第11羽



 春になった。

 梅の香りが辺りを満たすようになり、ようやく啓蟄を迎えたかという頃。

 夜斗はあてもなく歩いていた。

 

 あれから夜斗が目を覚ますと、身体はすっかり雪に埋もれていた。

 転がり落ちた時に足をやってしまったのか、うまく動かない。

 冷え切った身体をなんとか起こし、足を庇うようにして彷徨っているうちに、しもやけを起こし、歩くことすらままならなくなった。


 今の夜斗にどこへ行くという明確な目的地はない。

 ただ暖かいところへ行きたかった。

 だから、何を考えるでもなくただただ南へ向かっていた。

 夜斗はもう、何故移動しているのかも分からなかったし、何故身体の自由が利かないのかも分からなかった。


 山裾を、蟻が這うよりも遅くゆっくりと移動していると、林の中でかさりと音がした。

 夜斗は耳を立てて音のした方を見る。

 兎が居た。

 夜斗はその場を動けずに、その兎を見つめていた。

 兎は生まれたばかりのようで、小さな身体を不器用ながらもめいいっぱい跳ね回らせながら、やがて見えなくなった。

 夜斗心臓は、今にも音が聞こえてしまうのではないかと思う程、激しく脈打っていた。

 生まれたばかりの兎相手に、ひどく動揺していた。

 しかし、子兎は夜斗に全く気付くことなく去っていった。

 夜斗は安心すると同時に、どうしようもない想いがそこにあった。


 夜斗は何も考えないようにとただ歩くことに気を向けた。

 もうあんな思いはしたくないと、聞き耳を立てながらひたすらに足を動かした。


 日が高くなり、梅の香りが増した頃、夜斗は歩くことすらできなくなっていた。

 怪我をしたせいで、無意識に庇っていた方の足がしもやけになり、土に触れる度に痛みを堪えてていたのだが、それももう限界だった。


 少しだけ、少しだけと、誰に言うでもなく言い訳のように小さく呟いてから、夜斗は梅の木の根元にうずくまった。


 ゆっくりと梅の香りを吸い込むと、鼻の奥がつんとした。

 夜斗は、青い空を見上げながら誰かを探すように視線を彷徨わせた。


 誰も、見当たらなかった。


 がさがさと、枝を掻き分ける音がした。

 夜斗は逃げる気力すら沸いてこず、ただ音だした方に首を向けた。



「あれ、変なところに出た」


「おい、道分かるって言ってたろ」


「あー、ど忘れ」


「この、馬鹿!」


「あ、見て見て狐くん。あそこに誰か居る」


「あ?」



 猿と狐が夜斗の方を指さして、何やら話をしている。

 夜斗は誰かいるのかと反対方向へ首を動かすが、そこにはただ、道が続いているだけだった。

 猿と狐はまだ何か言い合っている。

 夜斗は何となく視線を猿と狐の方へ向けた。

 狐と目が合った。



「何、お前。怪我してんのか?」


「え、ほんと? 大丈夫?」



 狐の言葉を聞いて急いで駆け寄ってくる猿に、夜斗は不思議と警戒をしなかった。

 続いて渋々といった様子でこちらに向かってくる狐にも、警戒したりはしなかった。

 ただ、食べられるかもしれない、とは思った。



「あー、しもやけになっちゃってるね。痛い? 痒い?」


「……」


「おい、どうなんだ。ちゃんと言え」


「……痛い」


「ありゃ。それは大変だ。怪我もしてるし、早いとこ治療しなきゃね」



 世話好きな猿と、ぶっきらぼうな狐に囲まれて呆気にとられながら、今自分がどうなっているのか、夜斗は必死に理解しようとした。


 こういうことが、前にもあった。


 夜斗は急に怖くなり、無意識に足をひっこめる。

 猿は不思議そうに夜斗を見ると、気の抜けた笑みを向けた。



「大丈夫だよ。狐くんはこう見えてとっても優しいから」


「俺かよ!」



 まさか自分に話が向くと思っていなかった狐は、反射的に猿の頭をひっぱたく。

 猿は頭をさすりながら口を尖らせ、文句を言う。

 猿と狐のやり取りに、夜斗は思わず笑っていしまった。


 夜斗が笑ったのは、いつ以来だろうか。


 ようやく表情を見せた夜斗に、猿と狐は顔を見合わせにやりと笑った。

 


