11 状況報告



 桜を包み込んだ青い影はどんどんと縮まり、詩織の足下にまで落ちた。

 影が散る。


「桜……様?」


 影が散った跡には子猫が居た。

 桜と同じ深い青色の瞳をした手の平サイズの小さな黒猫だ。

 猫の小さな額には白く光る紋章のようなものが浮かび上がっていたが、やがて消える。


『リリス、ついてきて』


 桜の思念が響くと、子猫はびゅんととてつもない速度で駆け出した。


『え……? ちょ、ちょっと……桜!?』


 呆然と立ち尽くす詩織の前にリリスが飛んでくる。


『詩織、一体何がどうなってるの!? それに今桜がしたのは……』

 

 思考が空転する中、どこからか覚えのある音色を聞いて詩織ははっと目を向ける。

 音の鳴る先には水晶の地面に転がる詩織の学生鞄。

 これはたしか携帯電話が出していた音だ。


「リリスさん、桜様を追ってください」

『えっ、詩織は? 詩織は一緒に来ないの?』

「私は後で必ず追いつきます。ですから、どうかそれまでリリスさんは桜様の側に居てください。お願いします」

『……詩織、それはどういう意味で言っているの? ……やっぱり桜は……。ねえ詩織、桜はいったい何を――』

「リリスさん、どうか……! どうか桜様をお願いします」


 詩織はリリスに深く頭を下げる。

 桜に起きていることを説明することはできない。それでも今の桜を引き止めていられるのはリリスしかいない。ただ今はリリスに頼るしかなかった。


『何がなんだか全然分からない……! でも分かったわ! 任せて!』

「リリスさん……。ありがとうございます」


 リリスは桜を追って祠の出口へと飛んでいく。

 詩織は急いで鞄を拾い、携帯電話を取り出した。

 桜に教わった通りに携帯を開き、受話器のボタンを押す。

 耳許に携帯電話を近づけ、そして恐る恐る電話をかけてきたと思われる人物の名前を口にした。


ひな様……ですか?」

『ええ、私よ。どうやら通常の電波じゃ届かない所に居るみたいだけど……そんな場所であなた今、何をしているの?』


 電話口からいつになく厳しい雛の声が響く。


「雛様、今はその……桜様が猫になられて、雛様、桜様は……」

『落ち着きなさい。桜はただ〈猫〉を宿しているだけよ。はぁ……やっぱり上手くいってないみたいね。……ゆっくりでいいから、今までに起きた出来事、順を追って全部話しなさい』

