第1話 はじめての同人誌即売会

 約束の日の朝。

 待ち合わせの時間までは、あと一時間。

 朝の新越駅は、人がいない。

 田舎の駅前なんて、日曜の昼でも人が混み合うような事態にはそうはならない。

 テレビでよく見るような朝の通勤ラッシュの光景も、渋谷のスクランブル交差点のような光景も、ここではまず起こらない。

 毎日あんな人混みにもまれたいとは思わないが、あの活気の何割かは、あってもいいんじゃないかと時々思う。

 田舎は車社会なので、駅よりは郊外の大きなショッピングモールに人が集まる。店舗面積より駐車場面積の方が重要なのである。

 それにしても、早く来すぎただろうか。

 なにしろ女の子と二人で出かけた事なんか一度もないので、何を着ていくとか、何を持って行くとか、当日どんな風に行動すべきかとか、もう何も分からない。

 とりあえず遅刻だけはしてはならんだろうと思って早めに来てみたが、あまりに人がいなさすぎて待ち合わせ場所を間違えてしまったんじゃないかと不安になってきたりした。過ぎたるは及ばざるがごとしとはよく言ったものだ。

 地蔵のように何もせずに時間が過ぎるのを待ち続けたが、通行人も車も数えるほどしか遭遇していない。

 ようやく停まる車が現れたかと思ったら真っ黒いベンツだし。

 そのドアを開けて出てきたの三条さんだし。

 え、ちょっと?

「おはよー! 早いね!」

 いやいやいや。

 おはよーじゃない。

 僕はおつとめご苦労様ですとか言えばいいのか。

「さ、早く行こ!」

「いや、この、車……」

「大丈夫大丈夫!」

 何がどう大丈夫なんですか。満面の笑みで僕の手を引いて車に乗せようとしてくる。

 これは、なんか、アレだ。

 やばい。

 監禁とかシューキョーとかああいう奴だ。身ぐるみ剥がされたりハンコとかツボ買わされたりするのか。可愛い女子に手を握られてるという滅多にない出来事の嬉しさも、この後に起こりうる惨状を想像するとまるで喜べない。可愛いからこそ余計怖い。

「姐さん、時間ありませんよ!」

 ネェさんて!

 車の中から野太い声で三条さんの事ネェさんて呼んだよ!

 なんなの? 消されるの僕? 往生しいやとか言われるの?

 まだ何もしてないのに? 何もってホラ、あれだよ青春の甘酸っぱいアレやコレだよ!

「ほら、時間ないから!」

「いや、でも、これ、ちょっと」

 お互いに軽く腕を引っ張り合いながら話していたらいつの間にか腕を絡めてきた。なんで密着してきますか! あああこの立ち上る何フスキーの香りが力を奪ってくるよ!

「何? 何か忘れ物?」

「いや、そういうのはないです」

「急に用事でも出来た?」

「な、何もないです」

 急に敬語を使い始める僕と上目遣いで呑気な質問をしてくる三条さん。多分理由がわかってないだろう。会話がまったく噛み合わない。

 腕を絡めたまま二人で話す様は、端から見れば早朝からイチャつくバカップルそのものだろう。あれ、青春の甘酸っぱいアレ、これで実績解除?

 いや、しかし交わしている言葉こそ呑気なものだが僕は命がけなのである。乗ったが最後ユーキャントストップ。どこに連れて行かれるかわからないのである。振興センターだった気もするがそこで何が行われているかわかったものではないのだ。

「君、いいから乗りなさい」

「ハイィッ!」

 ベンツの中からドスの聞いた声で言われ、見てみればスキンヘッドにサングラスのおっさんが運転席に座っている。泣いてる子供すら黙って直立不動しそうな雰囲気漂う人に何か言われて断れる奴がいたら見てみたい。そして今の僕に断り方を教えてくれ。

 かくして僕は隣に美少女、前にグラサンのおっさんの乗ったベンツに乗って連れ去られるのであった。


 車が走り出すと、三条さんはグラサンのおっさんと楽しそうに話し始めた。天気の話から始まり、なにやら今日の入りが何人になりそうだとか、どれくらい売れるのかだとか、そんな話に移行した。なんですか、それは僕が何かを買わされるって事ですか。

「あ、ごめんね。紹介しておくね」

 いきなり三条さんがこちらに話を切り出して来た。

 彼氏ですとか言われたらどうしよう。舎弟ですとか言われても困る。

 どっちにしろここで紹介される事で僕に何かプラスになる情報は何もない気がする。

「この人、ベンツ先生っていうの」

 まさかの三択目。

「お医者さんなの」

 あれ。

「しかも小児科!」

 え、ちょっと。

「どこかの幼稚園の組長先生みたいだよね」

 それ以上いけない。

 という訳で彼は小児科の開業医でベンツを愛するベンツ先生という事で、彼氏とか舎弟とかパパとかそういう類いの関係ではない事が判明したのだけど、それはそれで結局どういうご関係なのか全く理解の範疇外な上に本名はなんなのって聞きそびれてしまった。

 ベンツ先生と軽く挨拶を交わして以後、また僕は黙って二人の会話を聞くだけの地蔵と化し、そして数分後に三人の乗ったベンツは無事に産業振興センターに到着した。

 振興センターは入口の前から駐車場に繋がる部分に屋根付の通路があり、何本か屋根を支える太い柱が立っている。その柱にいくつか板が括り付けられていて、よく見るとそれらは案内板や看板になっているようだった。

 大きな看板を見ると、そこにはコミックZEST! と書かれてあった。

「コミック……ゼスト」

「そう、ゼスト。今日のイベントの名前」

「イベント?」

「今日は同人誌即売会、コミックゼストの開催日よ!」

 三条さんはとても嬉しそうに言うのだが、未だに色んな事が分かっていない僕は首を傾げるしかなかった。

 さっぱり要領を得ていない僕を見て三条さんが話しかけて来た。

「同人誌って知ってる?」

「ど、どう……?」

「同人誌。商業誌じゃなくて、個人やサークルが自分たちで作る本の事ね。最近じゃ薄い本、なんて言い方もしてる」

 薄い本という言葉なら聞いた事がある。夏に出る、とか冬に出る、とかそういう奴だ。何か限定版のようなものかと思っていたが、あれは個人で出版する本を意味していたのか。

「えーと、CDのP盤みたいなもの?」

「変な所でマニアックな知識持ってるわね……。そうね、インディーズレーベルというよりはそれが近いかもしれない。自分たちでお金を出して、印刷をお願いして、自分たちで頒布するの」

「自分たちで全部やるのか。出版社ごっこを楽しむ感じ?」

「そこじゃない……かな。自分たちが読みたいもの、見たいものが商業ベースで出てこないから、自分たちでそれを描くの。作るの。お互いに同じ趣味を持った人達のためにそれを発行するの」

 三条さんの語気が少し強くなった。心無しか距離も近くなったように思う。

 そのまま三条さんは続ける。まっすぐ目を見てこられるのが辛い。その視線が眩しくて辛いよ。

「そりゃあね、今は公式アンソロとか出たり、同じ雑誌にパロディ四コマが連載してたりとかあるわよ。でもそうじゃないの。私達が読みたいのはそういうものとはちょっと違うの。そして誰も作ってくれないなら、自分で作るしかないの。目的は読みたいって事だから、出版とか印刷とかは過程でしかないのよ。もちろん過程でしかないけど通らなきゃならないなら楽しむわ。装丁に凝ったりとかするわ。でも……」

 これ以上話されても自分にはまだ理解出来ない気がする。しかしこんな興奮気味に間近で話す彼女を見た事がないのでもうちょっと見ていたい気もする。視線は外すが。

「あー……。なんとなくわかったよ。多分」

「あ、ご、ごめん……。つい……」

 近づき過ぎた事なのか、興奮して話し過ぎた事なのか、どこが反省点なのかはわからないが、とにかく落ち着いてくれたようだ。照れくさそうに目をそらす三条さんも初めて見たかもしれない。そもそも僕は彼女の感情の変化を間近で見た事などなかった。もっと言えば彼女を間近で見た事がなかった。

「とにかく、今日はその同人誌のイベントが行われると」

「うん」

「三条さんは、売る方、買う方どっち?」

「どっちでもないかな」

 じゃあ何しに来たの。

「私は、主催の側だから」

 そう言うと彼女は足早に建物の中に入っていき、中にいた沢山の人達の中に混ざって行った。奥から僕を手招きしている。

 主催の側というのはどういう事だ?

