第二章 幻影結びし誘いの月

01 新しい生活


 それは色彩を失った白と黒の世界。

 真っ白な紙の上に墨を垂れ流して浮き上がらせたような、深い滲みを持った世界だった。


 視界は地面。

 横たわりに平坦な草原を映し出している。

 黒色の濃淡で描かれた草原が大きく波を打つ。

 そう認識した直後、吹き荒れる風の音を聞いた。その中でか細い呼吸音がやけにはっきりと響いている。


 やがて視界は上空に向けて動き、信じがたい光景を映し込んだ。


 眩い真円が空を支配していた。

 完全にして完結した弧を描くそれは天を覆い尽くさんとするほどに大きく、冴え冴えとした白い光芒を放ち大気を染め上げている。

 それはまるで月のようだった。


 近くで草原を踏む音がした。

 視界がその音を追ってゆっくりと動き、一人の少女、その後ろ姿を捉える。

 学校の制服とおぼしき服装をした少女は黒ずんだ左手を目元にまで上げ、その手の中にある何かをじっと見ている。

 少女の横顔は〈月〉の光が逆光になって見えない。長い後ろ髪、丈の短いスカートが共に風で揺れている。スカートの側に置かれた右手には、風変わりな形状をした拳銃のようなものが握られていて――――。


 ぐらぐらと地面が激しく揺れだした。

 少女は空を見上げた。

 見ると、先ほどよりも〈月〉が大きくなっていた。

 〈月〉が地上へと迫ってきているのだ。


「じゃあな、桜ちゃん」


 軽々とした声が聞こえ、視界が戻ると少女は姿を消していた。


 風が大きく唸りを上げる。

 そして上空に浮かんでいた〈月〉が、突如支えを失ったかのように落下した。

 大気を猛然と引き裂きながら〈月〉は地上へと迫り、あっという間に視界全てを白へと染め上げる。


「――――」


 凄まじい衝撃音、それと同時に声がした。

 誰かの声。


「――――――――」


 声。

 声がする。

 傍に誰かがいる。

 真っ白な光の中。世界が壊れていく音。

 その中で一人、誰かが名前を呼ぶ声が聞こえる。


「桜様――――――――」


 あやさきさくらは目を開いた。

 眩しい光が射し込み、反射的に目を瞑る。

 右手で瞼の上を覆い、口からくぐもった声を漏らした。


「桜様っ」


 近くで声が弾んだ。

 ほっとしたかのような息づかい。

 そのあと、そっと体に手を添えられて小さく揺さぶられる。


「桜様。桜様。起きてください、桜様」


 どこか甘えるような、優しい呼びかけ。

 桜はしぶしぶと布団に手をつき、上半身を起き上がらせていく。

 少し、体がだるい。

 なんだか、ずいぶんと長い間眠っていたような気がする。


 ゆっくりと目を開けていく。

 フローリングの部屋に敷かれた一枚の布団。

 右側にはカーテンのない剥き出しの窓があり、そこから無遠慮に陽光が射し込んでいる。

 そしてその反対側。

 そこには正座をした少女が居た。


 目が合う。

 すると少女はにっこり微笑んだ。

 白く透明感のある肌。さわやかな翡翠色の目と髪。そしてすっと心をなだらかに梳かす清らかな匂い。

 少女の名前を桜は知っていた。


 少女はきっちりとしていた姿勢をさらに正し、両手と共に上体を前へと傾ける。


「おはようございます、桜様」


 両の掌を床につけ、丁寧すぎる所作で頭を下げた。


 少女の名前はゆいしきおり

 そして彼女は――。


(…………そうか、私は……)


 詩織が顔を上げる。


 桜は探るように詩織を見た。

 正直なところ、ぱっと見てすぐに詩織だとは分からなかった。

 今目の前にいる彼女と記憶の中にある彼女とでは随分と雰囲気が違っていたからだ。


 まず髪型。

 翡翠色の長い髪は今、白いリボンで後ろにまとめられていた。いわゆるポニーテールだ。

 次に服装。

 詩織はあの格式を感じさせる白い和服ではなく、緑色のエプロン、そしてそのエプロンの下にはベージュのセーターにグレーのプリーツスカートと、学校の制服らしき服を着ている。

