなきゃって思った。そして貴重な労働者仲間も失った……)。


 とりあえずは宮廷女中棟に一度戻った。もしかしたら、入れ違いでベルシーが帰ってきていることを期待して……。


 でも、彼女は部屋に戻っていなかった。


 そんなことするべきじゃないって分かっていたけど、わたしはベルシーが日記でもつけていないかと思って、彼女の書き物机の上や、引き出しの中をあさった。引き出しにどんな物が入っていたのかは……同室の子の名誉のために書かないことにする。(そうね。ここで一つ誓うとしたら、わたしはもう二度と彼女の書き物机の引き出しの中を開けたりしない)。


 本当はもうベルシーの個人的な領域に踏みこむべきじゃなかった。でも、わたしはせめてもう一度、彼女とちゃんと話がしたくて、自分のひどく情けないこれまでのふるまいを謝りたくて、必死になって彼女がいまどこにいるのかを知ることができるような手がかりを探した。


 そして、ついにそれを見つけた。ベルシーのベッドの枕の下で。


 枕の下には解読不能な手紙と、町の地図が残っていた。それを目にしたとたん、体温がひゅんって下がった。


 その地図が示していた場所。城下町の“悪魔の誘惑”という名称の花館。


 わたしは真っ青になって、地図を握りしめたまま矢のように部屋を飛び出した。オイランプも持たずに暗い中庭を横切って、たいまつが灯されている裏門のほうへ回った。あのときわたしがやろうとしてたことって、城の者に見つかれば逃亡とも見なされる違反行為だったから、いま思うと頭が狂っていたとしかいいようがない。


 でも、どうして引き返せるの?同室の子が、とつぜん理由なきくすくす笑いの標的になって心から傷ついてるベルシーが、悲しみのあまり自暴自棄になって、花館で乙女を売ることを決心したことを知ったというのに。


 後悔がどっと押し寄せてきた。なんとしてもその自虐的行為を止めたかった。そのことしか頭になかった。

 

 裏門は四人の兵士が寝ずの番で見張っていた。どうやって城壁を越えようかって考えてたとき……。


「おい、そこで何やってるんだ?」

 

 あんなに警戒してたのにまたもや簡単に背後をとられて、「ひっ」ってしゃっくりみたいな悲鳴を上げた。


「コレット?」

 

 いまにも剣を抜こうとしていたのはマシューだった。彼も明かりを持っていなかったけど、闇に目が慣れているようだった。


「こんな時間にこんなところで……何してるんだ?」

 

 もっともな疑問をぶつけてきたマシューに向かって、「このことは黙ってて!」と、ケンカしていたことも忘れて、わたしは懇願した。


「バレたらクビになっちゃう……」


「分かってるよ。言わないから、早く部屋に戻れって」

 

 わたしは動かなかった。


「同室の子が戻って来ないの」

 

 意外にも話を聞いてくれそうな雰囲気だったので、わたしはマシューの腕をひっぱって薬草園の木の陰に連れ込むと、事の次第を話した。成り行きでマシューに花館について話すことになったのは、きまずいことこの上なかったけど。

 

 マシューは首をひねっていた。


「今晩はずっとこのあたりを見張ってたけど、抜け出した子なんて見なかったぜ」


「黒フードに黒ローブだもの」


 わたしはベルシーの普段着を思い出しながらいった。


「闇に紛れてたのよ」


「兵士はいちおう、黒ずくめ姿のやつを見逃さないように訓練されてるんだけど……」


 マシューは困ったように頬をかいた。


「ベルシーは、魔女崇拝者なのよ!」


 わたしは力説した。彼女にはなにか、隠された能力があると心の底で思っていた。


「人間離れした黒魔術で、城壁くぐりをやってのけたとしてもおかしくないわ」


 そう断言したら、声を押し殺して笑われたけど。


「ちょっと!笑いごとじゃあ……」


「悪い悪い。そうだな。大事があったら困るし」

 

 マシューはわたしにこのまま待機しているようにいうと、自分は裏門のほうへ近づいて行った。そして何やら見張り番に声をかけていた。


 戻ってきたマシューは、「こっそり通してくれるって」とわたしを手招きした。

 

