第18羽



 夜斗の足取りは重かった。

 何度も引き返しそうになっては、自分にできることは何もなかったのだと、困ったように笑う青年の顔を思い出す度に歯がゆい気持ちになった。

 怪我を介抱してもらったのに、何もしないまま出てきたことも心残りであった。

 しかし、夜斗はもう青年のあんな顔は見たくなかった。

 迷いを振り切るように先を急ぐと、優しい笑顔が頭をよぎった。

 そしてまた、その顔はあの困ったような笑顔になるのだ。

 夜斗が何をした訳でもないのだが、自分があの天気の原因のような気がして、やとはがむしゃらに走った。

 いつかのように、何も考えなくて済むように、ただ走ることだけを考えた。


 こんなことを続けて幾日経ったのか判らないが、段々と街並みが変わってきたように夜斗は感じた。

 勿論、あの土地を離れれば、連日雨に悩まされることはなく、日の下で夜斗はとぼとぼと歩いた。

 またいつものように青年の困ったような笑顔を思い出し、夜斗は前も見ずに走った。

 すると突然、空気が変わったのを感じて、夜斗は足を止めた。

 荒くなった息を整えながら周りを見渡してみる。

 夜斗のすぐ後ろに、道を挟んで大きな木が立っていた。

 その先の空間は、何故だか歪んでいるように見えた。

 夜斗は、自分がいつの間にか泣いていたのかと勘違いして目元を擦ったが、涙は出ていなかった。

 もう一度目を凝らしてよく見てみても、やはり大きな木を境に空間が歪んでいるように見えた。

 夜斗は首を傾げながら木の元まで歩いていき、恐る恐る触れてみた。

 何も起こらなかった。

 相変わらず空間はゆがんでいるように見えるし、先程と空気も違う。

 何がどう違うのかと問われても、はっきりと言うことはできないが、何だか自分が咎められているような気するのだ。

 思い当たる節がある夜斗は、怖くなって気のせいだと思い込むことにして先へ進んだ。

 

 街の雰囲気や景色が物珍しくて、夜斗はきょろきょろと忙しなく首を動かしながら身体が重くなるまで歩いた。

 先に居た村では見られないような様式の家々が並んでいて、それだけでも夜斗の興味を引いたのだが、それよりも夜斗が夢中になったのはそのいくつにも別れた道だった。

 今自分がどこを歩いているのか、全く見当がつかないのはもとより、目的地があったとしても到底たどり着けないと思わせるようなこの街は、夜斗があてもなく歩き回る理由には十分だった。

 その他にも、少し歩けば寺だの神社だのが次々と見えてくることも、夜斗には面白かった。

 今まで見たことのないもの、今までに感じたことのない空気、今までに触れたことのないものが、この街には詰まっていた。

 散々歩き回ったせいか、はたまたこの街が迷路のようになっているせいか、夜斗はすっかり道に迷ってしまった。

 別段どこへ行きたいという目的もなかったので特に気にしなかったが、あの木の元へ戻って夜を明かすつもりだったのだ。

 さすがに日も落ちてきたので、落ち着くのにどこか手頃なところはないかと辺りを見回すと、ひっそりと鳥居が立っているのが見えた。


 仕方ない、今日はここで寝よう。


 夜斗は鳥居の下まで疲れた身体を動かしていく。

 ふと見上げると、黙ったまま夜斗を見下ろしている生き物がいた。

 夜斗は怖くておずおずと後ろに下がると、背中に冷たい感触が伝わった。

 振り返ると、今にも噛み付いてきそうな程の迫力で夜斗を見下ろしている生き物が見えた。

 夜斗はびくりと身体を強張らせてゆっくりと鳥居の陰になるように身を隠した。



「ひ、一晩だけ。一晩だけここに居させてね……」



 今にも消え入りそうな声で呟くと、大口を開けた生き物が夜斗から視線を外した。

 それが何だか許されたような気がして、夜斗は黙ったままの生き物を振り返った。

 黙ったままの生き物は、瞬きを一つして夜斗から視線を外した。

 ほっと胸を撫で下ろした夜斗は、歩き疲れたことも相まって、そのままうとうとと舟をこぎ、すぐに寝息を立て始めた。

 二匹の生き物は、互いに目を合わせて見つめるとすぐに逸らしてまた正面を向く。

 そうして夜は更けていった。





 まぶしい光が瞼を照らし、夜斗は目を覚ました。

 大きなあくびを一つこぼすと伸びをして、夜斗は空を見上げた。

 今日も晴天になりそうだ。

 夜斗は鳥居の陰から出て両脇の生き物に挨拶をすると、ここはどこかと尋ねた。

 