 つまり、このイベントを運営する側という事? いやまさか高校生が個人でこんなでかい会場借りて人を呼ぶとか出来るわけないじゃん。手伝いか何かだよね。で、僕も多分、これ手伝うんだよね。

 ベンツに乗る前に考えていた恐怖の展開が何一つ当たらなかった事に軽く安堵しつつ、さらにその前、昨日声を掛けられてから家を出るまで考えていた甘酸っぱい感じの展開も木っ端微塵に粉砕されてしまった事に気付いてしまい、世の中はそんなに甘くはないよなって人生の悲哀を学んだ。

 ガラスのドアを開けてエントランスホールに入ると、十数人が輪を作って何か話をしていた。イベント開始前のミーティングを行っているようだ。奥に三条さんがいて、隣にいる女性が何か話をしている。三条さんより頭一つくらい高い身長で、しっかりしたスーツ姿にアップにした髪と眼鏡が、いかにもキャリアウーマンな感じがするのだが、まあそれよりは見てくれこの彼女の胴体前面の張り出しを。すごく……大きいです。

 有り体に言って非常に大きなお胸をしていらっしゃる。あれだけ綺麗なスーツで決めていながらも存在感を打ち消せない豊満さは今まで画面の中ぐらいでしか見た記憶がない。女性が話している間ずっと胸だけをガン見していたらどうも気付かれたらしく三条さんに睨まれた。

 あわてて目を逸らすと話のターンが三条さんに回った。

「おはようございまーす! 今日も一日がんばりましょー!」

 元気な声がエントランスホールに響く。改めて大きな声を出しているのを聞いたけど、綺麗で、とても通りが良い。透き通るような声というのはこういう声の事をいうのかな。

「えっと、最後に、今日からお手伝いしてくれる人を紹介しまーす! 鳥屋野淳くんです! はい拍手!」

 いきなり三条さんは僕の方に手を出して紹介してくれた。フルネーム知っててくれたんだ、などと思ったりもしたけど今三条さん「今日から」って言わなかったか? 言ったよな?

 輪になっていた人達が一斉にこっちを向いて盛大な拍手で迎えてくれた。

 最後にあいさつを行って解散、それぞれ散って行った。三条さんのところに近づくと、お隣のキャリアウーマンさんも僕を待っていた。

「はじめまして。黒埼です」

「摩耶ちゃんはね、ゼストの受付とか事務関連とかやってくれてる人なの」

「ど、どうも。鳥屋野です」

「そらちゃんから聞いてます。今日から手伝っていただけるそうで。大変助かります」

 僕は全然聞いてない。

 そしてやっぱり「今日から」って言ったぞ黒埼さんも。

 黒埼さんも近くで見れば三条さんに負けないくらい美人で、眼鏡と泣きぼくろが妙に色っぽくて、そしてナイスバディの持ち主で、どうしても、こう、視線が顔より下に動いてしまうというか。

「とにかく! 鳥屋野くんは今日一日私と一緒に手伝ってもらうから! よろしくね!」

 視線の推移に気付いた三条さんが遮るように前に立ち、そういうと僕を会場内へ引っ張っていった。普通に手をつないでいる恰好になるんだけど、三条さんは本当にこういった事に頓着しないんだな。心の中で冷静にこんな評価出してるけど実は顔が真っ赤になってないか気が気でない。


「ここが展示ホールね。イベントの一番主要な会場なの」

 三条さんに引っ張られるまま、大きな扉を抜けて展示ホールに入る。

 初めて入ったが、とにかく広い。奥行は見た感じ五十から六十メートルほどで、左右はもう少し広いくらい。そんな広い空間に、机がずらりと奥まで整列されており、十数人がその机に沿って歩いている。よく見ると持っている紙を机に一枚ずつ置いているようだ。紙の種類は様々でサイズも色も全く違う。

「鳥屋野くん、これ、腕に付けてくれる?」

 渡されたのは青い腕章。「お手伝い」と書かれている。三条さんは真っ赤な「STAFF」と書かれた腕章を着けていた。色の違い、というか文字を見るからに責任者とそうでない人の差を示しているのだろうか。

「スタッフ扱いはされるけど、参加者からの問い合わせとか、難しい事はわたし達赤い腕章の人に振られるようになってるから大丈夫。でも着けておかないと控え室とか入れないからね」

 武器や防具は装備しないと効果がないという奴だ。

 腕章を着けた後で渡されたのは大量の紙の束。印刷所の名前と、可愛い女の子の描かれた鮮やかな色彩のチラシだ。セールだのフェアだの色々書いてあるが内容はわかっていない。足元の段ボールに入っているものなので、まだ箱の中に沢山ある。

 このチラシを二人で分担して、机の上に置いていくのだそうだ。机一つに二つのスペースを作ってあるので、それぞれ一枚ずつ。

 この広い会場の、延々と続く机に全部置いて行くのか……。

「果てしないな……」

「大丈夫、すぐ終わるから!」

 紙の束を持って机の前に立ち、歩きながら紙を一枚だけ取り出して椅子の上に置く。たったそれだけの作業なのになかなか紙をうまく取り出せなくて進まない。他の人はテンポ良く束から一枚ずつ取り出しているので、どんどん追い抜かれて行く。最終的に三条さんの半分くらいしか配れなかった。

「最初はそんなもんよ。そのうち慣れるから気にしないで」

「そういうもんかなあ」

「そういうものよ。昔はもっとスペースが多かったから、二人で一種類なんてやってたらとてもじゃないけど間に合わなかったわね」

「え、これで少ない方なの?」

「うん、かなりね……」

 三条さんの表情が少し曇った。ような気がする。

 ああ、そうか。スペースが少なくなったという事は、同人誌を作る人が減って、参加者が減ったという事なんだな。

 しかし、現状のこの規模でも、チラシ配りだけで一時間以上かかっているのに、多かった時代の作業規模の想像がつかない。

「そういや、机っていつ並べたの?」

「あ、これ? 五時から」

 五時から?

 今朝の五時からという事か? 二時間でこれだけの数の机をこんなに綺麗に並べられるのか? いや、無理だろ?

「昨日の午後五時からって事、だよね……?」

「ううん、今朝よ。朝五時に会場開けてもらって並べたの。委託販売とか更衣室とか同時に進行してるけど、とりあえずチラシとゴミ袋配ったらここはおしまい」

 出入り口の側にある本部受付スペースに近づくと、マイクを持った女の子が一生懸命指示を出していた。チラシを配っている間も会場内のスピーカーで指示が飛んでいたが、彼女が出していたのか。

 同い年か、もしかしたら年下かもしれない、小柄で細身の女の子だった。ポニーテールの良く似合う元気そうな……というか実際そこら中を駆け回りながら指示をだす元気いっぱいの女子だ。進捗状況にあわせて適宜スタッフを名指しで指名してはやる事の指示をしている。

「はいタディとチャンはゴミ袋追加入ってー」

「マジションとクワさん看板チェック回ってくださーい」

「コージィは更衣室で、ミナミンは入口ねー! あと三十分で入口開けますからねー!」

 呼ばれる名前が全部あだ名なので誰を差しているのかさっぱりわからないが、本名呼んだ所でどっちにしろ今の自分には誰だかわからないので一緒だった。

 彼女は終始笑顔でスタッフと軽口を叩き合いながら設営を進めている。軽やかに、まるで踊るように会場を移動しながら次々と指示を出す。たぶん彼女の指示のおかげで、スタッフはみんなキビキビと動き、無駄に遊んでいる人もさぼっているような人も見当たらない。それでいてみんな彼女に話しかけられれば楽しそうに返事をする。可愛い女の子に声を掛けられて嬉しくない男子はそうは居ないとは思うけども。

「彼女、すごいでしょ」

「会場内の何もかもが見えてるみたいな人だね」

「多分、のっちは実際そうなんだと思う。気が利くってレベルじゃないもん、あれ」

「のっちさんって言うんだ、彼女。みんなあだ名で呼び合うんだなー」

 自慢じゃないが僕は今までの人生であだ名を付けられた事がない。

 さっきの、のっちさんがスタッフを指示していた時も、ほとんどがあだ名で呼んでいて、いや、別に羨ましいとかそういう事はないですけど。ないですけど。

「鳥屋野くんは、何かあだ名とかある?」

「い、いや……、特にないです……」

「じゃ、とりあえず鳥屋野くんでいいかな」

 あだ名で呼び合うとか、なんか親密度上がる感じするよね。学校とかでも三条さんにあだ名で呼ばれたりしたら、多分周りから軽く注目浴びてしまったりとかしそう。三条さんのあだ名が、今朝呼ばれていた「ねぇさん」だとしたら、さすがにちょっと学校では呼べないけど。

 しかし、さっきから、僕は。

 ずっと普通に三条さんと会話しているよね?