 清楚な印象は変わらないが、制服エプロンにポニーテールの詩織は和服を着ていた時の固く生真面目な感じが薄らいでいた。

 そして観察する桜の目は詩織の胸部で止まる。

 エプロンを大きく押し上げるふっくらとした二つの膨らみ。

 あらためて見事なものだと感服する。


「あの……桜様? 大丈夫、ですか」


 はっとして桜は視線を戻す。

 詩織がとても心配そうな顔をしていた。


「……桜様。私が誰だか、分かりますか?」


 恐る恐ると詩織が訊く。

 そういえば先程から言葉を返していなかった。

 たしかあの夜にも似たようなやり取りをしたなと思いつつ桜は応える。


「大丈夫。あんたが誰なのかは分かってる……。ただ、あまりにも色んなことがあったから……ちょっと、頭がこんがらがってて」


 そうですかと詩織はほっと肩を下ろした。

 そして詩織はまたすぐに居住まいを正し、柔らかな声で言う。


「桜様。お休みのところ無理矢理起こしてしまい申し訳ございません」


 無理矢理起こされたという感じはない。

 若干体に気怠さはあるものの、気分はすっきりとしている。


「まだとてもお疲れであられると思います。ですが約束の時間が近づいてきましたので、確認をさせていただきたく参りました。もちろん、桜様のお身体が第一ですが」

「はぁ……」


 まだ頭がちゃんと目覚めていないからか、それとも詩織の言葉が足りていないのか、いまいち話の内容がつかめない。

 そして質問する間もなく詩織はどこか体に違和感はないかと訊いてきた。

 問題無く体は動かせるか、腕は、手は、指は、足は、それよりもまず一度立ち上がって欲しいと矢継ぎ早にあれこれ言われる。

 とりあえず言われた通り立ち上がることにした。

 詩織が先に立ち上がって手をさしのべる。少し迷うも、桜は詩織の手を取った。

 あの夜の時とは違い体に痺れはなく、すんなりと立ち上がれた。


 立ち上がってからまたふと気付く。

 あの夜に着ていた白い和服、それと同じものを今も着ていることに。


 体全体を動かしていき、調子を確かめていく。

 体を動かしながら、れいりょくも軽く練り上げて全身に流してみる。霊力はよどみなく綺麗に巡回した。


「うん。特に問題はないわ」

「さすがは桜様です!」


 胸元で両手をグッと握り詩織は満面に喜びをたたえた。

 何がさすがなのだろう。それと先ほど言っていた約束の時間とは何だ。

 疑問を感じていると、豊潤で風味のある匂いを嗅ぎ取った。

 部屋の外からだ。

 開かれたドアの先を見る。


「なんか、美味しそうな匂いがする」

「はい。朝食を用意させていただいております」

「おっ、マジで? ありがとう」


 軽く礼を言う。

 すると詩織は何かの力に打たれたように後ずさった。

 ぴたりと停止して詩織の頬が赤く染まっていく。

 まばたきもなく、うっとりと据わった翡翠の瞳はどこか遠いところを見つめているようで。

 急にどうしたのだろう。


「おーい。どうした? 大丈夫か?」


 詩織の目の前で手を降ってみる。

 ぱちくりと瞳がまたたく。


「は、はい……。大丈夫、です」


 まだ少し放心気味な詩織にとりあえず顔を洗いたいと桜は言った。


 部屋を出る。

 日差しの良くあたる場所にずっと居たからだろうか、少し気温が低く感じた。

 記憶と違わず、リビングはちょっとしたパーティーでも開けそうなくらいに広かった。

 そしてやはり物という物が無く、さっぱりとしている。


(ん……? そういえばあの鏡がなくなってる)


 こちらですと言って歩き出す詩織。まあいいかと揺れるポニーテールと細いうなじを眺めながら桜もその後に続く。

 リビングのドアを通り、ゆったりと空間に余裕のある玄関ホールへ。さらにそこから右側のドアを抜け、廊下へと出た。廊下を進み、その角で詩織は止まる。


「桜様、こちらが洗面室となります」


 廊下は左に、そこからまたさらに奥で右に折れて続いている。一体いくつの部屋があるのだろう。


 一般的なマンションの一室がどのようなものかを桜は知っている。

 ゆとりのありすぎるリビングに玄関ホール。そしてこの廊下に並んだいくつものドア。

 間取りの広さ、部屋の数。

 あきらかにここは普通ではない。

 もしかするとマンションのワンフロアを丸ごと使っているのかもしれない。


 詩織がドアを開く。

 そこには日差しが程よく入った、爽やかな白い空間があった。


「一通り必要なものを用意したつもりですが、もし何か足りないものがございましたらお申しつけください」


 どうぞごゆっくりと詩織は頭を下げ立ち去った。


 大理石調の床を歩き、大きな鏡のついた洗面台の前に立つ。

 そして軽く息をつく。

 ずっと純和風の家で暮らしてきたためか、どうにもこういった空間は落ち着かない。


 端にはそれぞれタオルがかけられている。洗面台の上にはガラスコップ、黒のポーチ、白い長四角の紙箱が置かれていた。ポーチの中には必要十分な手入れ用品。そして紙箱の中には新品の歯ブラシと歯磨き粉がセットで入っていた。

