第10羽
圧倒的な威圧感。
今にも押しつぶされてしまいそうな迫力。
般若のように顔を歪めてこっちを見ている。
彌彦の大神が、夜斗を見下ろしていた。
見つかった。
よりにもよって忠告されてからいくばくも経っていないこの時に。
この神の逸話を真に受けた訳ではないが、それでも夜斗に何かしらの影響は与えた。
逸話は本当だろう、そう思わせるだけの気迫と形相。
何を言わなくても、何をしなくても解る。この神とって、夜斗を石にしてしまうことなど造作もないことだ。
「忠告はしたな、新しい頭よ」
「……」
先程のような不遜な態度は出てこない。
せめてもの救いは、ここに居るのは自分ひとりだということ。
夜斗はゆっくりと立ち上がり、彌彦の大神に向き直る。
「何をしている」
問われてなどいない。
この言い方は決して問われているのではない。
彌彦の大神は夜斗がここに居る理由は分かりきっている。
「生きるために、盗んでいる」
凛としているようにも、震えているようにも聞こえる声で、短く答えることが、今の夜斗には精いっぱいだった。
しっかりと目を見ることはできない。
しかし、歯を食いしばって顔を上げているだけでも、夜斗には上出来だ。
「もう一度言おう。お前たちが食うに困らないだけの食糧は、山にちゃんと残している。お前ひとり増えたところで、無くなりはせん」
「実際に不足している。それはどういうことか」
「しっかり探せと言ったはずだ」
「この方が手っ取り早い」
彌彦の大神は腕を組み、大きく息をついた。
その鼻息だけで夜斗は吹き飛ばされそうだ。
「確かに生きていくには、何かを犠牲にしなければならない。しかし十分な食料があり、現に他の兎は下りてきていない。お前は頭でありながら己の身だけが満たされればそれでよいと言うのか」
「勘違いするな。僕は春になればここを出て行く。あの群れで頭に治まってやるつもりもない。僕は最初から僕のために食べているだけだ」
なりたくもないのに頭の座に祭り上げられ、加えて責任まで押し付けられるのはたまったものではないと、夜斗は主張する。
「頭に治まったからには、例え一時期と言えども群れの者を養っていかなければならない。お前が頭に治まったからにはその責がある」
「僕はあいつらのために生きてやるつもりはない。なんだったら今すぐ頭も辞めてやる」
段々と声を荒げながら苛立ちを隠そうともしない夜斗の態度に、彌彦の大神はやらやれと首を振った。
「お前たちが田畑を荒らしたことで、里の者が困っている。それをお前は何とも思わないのか」
「……人間だって兎を食べるくせに、僕たちが人間の食べ物を食べて何が悪い」
ふと俯き、苦虫を噛み潰したような顔をしながら小さく呟く夜斗。
今夜斗の頭にどういう情景が浮かんでいるのかは、想像に難くない。
「……生き物が生にこだわるのは本能だが、お前はそれだけではないな。何をそんなに生き急いでいる」
「……」
「お前が生にこだわる理由は何だ」
夜斗は勢いよく顔を上げ、きっと彌彦の大神を睨みつけながら叫んだ。
「人間に兄と母を殺された。とても身勝手な理由で! 兄は今際の際に僕に生きろと言った。だったら僕が人間の食べ物を食べながら生きて何が悪いっていうんだ! それが駄目だと言うのならどうやって生きていけばいい! どうやって兄の最後の言葉を守っていけばいい!!」
最後はぼろぼろと泣きながら捲し立てる。
夜斗にも解っている。
犠牲にしなければならないと言っても、こんな、迷惑なことをしてもいいという訳ではない。
「兄は何と言ったのだ。ただ生きろと言ったのか」
「……兄は、兄は楽しいことを沢山している僕を見せてくれと言った。……兄、兄ちゃんは、兄ちゃんと母さんの分まで生きて、楽しいことを沢山してる僕を見せてくれって」