「さあ、狐くん。この子を背負って」


「あ? 俺?」


「そうだよ?」


「しょうがねえな、ほら」



 狐は夜斗の前に背を向けてしゃがみ込む。

 手招いて夜斗に負ぶさるよう、促した。

 夜斗は何のことか判らずきょとんと首を傾げながら猿に助けを求める様に視線を向ける。



「……狐くん。君の背中を守るつもりは、この子には無いみたい」


「いや、意味わかんねえから! 俺たちの家まで負ぶってってやるから、さっさとしろっつってんだよ!」


「うわ、怖い。そんなんだから可愛いあの子にも逃げられちゃうんだよ」


「いつの話をしてんだ、いつの!」



 目の前で繰り広げられるやり取りに、呆気にとられながら見入ってしまう夜斗。

 さっさとしろ、と何度目か分からない催促に、夜斗はゆっくりとその背に負ぶさった。


 狐の背中からは、優しいにおいがした。


 狐に背負われ運ばれる間も、先程のやり取りは続いていた。

 夜斗は時折くすくすと笑いながら猿と狐の会話を聞いている。

 とても幸せな時間だった。


 夜斗がうとうととし始めた頃、猿と狐の家に着いた。

 そこは洞窟で、藁が敷き詰められているところに、夜斗は寝かされた。



「さて、まずは怪我の治療からね」


「おい。あいつは馬鹿そうに見えるが本当は賢い。治療はあいつに任せて損はないぞ」


「聞こえてるよ~?」



 狐は猿に聞こえないように小声で夜斗に言ったつもりだったが、よく響く洞窟の中ではあまり意味がなかったようだ。

 猿は不敵な笑みをたたえながら狐に向き直る。



「狐くん。本当に申し訳ないんだけれどもね? 蓬がね? ないんだよ」


「お、おう……」


「取ってきてもらってもいいかな?」


「あ、はい……」



 にっこりと笑ったまま表情を崩さない猿に若干怯えながら、狐は蓬を取りに出て行った。



「狐くんはね、優しいんだよ? 君が緊張してるから、なんとかして緊張を解そうとしてるんだよ」


「……何で?」


「うん?」


「何で僕にそこまでするの?」


「だって君……」



 猿はそこで一度言葉を切って夜斗に向き直った。

 手には蓬が握られている。



「もうこの世に楽しいことなんか何もないって顔してたから」



 夜斗はそれからすっかり黙り込んで猿の手元を見ていた。

 先程、猿は蓬がないからと言って狐を出て行かせたが、今はどこから拾ってきたのか、端切れに蓬を包んで解し、夜斗の足に巻き付けている。

 こうすると怪我が早く治るらしい。

 それが終わると、今度は夜斗の足を丁寧に揉み始めた。

 時折痛くないかと猿が夜斗に問うが、夜斗は黙って首を振るだけだった。

 猿はその度に困ったように笑うが、何も言わなかった。


 それから猿が細長い端切れで幹部にあてた蓬と一緒に夜斗の足に巻き付けている頃、狐が両手いっぱいに蓬を抱えて帰ってきた。



「おい、何で治療終わってんだよ。蓬、無いんじゃなかったのか」


「これからの分がないんだよ。この子に必要な分は有りますー」


「んだと、てめえ。食うぞ」


「やめてよ。せっかく怪我が治るように治療したのに、それじゃ意味ないじゃん!」


「……こいつじゃねえよ、お前をだ!!」


「あ、そうなの? 言ってくれなきゃ分かんないじゃん」


「こいつのことは食わねえよ!」


「だって。よかったね」


「う、うん……?」



 やはり蓬のことで一悶着あった後、猿は夜斗に向き直る。



「ねえ、君。怪我が治るまでここに居なよ。狐くんと二人きりは飽きてきたとこさ」


「おお、ぜひそうしてくれ。お前はこいつみたいにひねくれてなくて話しやすそうだ」


「なにそれ、心外だなあ。僕はこんなに素直だっていうのに」


「自分で言うな」


「あ、あの……」


「なあに?」


「どうした?」


「僕の……僕の名前は、夜斗です」



 夜斗の急な自己紹介に、猿と狐はきょとんとしたが、すぐににかっと笑って頷いた。



「うん、よろしくね。夜斗くん」


「おう、よろしくな。夜斗」


「うん」



 夜斗が小さく笑うと、狐が夜斗の頭をぐりぐりと撫でた。



「しっかり治せよ」



 この感覚も、久しぶりだった。






・・・・

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