 当然だけど驚いた。そんなに簡単に話がつくなんて思わなかったから。舞台の逃走劇でよくあるように、もしかしてマシューが抜き身の素早い一撃を門番に叩きつけて、彼らを気絶させるんじゃないかってひやひやしてたのに。

 

 いまだからこそ不謹慎なことをいうと、それが実現していたらかなり胸がときめいたはず。


 けっこうなお金がかかるから数えるくらいしか鑑賞したことはないけど、わたしは舞台演劇が大好き。とくに、許嫁のいる伯爵家の一人娘と、身分違いの恋に胸を焦がす彼女の屋敷で働く庭師との悲哀の物語が大のお気に入りだ。


 庭師の過去は謎に包まれているけど、やがて彼が政変に巻きこまれて消されてしまった公爵家の最後の跡継ぎだったということが明らかになる。本来なら二人が許嫁同士で、幸せな将来が約束されていたのに、いまの伯爵令嬢の悪い許嫁(そいつも公爵家の息子)が駆け落ちしようとした二人に異国の暗殺者をさしむけて、伯爵令嬢を暗殺者の魔の手からかばった庭師が致命傷を負って、息絶えてしまうの。伯爵令嬢は心から庭師を愛していたから、迷わず彼の後を追ってしまうのだけど……(喉にナイフを突き刺して。真実の愛を貫くって、おそろしく勇気がいることだと実感させられる)。

 

 とにかく、その物語の中盤に、悪い公爵家の小城に閉じ込められていた伯爵家の令嬢を庭師の彼が救い出す場面がある。公爵家の最後の跡取りは、剣の腕に覚えがあって、令嬢を連れてその城を抜け出す際、門番の二人を一瞬にして気絶させるという技を見せる。役者がとびきりハンサムなせいもあるけど……あの光景を思い出すと、いつだってときめきがとまらない。

 

 もちろん、そういった後先考えない荒っぽい行動は舞台の上だからこそ魅力的に映るもの。現実でそれをされても困る。困るどころか、門番を昏倒させて逃がしてくれた相手を心から愛していようがいまいが、喉にナイフを突き刺す結末しか見えない。

 

 そう思うと、とびきり現実的で冷静な友人がいてくれて、わたしは感謝してもしきれない。

 

 とはいえ、彼がなんといって門番の了承を得たのかは気になった。


「どうやって彼らを説得したの?」


「あんまり大げさにならないほうがいいんだろ?そのベルシーって子が、逃亡したかどうかもまだ分からないし……一時間だけって約束だから。早く行こうぜ」

 

 明らかにはぐらかされたけど、最優先事項はベルシーの救出だったからそれ以上は聞かなかった。


 マシューに連れられて裏門をくぐったとき、中年の門番たちがやけに好意的に「行ってらっしゃい」と手を振ってくれたのも気になった。マシューってば、いったいどうやって彼らを説き伏せたんだろ。

 

 とにかくわたしたちは、早足で丘を下り、城下町へと続く道へ合流した。

オリエントの中心街には二十分ほどで到着した。すでに十一時を過ぎていたけど、玄関先にランタンを灯した店は半分以上開いていたし、人通りもまだ多くてどこかほっとした。人気のない薄暗い道を歩くのはこりごりだったから。黒フードの不気味なおばあさんに遭遇しないともかぎらないし。


 四階建ての建物がずらりと並ぶ幅の広い抜き通りを進んでいたとき、わたしは自分が宮廷女中服を着たままだってことに気づいて、大慌てだった。これではまるで仕事の最中に抜け出してきたように見える。


「どうしよう!誰かに見つかって女補に告げ口でもされたら、クビだわ!」

 

 マシューは呆れたようすだった。


「大丈夫だよ。用事だって言えば」


「こんな夜に?いったい何の用事?」


「ええと、それは後で考えよう。地図貸して」


 言い方がぎこちなかったけど、深くは追求しないことにして、わたしは花館行きの地図を手渡した。マシューは近くの店先のランタンで地図を照らしながら、顔をしかめて「三番通りか」とつぶやいた。


「酔っ払いとかに声かけられても、あんまり構うなよ」

 

 マシューは親切に忠告してくれたけど、そんな気遣いは必要なかった。だって、わたし、下町の酔っ払いさんに声かけられて返事する勇気なんか持ち合わせちゃいないし。

 

