第五十六話 触れられる距離

 夕刻、セルティアは一人森の中を歩いていた。昼間からずっと考え事をしていたので、その気分転換のためだ。

 師匠であるシャリークに言われた言葉をあれからずっと考えているのだが、やはりセルティアにはピンとくるものがない。

 考えているうちに、何を考えればいいのか分からなくなって、自ずとため息が零れる。


(あー……やっぱり眠いわね)


 よくよく考えてみると、まる一日以上寝ていないのだ。考えることよりも睡眠を求めてしまうのは仕方がない。

 次第に歩くことも億劫に感じ、近くの大木に背を預けるようにして座り込む。

 夕刻といってもまだ随分明るく、昼間と然程変わらない。夏が近い証拠だ。

 この森は全てがセルティアの庭のようなものだ。どこにいても危険などさしてあるわけではなく、気が緩んでしまいがちになる。

 セルティアは閉じそうになるまなこを擦りながらぼんやりと空を見上げる。

 暑くもなく寒くもない、丁度よい気温と、時折吹く穏やかな風が心地よくて、いつのにまにかその瞳は閉じ、意識は霞み、まどろみ始める。


「……ティア?」


 聞き覚えのある声が朧気に聞こえた気がして、セルティアはゆっくりと瞼を持ち上げた。

 少しの間だけ意識を手放していたようだが、明るさも気温も先ほどと何も変わっていない。

 まどろみから覚醒したばかりのセルティアはぼんやりと前を見て、そこにいる姿を確認する。もう一度名を呼ばれたことで空耳ではなかったのだと頭のどこかで考える。


「エル……?」


 不思議そうに見下ろしている彼の名を呼んで、セルティアも不思議そうに首を傾げた。


「なんで、ここに……?」


 上手く働かない頭で、なんとか思ったことをそのまま口にする。その声は思いの外小さかったのだが、確かに彼の耳に届いたようだ。


「ティアに会おうと思って。寝てた?」


 なぜか笑みを含めながら言うエルに、セルティアは小さく頭を振るが、実際のところどうかはわからない。


「そんなこと、ないと思う、わ……」


 まなこを擦りながら自信なさげに答えていては説得力はないだろう。

 そんな言動が普段よりも幼く見えて、やはりエルは小さく笑ってしまうのだが、セルティアがそれに気づくことはない。

 静かに隣に座るエルを暫く見て、やっとはっきりと状況を把握することができた。


「エル……?! なんでここにいるの?」


 驚きのあまり突然立ち上がろうとするセルティアの手を引いてそのまま座らせる。

 やはり優しい笑みを浮かべたままのエルの行動に彼女は困惑するのだが、同時にこの国の王女の面影が確かにあることに気がついた。


(セイラーン様も……同じように笑うわ)


 今まで気づかなかったのが不思議なぐらいだ。

 夢幻の魔女を友と言ってしまう王女も、時折優しい笑みをセルティアに向けている。微笑みもそうだが、なによりあの美しい瞳が確かにセルティアを捉えて、優しく揺れるのだ。それが心地よいような、気恥ずかしいような、よく分からない気持ちになって、いつも瞳を逸らしてしまう。

 それは今も同じである。

 セイラーンと似ており、しかし確かに違う色を映すエルの瞳がセルティアを捉えていると分かるとどうしても落ち着かない。

 だから少しだけ下を向いて、何度か見直しながら話すのだ。


「えっと……何か、用があった?」

「いや、用というか……ティアとちゃんと話したいと思って来た。だってずっと逃げてるから」

「それは、えっと……」


 図星をつかれセルティアは口ごもる。

 気まずさのあまり、ろくに話もせず避けていたのは事実であり今も変わらない。本当なら今すぐ逃げ出したいところなのだが、手を握られたままなのでそれが出来ない。強く握られているわけではないので振り払うことも出来るだろうが、それはしたくなかった。