 いやに準備がいい。


 窓の外からは緑の香りとさえずる鳥の声が入り込み、室内はとてものどかな空気に包まれている。

 鏡に映る自分を訝しげに見ながら桜は歯を磨きはじめる。

 自然と、あの夜の出来事が思い起こされていく。


 桜の中にはある炎が封じられている。

 はくえん。熱も持たず光も持たない、闇のような白い炎。

 その炎は魂を、魂だけを燃やす特殊な性質を持っている。

 気付いた時には封印とともに白炎は桜の内側に存在していた。


 ある日を境に白炎を封じている封印が弱まりだした。

 そしてついに白炎を抑えきれなくなった三月二十七日。桜は白炎に魂を灼かれながら谷底で一人死を迎えた。

 そのはずだった。

 桜は見知らぬ部屋――先ほどの部屋で目を覚ました。

 そして、唯識詩織と出会った。


 詩織は桜に説明する。

 白炎に呑まれたあの日から三年間眠り続けていたこと。桜の中には未だ変わらず白炎が存在し、命を脅かす状態にあること。そしてその白炎を抑え込む方法があるということ。

 それは〈くにがみ〉になること。

 すなわち〈しんかく〉を取り入れるということだった。


 くにがみ

 八百年前まで国を統治していた君主であり、この国の根幹を支える存在として崇められていた守り神。

 その権威と信仰は〈国神の加護〉――国内全体の霊力を安定させ、魔物を退けているとされる不可視の結界にあったと言っても過言ではない。

 そしてその国神の加護は実在し、神核によりそれは維持されているのだと詩織は言った。


 しんかく

 国神の力の源。赤い金属質の奇妙な小刀。

 神核を取り入れた者は莫大な生命力を手にし、不老不死になるという詳細不明の異物。


 神核を取り入れることにより白炎を抑えることができる。

 桜は死なずに済む。

 だから国神になって欲しいと詩織は言った。

 そして国神になること。それはすなわち桜の義母・あやさきあまねの後を継ぐということだった。


 桜は国神になることを拒絶し、部屋を飛び出した。

 今度こそ本当に死ぬために。


 外に広がる街がしんだと気付き、桜は義姉・あやさきひなとの約束を思い出す。

 六百年前に全焼したしんひらじんぐう。その中で唯一火災を逃れたとされる、かいそうにある真なる本殿。

 神都平日神宮の隠された本殿。そこで雛が待っている。


 桜は残されたわずかな時間内で隠された本殿への入り口を探すことに決めた。

 春の大祭で賑わう神都市街を探索していく。

 その中で桜は雛が残した暗号、もといヒントから本殿入り口を見つけ出した。


 神都平日神宮の隠された本殿に辿り着いた桜は、本殿前方に広がる巨大白樹の並木道、天花咲きの通り道にて詩織に決闘を申し込まれる。

 詩織が勝てば桜は覚悟を決めてくにがみになる。桜が勝てば白炎に呑まれ死んだ後、詩織は桜を弔う。

 そういう取り決めで決闘を行い、そして、桜は詩織との決闘に勝利した。

 そして――――。


(……私、国神になったんだよな。…………実感湧かねぇ)


 詩織によって突き刺された神核は、体内に入ってすぐ全身に溶け混ざるようにして消えた。

 ただ目にしただけでとてつもなく奇妙な感覚を味わわされたしんかく。それが今、本当に自分の中にあるのかどうか、感じ取ることはできない。

 とはいえ現に今、あの限界まで覚醒に近づいていた白炎は完全に収まっている。

 封印が破られる気配もない。

 この安定した状態は桜が神核と同調し、国神となっていることの何よりもの証しと言えるだろう。


(…………)


 生きている。

 それは普段意識することのないとても当たり前のこと。自然な状態。

 だが死の直前にまで身を浸した桜には改めてそれがとても不思議なことのように思えた。


 コップに水を注いで口の中をゆすぐ。水を掬ってぴしゃっと顔を洗う。

 ふかふかのタオルで顔を拭き、桜は鏡に映る今の自分をじっと睨みつけた。

 ふっと苦笑いを浮かべる。


(なんというか、やっぱ変な感じ)


 セミロングの黒髪に深い青の瞳。それらの特徴は三年前と変わっていない。

 