 なんだこれ。女子と楽しく談笑するリア充みたいじゃないですか。僕が休み時間に寝たふりしている時に、遠くの方で聞こえてくる会話のアレみたいな奴。

 話す相手が笑顔になるとか、しかもその相手が女子だとか、ちょっと都市伝説か何かだと思ってたよ。こんな時間を過ごせる日が来るとは思わなかったな。ベンツの前に立った時の絶望感から考えたらかなり嬉しい誤算と言える。


「はいもうすぐ九時ですよ! サークル口開けますよ! 更衣室と一般も準備出来次第開けますよー!」

 作業は続き、のっちさんの指示が響き渡る。チラシ配りがある程度終わってくると、それぞれの部署に別れていくようで、会場内にいたスタッフの何人かが慌ただしく移動を始めた。

 サークル口とか更衣室とか、とりあえずイベント開始は九時という事だろうか。

 周りの動きに対応出来ずにうろうろしていると、三条さんが手を引いてエントランスホールへ歩き出した。

「えっとね。サークル口ってのは、サークル参加の人が開場時間より早く入れるための入口。サークル参加の人、つまり同人誌を頒布する側の人は、さっきチラシ配ってたあの机の上に自分たちの同人誌を並べたりする準備が必要なの」

「開店準備みたいな?」

「そうね。私達がこうやって開場前に場を準備するのと同じようにサークルさんも準備するの。彼らの為に一般参加者という、同人誌を買う側の人が入れるようになる十時半より早く入ってもらってるの」

 参加者にも色々な種類があるらしい。

「あと、更衣室っていうのは、コスプレイヤーさんも、入場してから着替えたりメイクしたりで準備に時間がかかるでしょ。先に入っておいて準備出来れば、開場時間に合わせてコスプレ姿で入場出来るから時間が無駄にならないかなって。正式には更衣室事前利用受付って言うんだけど」

「そんな事まで配慮するのか。ただ場所を提供するだけじゃないんだね」

「そうね。場所を提供するって事は、開催時間内にどれだけ楽しんでもらえるかって事でもあるの。混雑を緩和したりして無駄な時間を過ごさないように、とか、動線がわかりにくくならないように、とか。まだまだ足りてない部分も沢山あるとは思うけど」

 なんというか、女子高生が主催をしている、なんて聞いたものだから学園祭の延長みたいなゆるいものを想像していたのだけど、今この場で実際の準備をしている人達の動きや、使われている道具と資材を見るに、これがそんな中途半端なものではないことはよくわかった。

 そして、前を見据えるような凛々しい表情が、とても頼もしく、眩しい。こんなに強い目をするんだなって、初めて知った。

「さて、新しいお仕事よ」

 到着したのはエントランスホールの隅の、正面入口からは結構離れた場所。

 三条さんから、大きく最後尾と書かれた木製の柄付看板を渡された。これから入ってくる一般参加者と呼ばれる人達を整列させるのを手伝うという事らしい。出来るだけつめてくれとか四列にちゃんと並べとかそういうような誘導をしつつ、常に列の最後で看板を掲げている事で、入場者の目印の役割も持つ。

 一通り説明が終わったあと、三条さんからこの列整理の責任者だという人を紹介された。

「フフフ、よろしく!」

「お、おおお……」

 不適に笑うその責任者の人は、見事な決めポーズで迎えてくれた。

 返事も忘れて狼狽えてしまったのは、彼のそのポーズだけでなく、服装にも驚かされたからだ。

 赤い革のジャケットにレザーパンツや指ぬき手袋などの派手な服装に、さらに腰にはもっと派手なベルトが光る。

 比喩でなく、光る。

 更に、音も出る。

 子供に大人気の特撮番組、ベルトライダーシリーズの主人公が着けている変身ベルトを、彼は装着していた。

 衣装も髪型も完全に今年のライダーの主人公そっくりに仕上がっている。決めポーズも完璧だ。

 一つだけ問題点を挙げるとすれば。

 体型が、すごく、その。

 横に凄い事になっている。

 控えめにいってもふくよかと言うレベルではないわがままボディだ。

 正直その革ジャケットなどは、サイズ以外は完璧にテレビのヒーローのそれと同じといってもいい出来なだけに、逆にどこから探して来たのか気になってしょうがない。

 元来子供用であるはずの変身ベルトを、腰回りがメートル単位になってそうなこの人がどうやって装着しているのか、とかも気になってしょうがない。

 いや、正直、恰好良いと思う。

 ここまで見事に再現しているのは本当に凄いと思う。

 だが、この拭えない違和感。

 色々な感情と疑問とがせめぎあって、どうにもリアクションが取れないでいた。

「えー……彼はベルトさん。見ての通りの特撮オタで玩具コレクターだから、その辺でわからない事があったらなんでも聞いてみてね」

「フフ、ヒーローたるもの、迷える一般参加者を導かなければなりませんぞ。最後尾札を高く掲げて後ろにいて欲しいのですぞ!」

「わ、わかりました!」

 僕が返事をしたのとほぼ同時に、入口の方が騒がしくなった。どうやらドアが開けられたらしい。

「おっ、それでは我が輩がまず先陣を切りますから、しばしお待ちあれ」

 そういってベルトさんは拡声器を持って入口へ走り、先頭の人達の前で本当にベルトの音声を鳴らして注意を自分に向けて先導して来た。

 変身ベルトを付けた男性の後ろに凄い数の人が列をなしてついてくる光景は、なんだか一瞬恰好良く見えたけど、うん、気のせい。

 ベルトさんが拡声器で列を整理していく中、僕はとにかく邪魔にならないように動くのが精一杯だった。いや、だっていきなり知らない人に声をかけるとか難易度高過ぎるだろ。最後尾の調整はほとんど三条さんがやってくれていたようなものだ。

 次々に入ってくる参加者を誘導し、エントランスホールが人で埋まった頃、ようやく入場の勢いが落ち着いた。振り返ると、実に様々な人が綺麗に並んでくれているものだなと感心する。ほとんど誰も移動しないし、列が乱れたりもしない。さらにほとんどの人が会話せず、何かを読み続けている。

「三条殿、時間が!」

「あっ、ごめんなさいあとお願いできる?」

「ヒーローたるもの、これくらいならあとは大丈夫ですぞ!」

「ありがとう! 鳥屋野くん、こっち!」

 腕時計を見た三条さんがあわてて僕の手を掴んで走り出した。そろそろ手をつなぐ事にも慣れてきて、なんだか時計ウサギみたいだな、と思ったりする程度の余裕は出てきた。


 時間がない、と慌てて走った先にあるのは展示ホール。

 展示ホール内はいつの間にか沢山の人が入っていた。さっきまでと違い、この人達はスタッフではなく、サークル参加という方の人達だろう。机の上にあった椅子やチラシがなくなり、代わりに様々な本や看板のようなものが置かれている。机の上に鮮やかなテーブルクロスが敷かれていたり、大きなディスプレイが設置されていたりする所もあって、こちらもかなり本格的だった。全体的にもっと緩いフリマのようなものを想像していただけに、規模や運営が本当にしっかりしていて驚かされる。

「こっち入ってきて!」

「あ、す、すみません、失礼します」

 三条さんにそのまま引っ張られ、入口を入ってすぐ右にある机に囲まれたスペースまで移動した。壁に大きく本部受付、と書かれた看板があるので、つまりそういう場所なのだろう。

 決して広いとはいえないスペース内には数人の女性が配置されている。まだ正式な開場前だというのに受付には結構な人数が並んでいて、両替や何かの手続き、何かの券の受け取りなど常に忙しそうに動いている。

 その狭い中を抜け、奥に入ると色々な音響機器が置いてあった。

 マイクや大量のスイッチなどの並んだ機械が並び、かなり本格的な放送ができそうな設備がそろっている。

 そしてそこに座っているのはミーティングにもいたスタッフの女性だ。

 眼鏡をかけ、肩よりちょっと上くらいできれいに切りそろえた髪型。ほぼ無表情のまま機械を色々といじり続けている。テーブルに並んだ機械に綺麗に密着したような状態で、上半身がまるで機械と一体化しているようにも見える。たぶん黒い服着てるせいだと思うけど。

「先輩すみません、お待たせしました!」

「はいよ。まだ大丈夫だから、深呼吸してからね」

「はい!」

 先輩と言われた女性は、無表情のまま、しかし優しい言葉をかけながら三条さんにマイクを渡す。

 渡されたマイクを受け取り、一度深呼吸をしてから参加者の方に向かい、元気よく話し始めた。

「おはようございます! ゴールデンウィークはどのように過ごされましたか?」

 季節の挨拶から入って昨今の同人誌関連の情勢などを語っていた、らしい。ちょっとした話の合間の冗談に会場中で笑いがおきたり、拍手が出たりしていて、なかなか好評のようだ。

