結局僕等は不器用だ

ぴーぱー

第1章 変化

第1話


 自室の白い天井を見上げていた。

 半醒半睡の中、何気なくその白を見つめていると、10年以上この下で寝起きしていると言うのに、それが初めて目にした物の様に感じられる事が間々ある。

 未視感、ジャメヴと呼ばれるものだろうか。


 僕はこの感覚が苦手だ。

 いつも自己を見失ってしまうから。

 ここは何処なのか、自分は誰なのか、そんな平生は疑いようもない事さえ曖昧模糊に感じられる。

 ベッドに預けた身体が重みを増し、そのままシーツに沈み飲み込まれ、自分という存在自体が消えていく様な、そんな感覚。


 それは酷く不安で、けれども密かに期待も孕んでいてーー。


 やがて見覚えのあるシミや、薄く走る茶色い傷のような物を天井に見つけ、これは自室の天井だったと気づく事が出来る。再認識する、と言った方が適切かもしれない。

 ともあれ、漸くここは僕の部屋であり、僕は僕だと納得する事が出来るのだ。


 僕は大きく息を吸い、ゆっくり深く吐き出した。


ーー安堵と共に、微かな失望を込めて。


 矛盾する2つは混じり合う事なく灰色の空気に広がり、消えていく。


 今日も、変わらぬ1日が始まろうとしていた。



◯◯◯◯



 枕元に放られていたスマホを手に取ると、まず今日の日付と現時刻を確認する。毎朝の習慣だ。これをやらないと、毎日が単調すぎて今日という日が何か判然としないのだ。


 4月07日(月)09時27分


 長期休暇をダラダラと過ごす中薄れていった日付と曜日感覚が、今日は高2の春休み最後の日だった筈だ、と自信なさげに報せて来た。そして、その報せは思いの外僕の中では衝撃的で、真偽を確かめなければ成らない案件であった。

 僕は直ちにスマホでネットに接続。通っている学校のホームページにアクセスし、そこに掲載されている行事予定表を確認すると……。


 四月八日の欄に始業式と入学式が並んで書かれていた。


 明日から学校が始まる。

 つまり明日からは登校の為に早起きを強いられるという事。従って惰眠を連日貪れるのは今日で終いという訳だ。


 二度寝をしなければ。

 惰が前に付きすぎて、舌を噛みそうに成る程の惰眠を。

 だだだだだだだだだだだだだだだみんを貪らなければ。

 

 僕がその結論を出すのに1秒も掛からなかった。


 しかし、そんな僕の切なる願いを脅かす衝動、誰もが寝起きに抱える三大欲求が、例外なく僕の身体を襲っていた。


 排尿したい。ウガイしたい。腹減った。


 実を言うと、誰もが経験のある事と思うが、排尿行為を夢の中で何度と繰り返していた。目が覚めた時、股間周りが湿ってなくて安堵した程である。膀胱辺りは熱く、チクリとでも刺激があれば直ぐさま開放せんといった状態だ。


 そして口の中は只今絶賛口腔細菌のベビーブームであった。

 リア充たる細菌たちのハッスルハッスルのすったもんだのもんもん振りに、僕の口内はラブホじゃないぞと文句の一つでも言ってやりたい気分である。ここで頭の固い人は、こいつらは恐らく無性生殖の手の者だろうからラブホ云々は不適切な表現だ、と指摘するかもしれない。

 それは正しいのかもしれないが、僕が言いたいのは、子作りをするなという事だ。無性生殖だろうが何だろうが子作り=リア充みたいな方程式が頭の中にあるの故に、実際はただの分身の術だろうと癇に障ってしまう。

 まぁそれはさて置き、菌が増えれば僕の口臭は攻撃力を増す事は自然の摂理である。別に今日は誰かと会う予定も、誰かに壁ドンする予定もキスする予定も無いのだから、口臭の攻撃力など気にする必要もない。がしかし、自分の呼気を嗅いでしまい悶えるという経験を誰しも一度くらいはした事がある筈だ。