 だが桜にしてみればついこの間まで十二歳だったわけで。頭の中にある自分と、鏡に映る成長した自分がどうしてもかみ合わない。

 自分ではあるが自分ではない自分といった感じで違和感が拭えない。

 これが今の自分だと自然に思えるまでもう少し時間がかかりそうだ。


(三年、か……)


 全く成長のなかった定規のように真っ直ぐな胸を再認識しながら、桜は三年という時の流れを思った。

 あれから三年の時が流れている。

 真っ先に浮かんだのは、右手を大きく空へと掲げ、両目を涙で濡らしながら、それでも真っ直ぐにこちらを見据え立つ紫髪の少女の姿だった。

 三年前、交わした約束は雛との約束の他にもう一つあった。


(あいつ、今どうしてるんだろう)


 あの時交わした約束もまた守れるはずのない約束だった。

 だが今、桜はこうして生きている。

 あの時の約束を守ることができる。


(…………)


 よし、と桜は右拳を開いた左手に打ち合わせ、気合いを入れる。

 ひとまず詩織が用意してくれたというご飯を食べよう。

 そして現状認識だ。

 国神になるということはどういうことなのか。そもそもあの神核というものは何なのか。今居るこのマンションは何だ。雛は今どこにいるのか。そして、絢咲周のことも。

 聞きたいことは山ほどある。


 適当に身なりを整えて洗面室を出る。

 リビングへ戻ろうと来た道を辿る。玄関ホールへと続くドアノブに手をかけたところで桜は止まった。

 反対側にもドアがあり、その向こう側には先ほど嗅ぎ取った匂いがあった。

 ドアを開き、香り広がる中に入る。

 そこはまた広々とした白とブラウンを基調とするモダンなシステムキッチン。中央のキッチン台にはすでに出来上がった品が並んでいる。

 どうやら和食のようだ。

 小皿に口をつけて味見をしていた詩織がすぐにこちらへと振り向いた。


「桜様っ。すみません。すぐにご用意いたしますので、もう少しお待ちいただけますか」

「いいよ、ゆっくりで。それにしても……」


 制服エプロンで調理場に立つ詩織はなかなかさまになっていた。


「……? 何ですか?」

「何でもない。ほら、私のことは気にしないで続けて」

「はい!」


 桜は詩織に近づき、後ろからそっと覗く。

 ガス台の上に乗る鍋には、豊かな香りを立たたせる味噌汁。すでに火から下ろした土鍋からは炊きたての白米の香りが漂う。


「へぇ、美味しそう」


 また先ほどのように目を据わらせてこちらをぼーっと見ていた詩織が少し遅れて反応する。


「あ、ありがとうございますっ!」

「なんか意外ね。あんたはもっと不器用なやつかと思ってた」


 頬を綻ばせていた詩織だったが、だんだんとその表情は暗くなり、しゅんと肩を下ろした。

 手に持っていた小皿を置き、詩織は桜に向き直る。


「あの、桜様……」

「ん、何?」

「大変差し出がましい申し出だと存じております。ですが……私にとってはとても大事なことで……」


 覚悟を決めたように息を吐き、そして、


「桜様、お願い致します。私のことはどうか名前で……詩織と、呼んでいただけないでしょうか」


 詩織は桜に深く頭を下げた。


「いや、ちょっと、そんな頼み込まなくても名前くらい呼ぶって」


 名前で呼んで欲しい。

 あの夜にも何度か詩織がそう言っていたのを覚えている。

 詩織にとって名前で呼ばれることはそこまで重要なことなのだろうか。


 名前くらい呼んでやればいい。

 というか、もうすでに何度か呼んだ気がする。


「えっと……じゃあ、その、…………し……っ」


 しかし呼びかけた名前は喉元で詰まった。

 意識して名前を呼ぶというのは何か妙な気恥ずかしさがあった。

 だが詩織がとても切実な目をしてこちらを見つめている。

 桜は心を決め、名前を呼ぶ。


「…………し、詩織」

「はいっ! ありがとうございます、桜様!」


 気恥ずかしさに視線を泳がせていると、くぅぅぅぅぅ、と小さくも情けない音が桜の腹から鳴った。

 どうやら神様になっても腹は減るらしい。

 そしてその情けない音はまたしても詩織に聞こえてしまったようで、詩織は柔らかく微笑んだ。


「桜様、すぐに朝食をご用意致します。あちらの机の方でお待ちいただけますか」


 詩織が示したキッチンカウンターの向こう、リビング側。そこには先ほど見た時にはなかった四つ足の黒いテーブルが設置されていた。

 これだけ広い空間にこの小さなテーブル一つだけというのは何だかシュールだなと思いながら床に座る。


 軽く伸びをしたところで、右腕の袖に黒く滲んだ汚れを見つけた。

 よく見ると真っ白な和服には他にも同様の汚れがついていた。

 あの夜、あちこちで激しく動き回った。汚れていて当然だ。汚れが滲んでいるのは一度水に濡れ、その後に乾かしたからだろう。

 この和服は見た目に反して軽く丈夫で動きやすいように作られている。通気性もよく着心地も良い。もしかするとそれなりに値の張るものかもしれない。できることなら気軽な服に着替えたいが、替えの服まで用意してくれているだろうか。


