第28話
電志は唐突に愛佳に抱きつかれて困惑した。いったいどうした。
ぎゅうっと愛佳は強く抱きしめ、胸に顔を埋めてくる。
「おい、倉朋……」
思わずドキドキしてしまう。いつもそばにはいたけど、密着したのは初めてだ。ゼロ距離というのはそれだけで緊張する。命の危機が去って安心したのかな? こういう時どうしていいか分からん……
抱きしめ返すのは躊躇われ、手が宙に浮いてしまう。
愛佳から香ってくる甘い匂いに溶かされそうになる。
彼女から伝わってくる熱量で体が火照る。
「電志、助けに来てくれてありがとう。とっても格好良かったよ。ボクは来てくれないんじゃないかと思っていたんだ。喧嘩別れした後だったし。でも、喧嘩別れしたまま死んだら嫌だと思ってた。そんな微妙な状態で終わりたくないって思ってた。だから電志助けに来てって祈るような感じだった。そうしたら本当に来てくれて、嬉しかった……」
愛佳がダムの決壊かと思うほど一気に言葉を紡ぎ出す。
電志は最初あっけにとられ、それからムズかゆい感じがし、最後には顔が熱くなってきた。
鼓動が早鐘のようになってしまう。
「俺も、喧嘩別れしたままで終わったら嫌だと思っていた。微妙な状態でもし死なれたら、また棘みたいに後に残ってしまう」
単純に言えば、後悔したくなかったのだ。間一髪で間に合ったから、この行動も意味があったんだろう。仮に空振りになっても、それはそれで倉朋が生きていれば安心できたわけだから、行動して良かったのだ。
愛佳は胸に顔を埋めたまま、妙なことを言ってきた。
「電志、ディベートをしよう」
「は?」
意味が分からない。こんな時に何言っているんだ?
「お題は……【ボクが電志を好きかどうか】だ」
時間が止まったような気がした。
周囲の時間がぴたりと止まり、二人だけが世界から切り離されたような。
「…………えっ?! おい、ちょっ」
「ボクは『然り』だと思うよ。だ、だって、こんなに、胸がドキドキしている……」
愛佳の声は震えていた。
それから全身が強張っているのも伝わってきた。
「だ、だが……動悸というのは、走ったからかもしれない……」
こんな時でも反射的にディベートに応じてしまう。体に染み付いた習慣みたいなものだ。
愛佳が『然り』の立場をとった以上、電志は『否』の立場に回らなければならない。
「走っただけではこんなにはならないよ。電志が助けに来てくれた時からこうなんだ。もう駄目かもしれない、死ぬかもしれない、そう思った時に電志の呼ぶ声が聴こえた。そしてやってきた電志の顔を見た時、ドキッとしたんだ。ねえ、もうこの気持ちは本物でしょ?」
電志は頭がくらくらしてきた。こんなことを言ってもらえるなんて、一体どうなっているんだ? ドキッていうかドッキリじゃないよな?
何だか嬉し過ぎてそのまま愛佳を抱きしめてしまいそうだ。
宙に浮いた手が不審者のように痙攣する。
「それは、あのー、ほら、あのあれだ! 『吊り橋効果』じゃないか? 身の危険を感じている時の動悸を勘違いするとかいうやつ」
徐々に苦しくなっていく。
嬉しいのに『否』の立場で反論しなければならないのは生殺しとか、拷問とか、そんな類ではないだろうか。
「勘違いじゃないよ。エミリー達とお喋りした時、いつも電志の陰口になるんだ。ボクが電志班に来た頃は一緒になってボクも言っていた。でもしばらくするとボクはみんなの陰口を聞き流すようになった。電志がパイロットのために試行錯誤して設計している姿を間近で見ていたから、それを思い出すと悪く言えなくなっていた。コスト低減コンペでは電志はあんなに辛い思いをしたのに、それでもイライナを庇った。そんな姿を見ていたら、もうエミリー達の陰口も許せなくなった。気付いたら電志を守りたい一心でエミリー達に反論していた。それで、ボクは何でこんなことしてるんだろうって思ったら……電志のことで頭が一杯だった。電志のことで頭が一杯になっている自分に、気付いちゃったんだよう! ボクはもうとっくに、君の色に染められてしまったんだよう! どうしてくれるんだよう!」