「きみは、楽しいのかい? 今、きみは楽しいのかい?」
「……楽しくなんか。……楽しくなんかない!!」
ついに大きな声で泣き出した夜斗。
幼いのだ。
元から兄弟の中で一番最後に生まれた
。最後には兄と母しか残らなかったが、父も、他の兄たちも沢山いたのだ。
しかし、その全部がもう、夜斗の傍には居ないのだ。
最後の兄弟だった。
最後の親だった。
もっといっぱい遊びたかったし、もっといっぱい一緒に居たかった。
しかし、食われたのだ。
僧侶に。
あの新しくできた寺に住んでいる僧侶に、何年もかけて親兄弟を全部奪われたのだ。
父が食われた辺りから、母は気が沈んで引きこもりがちになった。
それからだ。
夜斗が幼いながらも精いっぱい背伸びをして大人のふりをし始めたのは。
幼い。あの群れの中でも圧倒的に幼い。
気弱な兎が夜斗と同じくらいか、もしかしたら夜斗の方が幼いかもしれない。
そんな夜斗が、群れを率いるだとか、群れの問題を解決するだとか、群れの責任を一手に担うだとか。
それはあまりにも重すぎた。
ひとしきり泣いた後で、彌彦の大神は一本の人参を差し出した。
夜斗は涙を拭いながらきょとんと大神を見上げる。
「きみにここの頭は務まらない。今すぐここを出なさい。もうすぐ暖かくなるから」
「……ありがとう」
差し出された人参を受け取ると、もぐもぐと頬張り始めた。
夜斗が食べる様をじっと見守る彌彦の大神。
夜斗はそれを不思議に思いながらも葉に至るまでしっかりと平らげた。
ごしごしと顔を毛づくろいし終わると、夜斗は彌彦の大神に向き直った。
「ほんとに出てっていいの?」
「きみはこのままここに居たいかい?」
「ううん、嫌だ」
今までため込んできたことを吐き出したおかげで、年相応に幼い顔になった夜斗の頭を、彌彦の大神はぐりぐりと撫でた。
「きみは私を怒らせた。だからこの山から追放されるんだ、いいね? 一度群れに戻って皆を集めて言うんだ。それまでさっきまでの不遜な態度でいるんだよ? でないときみはどうなるか分からない」
「うん、わかった。頑張る」
彌彦の大神の言いつけに素直に頷いた夜斗は、ひょこひょこと山へ戻っていった。
彌彦の大神はその後姿を曇った顔で見送った。
夜斗は群れに戻る前に思いつく限りの嫌な思い出を胸に秘め、苛立ちをそのままに皆を集めるよう気弱な兎に言いつけた。
気弱な兎は急いで群れの皆を集めると、夜斗の隣には行かず群れの中に紛れた。
夜斗は先程里へ下り、彌彦の大神に見つかったこと、彌彦の大神の怒りに触れこの山を追われることを話して聞かせた。
それを聞いた兎たちは、今まで勝手に頭頭と慕っていた態度を手のひらを返したように改めた。
口々に野次を投げかけ、これから自分たちはどうなるのかと夜斗を非難した。
それを見た夜斗は本当の意味で苛立ち、兎たちをねめつけた。
「勝手にしろ。お前たちは里に下りなくても生きていけるんだろう?」
そう捨て台詞を残すと、夜斗はまっすぐに山を下りる道を辿った。
「あんなに慕っておきながら、何なんだよあの態度は」
ふつふつと湧き上がる怒りに時折地団駄を踏みながら夜斗は一心不乱に足を進める。
彌彦の大神はもうすぐ春が来ると言っていたが、未だに山には雪が積もっている。
本当に春はもうすぐそこなのだろうか。
知らず知らずのうちに足取りが重くなっていた夜斗は、遠くから聞こえてくる声に振り返った。
見れば、気弱な兎が時折雪に埋もれながら必死に夜斗を追いかけてくる。
見送りに来てくれたのかと、夜斗が思わず泣きそうになっているところに、気弱な兎は追いついた。