 あれこれと考えているうちに詩織が来た。

 桜の前に朱の光沢を持つ盆が置かれる。

 ほかほかの白ごはん、キュウリのぬか漬け、野菜たっぷりの味噌汁、卵焼き、焼き魚とすり下ろし大根。器はどれも深みのある器で統一されていて、見栄えも良い。これぞまさしく基本的、かつ理想的な和の朝食だ。

 感心して並んだ料理を見ていると、


「桜様。私も、桜様と食事をご一緒してもよろしいでしょうか」


 少し硬みのある口調で詩織が訊いてきた。


「え……? うん。そりゃもちろん」

「ありがとうございます!」


 そうして詩織はもう一つ料理が乗った盆を机に置き、急須を持って来て桜の向かい側に座る。

 湯呑みに湯気立つ緑茶を淹れていく。


「ねえ、なんでいちいち一緒に食べていいか、なんて聞いたの? あんたもまだ朝ご飯食べてなかったんでしょ? なら普通に一緒に食べればいいじゃない」


 詩織は湯呑みをそっと桜の方に置き、にこやかに答えた。


「桜様はくにがみになられました」

「え……うん。そうね。そうだけど、それが何か?」

「そして私は桜様にお仕えする〈〉です」


 そうどこか誇らしげに言う詩織。

 しかしそこから言葉は続かず、少しして詩織はふふっと口許を弛ませ、またぼんやりとした目をしだした。

 この子、時々どこか別の世界に行ってしまうな。


 神子とは、国神に直接仕える従者のことだ。

 国神になることを決めたその時、桜は詩織に神子になってくれと頼んだ。

 その時に何か色々と恥ずかしいことを言ってしまったような気がするが、今は思い出さないでおこう。


 桜が国神であり詩織が神子であること。

 それがわざわざ一緒に食事をしてもいいかと聞いたことにどう繋がるのだろう。

 煮え切らない顔をしていることに気付いたのか、慌てて詩織は答える。


「国神と神子は主従関係にあります。ですから本来、共に食事をすることは許されないことなのです」

「はぁ……、なるほ……ど?」


 主従関係だから一緒に食事ができない。

 そう言われても、いまいちしっくりとこなかった。


「ですが雛様が、桜様はそのような堅苦しいことは嫌うだろうからと、形式として一度そのことを尋ね、許可を得ておくようにと」

「……そう。雛がそんなことを……」


 どうやらすでに桜が国神になったことは雛に伝わっているようだ。

 雛は今どこで何をしているのだろう。


「ねえ、あんたに……じゃなくて」


 途中で気付き、桜は言い直す。


「詩織に、訊きたいことがたくさんあるわ」

「は、はい! 私からも桜様にお伝えしなければならないことがたくさんございます!」


 名前を呼んだからだろう、詩織はぱっと笑顔を咲かせた。


「でもとりあえずご飯、食べようか。せっかく作ってもらったのに冷ましちゃうのも悪いし。食べながら話を訊いてもいい?」

「はい!」


 桜は目を瞑り、きっちりと食卓に手を合わせ、いただきますをする。詩織も桜の後に続いた。

 さて食べようとしたところで向かい側から強い視線を感じ、箸を持つ手が止まる。

 詩織がものすごく緊張した面持ちで桜を見ていた。


 食べづらい。

 しかし腹が減って仕方がない。

 妙な緊張が募る中、桜は箸で卵焼きを一切れ取り、口にした。

 そして、ん、と小さく声を漏らす桜。

 次々と箸を進めていく。


「……桜様。いかが、でしょうか?」


 じっと不安げに見守っていた詩織がおずおずとした様子で尋ねる。


「どれもすごく美味しいわ」


 桜は素直に答えた。


「本当ですかっ!?」

「本当だって。よくできてるわよ」


 だしの旨みが良くきいた卵焼き、香りと味がしっかりとしみこんだ新香。ふっくらと美味しく炊きあげられたご飯がどんどん進む。そして、


「うん、特にこの味噌汁が良いわね」


 春の野菜がふんだんに使われた味噌汁はあっさりと、それでいて豊潤な甘味と旨みがたっぷり含まれていてとても和ましい。


「あ……ありがとうございますっ」


 詩織はふっと大きく息をつく。それでようやく表情が楽になった。

 よく見ると少し目が潤んでいた。


 ただ一つ、焼き魚にいたっては雛の方に軍配が上がってしまう。

 雛の好物は魚で、そのため雛は魚料理には強いこだわりを持っている。料理に使われる魚は毎回全部雛が直接市場に仕入れに行った新鮮で選び抜かれたものだ。

 そして焼き魚。ただ魚を焼くだけだと思いがちだが、単純であるからこそ奥深さがあるのだ、と雛はしたり顔で語り、そう語るだけのことはあるとびっきりの焼き魚を桜は何度も食した。