 学校だともっと大人しくて、大声で喋ったり笑ったりしているのを見た事がなかったので、こんなに快活な、話術の巧みな人だとは知らなかった。

 挨拶はちょうど十時三十分になったところで終了し、開催宣言に移った。

「それでは、コミックゼスト、スタートです!」

 宣言の後に会場中から大きな拍手が起こり、同時に奥の側の扉が開き、沢山の人が入ってくる。人の流れは会場全体に染み込んで行くように通路を埋めて、様々な所で本を手に取ったり会話が始まったりしている。

 最初から目的のある人は足早に移動し、そうでない人はゆっくり周りを見渡すように歩いている。そして大半の人は並んでいる時に読んでいた本を持ったままだった。

 よく見たらこの受付に大量に積んで販売している本と同じものだった。

「三条さん、この本って何?」

「ああ、それは今回のカタログ。サークルさんの名前と位置がわかるように書いてある本よ。これだけの会場で、あれだけの数のサークルさんがいたら、何か場所を示したものがないと誰がどこにいるのかさっぱりわからないでしょ」

 まあ、確かにその通りだ。

 一冊受け取ってめくってみると、数センチ四方の枠の中にそれぞれのサークルの名前と告知のためのイラストが並んでいる。記号で区分されていて、それが各サークルの机に貼ってある記号の書かれたラベルと連動しているようだった。

「あとはホラ、ジャンル毎に配置場所をある程度わけてあるから、それがわかるだけでもまわる時に楽だしね」

 カタログの始めの方に見取り図があって、机の図と一緒に、テニスの僧侶様とか銀玉とか特撮とか書いてある。たぶんこれがそのジャンルの名前にあたるのだろう。

 一部の名前は週刊漫画誌に載っている作品名だったり、アニメやゲームのタイトルだったりするので何となくわかる。そこに行けば、その作品のパロディの同人誌が売っているというわけか。

「ちなみに一般参加者はカタログが入場券代わりになるので、持ってないと入れないの」

「どっちにしろ中でまわるのにずっと必要だから帰るまでは持ってるわけだ」

「わかってきたじゃない」

「まあね」

 いや、そんな偉そうな顔をするほどの事でもないよね。普通だよね。

 人の流れが面白くてしばらくその場で見続けていた。自分がその人ごみに入るのは嫌だけど、こうして離れて見てると案外面白い。場所によって男女比が変わってくる事もあるので、その辺がジャンルの違いという奴なのだろう。

 しばらく眺めていると、エントランスの方からスタッフが駆け寄ってきた。

「ごめん! 手荷物の列が凄くなってる!」

「え、だって今日は高田姉妹そろってるから大丈夫だって言ってなかった?」

「姉の方の準備が遅れてるんだって! 誰か手伝いいける?」

「わかった! 鳥屋野くん! 次のお仕事!」

 スタッフに相談を受けてそのまま僕に仕事が流れてくるこのスムーズな連携という名の丸投げシステムに名前をつけるなら何になるだろう。などとゆっくり考えている暇はなさそうだ。

「あ、うん。忙しいねコレ」

「きつい……?」

 そんな心配そうに上目遣いに言われてきついです、などと正直に言える男子がいるだろうか。

「あ、いや、大丈夫! 大丈夫だから!」

「ごめんね、本当にきつかったら無理しなくていいから……。無理に来てもらってるんだし」

「いや、ホント大丈夫! いやー楽しい! 働くの楽しいな!」

「それは嘘ね」

「うん、ごめん」

 確かに仕事は慣れないことばかりで、正直きつい。普段はあまり人の多いところに出ることがないので、これほどの人前に出るという事そのものがすでに大変だった。

 そうはいってもせっかく三条さんが呼んでくれたのだから、少しは期待に応えたい。役立たずだと思われるのも癪だし。会話の中であまり期待されていない感じが端々から感じるのは、僕の持つ被害妄想の成せる業だろうか。

「じゃ、行くわよ!」

 という訳で結局連れて行かれた。たぶん、きついと答えても結果は同じだった気がする。エンディングで姫を連れて行くかどうかで何度「いいえ」を押しても意味がないというアレだ。


 手荷物預かり所へ向かうため、一旦展示ホールを出て、壁沿いに右の通路へ進む。通路には大きな鞄を持ったコスプレイヤーが長い列をなしていて、その列をなぞるように進んで先頭まで行くと、会議室のような部屋に辿り着いた。

 部屋の入り口には机で作られたカウンターがあり、そこでコスプレイヤーの持っている大きな荷物をスタッフが受け取っていた。受け取った荷物はそのまま他のスタッフが部屋の奥に運んで並べている。

「ここが手荷物預かり所」

 ロールプレイングゲームの村人みたいなセリフだな。

「見ての通り、レイヤーさんの荷物を預かるの。有料だけど」

「そんな事までするの?」

「見て。あの大きな荷物。あれを会場中ずっと持ち歩いていくわけにもいかないでしょ」

 待っている参加者を見ると、確かにみんな荷物が大きい。大半の人がキャスターの付いた旅行用のキャリーバッグを引いている。あれを持ったまま歩くのは大変そうだし、人ごみのなかではぶつかるかもしれない。

「まあ、確かに邪魔だよなあ」

「せっかくコスプレしてるんだから、コスと関係ないもの持って歩くのも無粋でしょ」

 そういう考えもあるか。

 とりあえず部屋の中に入ると、奥の方には大きなキャリーバッグがずらりと並んでいて、スタッフが数人走り回ってバッグを並べたり取りに来たりと往復している。今まで見た中で一番重労働かもしれない……。

「あ、おつかれさまです……。えーっと、鳥屋野くん、だったかしら」

 部屋の奥からスタッフの女性が声をかけてきた。一回しか聞いてないのに名前を覚えられるとか何系の能力者だ。

「あ、ど、どうも」

「助かりますわ。もう少しで交代しますけど、これからしばらくは忙しいですから、人手はいくらあっても構いませんわ」

 僕は実にうまく人出の足りないところに差し込まれているらしい。

 のっちさんに負けずに三条さんも全体がしっかり見えておられるという事なのだろう。

 それはそうと声をかけてくれたスタッフの女性は今までとかなり雰囲気の違う人だった。

 口調がなんだか上品っぽさを醸し出しているが、それよりもわかりやすいのはコスプレをしている所だろう。しかも結構露出度の高めの衣装だ。ファンタジー系の戦士の鎧で、ビキニアーマーに近い、ほぼ水着と変わらないようなものをお召になっている。しかもまたこの人のスタイルも黒埼さんに負けないレベルで抜群に良いものだから目のやり場に困る。

 やり場に困りつつ目を離すこともままならないまま見ていたら、この衣装の正体に気付いた。

「あ、それもしかしてドラファンの女戦士……?」

「よくおわかりになりましたね! 三作目のですよ。懐かしいでしょう」

 ドラゴンファンタジーは現在もシリーズが続く有名なRPGで、去年十作目が発売されたばかりだ。三作目は、本当は僕が生まれる前に発売されたものだが、リメイク版が小学生の頃に出たのだった。グラフィックも強化され、女戦士は確かにこんなエロ……いや、素敵な格好だったと思う。

「ゲームの中じゃこんなに細かい部分までわかんなかったけど、こうして見るのもいいもんですね……」

 完全に感想がオヤジだ。

 しかし実際、コスプレを間近に見たのはこれが初めてで、しかもそれが子供の頃好きだったゲームのキャラが画面を飛び越えてやってきたような状態なのだから、なんていうか……その……興奮……しちゃいましてね……。

「ふふ……。ありがとうございます」

 衣装のせいも少しはあるのかもしれないが、三条さんや黒埼さんとも違った独特の雰囲気がある。

「ハイハイ、じゃあ説明しますよ!」

 急に三条さんが割って入ってきた。というかそもそもここに来たのはこの部屋の仕事の手伝いをしにきたのであって、コスプレ鑑賞に来たわけではない。別にそれでも構わないんだが、多分僕と神が許しても三条さんが許してくれない。

「えーっと、この人は高田姉妹って呼ばれてて、妹の方。主にこの手荷物預かり所の責任者をやってくれてるの」

 え、姉妹って事はもう一人いるの?