「夜斗さん! 僕、夜斗さんお礼が言いたくて、追いかけてきました」
「そんな、お礼なんて……」
「ありがとう、夜斗さん! これで次の頭は僕です!」
「は……?」
聞き間違いだろうか。
あの気弱な兎が邪気のない笑みを浮かべながら、とても嬉しそうに何を言っているのか、夜斗には理解が出来なかった。
「次の、頭……?」
「はい! 夜斗さんが彌彦の大神に盾突いてくれたおかげで、群の中で怪しまれずに動けました。ありがとうございます!」
「な、に……?」
「あー、そうですよね。何から話しましょうか。じゃあ……最初から!」
気弱だったはずの兎が言うには、前の頭は義に篤かった。
行き倒れていたところを彌彦の大神に助けられ、あの群れに引き入れられたのだそうだ。
それからは彌彦の大神の言いつけをしっかりと守り、群れの中で不祥事が起こった時はしっかりと治める。
その気質から頭にまで成り上がった。
当然腕は立ち、大柄ということも相まって誰も異を唱えなくなった。
しかし、群れの中にはどうしても反対勢力が出てくるものだ。
その筆頭が気弱だったはずの兎だったらしい。
「いや別に前の頭に不満があった訳じゃないよ? 強いて言うなら僕に命令することかな」
ただ腕が立って大柄なだけで威張るのはおかしい。
気弱な兎の主張はこうだった。
「だったらさっさと消えてもらわないと」
そこで目を付けたのが夜斗らしい。
実はこの兎、夜斗と最初に縄張り争いをした兎らしかった。
夜斗からすれば、あの時はろくに食べもせず、ずっと歩き通しだったうえに、急に仕掛けられたのだから、ちゃんと顔なんて覚えている訳もない。
夜斗のような兎がいて、こそこそと隠れながらこの山の食糧を漁っている。
そう前の頭に報告すれば、動かない訳にはいかない。
その結果、あのような騒ぎになったらしい。
この兎の考えでは、前の頭に少しでいいから怪我をさせてもらえれば、あとは上手くやるつもりだったらしい。
しかし、思いの外夜斗が奮闘したためやりやすくなったのだと言う。
ならば前の頭は今どこに居るのかというと、
「前の頭はそうだな……。今頃どこかの谷底で雪に埋もれてるんじゃないかな」
だそうだ。
そうなればもう夜斗を追い落とせばこの気弱だったはずの兎の計画は完璧だ。
この兎がこういう性格だと言うのは、ごく一部の、弱みを握られた兎しか知らないらしい。
それをいいことに気の弱いふりをして他の兎を誑かし、あまつさえ夜斗に見つからないように少しずつ食糧を集めていたという体で、今まで隠していた食糧を皆の前に曝け出し、感謝までされたらしい。もう返す言葉もない。
「ばっかだよねー。皆も、あんたも」
「表向きの頭は僕じゃないよ? だって、何かあったら僕の責任になるじゃない。だから弱みを握っている兎の中から適当なのを選んで推薦してきたよ。今頃決まってるんじゃないかな?」
「僕は裏でそいつを言いなりに出来るから、実質僕が頭だね! だって僕は参謀だもの♪」
嬉々としてそう話す兎はもはや夜斗が聞いはていようがいまいが話続けている。
「もうすぐ春だね、ここから出て行くんでしょ? 希望通りじゃん」
兎が夜斗に近づいてくる。
「本当にありがとう、夜斗さん。じゃあね、さようなら」
そう言って兎は夜斗を蹴った。
兎に近寄られたとき、無意識に後ずさっていたのか、夜斗の後ろは急な坂になっていた。
夜斗は、重力に従って転がっていく自分の身体を止めようとはしなかった。
ただ落ちるがままに、身を任せていた。
ぐるぐると回る視界の中に、何度か彌彦の大神の姿が、見えたような気がした。
・・・・
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