電志は衝撃で意識が飛びそうになった。
こんなに嬉しいことを言ってくれるなんて思ってもみなかった。
「え? それは、あの、何て言ったら良いんだ……あ、そうだ、反論。反論しなきゃ……だから、染められてしまったというより、長く一緒にいて情が移ったとか……」
もう反論することも厳しい。ディベートでこんなに圧倒されたのは初めてだ。論理を組もうとしても思考が纏まらない。思考の代わりに倉朋の声ばかりが反響する。
「情が移る……それは言い方を変えれば愛じゃないのかい?」
「あれっ……?」
電志は致命的な反撃を受けたように感じた。
冷静な時ならそれでも何かしら返せたかもしれない。
しかしもう反論が浮かんでこなかった。
「愛だよ、絶対。電志はいつか言っていたね……ボクがディベートの前深呼吸している、と。自分でも気付いていなかったけど、多分そうなんだろう。だってボクはディベートの時ずっとドキドキしていたから。始まる前からドキドキして、それで深呼吸していたんだと思う。ボクは最初ドキドキするのは、電志に勝ちたい思いが強すぎるからだと思っていた。でも違ったんだ。ディベートしている時の二人だけの時間が大切過ぎて、ドキドキしっぱなしだったんだ!」
「お、おぅ……」
「今度は電志がどんな論理で攻めてくるのか、どうやって反論してくるのか……ど、どうやって、ボクを追い詰めて……くれるのか……とか! 電志の論理にがんじがらめにされていくのが、た、堪らないんだ!」
「お、おぅ?!」
「何てこと言わせるのさ! これじゃあボクは変態さんじゃないか! 電志がボクをこんな風にしたんだからね!」
愛佳は隠していたものを全てぶちまけるように叫んだ。
男子で言うところの『秘蔵コレクション』が親に見付かり、「ああ持ってますともそれが何か?!」と逆ギレして大公開してしまうような勢いだった。
電志は反論の芽を完全に失った。
愛佳を見下ろすと耳まで紅潮させているのだ。これ以上彼女に何か言わせるのは男として、駄目だ。
「わ分かった分かった、俺の負けだ!」
「ボクの、勝ちだね……!」
「まさか、倉朋がこんなこと言ってくるなんて思わなかったな……」
「次は、電志の番だ」
「え?」
「ボクの気持ちは伝えた。だから、今度は電志の番だよ」
「そ、それは、そのー……」
電志は口がわなわなと震えた。
これまでの愛佳との日々が思い出されていく。
『今日はボクが沢山作ってきたから電志も食べるが良いよっ』
彼女と一緒につついた弁当の味。
『望むところ……!』
全翼機の設計で頑張った時の、互いの拳を合わせて確かめ合った絆。
『電志っ……もういいんだ! もう、いいんだよ……!』
俺が傷付いた時抱き締めてくれた、彼女の胸の温もり。
『電志とボクに、できないことがあるのかい?』
病院で二人で再演した、最強の期待を作ろうという誓い。
二人三脚、だ。いつも隣に倉朋がいた。二人で一つの電志班だった。二人なら何でもやれる気がした。
もう、愛佳抜きの自分が、想像できなかった。
じゃあ今、口が重いのは何なのか。いや、分かっている。棘だ。残ったままの棘だ。
「……シュタリーのことは、まだ残ってる? ボクは前にも訊いたかもしれないけど、未練、ある? ……いや違う、例えそうであったとしても。もう、遠慮して諦めるのは嫌だ。今まではやっぱり心のどこかで遠慮していたんだ。ねえ電志、ボク達だけ幸せになるのはいけないことなのかな? ボクは嫌な女かな?」
愛佳は顔を上げた。
まっすぐこちらを見てきた。
その瞳は涙を溜め、揺れていた。
神秘的な逸話を抱えていそうな湖面のようだと思った。
決意がはっきりと伝わってきた。俺は、何をウダウダしているんだろう。応えないで良いのか? いつまでも煮えきれないままで、微妙なままで良いのか?
駄目だろう。永遠じゃないのだ、今というのは続くのが前提じゃないのだ。それが棘となって突き刺さっていたんじゃないか。何でそこから学ばなかった!