 だからセルティアは困ったように眉尻を下げて少しだけ顔を上げる。


「……ごめんなさい。悪かったと、思っているわ。きっと気分を悪くさせてしまったわよね……その、あのときはああするしかなくて……」

「ちょっと待って、ティア」


 声を落として謝罪を続けようとする様子にエルは有無を言わさず制止をかける。彼が聞きたいことも言いたいこともそんな話ではないのだ。

 根本的な勘違いをセルティアはしたままで、エルはそれを正したいと思う。

 だから出来る限り、優しく穏やかに告げる。彼女の心に巣くう陰りを取り除けるように。


「ティア。俺は、何も気にしてないよ。少なくても、夢幻の魔女に関しては何も気にしてない。だから連盟でのことは何とも思ってない」

「でも……」

「でも、のことは気にしている」


 優しい言葉の中に確かな意思が感じられて、セルティアは目を瞬かせる。

 似たような言葉を昼間シャリークに言われた気がして、しかしその真意を理解しきれずにいるのだ。


「わからない?」


 セルティアの表情からそう感じ取ったエルが優しく訊ねるので、小さく頷くと、彼はとても困ったような顔をする。


(分かるような、分からないような……)


 はっきりと分からないことがもどかしくて、それは自分が敢えて分からない振りをしているような気さえしてくる。


「じゃあ……こう言えばいいのかな。俺は、んだ」


 その言葉がすんなり頭に入ってきて、セルティアは目を見開く。同時に二人の間に食い違いがあったことに気がついた。


「エルは……夢幻の魔女の態度とか、何とも思わなかったの?」

「何とも、っていうと語弊があるかもしれないな。でも、それよりも、俺はティアが"夢幻の魔女"を気にしすぎていることが気になる」


 まるでその名に囚われているかのようで、それが気がかりでならないのだ。

 そしてセルティアは確かに過剰なほどその名に囚われている。


「俺は、たぶん魔術師たちと比べるとその名がもたらす影響ものをよく知らない。だからかもしれないけど、夢幻の魔女よりもセルティアっていう女の子の方が気になるし、ずっと知っているよ」


 それはセルティアを二つ名の存在で見ているのではなく、彼女個人として気にかけてくれているということ。

 エルの言葉が嬉しくて、でも少し不思議に思えて、そして後から恥ずかしくなって、セルティアは頬を赤らめて僅かにうつ向く。


(エルも、そうなんだわ……)


 セルティアをセルティアとして見てくれる人なのだとはっきりと理解した。

 これまで出会ってきた中で、同じように見てくれる人が少なからずいることを知っている。そして目の前の騎士も、その一人だと分かると胸が苦しくなる。

 嬉しいはずなのに、戸惑いが拭いきれなくて、どうしたらいいの分からなくなる。

 いつも、そうなのだ。シャリークもセイラーンも双子にも、時折どう答えたらいいのか、正解が分からない。そんな戸惑いも分かったように受け入れてくれる優しさがまた胸を苦しくさせる。


「だから、ティア。逃げないで。 俺が困るから」

「困る、の……?」

「ああ。それに、誤解したまま避けられていたら面白くないな」

「それは、その……ごめんなさい……」


 なぜ困るという表現が出てくるのか不明だが、避けていた自覚があるだけに居たたまれない気持ちとなる。


「ティア。話せないことも、話したくないこともあるだろうけど、話せることは話せるときに、話してほしい。言葉にしないと分からないことが多くて、でも俺たちはそれが出来る距離にいるんだから」

「距離……?」

「俺も、姉上に言われて気づいた」


 苦笑するエルに、セイラーンの姿が思い浮かべられる。

 優しい言葉をくれる遠い人だ。


(セイラーン様は、いつも優しい……遠い人。でも、エルは……)


 セルティアは繋がれたままの手を見つめる。逃げずに向き合えば、触れられる距離にいるのだ。

 それをきっとこの二人は教えてくれている。人として生きるなら、とても大事なことなのだと。

 シャリークが伝えたかったことが少しだけわかった気がした。


「俺はそれが言いたかった。だからティアに会いに来たんだ」

「エルだって忙しいのに……」


 中央地区から南地区の移動だけでも時間をとり、その上ハレイヤの話では仕事が溜まっているはずなのだ。

 それでもエルはセルティアを優先してここに来てくれた。


「大事なことは先延ばしにしない主義なんだ」


 笑ってそう言われると、何よりも嬉しさが勝ってしまう。


「エル……ありがとう」


 だから沢山の意味を込めた感謝を、セルティアは微笑みながら伝えた。

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