 あの何とも言えない切なさが僕は嫌いだ。だから臭い口も嫌いだ。


 空腹は我慢できない事も無いが、グーとなるお腹が少し煩わしかった。


 今すぐ二度寝したいところだけど、時間はまだあるんだから、これらの欲求を満たしてからでも良いだろう。


 ◯◯◯◯


 自室のある二階から降り、排尿を済ませると洗面所に向かった。


 勿論、嗽をする為だ。


 思い切りクチュクチュぺッをしてやった。


 その嗽には怨みが若干含んである。所謂までもなく、八つ当たりだ。

 僕がリア充であれば、仮想リア充である細菌達に、もう少し寛容な対応をとって、ソフトな嗽をしてやったかもしれない。が、こちとら万年非リア充だ。別にリア充に何が何でも成りたい訳じゃないけど、リア充は恨むべしと、多分遺伝子に組み込まれているのだと思う。だからこれは無意識で、本能的で、そして生物的に必要な怨嗟と言える。だから誰にも止められない。止めてはいけない。


 序でに歯磨きも。

 歯磨き粉がミント風味であった為、口の中にミント特有の爽快感が漂い、歯の隙間までスースーする。

 しばらくその感覚を楽しんでいたが、僕の優秀な頭脳がある事を思い出してしまい、僕は一気に気分を害される事となってしまった。

 ミントは漢字で女無天と書くらしい。ここから女の無い奴らの天国、つまりは非リア充の楽園とかいう悲しい解釈を展開させてしまうのは、僕がそれ故だからだろうか。

 そして非リア充が集まってやる事といえば、それ即ち恨み妬み嫉みの合唱。ミントの世界ではきっと日々リア充の暗殺や爆破テロなどが秘密裏に画されていることであろう。

 

 以上の事から逆説的にリア充破滅を願う者の歯磨き粉はミント味と言える。

 近々イチゴ味の歯磨き粉を買ってくる事にしよう。イチゴ味のキスって気持ち良いらしいからさ。これもモテるかもしれない男のエチケットだよね。


 嗽と歯磨きを済ませた後は、何でもかんでもグーグーと中々にグーッドな発音で褒めちぎる腹を落ち着かせるべく、リビングに。

 

 その中は喧しいテレビの音で溢れていた。起きたばかりの頭にその音量は少し堪える。

 顔を顰めながら音のする方を見ると、ある物体が目に飛び込んできた。

 

 母だ。

 テレビの前に置かれたソファーに、休日の中年親父は斯くやと言った風に横になっていらっしゃる。更に残念な事に、左手を枕にし右手はボリボリ尻を掻いていた。


「おはようございます」


 煩いテレビに負けない様に、嫌みたらしく挨拶をしたら母はこちらに顔を向けてきた。


「おそよう」

「それ何語?」

「造語」

「パオ~ンの象?」


 象語を話せるとは驚きの新事実である。道理で殴る蹴るなどの攻撃の一つ一つがエレファント級なわけだ。


「そう。なんたって私、エレガントママだから。ほほほ」


 エレファントとエレガントを掛けた秀逸なジョークに寒気が走る。

 流石エレファントババである。


「てか、今日は夜勤明けじゃなかった?起きてるなんて珍しいね」


 母は地元の総合病院に看護師として働いている。

 今はこんなだらしない印象を受けるエレファントババだが、母の同僚に聞いた話によると、院内では出来る女として通っているようだ。

 それを聞いた時は思い切り鼻で笑ってやった。


 しかしまぁ、それが丸っきりの嘘でないという事は理解しているつもりだ。


 母は一生懸命働いている、その事は疑いようもない事実なのだから。


 僕には父の記憶はない。

 僕が生まれて一年と経たないうちに不慮の事故で死んだと聞いている。

 それに際し、結構な保険金が降りたらしいが、それを使うのを母は嫌った。

 その理由はなんとなく察している。母の古くからの友人は母と父の熱愛ぶりにはもう、目を逸らし近くの物を殴って蹴るしかなかったと語っていた。

 仏壇の前で静かにただ座っている母の姿を何度か見かけた事があった。

 恐らく母はまだ父の死を受け止めきれずにいる。


 女手一つで保険金にも手を付けず、僕ともう一人、3つ上の姉を一人で養ってくれている母。その苦労はその姿を間近で見て育ってきた僕達姉弟がよく分かっている。

 そして、それを知っているから、僕も姉も母には休める時にはしっかり休んで欲しいと思っており、母もそれを感じているのか寝れる時はとことん自室に籠もって寝てらっしゃる。