「そんなことは、ないよ……」
「ねえ電志、ボクはもう今の距離感じゃ……我慢できないよ。嫌だよ、このままじゃ……!」
「お、俺も……」
「うん」
「その、倉朋の、ことが……」
「うん……!」
「す…………好き、だ」
そうしたら、愛佳の目から溜まったものがすーっと流れていった。
「電志っ!」
愛佳は背伸びして口づけをしてきた。
一秒に満たないキスだった。
電志は顔全体が熱っぽくなって、頭が真っ白になった。
複雑な思考は全て排除され、ただ一つだけが残った。
愛佳が愛おしくてたまらない。
電志は宙に浮いていた手を、遂に愛佳の背中に回した。
そして思いをぶつけるように抱擁した。
「倉朋っ……!」
今度は電志からキスを迫った。
強く愛佳を抱きしめ、強く強くキスをした。
貪るように求めた。
長く長く、何十秒も唇を重ね続けた。
水は掻き混ぜれば境界が無くなる。
互いの口は境界が無くなっていき、どこまで共有された領域が広がっているのか探り合った。
それから僅かに離れると愛佳が言った。
「愛佳って呼んでよ」
「…………愛佳」
それから更にキスをした。
互いの息を共有した。
電志は解放された気がした。シュタリーは自分を縛ってはいない。縛りは自分自身が棘として課していたことだ。死者に対する思いは常に主観だ。それから、解放とはそのことだけではない。自分は恋愛に対してどう思っていたか。自分は愛佳のような可愛い娘を彼女とできるような男ではないと最初から諦めていた。〈DDCF〉では女子達の間でさんざんな言われようをしているのを自分でも認識していたからだ。そんな暗い自己否定からも解放された。更に、最近の愛佳との微妙な距離感に悩んでいた自分からも解放された。
今はただ、この娘と一緒にいたい。この娘と一緒に生きていきたい。〈DDCF〉が縮小されて離れることになっても、その後も一緒にどこかへ行きたい。
地球へも、一緒に。
キスが終わると、言葉をかけ辛くなった。距離感が変わった。これまでとは変わった。愛佳はもう、彼女になったのだ。恋人になったのだ。そう思うと感慨深い。
二人で並んで座る。
その肩は触れ合っている。
みんな避難区画へ向かったのか、静かな風景だ。
世界の終わりを二人だけで見ているかのよう。
「ボクはね、ディベートで電志に勝ったら電志班を出ていってやるって、思っていたんだ」
「へぇ……」
「電志班に道場破りに来て、最初コテンパンにやられた。ボクがどんなに頑張っても電志には勝てなかった。それなのに電志は涼しい顔をしているから、復讐してやるって思った。ディベートで勝って、認めさせて、ボク無しではいられなくさせて、それで電志班を出ていってやろうと誓った。電志が泣いて引きとめるところへボクが捨てゼリフを吐いてやれば、電志がどれだけ苦痛に歪む顔をするだろうと楽しみにしていた」
「俺は復讐者を隣に置いていたわけか。ていうか、今ディベートで勝ったよな? まさかこの流れで『出ていく』とか言い出すんじゃ」
「そんなわけないでしょ。さっきも言ったけど、ボクは電志とディベートすることが好きになってしまっていたんだ。でもそれを認めたくないから、自分を偽って、復讐のためだと思い込んでいた」
「…………びっくりした、安心したよ」
「ボクは電志に負けて、解放されたんだと思う」
「解放?」
愛佳は頷くと、語り始めた。
「そう。ボクはずっと重みに耐えていた。こう見えても、学年一位なんだよ? それがボクには重みになっていたんだ……」
友達と話していてもことあるごとに順位は持ち出された。
『さすが学年一位、言うことが違うね』『ねえ良いアイデアない? 学年一位でしょ?』『学年一位だと頼りになるね』『ねえ学年一位なんだから
始めの内は聞いていても得意気になれた。でも次第にそれが圧力にしか思えなくなっていった。この圧力に応えるために優等生を演じなければならないと考えるようになった。それが苦痛で、苦痛が降り積もって器がいっぱいになってしまった。逃げ出したかった。でも友達の輪から抜け出すのはもっと恐かった。
そんな時だ、電志にコテンパンに敗北したのは。自分より上がいると分かって、何故か安心した。器に溜まった嫌な何かがサーッと溶けていった。普通の人として扱ってくれるのが、嬉しかった。電志は他に人にするように、平等にボクを扱ってくれる。圧力をかけてくることがない。
この人の前ではおどけてたって良いんだ、自分のダメなところを出しても受け止めてくれるんだ。