「二人はウチのスタッフの中でもかなり強者の腐女子だから」

 腐女子。

 オタク女子の中でも特にBLなどを好む人をそう呼ぶのだそうだ。てっきりオタク女子全般をさすのだと思っていたが、どうやら違うらしい。初対面の人に気軽に「あなた腐女子ですか」とか聞くのは危険かもしれないので気をつけよう。聞かないが。聞く相手がいないが。

 高田妹が預かりの手続きを行い、三条さんが荷物を受け取って整理番号の書かれたタグを鞄の取っ手の辺りにつける。それを僕が受け取って、部屋の奥に番号順に並べていく。

 手順としては難しい事は何もないんだが、とにかく預かり希望者が後を絶たない。開場して着替え終わったコスプレイヤーさんがほぼ全員預けにやってくるわけだから、そりゃあ忙しい。

 荷物を運ぶ係は僕を含めて三人。通路があまり広くないので人数が多すぎても身動きが取れないから、最低限の人数に留めているそうだ。

 人数が少ないという事は、自分の作業負担が多くなると言う事でもある。やって見るとわかるが、とにかく延々動き続ける。

 最初は荷物を預かるだけだったのが、しばらくすると、以前預けた荷物を取り出したいという人が出てきたりする。番号を頼りに荷物につけられたタグを注意深く見て、同じ番号のものを取り出してきて返却。預ける作業と返却する作業が交差してくると、今持っている荷物が、奥にしまわなければならないものか、それとも返却しなければならないものなのかがわからなくなってきて、だんだん混乱してくる。

 延々と続く作業の果てに、必要最低限の返事以外の会話がなくなってくる。部屋の奥から戻るときに高田妹のセクシーな姿を見られるタイミングが何度もあるというのに、もはやそれすらどうでもよくなってきて、荷物を運ぶ機械になったような気分に襲われてくる。

「遅くなって申し訳ありません……」

「もう、本当に遅いわよ!」

 突然、コスプレイヤーの女性が手荷物の部屋に入ってきた。よく見ると赤い腕章をしているので、スタッフの人である事はわかる。そしてよく見るまでもなく、その抜群のスタイルと容姿の雰囲気からして、彼女が何者であるかもすぐにわかった。

 それよりも、そのコスプレ衣装の方が気になった。

「……女僧侶だ」

「フフフ、ご名答。改めまして、姉の方でございます」

 彼女のコスプレはドラファンの僧侶だ。大きな布を前後に貼りあわせたような法衣で包まれているが、その下はオレンジのタイツのようなボディラインのはっきり出る衣服だ。ブーツや手袋はしているものの、横から見たら本当に前後しか布に覆われていなくて防御力がほとんどない。

 武器や防具は装備しないと意味はないだろうが、この服は装備しても意味がないのではないだろうか。

 それはそれとして、姉妹で比べてみると、確かに、今来た姉の方が若干落ち着いた感じというか、年上のような感じがする。多分、そういう事を直接言うと喜ばれないどころか二度と口を聞いてくれなくなりそうなので黙っておくけども。

 ようやく合流した高田姉が受付を妹と交代し、荷物を運ぶ係が四人になった。これで幾分楽になる。

 楽になるとはいっても仕事内容が変わるわけではないので、相変わらず走り回る。すでに汗だくになってしまい、こんな事なら着替えを持ってくるべきだったと後悔したが、何の情報もなかった昨日の状況で着替えを用意していたら、それはそれでおまえは三条さんと何をしようとしていたのかと突っ込まれそうではある。

 しばらく続けて部屋に荷物がいっぱいになってきた頃にようやく利用者の波が終わった。列は形成されなくなり、散発的に預ける人と取り出す人が交互にやってくるような頻度になってきた。取り出す人は、そのまま帰るのかと思ったらお色直しでまた別な衣装に着替えて預けに来る人が多いようだ。

 昼を過ぎた頃、ようやく三条さんから交代の連絡がきた。

「そろそろ交代のスタッフが来るから、そうしたら休憩しましょ」

「あ、う、うん」

 ああ、やっと終われる。

「もうお昼とっくに過ぎちゃったね。お弁当食べに行きましょ」

「本当に、慣れない作業で大変だったでしょう。とても上手に運んでいただけましたわ。ありがとう」

「あ、いや、どうも」

 高田姉から労いの言葉をいただいたが、運ぶのに上手とかあるのかどうかはよくわからないので、まあお世辞半分で聞いておこう。

「いえ、これ意外と難しいんですのよ。本当にお上手だったと思いますわ」

 高田妹からもお褒めの言葉をいただいた。どうでもいいけどワイルドな女戦士の格好の人に丁寧な言葉遣いで話されると、なんだか凄い違和感。

 預かり所を出て、休憩のためにスタッフの控え室に向かう。走り出したりはしないものの三条さんはここでも手を引いて歩いてくれて、嬉しいのは嬉しいんだけど、なんだか迷子になって誘導されてるような気分になってきた。もしかしたら彼女の中では僕の扱いがそれに近いものになっているかもしれない。


 スタッフの控え室はエントランスホールの反対側にある。すでにエントランスホールは一般参加者とコスプレイヤーで混雑していて、まっすぐ歩くこともままならないが、何とか奥まで進み、控え室に入った。

 ドアを開けると、中には先に休憩に入っていたベルトさんたちがいた。

 控え室は六畳間二つ分くらいの広さがあるが、真ん中に大きな机があって、あまり人は入れない。周辺の床にはスタッフのものと思われる鞄などが直接置かれているため、床の見える面積はさらに狭まっている。机には六つの椅子があり、それぞれスタッフが座って談笑しながら休憩していた。

 扉を開けてすぐに反応したのはベルトさんで、すぐに席を立って出迎えてくれた。

「おお、ご苦労様であります」

「あ、ども」

「まあまあ、こちらに座るとよろしいぞ。高田姉もどうぞ」

「あら、よろしいの?」

「ヒーローたるもの常に女性を優先し、敬わなければばならないのですぞ!」

「では、お言葉に甘えさせていただきますわ」

 ベルトさんと二人のスタッフが席を空けてくれたので、何とか三人座ることが出来た。

 机の上には様々なお菓子とペットボトルと紙コップが並び、座っている人はそれぞれ弁当やお菓子を食べている。

「あの箱の中にお弁当入ってるから、好きなの食べてね」

 そういって、三条さんは部屋の隅にある発泡スチロールの箱を指した。

 三条さんは弁当に手を出す前に、テーブルの上のペットボトルのお茶を持ち上げて紙コップに注ぎ、一気に飲み干す。一息つく様が実にワイルドだ。こんなキャラだっけ。

「この辺のペットボトルも共用だから、好きに飲んじゃって」

 ハンバーグ弁当を手に取って、空けてもらった椅子に座ると、突然身体が重くなったような気がした。思えばここまでずっと立ちっぱなしで動いていたのだ。目まぐるしい展開に疲れを自覚する暇もなかったが、こうして座ってみると急に疲れが押し寄せてくる。

 休憩中の他のスタッフは結構元気で、最近見たアニメや映画、ゲームなどの話を繰り広げ、盛り上がっていた。たまに知っているタイトルの話になると少しはわかるようになるが、最初のうちはともかく、ストーリーへの言及だけでなく声優や製作スタッフがどうとかいう領域まで入り込んでいくともう何を話しているのかさっぱりわからない。アニメはともかくゲームはそれなりに詳しいと思っていただけに、彼らの知識の豊富さには驚かされる。

 僕はその会話の中でどうしていたかというと。

 もちろん黙って弁当を食べていたのだ。

 いや、黙っていただけじゃないぜ。ちょっとこのお茶飲んでもいいですかって、高田姉に聞いたりもしたぜ。

「鳥屋野殿は、今期のアニメでは何が好きですかな?」

「ベルトさん、休憩時間大丈夫なの?」

「まだ少し位は大丈夫ですぞ。ヒーローたるもの、若人との交流は大事ですぞ」

「そもそも、鳥屋野くんはどういったものがお好きなんですの?」

 なんだい、皆そんなにボクの事が気になるのかい。主催者が連れてきたのに自己紹介も何もなければ、何者だと思われても仕方がないか。ここは僕の軽快なトークで皆を爆笑の渦に巻き込んでくれようじゃないか。