 とはいえ、もちろん詩織の焼き魚も十分美味しい。

 全体的に詩織の用意してくれた朝食は味も質も良く、見た目通りの見事なものだった。


「本当はもう少し手をかけたものをお出ししたかったのですが、準備の時間があまりなかったもので簡単なものになってしまいました。ですが今日のお昼……いえ、御夕飯は! 御夕飯はしっかりとしたものを用意いたしますのでご期待ください!」

「いや、これで十分凄いって」


 そうしてようやく詩織も箸を取り食事をはじめた。


 桜は折り合いを見て、まず今日が何月何日なのかを尋ねた。

 詩織は四月十五日だと答える。


(あの夜……私が目を覚ましたあの日は十四日だったはず)


 つまり詩織とのあの決闘からまだ一日も経っていないことになる。

 ずいぶん長い間眠っていたような気がしていたのだが、どうやら気のせいだったらしい。


 次に桜は今居るこの場所、このマンション一室について訊く。

 ある程度予想はできているのだが。


 このマンションは神都府のかん市というところに位置しており、そして予想通りマンションの所有者は桜の義姉・あやさきひなだった。


(……雛の奴、神都にマンションまるまる一つ持ってたのか。まあれいなんだし、それなりに金持ってるってのは分かってたんだけど、なんだかなぁ……)


 雛と一緒に暮らして十年以上経つが、そういった話は一度も聞いたことがなかった。

 仕事や年齢、それ以外にも何かと雛は隠し事が多いのだ。意味のあることから意味のないことまで様々に。


「桜様。質問の途中ですが一つよろしいでしょうか」

「ん? 何?」

「今居るこの部屋のことで雛様から提案を承っております」

「……雛から?」

「はい。雛様は桜様にこの部屋を買い取っていただき、ここで生活してもらいたいと考えていられます」

「買う? 借りるんじゃなくて、買い取るの?」

「はい。そうです」

「いやいや無理でしょ。マンション一室の価格とか知らないけど、私が持ってるお金じゃ絶対足りない。というかここ、アレでしょ? ワンフロアまるごと全部アレなんでしょ? 絶対無理よ」

「いえ、お金の方はもう十分に足りているとのことです」

「どういうこと?」


 詩織は思い出すようにしばし視線をテーブルに置く。


「えっと、たしか……桜様は幼い頃、雛様と物の売り買いに関する契約を交わしませんでしたか?」

「ああ、アレのことか。よく知ってるわね、って雛から聞いたのか。まあその、契約っつってもそう大層なもんじゃないんだけど」


 五歳の誕生日から少しして、桜は雛にある相談をした。

 自分のお金が欲しい。お小遣いをもらうというような形ではなく、自分で稼いだお金が欲しいと。

 そのために何か雛の仕事を手伝わせてくれないかと頼んだ。当然その頃も今と変わらず雛がどのような仕事をしているかは知らなかったが。


 雛はとても渋い顔をした。

 どうして急にそんなことを言い出したのかと根掘り葉掘り訊かれる。

 追及の末、桜はいずれ家を出る時に必要だからだと答えた。

 雛は、なんて自立性のある子だろうと喜んではくれず、とても大げさに悲しんだ。


 そしてその夜、雛の部屋へと呼び出された。

 一枚の紙を渡される。そこにはやけに堅苦しい文面で約束事――契約条項がいくつも書かれていた。

 簡単に言うと、そこに書かれた契約の内容を守りさえすれば、桜が持ってきたものを雛が買い取りお金に換えてくれるというものだった。


 契約書に一通り目を通し、だいたいの内容を理解する。

 それは完全に雛優位の内容だった。

 だがそれも当然といえば当然である。そう易々と子供に大金を与えるわけにもいかない。

 色々と大人げないところはあるが、雛はこちらの意を汲んでくれているのだ。

 桜は契約に同意した。

 契約期間は桜が独り立ちをするまで。


「桜様は雛様にたくさんのものを買い取ってもらったと聞きました。どういったものを買い取ってもらったのですか?」

「んー、そうね……」


 契約書に書かれた細かな制約により、雛に買い取ってもらえるものは限られていた。

 そして契約を交わした一週間後、桜は雛の助言、もとい誘導のもと、雛と一緒に畑を耕していた。


「最初の頃は、畑でジャガイモ作ったり、山菜採りに行ったり、川や海で魚採りに行ったり。あとはハンドメイド、術式とか組み込んだりして、そういうのを買い取ってもらってたかな」