「……この人になら甘えても良いんだ、それが大きかったと思う。だから、好きになったんだ。一人目の父さんが他界してからは、甘えられる人がいなかったから」
終始穏やかな語りだった。もう迷いも、色々な負の感情も、うまく自分の中で処理できているからだろう。
電志も応じなければならないと思った。
自分の気持ちの奥を覗き、整理しながら話す。
「俺は、愛佳をこの班に置いておく自分をずっと不思議に思っていた。俺は一人で設計に打ち込んでいた方が気楽だと考えていたし、それなら設計思想が真逆の愛佳を追い出してしまうこともできた筈だ……」
だがそうする気が起きなかった。それは何故かと考えてみたことがある。一番納得しやすい論理は、『期待』だった。真逆の考え方である愛佳なら、俺の考え付かない何か良いアイデアを出してくれるかもしれない。俺だけでやっていたら考えも凝り固まってしまうし視野狭窄に陥ることもある。だから全く自分と違う観点で新しい風を吹き込んでほしかった。そんな期待。
でも今考えてみたら、もっと前の段階から愛佳を求めていたのかもしれない。
〈DDCF〉を受験する前から。
「……俺が〈DDCF〉への受験依頼を忘れていた時、愛佳が俺に教えてくれただろう? その時、思ったんだ。俺は誰かに補ってもらわないと駄目なんだって。それまで俺は一人で何でもできると得意気になっていた。でもそれじゃ駄目なんだなって分からせてくれたんだ。で、補ってくれるなら誰が良いかって思ったら、愛佳だったら良いな、なんて……だから、その頃からもう、好きだったのかもしれない」
言い終わると、何だか気恥ずかしくなった。
愛佳がふにゃっと笑って、寄りかかってきた。
それから手を繋いだ。
甘い時間が、ゆっくり流れていく。
しばらくすると通話要請が入った。
七星からだ。
『電志、アレを使うぞ』
七星は何の前触れもなく言う。
だが。
それだけで充分だった。この状況でアレと言ったら、アレしかないだろう。
「分かりました。飛行試験はしてないですけど、問題無いと信じています」
『〈DPCF〉に連絡してエースパイロットを呼んでもらった。じきに来る。問題はそれよりも、〈DDS〉の方だ。今格納庫は修理と整備で火事場になってるから新型機の方には人を出せないそうだ。お前達も来い。手伝え。俺達は既に脱出艇の格納庫にいる』
「分かりました!」
通話終了。
電志は愛佳と頷き合った。
「アレの出番だ」
「ボク達の愛の結晶だね」
二人は走り出す。
手と手を取り合って。
電志達が脱出艇格納庫へ行くと、七星が迎えてくれた。
そしてゴルドーに通話で指示を仰ぎながら準備を進めていく。
それからナキ達が駆け付けた。
七星は皆を集めて説明を始める。
「第三波では手酷くやられた。第四波第五波と来るかもしれない。第三波では補給時期を突かれたため遅れを取ったが、次は準備が整った状態で迎撃できるだろう。だが勝てるとしても次が最後だ。第五波が来たらもうどうにもならない。そこで、この新型機で巣を直接叩く。この機体なら必ずできる。モンスター達に人間の底力を見せてやれ!」
『はいっ!』
パイロット達は小気味良い返事をし、機体へ乗り込んでいった。
その中にはジェシカの姿もあった。
「あれ、ジェシカさんも出撃するんですか?」
電志が尋ねると、七星がニヤリとした。
「そうだ。ジェシー、頼むぞ!」
呼ばれたジェシカは手を振ってコックピットへ入っていった。
電志と愛佳、七星は残り、制御室に入る。
そして格納庫を開いた。
ナキから通話要請が入る。
『電志、ところでこの機体何ていう名前なの?』
ああそれは、と電志は溜めを作った。
この機体の命名権は愛佳に渡さなかった。【落ちないくん二号】にされたらたまらない。
「その機体の名前は」
超重防御突撃機【黒炎】
最終的なカラーリングは黒に統一したのだが、それが黒き炎のようだった。この機体ならどんな死地からでも生還できる、はず。
愛佳はなにそのネーミング、とぼやいているが無視しよう。七星さんは親指立てているし。
『良いね、クールじゃん! じゃあサクッと巣を破壊してくるね!』
軽妙な言葉でナキは通話を終了した。
そうだ、きっとサクッと巣を破壊できる。
そうして【黒炎】六機は出撃していった。
その後第四波が来て、エースパイロット達を欠いた状態で苦戦を強いられた。
しかし最後の気力を振り絞り、艦隊も密集して砲撃を行い、撃退した。
巣の破壊もナキ達が成功させ、そして六機全てが生還した。
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