「あ、えっと、あんまり、アニメとか、観なくて……」

「んん! では、やはり特撮がお好きなのですかな?」

「あら、やはりってどういう事ですの?」

「鳥屋野殿、我が輩のベルトに興味津々でございましてな……」

 ドヤ顔でお腹のベルトを鳴らして語るベルトさん。狭い部屋に甲高い音声が鳴り響く。

「いや、その、ガキの頃すげえ好きで、だから、その」

「もー鳥屋野くんそんなに緊張しなくて大丈夫だから! 別に面接してるわけじゃないんだし」

 いや、ホラ、僕くらいになると十の言葉で千を語るっつうの? あんまり喋らなくても伝わるようなね、その。

 お話するのそんなに得意じゃなくてですね……。

 しかもこのアウェイ感溢れる地で、知り合いと言えるのが三条さん一人という状況でですよ。雄弁に語れる人がいたら見てみたいものですよ。連れてきてみろ。

 うん、多分いっぱいいるね。

「えっと、ゲームとか、結構好きで……」

「おお、ゲームでござるか! 格ゲーとかやられるので? それともRPG? まさかエロゲーって事はありますまいな? 未成年は買ってはいかんですぞ!」

 ゲームも食いつきますかベルトさん。

「えっと、格ゲーと、あとRPGが好きです……ね」

「おお! 去年ドラファンの新作が出ましたが、やられましたかな? あれは良いものでしたぞ!」

「みんなで一緒に遊びましたわよねえ。会場ですれ違い通信やるとすごく沢山すれ違えましたわ……」

「姉上の今着てるコスと同じ装備が配信された時は盛り上がりましたな!」

 話しかけたそばからスタッフの人達で盛り上がるから話に割り込む隙がない。とりあえず話す言葉の大半がア行とハ行ばかりになってしまう現象をアハ体験と名付けようか。

 しかしこのまま人と話の出来ないコミュ障だと思われてしまっては困る。主に三条さんに思われてしまうのが悲しい。勇気を出して話題を振ってみよう。

「あ、あの、ドラファンって途中から絵が変わりましたよね。た、高田姉妹のお二人は変更後のイラストのイメージですよね」

「そうなんですの。あのイラストがわたくしも大好きなのです」

「鳥屋野殿、案外良く見ておられますな!」

「ぼ、僕が、ドラファン知った時にはもうあの絵だった事もあるんですけど、凄く、好きです」

 ドラファンは僕が初めて買った三作目のリメイク版から、イラストレーターが交代した。その時にキャラクターの衣装のイメージも多少変化があり、僕たちより上の世代ではどっちが好きかでファン同士の議論が紛糾する事もあるそうだ。この後に発売されたドラファンシリーズは全てそのイラストレーターの絵で統一されている。

「うんうん、それは、大変良いことですぞ! ねえ三条殿!」

「ブフッ!」

 急に振られて三条さんがお茶を吹き出してしまった。ゲームはあまりやらないのか、ドラファンの話にはほとんど食いつかなかったようだった。大半の話題には付いていけている知識の広さを持つだけに、ゲームをしないというよりは、ドラファンをやってないだけかもしれない。

 イラストの話が出来て以後、少しずつ話が出来るようになってきた。話を切り出す頃には次の話題に移っていたりしてた事もあるけど、ベルトさんが上手に全部拾ってくれた。

 他人の話を拾いつつ盛り上げられるとか、ベルトさん恰好良すぎる。どうやったらあんな風に喋れるんだろうなあ。

 休憩時間はどうなったのかはさておき、ベルトさんの主導で控え室は大いに盛り上がった。

 いつの間にか一時間近く経過していたらしく、委託販売のコーナーからスタッフ増員の要請がやってきて、慌てて解散となった。話をしているうちに楽しくて時間が過ぎるのを忘れる、なんてよく言われてきたけど、あれ都市伝説じゃなくて本当だったんだな。

 あっという間にスタッフは移動していき、控え室は僕と三条さんの二人だけが残された。二人になってみると、思ったより広く感じる。

「僕も行った方がいいのかな」

「人数は確保出来てるから、委託まではやんなくていいかな。十分頑張ってくれたし」

「じゃあ、午後からどうしようかな」

「そうだね、会場、一緒に回ってみよっか」

「えっ?」

 テーブルの上を軽く片付けながら、気軽に誘われたけど、これは、二人で一緒に会場を回ろうという事だよな。今言われたまんま繰り返したけど、そういう事だよな。デート的な。青春の甘酸っぱいアレ的な。お花畑で追いかけっこみたいな。二人だけの世界みたいな。

 軽く裏返った声で反応しちゃったけど、いいんですよねコレ。

「委託以外にも色々部署あるからね、今のうちに回っておこうか」

「ソウデスネ」

 賽の河原で追いかけっこみたいな心境。相手は鬼。


 委託販売会場はスタッフ控え室のドアを開けるとほぼ目の前にある。パーテーションと呼ばれていた、キャスター付きの壁で仕切られた区画に机がずらりと並び、その上には沢山の同人誌が陳列されている。入ってきた参加者は、スーパーとかによくある買い物かごを持って歩いている。

 出口にはレジ係が待ち構えていて、そこで清算してから出てくるという形だ。

「ここだけ普通のお店みたいなんだねえ」

「うん、委託販売っていうのは、名前の通り、わたし達が代わりに頒布するコーナーなの。県外のサークルさんとか、ここに来られない作家さんのためにね」

「そんな事までしてんだ!」

「昔は同人誌の専門店とか無かったの。だから、県外の人の同人誌を買うのって、サークルさんと直接連絡して通販したり、こういうコーナーを利用する事が多かったみたい。今はもう、ショップの通販で気軽に買えちゃうし、個人で通販する人なんて滅多にいないけど」

 同人誌の専門店があるという事を今知って、むしろそっちに驚いたが、この委託販売というシステムも昔から続くサービスの一環なんだな。昔は同人誌に自分の住所を書いていたというのも更に驚いた。今そんな事してたら何に利用されるかわかったもんじゃないだろう。

「その辺の昔の話は、当時やってた人に聞くとすごく面白いのよ。ネットもショップも、パソコンもろくにない時代の工夫とか、バブル時代の伝説とか」

 バブル時代の伝説。

 昔のゲームのタイトルみたいだが、無駄に豪華なものを想像してしまう。バブルっていうくらいだから同人誌の売上で新車を買ったとかそんな感じだろうか。

「へえー。今度聞かせてよ」

「うん! とりあえずのっちに挨拶だけしたら、他も回ってみよっか」

 のっちさんは委託販売会場の責任者もやっているそうで、レジの所に居た三人の女子と合わせて委託四天王と呼ばれているとか。皆とても可愛い子ばかりで、その周辺だけ華やかな空気に満ちている。手荷物預かり所の高田姉妹の大人の空気ともまた違った雰囲気だ。

 少し視線をずらすとベルトさんを筆頭に必死で参加者の鞄を預かったり買い物かごを渡したりといった重労働をするむくつけき男たちの暑苦しい空気が立ちこめているので、そっちは見ないでおく事にして早めに退散することにした。


 委託販売会場を出て、人ごみの中を抜けて壁沿いに歩き出す。イベントはあと一時間半ほどで終了するが、会場内にはまだ結構な人が残っている。しかし、机の方を見ると、何割かのスペースが無人になっていて、サークル参加者でも最後までいない人がいるようだった。

「せっかくだから最後までいればいいのにな」

「ちょっと遠くから来てくれている人は、やっぱり早めに帰りたいという人もいるだろうし、打ち上げの都合があったりするかもしれないし、その辺は人それぞれだよ」

 まあ、確かにそういった都合があるのはわからないでもないが、思ったより空きが目立つのが寂しかった。

「このまま、ちょっと本部寄ってから、コスプレ広場見に行ってみようか」

「コスプレかー。いいねえ」

「そういえばさ、鳥屋野くんって、コスプレには興味あるの?」

「え、な、なんで?」

「高田姉妹の事じっと見てたし。コスプレだけは知ってたみたいだし」

「いや、ほら、あの二人に関しては、その、懐かしいゲームのキャラだったから、ね。大好きだったんだよドラファン」

「ふーん、そっかー」

 周囲の喧噪の中、お互いに微妙な探り合いの空気が漂いつつも、本部に到着した。やけに長い時間がかかったような気がするが、実際にはおそらく一分もかかっていないだろう。

 本部は黒埼さんを中心にして問い合わせなどの応対に追われている。この時間になってもまだ問い合わせってあるんだな。

 三条さんは一旦本部に入り、黒埼さんや他の受付スタッフの女性を話をしていた。

 僕も本部の中に入って様子を見ていた。山のように積まれていたカタログもほとんどなくなっていたようだ。代わりに段ボール箱を受け取ったり伝票のやり取りをしたりで、とにかく時間にあわせて仕事は変化していく。