 それらの行動には全て雛が付き添った。

 雛はその場で、修行の時とはまた違うやり方で、様々なことを教えてくれた。


 結局のところ、お手伝い、のようなことをしてお小遣いもらっていたようなものだった。

 実に健全で教育的。

 完全に雛の目論見通りで手の平の上だった。

 まあこちらもそれなりに楽しんでやってはいたのだが。


「でも基本、修行がメインでその合間にやってたことだから、手にできる額はたかがしれてたわ。けど途中から、雛の契約内容に即しつつ、かつ価値のあるものが手に入れられるようになったのよ」


 八歳の時、桜の近くにいた少女がある異能の力を発現させた。

 後にその少女によって〈くう〉と名付けられるその力は、この世界と重なって存在する無数の次元空間――異世界層の入り口を開くことができるものだった。


 発現時、少女は力を暴走させて異世界層の入り口を開いた。

 そして入り口を開いた衝撃で少女は向こう側の世界へと飛ばされてしまう。

 少女を探すため桜は入り口を潜る。

 なんとか桜は少女を連れて元の世界に帰還した。

 だがそれ以降も少女は度々力を暴走させ、桜はそれに巻き込まれることになる。


 そして四度目に巻き込まれた時に桜は気付く。

 少女が開く異世界層の多くが全く人の居ない不思議空間。この世界で手にした物なら雛に買い取ってもらえる。


 それから桜は巻き込まれる度にお金になりそうな物を探しては持ち帰った。

 異能の力はとても不安定で、そう多くの物は持ち帰れず、鉱石のような小さくて価値のあるものを探した。見たことのない果実や植物を持ち帰って畑で育ててみたりもした。

 少女が開く世界は超自然的な空間だったり朽ち果てた巨大施設だったりと、その時々で大きく異なり、とんでもなく価値のありそうなものから妙ちくりんなものまで様々な物が手に入った。

 ちなみに異空の眼を持つ少女は、持ち帰ったものは全部思い出の品として保管している。


「とはいえ、それなりに価値があるものでもほとんど雛に手数料で持っていかれてたから、大儲けってことにはならなかったんだけどね」


 契約書には手数料を取ると書いてはいるものの、明確な額、比率などは書かれていなかった。

 つまり手数料は雛のさじ加減一つでいくらでも変化する。

 当然、そのことも理解した上で桜は契約に同意した。

 なんであれ世間からすれば桜はただの子供。子供の桜が自分のお金を手にするには雛の手を借りるほかない。


 それでも三百万以上のお金が桜の口座に入った。

 もっと絞ることもできたはずだが、やはり雛は甘いのだ。


「桜様、それです!」


 突然詩織が声をあげた。


「その雛様が取っていたという手数料。それは雛様が将来、桜様が必要になった時に渡そうと別口で貯めていたお金だったのです」

「別口で……? じゃあ、もしかしてそれが……!」

「そうです。雛様が桜様から預かっていたそのお金でこのマンション一室を買い取ってもらいたい。そういう話でございます」


 桜は力無く天井を仰いだ。

 まさかこれは、また嵌められたということなのか。


 雛の用意した契約書には意図が掴めない文言がいくつかあった。

 その一つが手数料の使い道。支払われた手数料はどのように使われようとも桜はそれに同意し、かつ受け入れなければならない、というようなことが書かれていたのを覚えている。

 お金を工面してくれるのは雛だ。そこから差し引かれたお金がどのように使われようと、桜が関与する余地は元々ない。雛の自由に決まっている。どうしてわざわざこんなことを書くのだろうと引っかかりはしたものの、まあ別にいいかと当時の桜は軽く流した。