 目抜き通りから東へ、一番通りを越えた先にある三番通りには古ぼけた店が多かったが、表通りと同じくらい賑わっていた。店の扉口には傾いた看板と、たいまつが灯されいて、開けっ放しの窓の中をのぞきこむと、すすまみれの服を身に着けた労働者たちが仲間と一緒に和気藹々とお酒を飲んでいる姿が見えた。

 

 久々に町中にやってきたせいか、なんだかとても懐かしい気分に襲われた。社交界で帰りが遅くなったとき、フィエンと一緒に、馬車にのって、大人の店が並ぶ夜でも活気に溢れた道を通りすぎたなぁって。まあ田舎だったし、そんなにたくさんの店があったわけじゃないけど。


 いったいどんな人たちがあの店にやってくるんだろうねと、馬車の中でフィエンと興味津々に語りあってた。いつか、こういうとこにこっそり行ってみようねって。

 

 はあ。約束、したのに。


「どうしたい、お嬢さん。陰気な顔しちまってさ。あんたも、一杯どうだい?」

 

 陰気な顔をしていたらしいわたしに声をかけてきたのは、楽しそうな声と明かりがもれてくる店の屋外テーブルで、ぶどう酒を傾けていた不精ヒゲのおじさんだった。日焼けしたような褐色の肌。たくましい体格。壮年の兵士顔負けの迫力。お酒と汗の匂いがぷんと漂ってきた。


 わたしは声をかけられたことに動揺して、その場から動けなくなった。愚かすぎる臆病者。分かってる。でも、町中で野生のクマに遭遇したら、きっとあんな気分だったはず。

 

 いつの間にか、マシューともはぐれてた。


「こんなとこで、あんたみたいな女の子が一人かい?」

 

 おじさんはずんずん近づいてきた。


「あ?宮廷女中の服着てんじゃねーか。何かい?あんた、城で働いてんのかい?」

 

 間近で見上げるとホントに屈強そうなおじさんだった。わたしの首なんか片手で締め上げて、簡単に金品を奪いとれそうな感じの。差し上げられそうな金品なんか持ち合わせちゃいなかったけど。

 

 そうね。正直、殺られる、と思った。


 そのとき、一足先に次の角を曲がってたらしいマシューが息を切らしながら戻ってきて、「コレット!」って呼びかけてくれたから、わたしは卒倒せずにすんだ。


「酔っ払いには構うなって言っただろ。行くぞ」

 

 マシューが真っ青になったわたしの手を引っ張ったとき、おじさんが不機嫌そうにうなった。


「まったく、挨拶もなしか。礼儀知らずなこった」

 

 わたしはとっさに「申しわけございません」ってひれ伏しそうになったけど、マシューのほうは怪訝そうに後ろを振り返って――。


「おやっさん!」

 

 驚いたことに、マシューはうれしそうにそのおじさんに近づいていった。しばらくしてからピンときた。あの屈強そうなおじさんが、マシューの寝言に抜擢された「おやっさん」だったの。


「久しぶりじゃないか!うっ……酒くせぇ。相変わらず飲んでんだな。腕が落ちるぜ、そんなんじゃ」


「馬鹿やろう。飲まねーと肩が落ちんだろうが。で、オメーは何してんだ?こんな時間によ。そんな年頃のお嬢ちゃん連れてよ」

 

 マシューはあきらかに動揺しているように見えた。


「おい、誤解を生むような言い方やめてくれ。いなくなったっていう、コレットの同室の子を探してるだけだ。おやっさん、“悪魔の誘惑”って店、知らないか」


「おい、そこ、娼婦館じゃねーか」

 

 おやっさんは恐ろしい顔でマシューをにらみつけた。その迫力といったら。あの女補だって白目をむくに違いないってほど。マシューはすごい。全然ひるんでなかったんだから。わたしがマシューの立場で、もしあの目で射抜かれてたら、心臓止まってる。