 だからこそ、夜勤明けの、まだ午前中の内にこうして母と会話するのは中々にレアな事であった。


「まあ、ね」


 母は伸びをしながらそれだけ言うと、視線をテレビのほうに戻し、右手を尻から腹に移動させた。


 そんな母を尻目に、僕は冷蔵庫を覗く。中から麦茶を取出しコップに注いだら、数あるカップ麺の中から適当な物を手に取った。そして電気ポットの再沸騰のボタンを押す。

 沸騰待ちの間に麦茶を飲むが、味は今一感じられなかった。ミントの影響かよく冷えていた為か。すこし損した気分である。


 逆に数分後に出来上がった、カップラーメンは只々味が濃かった。

 

 豚骨味で麺のコシに力を入れていると宣伝しているソレは、確かに良いコシをしている。

 しかし僕はゲンナリを隠せない。

 良いコシという言葉は何処か女性的で甘美な響きを持っているのに、コシの強い麺、濃い味、豚骨という要素を踏まえていくと、どうも色黒ガチムチ系男子の筋肉隆々と引き締まった腰を彷彿とさせてしまうのだ。


 そんなラーメンを啜る。


 想像力豊かすぎる故に、描いてはいけないビジョンがモールス信号の様に断続的に脳裏に映る。

 どうせなら、ぼんきゅっぼんナイスバディのお姉さんのラーメンを啜りたい!

 とは思いつつも美味しい事には違いなく、あっという間に平らげ、身体に悪いと思いながらも汁を一滴も残さず飲み干した。


 それは空になったカップを水洗いしよう流し台の前に立った時だった。


 母が「そういえば」と話を切り出した。

 振り向いてそちらを見ると、テレビはちょうどCMになっていた。


「あんたと幼稚園の頃から一緒の園部茉莉子ちゃん、今うちの病院に入院してるわよ」


 へぇ、と僕は適当に相槌を打った。

 そして蛇口を開き、カップに水を貯め始める。薄茶色の水がカップから溢れそうになる辺りで僕はそれをひっくり返した。

 我が地区ではプラのゴミは汚れていると回収してくれないのだ。本当は回収してくれるのかもしれないが近所の頑固親父が見張っていて、汚れを見つけると嬉々と突き返してくるのだ。

 だから面倒くさいけどこうして綺麗にしなければならなかった。

 

「脚を怪我してね。ほら、彼女陸上部でしょ?」


「確かそう」

 

 水の流れる音に逆らう様に僕は自然と声を張っていた。

 そして、恐らく誤魔化しを悟られない様にも。

 

 何故なら僕は確かと付けるまでもなく、その事を確り認識していたから。


「今回の怪我、日常生活にそれ程支障が無い程度には回復するけど、もう選手としては終わりだって」


「……へぇ。それは何と言うか、気の毒というか」


 人生何が起こるか分かんないもんだね、とそれらしい言葉を付け加える。そう心底思って言ったわけでなく、ただ話の流れで自然と出てきた言葉だった。


 母も「そうね」と使い古された言葉で答えた。

 僕はその返事が少し御座なり感じ、何となく不思議に思ったのだが、その疑問はテレビに目をやった瞬間解消された。

 流行のイケメン実力派俳優がテレビにどアップで映し出されていたのだ。甘い唇から甘い言葉で粉飾されたチョコレートの宣伝文句が垂れ流されている。確か逢沢翔と言ったか、イケメンで地元出身という事もあり、ミーハーな母はその俳優に熱を上げている。画面の中の彼に夢中で会話どころではないのだろう。


 よってこの話も終わりだ。


 僕はカップの水を軽く切った後、それを水切りラックの上に置く。把手に掛けられているタオルで手を拭き、足早にリビングを後にした。


◯◯◯◯


 自室に入るや否や、僕は思い切りベッドに倒れ込み、暫く顔を枕に埋めていた。

 

 やがて息苦しさに耐えかね、顔を横に逸らす。勢いよく空気が肺の中に入ってきた。そして、あっという間に息苦しさを感じる程までにソレは溜まってしまう。

 

 溜め込んだ空気をゆっくり吐き出した。

 長く細く、ゆっくり、ゆっくり。

 吐き出す事、それだけを考えながら。


 息を吐き切った後、まず感じたのは自らの鼓動の音だった。

 全身が震える程激しく、高らかに打ち鳴る心臓は、まるで何かを泣き叫んでいる様にも思えた。


 何故こんなにも身体が熱いのか。

 その理由は分かっていた。


 それは平凡な日常の僅かな変化だったのかもしれない。

 望んでいる様で、恐れていた、日常のスパイスだったのかもしれない。


 しかし僕は目を閉じた。

 あらゆる物を無視する様に。 

 

 今すぐ、眠ってしまいたかった。


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