「宇治のかむやしろだ」


「かむやしろ……?」


「神社よ」


「そっか」



 今にも噛み付かれそうだと思いながらも親切に教えてくれた生き物たちに、夜斗はにこにこと手を振って別れを告げた。

 今日も特に行くあてはないが、昨日一日だけでは物足りないといたずらに街を巡った。

 好きなだけ歩き回って、そろそろ空腹になってきた頃、夜斗は先程から同じ場所尾をうろうろとしている人間を見つけた。

 うろうろ、きょろきょろ。

 かなり挙動不審である。

 夜斗は興味を惹かれてこっそり近づいてみることにした。

 その人は、うんうんと唸りながらあっちへ行ったりこっちへ行ったり。

 辻に行きあたっては腕を組んで首を傾げる。

 それをずっとやっているものだから、夜斗は段々と面倒くさくなって辻を曲がっていったその人については行かず、その場で待っていた。

 すると曲がっていった方とは別の道から、その人は戻ってきた。

 極度の方向音痴らしい。

 夜斗は、隠れることはせずずっとその人の後ろをついていき、辻の真ん中で待っていたのだが、気付いてはもらえていないようだ。

 その人は、また腕を組んで首を傾げる。

 

 この人はどこに行きたいんだろう。


 きょとんと首を傾げながら見上げていると、その人はがくりと肩を落として項垂れた。

 夜斗はその人の足元に行くと、足の甲に手を置いて自分の存在を訴えた。

 その人は驚いて顔を上げ、ぱっと飛びのいた。

 そんな反応をされると思っていなかった夜斗も驚いて飛びのいた。

 しばしの間互いを見つめて時間が過ぎる。

 いい加減しびれを切らして夜斗が一歩近づけば、その人は膝を折って夜斗に話しかけた。

 おかしな人だ。



「びっくりさせてごめんよ。君はここの子かい?」



 その人の問いに夜斗は首を振る。

 その人は夜斗の答えに眉間にしわを寄せながら唸る。



「もしかしたら。もしかしたらだけど、君は宇治神社を知っているかい?」



 その人の問いに夜斗の耳がぴんと立った。

 その人の足元でぴょんぴょんぐるぐると回って見せた。

 それは昨日一晩越した場所で、どこにあるかは分かっている。

 しかし、今自分がどこに居るのか判らない。

 夜斗がきょろきょろと辺りを見回すと、川が見えた。

 川沿いを辿って歩いていた夜斗は、これを右に見ながら行けば辿り着くと確信した。

 夜斗はまず、川沿いに出ようと足を進めた。

 しかし、駆けだしたはいいがその人はついて来ない。

 おかしいなと思いながら振り返ると、その人もきょとんとしていた。

 どうやら夜斗の意図が伝わっていないようだ。

 夜斗は一旦その人の元まで戻ると、先のように足の甲に手を乗せた。

 その人は首を傾げたが、夜斗が少し進んで振り返ると、ああ、と手を打ってついて来た。

 ようやく意図が伝わったようだ。

 夜斗はその人が追いつくまで待っていた。

 目を離すと全く別の方向へ行きかねないと思ったからだ。

 その人は夜斗に追いつくと、膝を折ってまた夜斗に話しかける。



「案内してもらえるのかな?」



 やっぱり伝わっていなかった。

 任せろ、と言いたげにふん、と鼻を鳴らすとその人は夜斗の頭をちょんちょんと撫でた。



「よろしく頼むよ、案内兎くん」



 夜斗は何だかくすぐったくて、もそもそと毛づくろいをして誤魔化した。





・・・・

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