「オメー、なんだかんだでそのぼーっとした嬢ちゃんを連れ込もうって魂胆じゃねーのか?」


 とんでもなく野暮な推論をかまされて、わたしはひぇぇと両腕を抱いた。マシューが呆れて首を振ってたから、良かったものの……。


「コレット、こんな酔いどれの言うことに耳を貸すなよ」


 思うに、この辺りからおやっさんは暴走し始めてた。おやっさんは例の獲物に飢えた野生のクマのような穏やかではない顔でわたしをにらみ、


「どうなんだい、お嬢ちゃん。あんた、そこの浮ついた小僧に、無理やりここまで連れてこられたんじゃねーのかい?」


 マシューは頭を抱えた。


「おい、酔っ払い、勘弁してくれよ!一時間しかねーんだから!」


「ああ?一時間しかねぇだって!?おい、見損なったぞマシュー!一時間で荒っぽくことを終わらせようってのか!?オメーをそんな軽いヤツに育てた覚えはねーぞ!女は子供生んでくれんだから、労われって教えただろうが!」

 

 ひえぇぇぇぇ!おやっさんのとんでもない誤解発言に、わたしは赤面。


「あんたは何の話をしてんだよ!」

 

 マシューも顔を真っ赤にして怒鳴ってた。お互い、かなり居心地悪かったと思う。


 それでもおやっさんの勢いに押され気味なマシューが、あらぬ疑いをかけられて連行されても困るので、わたしはマシューの陰に隠れるようにして、それからかなりかなり小さな声で、おやっさんの目を直視しないように若干うつむきながら勇敢に発言した。


「友人の、ベルシーが、大変で、その、“悪魔の館”に……」


 だけど、わたしのびくびくした態度が誤解を生んで、酔いどれクマのさらなる暴走が続いた。

 

 おやっさんは、なんと、わたしの同室の子であるベルシーが無理やり“悪魔の誘惑”に連れていかれて娼婦にさせられてしまった、みたいな感じで受け取ったらしい。


 不幸な出来事は重なる。“悪魔の館”と呼ばれる花館は、その通りのすぐ裏手にあったの。


 おやっさんは野生の咆哮を上げながら、花の館に乗り込んでいった。夜闇をつんざく悲鳴が、“悪魔の誘惑”から上がったのは言うまでもない。


 当然、警戒笛も響き渡った。下町の建物としては場違いなほど高級感あふれる花館に侵入したおやっさんは、赤ら顔の野生のクマか、はたまた賊かなにかとかんちがいされたらしい。


 マシューとわたしが一足遅れて入ってきたときには、野生のクマと銀色のかっちりした服を身に着けた館の護衛たちが本気の乱闘を始めていた。おやっさんのバカ力に投げ飛ばされた護衛が飾り棚にぶつかって、お酒の入ったガラス瓶がいくつも砕けた。その場から慌てて逃げようとしていた娼婦の女性が長いスカートを踏んづけて転んだり、その彼女を助け起こそうとした使用人が体勢をくずした護衛とぶつかって二人して床にのびたり、棚上に飾られていた花瓶やお皿が宙を舞ったり。

 

 その修羅場を前に、マシューもきっと体温がひゅんって下がってたと思う。けど、なすすべもなく館の扉口近くで突っ立ってたわたしとは違い、彼は体温が下がった状態でも、ユービリア城の兵士らしく勇敢に乱闘の中に飛び込んでいって、不毛な争いを鎮めようとした。


「コレット、水だ!」

 

 マシューは腰の剣帯につっていた長剣を抜いて、護衛役がおやっさんめがけて突き出した剣を弾き返しながら、そう叫んだ。


 わたしははっと我に帰って、わたしと同じようにカウンターの奥で震えていた案内役に声をかけて、桶と水が汲める場所を訊いた。

 

 案内されるまま館の奥の細い廊下をまっすぐ進んで、路地裏に続く扉を開けて、外に蓄えてあった水樽から桶一杯の水を汲むと、急いで乱闘場所へ戻った。


 マシューは護衛役の手からすっかり武器を叩き落として、今度はおやっさんが二階に上がろうとするのを渾身の力で押し留めていた。けど、体格負けしてるから、いつ踏み潰されてもおかしくない状態だった。ぼろぼろになった護衛たちもその妙な光景を、呆然と眺めていた。

 

 マシューは両手で桶をぶらさげたわたしの姿を見ると、苦しそうに声を絞り出した。


「おやっさんに、ぶっかけて!」

 

 わたしは言われた通り、おやっさんに向かって桶の水をぶちまけた。


 手がすべって、桶までふっ飛ぶとは思わなかった。


 しかも、その桶が、おやっさんの側頭部に見事直撃して……。


 おやっさんがドシーンと横倒れになった。


 マシューが、何が起こったか分からないみたいに、口をぽっかり開けて倒れたおやっさんを見下ろしていたのを目にして、また体温がひゅんって下がった。

 

