コメダ珈琲の歴史

流民

コメダ珈琲の歴史

 その歴史は古く、江戸中期の米田藩、今でいうと鹿児島の西側の大名、米田 騎座衛門が日本でのコーヒーの栽培の起源だと言われている。

 当時まだコーヒーと言う物はほとんどなく、庶民が口にする飲み物と言えば日本茶がほとんどだった。

 騎座衛門は初めて飲んだ琉球を経由して南蛮から来た飲み物、コーヒーをえらく気に入り、琉球との貿易を盛んに行い、コーヒーを栽培するまでに至った。

 しかし、そのコーヒー贔屓をよく思わなかった者達もいた。

 古くから日本茶の栽培を生業にしてきたお茶農家達だ。

 コーヒーが栽培されるようになるまでは、知覧のお茶が藩の産物とされていたのだが、騎座衛門がコーヒーを藩の産物として取り上げてからと言うもの、お茶を作る農家のほとんどはその職を奪われていこうとしていた。

 お茶農家達はそれを不満に思い、反乱を起こした。

その時起こった反乱が、世に言う《茶巾党の乱》である。

 反乱は今日では歴史の教科書からもほとんどが姿を消してしまっているが、その反乱は歴史上類を見ないほど、悲惨なものだった。

 反乱の主お茶農家達は、茶渋で染められた布を頭に被り、反乱を企てた、それが茶巾党のいわれである。

 茶巾党はお茶の正当な評価と、お茶農家の保護を求めての戦いを起こした。

 反乱は実に一年間続き、その間に出た死傷者の数は数万人に上り、それを憂慮した幕府からも停戦を執成されたほどであった。

しかしそれにも茶巾党は応じず、ただ闇雲に反乱を続けた。

 これに対し騎座衛門はより一層のお茶農家の弾圧を図った。

 お茶農家と思われる者はきつく取り締まり、捕まった者は死罪、若しくは流刑にされた。それにより一年後ようやく茶巾党の乱は鎮圧された。

 中には冤罪で捕まった者も少なくはなかったという。

 しかし、大きな反乱が収まった後でも茶巾党の生き残りたちは米田藩のあちこちで小規模な反乱を起こし、それにより米田藩は眼に見えて衰えていった。

 その頃には騎座衛門も、コーヒーの栽培に力を注ぐことができなくなってきており、コーヒー自体が消え失せようとしていた。

 しかし、ここで藩を盛り返し、更にはコーヒーの栽培をも盛り返した者の存在が出てきた。

 それが騎座衛門の長男で次期藩主になる、珈琲衛門である。

 お分かりだと思うが、珈琲という字はこの時の珈琲衛門の字から取られている。

 珈琲衛門は、それまでの騎座衛門の強硬路線を廃止し、お茶農家とコーヒー農家の住み分けを行い、これまで弾圧されてきたお茶農家にも平等な権利を与えた。

 これにより長く続いた茶巾党の反乱は完全に終結し、コーヒー農家と、お茶農家が共存できる治世を施した。

 藩の財政は、お茶とコーヒーのおかげで安定し、更なる発展を遂げた。

 珈琲衛門はそれだけに留まらず、コーヒーとお茶をもっと全国に広めるために、藩が直接茶店の経営に乗り出した。

 この茶店は、今までのような茶店とは違い、洋風な店構えで椅子に座りながらコーヒーとお茶を楽しめる茶店として作られた。

 最初はそう言う茶店になれていなかった庶民達も、だんだんとそのスタイルに慣れていき、茶店は繁盛しだした。

 それを聞きつけた他の藩の大名達も米田藩に取り入り、コーヒーを仕入れ自分の藩でも茶店を開くようになった。

 それはいつしか全国に広がり、瞬く間にコーヒーの需要は高まり、各藩は自分の藩でもコーヒーの栽培に乗り出した。

 しかし、それに気分を悪くしたのは、他でもない米田藩だった。

 それまでは米田藩でしか取れなかったコーヒーを、他の藩でも栽培されては藩の財政はまた悪化する、そう思った珈琲衛門は各藩に書状を送り、コーヒー栽培の中止を呼びかけ、米田藩から買うように圧力をかけた。

米田藩はコーヒーとお茶で蓄えた財力にものを言わせ無理やりに同盟を結び、各藩に圧力をかけた。

 これに対抗したのが、今の愛知県にある藩、安田藩である。

 最初劣勢かと思われた安田藩であったが、巧みな外交戦略で、米田藩から次々と離反者をうみだし、それを自陣営に取り入れ、ついには米田藩は安田藩に敗れ去った。

 それにより、米田藩は滅亡した。

 しかし米田藩の藩主、珈琲衛門の戦い方に感銘を受けた安田藩藩主は、その名前を茶店の名前に記したという。

 それ程、珈琲衛門の戦いは見事であった。

 戦いに勝利した安田藩は、コーヒーの独占市場を廃止、より一層のコーヒー文化の発展に寄与した。

 それにより、高くなっていたコーヒーの値段は下がり、また庶民の手にもコーヒーが戻ってきた。

 安くなったコーヒーを飲めるようになった庶民たちは、安田様のおかげだ、と口々に言い、茶店はいつしかおかげ庵と言われるようになったが、時が進むにつれ、元の名前、米田珈琲と呼ばれるようになった。

 時は流れ米田珈琲は、コメダ珈琲と少し名前を変えたが、そのコーヒーの味は江戸時代から変わらず、今に及んでいる。

 今ではおかげ庵は五店舗しか残っておらず、そのほとんどをコメダ珈琲の名前に変わってしまったが、今でも愛知県の老人たちの中にはコメダ珈琲の事を『おかげ庵』と呼ぶ人もいるという。

 これが長いコメダ珈琲の歴史だ。




フィクションです。

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