「……はい」


 詩織は桜が目覚めてから今までに起きた出来事をできるだけ詳細に報告していく。


『桜の……〈えん〉?』


 リリスとの会話の中で桜が口にした〈花炎〉について報告すると雛は疑問の声を上げた。


「雛様もご存知ではありませんでしたか」

『ええ、はじめて聞いたわ。そんな炎が、桜に……』


 報告を終えると、電話口の向こうで長く深い溜め息が聞こえてきた。


『ともかくてんとうどうくつからすぐに出なさい。桜もずっと猫で居ることはない。さっきと同じようにすぐ使いの子達が桜を見つけるわ』


 詩織は雛の指示に従い移動を始める。

 白色の光に満ちる水晶の空間には様々な色を持つ小さな光球、妖精達が散らばっている。

 出入り口付近には警備の者が三人。

 立ち入り禁止の場所にどういうわけか行方知れずになっていた妖精達が居た。そのことでこれからどう対処するべきかを話し合っているようだ。

 詩織はゆいしきの力を使って姿を消し、三人を避けて通る。結界のなくなった通路を渡り、唯一張られていた鳥居の後にある結界も来た時と同様にすり抜けた。

 鳥居から離れ、人目のない場所で唯識の力を解除する。

 飛行術を使って空に浮き上がり、天道洞窟の外へ向かって一気に飛んでいく。


 移動中、携帯電話の向こうから雛は淡々と桜と詩織が関わった事件について話していった。

 大妖精から話を聞いていないはずの雛は、亡化の仮面を持つ者達の目的を把握していた。どうにも雛には敵の正体に見当が付いているようだった。

 亡化の仮面の特性、リリスが持っていた結晶の重要性、大妖精メモリから話を聞いて取るであろう警察の動き、そしてそれらを元にして桜が組み上げるであろう推測と行動。

 詩織が雛に状況を伝えてから五分と経っていない。だというのに雛は必要となる情報を次々と伝えていく。詩織は精一杯その情報を頭の中で整理していく。


 てんとうどうくつの外に出た。

 上空には雛が寄こしてくれた使いの鳥達がすでに待機していた。すぐさま鳥達と共に空を飛んで桜の元へと向かう。


 人と光で賑わい続ける街の上を飛びながら詩織は携帯電話に意識を向ける。

 先ほどから耳許にあてている携帯はずっと黙ったままだ。

 妖精達の事件について必要なことを一通り話すと、雛は言葉を止めてしまったのだった。


「雛様」


 詩織は呼びかける。

 まだ一番大事なことを話せていない。


「雛様、桜様のことですが」

『……っ、桜……』


 返ってきた雛の声には明らかな動揺があった。


『桜は、桜は本当に死にたくないと……そう、言ったのよね』

「はい。桜様はたしかにそう仰いました」

『……でも、それでも桜は……死を望んでいる……。あまね様から神核が離れてしまった以上もう〈らい〉も当てにならない。ああ、ちゃんさえ居てくれれば、きっと桜も……』


 雛が洩らした呟きに、とても聞き覚えのある名前があった。


「雛様、そのイサナという者は何者ですか? 桜様は三度もその名前を口にしていました」

『……桜の幼なじみよ。いさはやちゃん。そもそもね、私は伊佐奈ちゃんを桜の神子みこにしようと考えてたのよ。あなたなんかじゃなくてね。……それで、その伊佐奈ちゃんは昨日の夜から行方が掴めない状況にあるのよ。伊佐奈ちゃんのことだから大丈夫だとは思うんだけど……とにかく今は桜を――』

「雛様」

『何?』

「おさななじみ……確かそれは友人、のような意味合いの言葉でよろしかったでしょうか?」


 電話の向こうから一つ、小さな溜め息が聞こえた。


『そうよ。事情は聞いているけど、あなた本当にものを知らないわね。ねえ、そんなんで本当に指示書きした通り桜にくにがみの説明はできたの?』

「桜様に、ご友人が……」

『……あーもうっ! あまね様は一体何を考えているのよ! 何でこんな頼りない子を桜の神子に選んだのよ!』

「雛様、それは違います。私は桜様に選ばれたのです。あまね様ではなく、桜様が私を選んでくださったのです」


 また一つ、溜め息が聞こえた。


『あなたまさかずっとそんな調子で桜に……。ねえ、まさかとは思うけど、あの桜と夢で会ったとかいう話、桜にしてないでしょうね』

「いえ、話しました。ですが、今の桜様はまだ私と出会ってくれてはいないようでした」

『はぁ……。あなたの見た夢の事実はどうであれ、初対面の人間にいきなり夢の中で会ったなんて言われたら桜ドン引きよ、ドン引き。ただでさえ胡散臭いあなたがさらに胡散臭くなるってことも分からないの?』


 どんびき、という言葉の意味もまた詩織は分からなかったが、やはり桜に良くない印象を与えてしまったようだ。

 桜に向けられた冷たい目を思い出すとどこまでも心が沈んでいく。

 しかし、今は落ち込んでいる場合ではない。


「雛様、桜様は死にたくないと仰いました。なのにどうして桜様は生きることを、国神になることを拒むのでしょうか」

『突然国神、まして不老不死になれなんて言われたら誰だって戸惑うわ。だけど、桜が国神を拒む理由はそこじゃない。それらはあまり大きな問題ではないはず。一番の問題はあまね様。桜は周様のことを心の底から嫌悪している。桜は、周様が用意した道を選びはしない。でもそんなこと、周様も分かっているはず』

「……本当に、それだけでしょうか?」

『他に、何か理由があるとでも?』

「分かりません。ですが、死にたくないとそう口にした時の桜様は……とても、とても辛そうでした。私は、桜様がただ周様を嫌っているだけのようには思えないのです。桜様は何か他に抱えているものがあるのではないでしょうか」

『……そう。どうなのかしらね』


 重く苦しげな声で雛は続ける。


『私は桜のこと、なんにも分かっていなかった。三年前のあの日、違和感のようなものは感じていた。でもまさか、あの時に桜が死ぬ事を考えていたなんて……思いもしなかった。私は、浮かれていた。いつか訪れるかもしれない未来を夢見ていた。私は何も察することなくあの子の前から立ち去った……』

「雛様……」

『私には、あの子の前に立つ資格はない。だからと言って詩織、私はまだあなたを認めていない。大切な桜の命をあなたに託すしかないこの状況、全て周様が仕組んだことだとはいえ…………とても不愉快だわ』

「雛様のお気持ち、お察しします。ですが雛様、私は……」

『分かってる。あなたの桜を想うその気持ちは本物。それだけは認めているわ』


 気味が悪いけれどと最後に雛は付け加えた。

 ひどいと詩織は思った。


『詩織、必ずや桜を国神にしなさい。あまね様があなたに神核を託した以上、契機は必ず訪れる。それでも、最後まで桜が拒んだその時には……無理矢理にでも事を進めなさい。しんの炎は確かに脅威よ。でも桜に生を望む意志があるのなら、神核と同調を果たせる可能性は充分にある。その後のことは私が憎まれでも何でもする。…………だから……っ』


 わずかに上擦った声を呑んで、雛は言う。


『だからお願い……桜を、死なせないで……』


 鳳凰の名を冠する大妖怪・あやさきひなからでは考えられない、弱々しい声が詩織の内側に深く響いた。


「はい。心より承知しております雛様。絶対に、桜様を死なせはしません」

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