 わたし、クマを……いや人を、殺しちゃった。

 

 本当にそう思った。なんたって、人生初の渾身の一撃だったから。

 

 頭が真っ白になったとき、マシューが苦笑した。


「生きてる生きてる。心配ないって」

 

 ホントに、真剣に、心から、どんなにほっとしたことか。わたし、もう二度と誰かに水をぶちまけられそうにない。

 

 マシューとわたしは“悪魔の誘惑”の店の人たちに事情を説明して、心からお詫びを申しあげていた。マシューは壊した店の物は全額弁償するといった。彼にそんなこと到底させられないと思い、内心血の涙を流しながらも、


「いいえ、わたしが払います」


「いや、おやっさんがしでかしたことだから、おれが払う」


「ダメよ!わたしが……っ」


「いいって、おれが!」


 言い争っていたとき、二階へ続く階段から黒ローブ姿の、見知った顔の少女が降りてきた。


「いまの、何の騒ぎですか?」


「ベルシー!!」


 そんな親しい間柄じゃなかったのに、ベルシーの姿を見つけたとき、心から安堵して、わたしは思わず彼女に抱きついていた。なんだか、さまざまな障害を乗り越えて、捕らわれのお姫さまをようやく救い出したような、そんな気分だった。


「……コレット=マリー?こんなところで何をやっているの?」

 

 ベルシーは抱きついてきたわたしを無理やり剥がそうとはしなかったけど、眉根を寄せて、ちょっと迷惑そうな感じだった。それから彼女は、マシューの姿を見つけて、なぜか納得したように、


「ああ、そういうこと」

 

 としれっと言った。それから二階の階段を指さした。


「二人で使うなら、奥から二番目の部屋が空いてるわよ。大丈夫なの?ここ、けっこう良い値段するけど」


「違う」


 マシューが即座に否定した。どいつもこいつも、って憎らしげに小さくこぼしてた。気持ち、ちょっと分かる。わたしたち、誤解されすぎ。

 

 わたしはぐずぐず泣きながらベルシーに謝った。これまでずっと言えなかったことを、思いっきり吐き出した。


「ごめん、ごめんなさい。わたし、同室仲間なのに、なんにもできなかった。怖くて。みんながくすくす笑いをするのを、止められなくて。最低だった。傷つけたのわかってる。でもお願い。帰ってきてよ。明日、早番でしょ。わたし、薪運びも、掃除も、裁縫の仕事も、全部手伝うから。針仕事、下手だけど……もう遅いかもしれないけど、せっかく同室になったんだから、わたし、ベルシーともっと仲良くなりたい」


 本当に、彼女に戻ってきてほしかった。戻ってきてくれるのなら、なんだってするつもりだった。


 わたしの言葉を聞いたベルシーは、表情を変えなかった。


「いったい、何の話をしてるのか分からないけど」


 彼女は淡々と告げた。


「一言いわせてもらうなら、わたし、明日は非番なんだけど」


 察してほしい。

 わたし、ベルシーが何て言ったのか本当に理解できなかった。それくらい、「え?」って感じだったから。


「……待って。ええと?何?明日、お休み?」


「そうよ。だから、今朝の仕事が終わったあと、許可をもらって町へ出たのよ。魔女会合があったから“悪魔の誘惑”の三階の部屋が、今夜の集会場所だから」


 この辺りから、わたしの体温がありえないほど下がり始めた。


「え……じゃあ……」


 ここでもう、完全に気がついてた。自分が何をしてしまったのか。

 とんでもない早とちり。


 つまり、ベルシーは、明日が非番だから午後から城の外に出て良かったのだ。許可証さえあれば、城で働く使用人は外泊もできる。しかもベルシーとしては、翌日の夜にはちゃんと宮廷女中棟に戻ろうとしていたらしい。