 だがそれは過ちだった。

 今、この状況にてその文言は大きな力を発揮している。

 桜が物を買い取ってもらう度に雛へと支払われていた手数料。それをそのまま桜へと受け渡し、自身が所有するマンション一室を買い取らせる。

 そういった手数料の使い方も、契約書の内容に従うのなら桜は受け入れなければならない。


「いや、でも、その手数料分のお金でも全然足りないんじゃ」

「いいえ。雛様はこの部屋を買えるだけの額は十分にそろっていると仰っています」


 そりゃそう言うだろう。


 持ち帰ったものの中で、雛が大きく反応を見せたものもいくつかあった。

 とはいえ、雛へと渡したものが実際にどれだけの価値を持っていたのか、桜には分からない。

 だがいくらなんでもこのマンションの一室を買えるだけの額にまで達していないはずだ。

 くっ、と桜は下唇を噛む。


(クソっ、実に雛らしいやり方……。こういうところがほんと狡い)


 もしかすると契約書を用意したあの日から、雛はここまでの算段を組んでいたのかもしれない。


「桜様。この建物は桜様がくにがみとして生活する上で理想的な環境が整っているそうなのです。ですからどうか雛様からの提案、受け入れてもらえませんか」


 桜は考える。

 十六歳までには独り立ちをする。そう何度か雛に言ってきた。

 そして今は四月十五日。もうすでにその十六歳になっている。


 何やら国神として理想的な環境だとかいうが、こんな大層なところで暮らさなくてもいいはずだ。

 適当な部屋を借りればしばらくは問題無く暮らせる。

 そのために苦労して貯めたお金もある。

 

 答えははっきりしている。

 当然ノーだ。

 しかし、そうすぐに言葉にはできなかった。


 三年前、雛との別れ際。

 桜は雛に何も話さず、黙って死のうとした。

 それは大切に育ててくれた雛への裏切りだ。


 今、雛との間に、どうしようもない隔たりを感じる。

 この提案を断ると雛との距離がますます遠くなってしまう。そんな気がした。


(………………)

 

 独り立ちに対して考えが甘いことは分かってる。子供じみた我が儘だということも分かってる。

 そもそも独り立ちをしたいと考えだしたのは、いつまでも絢咲周の世話になっていたくなかったからだ。

 雛と距離を取りたかったわけじゃない。

 自立して、一人前になって、そして雛に――。


 ふーっと大きく息をつく。


「……わかった。とりあえず、その雛の提案を受けるわ」

「本当ですか!?」

「ええ。とりあえず、ね。そういうことで、雛に伝えといて」

「はい!」


 桜はぐるりと室内を見回す。

 とても広いが本当に何もない部屋。

 ここから新しい生活が始まる。

 思い耽る桜。だが目の前で微笑む詩織を見てぴしりと硬直した。


 国神と神子。

 まさか。


「……ねえ詩織、もしかして私たち、ここで一緒に暮らす流れだったりする?」

「は、はい……。その、今からそのことを桜様にお頼みしようとしていたところで……」


 やはりそうかと動揺が走る。


「私は、桜様の神子です。役目を果たす為、桜様のお傍に……いえ、そうでなくとも私は桜様のお傍に居たいです。桜様、お願いします。必ず桜様のお役に立ってみせます。ですからどうか、私をここに住まわせていただけないでしょうか」

「……えっと、……とりあえず、おかわり、もらえる?」

「は、はいっ」


 ご飯と味噌汁のおかわりをもらい、桜は考える。

 雛やとならともかく、つい昨日出会ったばかりの女の子と一緒に暮らす。

 はたしてやっていけるのか。


 思い悩む桜の頭に、昨夜の決闘の後に言った恥ずかしい言葉が次々と浮かび上がる。


『だから詩織、あんたは私の神子になってよ』


 国神になる覚悟を決めた桜は詩織に神子になって欲しいと頼んだ。

 詩織が傍に居てくれれば前へと進むことができる。

 あの時、心からそう思ったからだ。


(そうだよなぁ……。そういうことなんだよなぁ)


 桜は改めて自分がそういう選択をしたのだと実感した。


「桜様……」


 詩織のつまった声を聞いてはっとする。

 ずっと頭の中で考えていただけで詩織にはまだ何も言っていなかった。


「詩織」

「はっ、はいっ!」

「ごめん、何か急で戸惑っちゃって。……傍に居てくれって頼んだのは私なのにね」

「では、桜様……!」

「うん、まあそういうことだから。改めて、これからよろしくね、詩織」


 桜は詩織に手を差し出した。

 すぐに詩織は手を取る。


「はいっ! よろしくお願いします、桜様!」


 桜は国神になった。そして詩織は国神となった桜に仕える神子だ。

 これから神子である詩織と一緒にここで暮らしていく。

 ここから新しい生活が始まる。

 色々と不安に思うことはあるが、まあどうにかなるだろう。

 心から嬉しそうに喜ぶ詩織を見て桜はそう思った。

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