「おまたせ! 行きましょ!」

「あ、鳥屋野さん、これ付けていって頂けますか?」

 出ようかと思った所で黒埼さんに腕章を渡された。青いお手伝いスタッフ用の腕章とは違う、オレンジの腕章。そこには「見回り」と書かれていた。

「コスプレ会場はスタッフが定期的に見回るようにしているんです。せっかくなので、お願いできますか」

「これ着けてるとコスプレ見てても変に思われないのよね。よかったね鳥屋野くん!」

 三条さんの中では僕はコスプレをガン見する不審者扱いか。

 いや、本当にコスプレに興味があるとかそういうのとはちょっと違ってですね、ちょっと昔コスプレに縁があったというか、まあ過去の話。

 まあ見られる分には嬉しいので良しとしよう。

 コスプレ広場は委託販売の反対側、左側にある大きなシャッターを出た所一帯がそう呼ばれている。屋根はあるものの、出てすぐに右を見ると、壁もなく、そのまま裏手の駐車場に繋がっているようで、もはやほとんど屋外と言っていい。入った時には気付かなかったが、ここはこの通路を挟んで二つの展示ホールが並んでいる構造になっているんだな。ゼストはその半分だけ使用している。

「ここ、きらめきホールっていうのよ」

「名前ついてんだココ!」

「ただの搬入用の通路なのにね。でもイベントの時にここ使いたいって団体多いみたいで、……まあウチもそうなんだけど、それで便宜上付けたらしいのよ」

「その経緯でその名前がつくセンスが凄いね……」

 通路は左右の壁面が白い壁で覆われていて、その前にコスプレイヤーがずらりと並んでいる。大きなカメラを持った人達がその前に並び、様々なポーズを決めながら撮影をしている。

 とにかくここはコスプレイヤーと、それを撮影する人達でごった返している。人口密度は、会場内よりちょっと高いかもしれない。

「どう?」

「ある意味、凄くきらめいてるね」

「この白い背景がいいみたいなのよね。奥まで行けば外も出られるんだけど、大半がここに常駐するの」

 周りを見ながら奥まで歩く。駐車場まで皆でずっと人ごみが続き、思い思いに撮影をしている。一人だけでポーズを決めている人もいれば、複数でチームのようになって撮影している人もいる。同じ作品のキャラクターがまとまっているようだ。

 見回りの腕章を付けているのだから、これは危険がないかとか不審な人がいないかとか、そういう事を確認するお仕事なのです。そう、お仕事。

 お仕事なら仕方がないよね! あのコスプレも、このコスプレも、危険がないかじっと見てるだけだからね!

「しかし全然キャラがわかんないな……。みんなどうやって新作のアニメ観てるんだ……?」

 新越は日曜の朝以外、ほとんどアニメの放送していないはずなんだけど。なので僕は最近のアニメはほとんどわからない。

「最近はBSとか使えば大体のアニメは観られるからね。ネットで公式に配信するサービスもあるし。ニヨニヨ動画って知ってる?」

「ああ、知ってるけど、あれってそんなサービスやってんだ。歌ってみますとかボカロの作品発表みたいな場だと思ってた」

「ちゃんと公式にアニメの配信とかもやっててね……、ちょっとごめんね、こっち来て」

 話している途中で急に雰囲気を変え、僕の手を引っ張ってどこかへ向かい出した。

 向かった先にいるのは一人の男性。結構年上の人で、かなり細身の身体にバックパックと紙袋を持って、首からカメラをぶら下げている。特に誰かを撮影するわけでもなく、フラフラと人混みの中を歩き回っている。

 特に変わった様子はないが、三条さんの知り合いだろうか。

 足早にその男性に近づいていって、挨拶も何もなく至近距離に入ったところで

「おおっと足がすべったぁ!」

 と言いながら紙袋をダイレクトシュート!

 弾ける紙袋!

 弧を描くように数メートル飛んでいく紙袋下半分!

 何が起こったのか理解出来ない男性は呆然と飛んでいく紙袋の下半分を眺めて佇むだけ!

 そして地面に叩き付けられ、袋から飛び出すビデオカメラ!

 ……ビデオカメラ?

「ああっすみません足がすべってしまいました!」

「いや、え、……え?」

 男性、謝られてもなお現状把握出来ず。

 うん、無理だろ。

 突然空から女の子が降ってくるくらいあり得ない展開だろこれ。なんで全力で蹴るんだ。

「ああっビデオカメラが飛び出てしまいましたね! 壊れていないかチェックしなければなりませんね!」

 何故かわざとらしくそういうとダッシュで飛んでいったビデオカメラに向かう三条さん。

「いや、いやいやいやいや!」

 三条さんがビデオカメラにかけよると男性が急に慌て出し追いかけた。しかしビデオカメラは彼女が先に手に取り、そのまま電源が入るかチェックを始めていた。

「ああ、よかったビデオカメラは壊れていませんね!」

「いやその、そうですね! ああいや別にそんな大丈夫ですから平気ですから!」

「いやいやデータも再生出来るか確認しなきゃ! 万が一壊れていたら大変ですから!」

「壊れてない方が大変なイヤですから大丈夫なんで! やめてくださいお願いします!」

 男性の慌てっぷりが加速し続け、そろそろ懇願の領域に達し始めたため悲壮感すら漂うようになってきたが、三条さん、慈悲はない。

 ビデオカメラは録画されていたデータを再生し始め、画面には、極端に低い位置から女性のスカートの中を映した映像が流れていた。紙袋の中に入っていたのは、つまりそういう理由だったのか。

「や、これは、そのですね……」

 顔面蒼白な男性はゆっくりと三条さんの方を向き、これ以上ないくらいの素敵な笑顔の彼女を見て、軽く安堵の吐息をもらした。

 しかしその安堵の表情も数秒と経たずに凍り付くことになる。

「ゼストの会場内では動画の撮影は禁止とさせて頂いております。一ギルティー」

 人間、本当に怖い物を見ると目を逸らす事が出来なくなってしまうんだなって、彼の身じろぎ一つせずに三条さんを見つめ続ける姿を見て思った。

「そしてもちろん、レイヤーさんの許可なく撮影される事は推奨される事ではありませんし、この映像は、コスプレをしていない人のスカートの中も映されていますよね? だってコスプレしていない私のスカートの中も映ってましたし」

 え、マジで?

 言葉に反応してビデオを覗いたがすでに再生はストップされていた上に三条さんに睨まれた。悪い事はするもんじゃない。ボクはそう心に誓う事にするよ。

「いや、その、それは、えー……」

「一般的にこれは隠し撮りという奴ですね?」

 隠し撮り男さん(仮名)には笑顔を崩さず、口調もやわらかいまま問いただす。知らない人が見たら男性からの質問に笑顔で答えているような、そんな普通の光景に見えそうだが、隠し撮り男さん(仮名)としては生きた心地がしないだろう。

「あの、ま、そういう風に見えなくもないというか、その」

 三条さんはビデオからSDカードを抜き出して胸ポケットに入れ、ビデオカメラだけを返却した。カードを奪い返そうとすると自動的に痴漢扱い出来るという周到な作戦と見た。こいつ……出来る。今更言うことでもないが。

「ちょっと本部まで来て頂けますか?」

「は、はい……」

 肩を落とした隠し撮り男さん(仮名)はそのまま三条さんについて歩き出す。

「ごめんね、鳥屋野くん。ちょっと急ぎの仕事ができちゃったから、あとは一人で好きに回ってて」

「ア、ハイ」

 つい敬語で答えてしまった。

「三時半になったら、本部に来てね」

 そう言って、三条さんは隠し撮り男さん(仮名)と一緒に展示ホールへ歩いていった。周辺では事の次第を見守っていた数人のコスプレイヤーとカメラマンがほっとした様子で散開していった。後で聞いたが、以前から怪しまれていて、ずっとマークされていた人らしい。


 一人、コスプレ会場に残された。好きに回ってもいいと言われても、目的は特にないんだよな。カメラ持ってるわけでもないし、三条さんのように不審な人をめざとく発見するようなスキルがあるわけでもないので、とにかく腕章による抑止効果を期待してブラブラしよう。

 改めて撮影会場を見渡すと、とても可愛い女の子が様々なコスチュームに包まれ、カメラマンの指示に合わせてポーズを取っている。

 場所は屋外とはいえ、しっかりしたポーズや大きなレンズをつけたカメラなどを見ていると、本格的な撮影会のように見える。モデルか何かかと思ってしまうようなスタイルの良い人や、びっくりするくらいの美人も普通に歩いてて、なんというか異世界感強い。

 もちろん全員がそういった本格的な衣装や撮影設備を持っているわけではなくて、多くはお手軽な衣装を携帯電話で撮影するような、そんなレベルだったりする。

 それでも、きっと楽しもうという気持ちに衣装のクオリティは関係ない。

 たくさんの人がこうやって楽しそうにしているのを見るのは良いものだな。それが、自分が多少なりとも運営に関わったものとなればなおさら。

「やあ、お疲れ」

 柄にもない事を考えていたら急に後ろから声をかけられた。ここに知り合いが来ているはずはないし、そもそも知り合いがほとんどいないので、声をかけてくる男性と言えば、まあ今日知り合った人くらいのものだ。