 自暴自棄になって花館で乙女を売りにいったなんて、わたしの罪悪感が生み出した病的な幻想にすぎなかったってこと。


 わたし……マシューの顔をみることができなかった。


 コレットという愚か者は、夜勤で城内見回り中だったマシューを巻き込み、彼のおやっさんを勘違いさせたあげく、本当は起きるはずがなかった花館での乱闘を引き起こし……。


 もう、ひたすらベルシーの漆黒の瞳を見つめるしかなかった。そうすれば魂を抜いてもらえるんじゃないかって期待して。


「わたし、ベルシーが明日、非番だって知らなかった……」


「あなたにそれを教える必要がある?」


 ベルシーがぴしゃりと言った。


「わたしの中で、あなたは他の感じの悪い宮廷女中と一緒。ただ居心地悪そうにわたしを見ていた同室の子に、わたしがこの日は非番だって伝えなきゃならない必要がある?」

 

 ごもっとも。本当に、まったく、そのとおりだと思う。けっこうきつい言い方に、ものすごく落ち込んだけど……わたしの臆病なふるまいは彼女を傷つけたんだから。彼女にはこうやってわたしをののしる資格があったと思う。


「ごめんなさい」


 と謝る他ない。頭を下げる私の前で、ベルシーは肩をすくめてた。


「別に怒ってはいないけど。ただ、あなたってなんというかあいまいで……臆病者よね?」


「ええと、そうね、そう。情けない、臆病者よ」


 それ以外の言葉、思いつかなかった。


 わたしががっくり肩を落とすと、ベルシーはようやく笑みを浮かべた。それは、すごく誇り高くて、憧れてしまうような魅力的な笑顔だった。


「かわいそうに。あなたって、自分に自信がないのね。魔女同盟に入らない?理想の自分を悪魔が見つけてくれるかもしれないわよ」

 

 この発言には顔がひきつったけど。


 でも、あれって、ベルシーなりの「ま、仕方ないから、仲良くしてあげる」って感じだったのかもしれない。そう願いたい。

 

 とにかく、ようやくわたしもベルシーの前で笑うことが許されたような気がしたの。


「ええと、まあ、考えとく」

 

 指摘されたばっかりだったけど、あいまいな返答をしておいた。


 それからほどなくしておやっさんが目を覚ましたの。マシューがおやっさんに近づいていって、呆れ顔で「自業自得」って言いながら、助け起こしてた。


 わたしは半分泣きながら、おやっさんに何度も何度も謝った。そもそもわたしさえ何もしなければ、何事もない平和な夜をみんなが過ごせたのに。罪悪感だけで魂が抜けそう。


 でも、おやっさんは男らしく豪快に笑って、


「いやー、はっはっは。おれんほうこそ悪かったなぁ!ヘンな誤解しちまってよう!マシューが無理やりお前さんを悪魔の館に連れ込んで一時間で荒っぽく事をすましちまうのかって思っちまってよー!それとあんたの同室人が悪いヤツに連れ去られて悪魔の館で無理やり事を運ばされる状況に陥ってんのかと思っちまってよー!」


 大声で謝り返してきた。酔いがまださめてないと思った。マシューはうつむいて片手で顔を覆ってたし、わたしの体温はひゅおって上昇して、発熱したみたいに全身が熱くなってたし、ベルシーは思いっきり冷たい視線をわたしに向けてきたし。


 けど。


「ま、正直に言うとよ、久々に会ったマシューがよう、可愛いお嬢さん連れてっから、ちょっと舞い上がっちまったんだなー!はっはっは」


 わたしのこと可愛いって言ってくれたおやっさんは、その瞬間から、ユービリア国で一番心優しい人になった。おやっさんはとびきりの善人。こんなに良い人って、たぶん他にいない。

 

 マシューは盛大なタメ息を吐いて、


「おやっさん、店の人に頭下げて謝れよ。それから、高級でお洒落なこの館をよーく見ておいたほうがいい。あんたが一生入れない店になったから。酔いどれの犯罪者にでもならないかぎり」


 おやっさんが顔をしかめるのを見て、わたしは笑った。

 

 フラフラな足取りのおやっさんをマシューとわたしとベルシーの三人で支えながら、月明かりが照らす夜道を歩いた。


 おやっさんは主都で鍛冶屋を営んでいる、マシューの育て親なんだって。全然似てないから、最初から親子だとは思ってなかったけど、マシューがおやっさんの義理の息子だって知ったとき、ちょっと、なんていうの?


