第6話 旅立ち
「そろそろ行こっか」
鈴はその背に大きめの荷物を掲げ、緋水を促す。
天気は良好。視界に映るのは森の木々達と木漏れ日を運ぶ青い空。
あてなき旅路の始まりには絶好といっても過言ではないシチュエーションだ。
しかし、そこに立つ緋水の表情は優れない。
「……やっぱり鈴は残るべきだよ」
これから続く旅路の事を考えると、どうしても彼には心配な事があるのだ。
「もう、またその話? 何回言ってもダメだよ。君がこの村から出て行くなら、絶対に私も付いていくんだから」
「でも……」
――煮え切らないなあ。
このやり取りは昨日の夜から延々と繰り返されているものであり、鈴が辟易してしまうのも無理はない。
あの日、『悪意ある存在』から襲撃を受けた二人は何とか一命を取り留め、それからは村の中で慎ましく日々の生活を送っていた。
理由はひとつ。緋水の怪我の状態が思いのほか悪かったためだ。
この村の住民は少ない。いや、少なくなってしまったというべきだろうか。
ある日を境にこの村の住民は次々と居を移しだし、残ったのは数えられる程度の人間のみだった。
ロクな医者もいなければ設備もないこの様な辺境で、鈴は誰に頼ることもなく、来る日も来る日も甲斐甲斐しく介抱を続けていた。
「ほんとに平気?」
「うん。もう動いても大丈夫そうだよ」
「そっか、うんうん、それなら良かった!」
緋水がまともに動けるようになるまでには、実に三ヶ月の期間を費やした。
鈴は舞い上がり、その日の夕食にはこれまで以上に腕を振るおうと、内心の喜びを隠そうともしなかった。
ちょっとした新妻気分だ。
しかし、それも束の間の幸せ。この後に続いた緋水の言葉は、それを完膚無きまでに叩きのめしてしまう。
「これも鈴のおかげだよ。本当にありがとう」
「そ、そんなあ、私は別に……」
「じゃあ、僕は明日にも村を出るよ」
「へっ!?」
寝耳に水とはこういった状態の事を言うのだろう。
鈴は一瞬呆けたかと思えば、すぐさま緋水の胸ぐらを掴み上げ怒涛のごとく詰め寄った。
「何でよ! 何でさ! どこをどう間違えたらそんな選択肢を選べるのよ!!!」
「ちょっ、ちょっと落ち着いて……」
「これが落ち着いていられるか!!! 人の幸せ人生計画を瞬く間にぶち壊しておいて何をのうのうと……」
残念な事に、緋水には鈴の言っている事がさっぱり理解できなかったのだが、これも彼の性分なのだろう。
彼は鈴の肩に手を置き、ゆっくりと自分の考えている気持ちを伝え始めたのだ。
――僕は此処にいるべきじゃない。
――あの『存在』は間違いなく僕を付け狙っている。
――そうなれば、次はきっと無事ではいられない。
――だから、僕はこの地を去ろうと思う。
それが彼の主張であり、そしてそれは鈴にとって最低最悪の選択肢に他ならなかった。
誰かの幸せを願うでもなく、自分以外の誰もが傷つかずに済まそうとする、自己犠牲にも満たない愚かな選択肢。
「ねえ、緋水はさあ、
「いや、知らない。あんなものは知らないし、覚えてもいない。けど……」
「けど、何? 分からないならそれで良いんだよ。全部を全部、緋水が一人で背負い込む必要なんかない」
「…………」
「絶対に間違ってるよ。緋水は絶対に間違ってる! だってそこには緋水の幸せがないんだもん!!!」
罵倒でもなく非難でもない、それはとても優しい叱咤だと言えるだろう。
鈴は緋水の顔を覗き込みながら、涙ながらにそう叫び続けた。でも……
「とは言っても、結局私に緋水は止められないんだろうね。君は、いっつもそうだ」
鈴には分かっていたのだ。
この程度の言葉で止められる様な人間なら、きっと彼はこんな事にはならかったんだろうと。
それは、記憶を失くした今も変わらない。
「まあ、世話が焼けるのはいまさらだよね。どうせ止めても駄目なら付いてくしかないか」
そうして至った結論がこれである。
これには流石に今まで静観していた緋水も異を唱え、押し問答の如く、そのやり取りは深夜にまで及んだという訳だ。
「鈴、君も見ただろう? あいつはきっと僕を狙ってくる。そうなれば……」
「もうその話はおしまい。これ以上言ったら蹴るよ? それに一人よりも二人の方が良いじゃない」
「そんな簡単な……」
「そんな簡単な話なんだよ。私は君と一緒にいたいと思う。それだけで――――理由としては十分だよ」
鈴は臆面もなくそう言ってのけ、緋水の言葉を遮ってしまう。
実はこれ、鈴にとってもなかなかに勇気のいる言葉だったのだが、緋水がそれに気づいた様子はない。
――まあいまさらこの朴念仁に何を期待しても無駄かあ。
鈴は頭の中でそう愚痴ると両の頬を力いっぱい叩きつけ、街道を指差しこう口にする。
「取り敢えずは街を転々としよ? ここでウジウジしてたってしょうがないじゃん」
「……結局は付いてくるんだね」
「あたりまえだよ。だって……」
――だって、私は君を守ると決めたんだから。
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