「あ、ど、どうも。ベンツ先生」

 改めて間近で見るとでかい。

 元々自分は背の高い方ではなく、もしかしたら三条さんよりもちょっと低いかもしれないくらいなんだけど、それでも三十センチ近い身長差のある人が身近にいるとは。

 身長もすごいがスキンヘッドとサングラスという外見も怖い。これで医者というのだから世の中わからん。

「そろそろレイヤーによっては引き上げ時だよ。今のうちに見ておくといい」

「え、あ、でも、まだ一時間近く時間ありますけど」

「着替える時間があるからね。これから更衣室と手荷物が忙しくなる」

 なるほど。閉場時間になってから着替え始めていては帰りが遅くなってしまうのは当然か。

「あ、えっと……、先生もコスプレを見に来たんですか?」

「ああ。知り合いも多いんでね」

 医者なんてやっていれば知り合いも増えるものだろうか。でも小児科って言ってなかったっけ。

 と思った所に突然ベンツ先生に何かがすごい勢いで向かって来た。

「せんせぇー!」

 どう見ても未就学児の女の子がベンツ先生に全力でジャンプして抱きついて来た。ちなみに女児に人気のアニメ、プリンセスファイトの主人公の衣装を着ている。これは新越でも日曜の朝に放映しているから僕も知ってる。

「おお? ももかちゃん! 元気にしてたかなぁ?」

「げんきぃー!」

 おまわりさんこっちです!

 いや、この場合はどうなるんだ。幼女からやってきた場合は、えーと……。

「あ、先生どうもいつもお世話になっておりますぅー」

 遅れてやってきた女性は、やっぱりプリンセスファイトの主人公だった。

「ああこりゃどうも。お元気そうでなによりです」

「先生のおかげで、どうもー」

 軽くこっちに目配せした後、しばらく二人のプリンセスファイト相手に会話を続け、やがて二人は展示ホールへ向かっていった。

「あれは、つまりももかちゃんという方が先生の担当した患者さんという事でよろしいので?」

「そういう事だ」

「会場にはそういう関係の人がまだ結構いるわけですか」

「ああ。こう見えて結構患者は多いんだ、ウチは」

 こう見えて。

 この言葉がこれほど見事に当てはまる状況を僕は他に知らない。先生はももかちゃんが入口に入って見えなくなるまで目で追い続け、完全に見えなくなった所でようやく体の向きを変えた。

「いやあ、良いね」

「……何がです?」

 突然先生は何を言い出す気だろうか。

「常日頃思うんだが、やっぱり人間は五頭身くらいの体型が一番美しいよ」

「はい?」

「美しいと思わないかね、あの無垢で健気な姿。そしてあの小さなサイズに内包された、無限の可能性を秘めた生命力!」

 ベンツ先生、低い割にはよく通った素敵なお声をお持ちでいらっしゃるので、テンションの上昇とともに声も張ってくる。ついにはオペラ歌手ばりの素敵な声量でとんでもないカミングアウトが始まってしまった。

「ああ、なんと美しい姿だろう! 私はあの姿を守るためなら何でもしよう! 私はそのために医者になったのだから!」

「せ、先生? 先生!」

 周りのコスプレイヤーが遠巻きながらもみんなこっち見てます! 怖い! 視線が怖い!

 一緒だと思われるのが怖い!

「あ、おお、すまん。少し取り乱してしまった」

 少しですか、今ので。

 とにかく視線を集め過ぎてしまったので逃げたい。二人とも見回りの腕章付けてるのにこんな事してて大丈夫なんだろうか。

「先生は、えー、いわゆるその、ロリって奴なんですか」

「そうだな!」

 きっぱり肯定した! 男らし過ぎる! しびれないし憧れないが!

「だが、勘違いしないで欲しいのだが、私は彼女らに対して性的な感情や興奮はないんだ」

「本当ですか?」

「当然だろう。あくまであの年齢の頃の美しさを見られる事が喜びなのだから。そしてあのくらいの年齢の子は抵抗力も低く、病気にもなりやすい。私は彼女らを医学の面から守る事で、美しさの維持の一端を担おうとしているのだよ」

「な、なるほど」

「小さな女の子を守る事で、彼女らは無事に、健やかに大人になるだろう。そうすれば彼女らはまた次の女の子を産み、育てる事が出来る。世界はそうやって回っているのだよ。そうする事で僕はいつでも小さな子を見守る事が出来るというわけさ。わかるかい、少女は、少女であるだけで、すでに永遠の存在なのだよ!」

 うん、わからん。

 いや、わかった。先生が本気なのは理解出来た。先生にしてみればこれは無償の愛に近いものなのだろう。

 別に僕は先生の趣味をとやかく言いたいわけじゃない。好きだと言う気持ちを止められるのは本人だけだ。犯罪に手を染めているわけでもなく、誰の迷惑もかけていない人を批難する権利は僕にはないし、する気もない。

 世界って、広いな。

 ただ、そう思った。

 しばらくベンツ先生と一緒に見回りをして、最近のアニメについて色々と教わったりしていた。作品がわかればコスプレイヤーのモチーフもわかってくるだろう。

 五月も終わろうかという時期だが、晴天に恵まれたおかげで気温はそれなりに高く、ずっと外にいると、それだけでも結構暑い。ずっとコスプレしたまま外にいる人たちはよく平気でいられるものだ。万が一の時にはここに医者がいるのだけど、幸いにして今日は必要とされる事態はなさそうだ。

「さて、もうすぐ時間だ。一旦本部に戻った方がいいんじゃないか」

 確かに、あと十五分ほどで終了の時間だ。

「じゃあ、僕戻りますんで。先生はどうするんです?」

「私はここの誘導をしばらく行うから、鳥屋野くんだけ先に戻ってもらえるかな」

 戻る人達の流れに乗って展示ホールへ戻り、本部に戻った時には三条さんは本部のマイクの前にいた。

 開会宣言を三条さんがやっていたのだから、閉会宣言も三条さんの担当という事なんだな。

「さあ、今回のゼストも残す所あとわずか! 楽しめましたでしょうか! やり残した事はないでしょうか! あってもなくても終了ですよ! じゃあ、行っきますよー!」

 何が始まるのかと思ったらカウントダウンだった。

 十から始まり、一つずつカウントを叫ぶと、会場中からも合わせて手拍子と共にかけ声があがる。

 九! 八! 七! 六! ……秒数が少なくなるほど三条さんのテンションが上がっていく。ただでさえ大きいのに声量も上昇する。

 五! 四! 三! ……三条さんのテンションに合わせて会場のかけ声の音量も上がっていく。なんのライブ会場だこれは。

 二! 一!

「ゼロォ! 皆さん本日はゼストのご参加本当にありがとうございました! また次回のゼストでお会いしましょうー!」

 三条さんの挨拶の後に会場から大きな拍手が巻き起こる。毎回こんなことやってんのか。鳴り止まない拍手と手を振って応える三条さん。本当にライブのフィナーレみたいな感じになってる。

 いや、ライブとか行った事ありませんけどね。

 イメージで言ってるだけですけどね。

「はい、じゃあそういう訳で次回は八月となりまーす。申込〆切とかは公式サイト見ておいてくださいねー。大体七月くらいだと思いますのでー」

 ハイテンションな三条さんの後に突然低いテンションのアナウンスが差し込まれた。びっくりしたのは僕だけで、あとは笑いが巻き起こっている。多分、ここまでがセットで一つのネタ扱いなんだろう。ライブかと思ったらお笑いライブだったのか。

 アナウンスをしたのは音響機器にずっといた、先輩と呼ばれていた人だ。なんとなく聞き覚えがあると思ったが、日中の案内アナウンスをほとんど彼女がやってたんだという事に気付いた。いつみてもあの場所に居たような気がするのだが、彼女はいつ休憩を取ったのだろうか。

「お疲れさま! コス会場、どうだった?」

「ベンツ先生がすごかった……」

「ああ……。そうね、彼は、本物だものね……」

「ですよね……」

 本物という言葉に凄い深みを感じた。確かに、あれを評する言葉はそれ以外に思い付かない。

「さて、もう少ししたら撤収始めるわよ」

 コミックゼストは無事終了したが、それはあくまで参加してくれていた人たちにとっての終了。ここからは運営する側が、会場を片付け、本当に終了するための時間が始まる。終わりの始まりってこういう時に使う言葉だったのか。

 委託販売会場からのっちさんが急ぎ足でやってきた。やはり撤収も彼女の指示に従うようだ。

 三条さんからマイクを受け取り、元気な声でアナウンスが始まった。

「それでは、これよりスタッフは撤収の準備に取りかかります!」

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