 ああ、そうなんだ、ってどこかしんみりした。


「マシューよ、オメー、すっかり兵士なんだな」


 おやっさんが寝言みたいにぼやいた。マシューは半分つぶされかけながらおやっさんを背負って歩いてたから、「なんだよ、それ」とちょっと疲れ気味に答えた。無理もない。おやっさんのような大柄な人を背負うのは重労働に違いないもの。わたしとベルシーは、おやっさんの巨体がマシューの背中からずり落ちないように左右から支えるので精いっぱいだった。


「本当に兵士として食ってくつもりか」


「まあ、予定ではね」


「オメー、それがどういうことか分かってんのか」


 おやっさんは不機嫌そうにうなった。


「ふざけんじゃねぇや。自分から危険に飛び込んでいくような仕事なんてよぉ。オメー、戦争でも起こってみろ。雨のように降り注ぐ弓矢ん中に飛び込んでいかなきゃなんねーんだぞ。まったく正気じゃねぇ」


「うん。戦争はごめんだな。けど、おやっさんの剣でみんなを守る仕事は、そんなに悪くないんだ」

 

 マシューって、やっぱりすごいと思う。ふつう、十六歳でそんな、まっすぐな発言できない。


 案外、誠実なのかもって思った。

 おやっさんは長く長く酒臭いため息を吐いた。かすれた声でいった。


「オメー、何だってそう、バカになっちまったんだ?ああ?」


 マシューは笑い混じりに答えた。


「あんたの息子だから」


 このやりとりを聞いて、なんだか鼻の奥がツンとした。

 

 おやっさんはちょっと言葉をつまらして、「バカやろー」と言ったきり、しゃべらなくなった。おやっさんも感極まって、むせび泣くのかなって思っていたら――豪快ないびきをかきはじめた。


 おやっさんの鍛冶屋に着くと、マシューが慣れたように小屋の勝手口を開けて、おやっさんを背負ったまま一人で中に入っていた。


 扉を閉めて出てきたとき、マシューは手に何かをにぎっていた。


「新作の短剣。勝手にもらってきちゃった」


 へへっ、といたずら小僧みたいに無邪気に笑う彼の表情はすがすがしかった。すごく素直な感じで。駆け引きなしで、まっすぐだった。


 マシューが笑うとほっとする。本当に。


 ベルシーは明日の夕方には戻るといって、再び“悪魔の誘惑”に戻っていった。わたしとマシューは、町を抜けて、城へと続いていく道を上って、城壁をぐるりと回ってから、裏門をくぐった。


 けっきょく一時間以上過ぎていたけど、門番たちは「お帰りぃ」と陽気に受け入れてくれた。あの分なら女補に告げ口される心配もなさそう。助かった。


 だけど、ちょっと気になったことがひとつ。門番の一人が「それで?」とマシューに詰め寄っていたのだ。彼は「教えない」と答えていた。けっきょく、どうやって門番たちを言いくるめたのかはわからずじまい。まあ、そんなことはいまさらどうでもいい。マシューには死ぬほどお世話になったのだから。今度改めて、心から、お礼をするつもりだ。


 とにかく、長い長い夜が終わった。


いまのわたしの使命は、昨晩のような事態を二度と引き起こさないってことと、わたしの愚かな早とちりが引き起こした今回の出来事を、忘れずに自分の墓までもっていくってこと。


 やれやれ。昨晩の惨事を引きずって、仕事のほうは散々だったけど……(洗い物の最中にお皿を割ってしまった……そしてわたしが失敗するとき、わたしの背後には必ず女補がいる……)。

 

 たった一つ。泣きそうなほどうれしかったこともある。


 夕方ごろ、ぐったりして宮廷女中棟の部屋に戻ると、そこにはベルシーがいて。


 書き物机で手紙を書いていたらしい彼女は羽ペンをとめて、


「おつかれさま」


 振り向いて、そういってくれた。

 

 だからわたしは、散々な一日だったけど、


「うん。おかえり、ベルシー」


って、心から笑うことができた。


 そう考えると……そうね。今回の出来事に関しては、そう悲惨なことばかりでもなかったかもしれない。


〈昨晩の反省〉

もう二度とあんなことをしない!

〈明日の目標〉

もう二度とあんなことをしない!!

〈特記事項〉

もう二度とあんなことをしない!!!


“悪魔の誘惑”への賠償金をどうやって確保するか考える

 マシューへの恩返し

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