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文月羽琉
第1話 琥珀色の日常
今日も変わらず朝は来る。大きなあくびとともに伸びをして起き上がった。ここは私立
「
同じいろは荘の住人の奇行を除けば。勝手に表札に四条と書かれた隣の家のドアを開ける。新聞が無かったし1度鍵を開けて取りに出たはずだ。
「おはよう、
「…まだパジャマ姿のまま写真集見ながらヨダレ垂らしてるやつに言われたくないよ。」
俺の隣の部屋で同じ学年の女子、四条浅葱は写真集をめくりながら俺に向かって手を振った。
「朝飯は?」
「もう食べた。…着替えてくるからこれとこれと、この写真集カバンの中に入れておいてくれないか。」
「わかった。早く着替えてこい。」
放っておいても、もちろん問題はないのだが、放っておいてもおかなくてもデメリットしかないので世話を焼いてしまうのは仕方の無いことだと思いたい。
「…写真集って、
洗面台のところで着替えてるであろう浅葱に向かって叫ぶ。
「違う。神咲理咲子じゃなくて、大山優奈だ。ぁ、悪い、ABC59の特典写真集も頼む。」
言われた通り大山優奈の写真集を手に取りカバンの中に突っ込む。やはり写真集4冊は重い。いくらか軽いはずの特典写真集も普通より重い写真集のせいでプラマイはゼロだ。
「よし、行くぞ~。」
「ぁ!おい、浅葱、お前もネクタイ曲がってるし、ボタンかけ違ってるから、」
「な、」
ぱぱっと、ネクタイとボタンを直すとドヤ顔で、俺の方を向き得意げに話す。
「何も問題ないが?」
「はいはい。」
浅葱の荷物を持って先に外へと出ていく。出て階段の方を向くと3年生の先輩が立っていた。先輩は表札に緑川と書かれた部屋の前でじっと待っていたが、こちらに気づいて手を振る。
「おはよう、コウくん。あさちゃんも。」
「おはようございます、桜先輩。」
「桜先輩、
タメ口で聞く浅葱を思い切り肘でつつく。下手くそな敬語がその後に付け足された。
「ふふ、そうなの。そろそろ来ると思うんだけどね…。」
「おはよ、桜…、げ、何でお前らいるんだよ。」
開口一番俺たちへの文句とは蒼先輩らしい。
「蒼先輩おはよ。学校行くからだよ、です。」
また、タメ口になった浅葱をつつく。もちろんへたくそな敬語、ですが付け加えられる。
「あ、あさ、これやる。
「ありがとうございます!!やったー!琥珀、これかばん入れて。」
俺の方を向いてもう既に4つ写真集が入ったカバンに入れるように指示する。ちなみに持つのは俺だ。それでも黙って前原敦美の写真集を受け取りリュックに入れてやる。
「重くね、それ。」
「もちろん、重いですよ。」
「荷物持ちは大変だな。」
自分のリュックと、写真集と筆記具が入っただけなのにとてつもなく重い浅葱のカバン。両方持つことになれてきている自分も辛い。
「蒼先輩は桜先輩の荷物、持たないの?ですか?」
また、軽く浅葱をつつく。慌てて付け足された不可解な語尾は変わらない。
「…お前、敬語使うの下手だな。」
「だって、蒼兄も桜ちゃんも小学校の頃からの付き合いだし…です。」
たまたまこの3人は地元が近いらしく、元々はタメ口で話すような仲だったらしい。なのにも関わらず、今は敬語を使わせようと先輩達2人が頑張っている。そして、この2人からの協力要請のせいで俺はこんなふうに浅葱のフォローをするハメになっている。
「あはは、あさちゃんがそうやって呼ぶの久しぶりね。」
「ぁ、」
「まぁ、少しくらいは見逃してやるから。…って言っても甘えんなよ?!基本的な敬語くらい使えるようになれ、常識だぞ!」
このふたりは桜先輩が甘くて蒼先輩が厳しいことでアメとムチを保っている。でも二人共俺達をただ甘やかすんでもなくただ厳しくするのでもなく、いつも後輩である俺達のことを心配して世話を焼いてくれているんだろう。
「なーに、にやにやしてんだ?コウ?エロいことでも考えてたかぁ〜?」
「なっ、朝からそんな事言わないでください蒼先輩!」
「わりーわりー。」
謝る気は全然ないだろう。それがこの先輩だ。厳しいのに、人をからかうことも多くて、真面目なのに、そうは見せなくて。なかなかに隠すのがうまいんだろうな。
「…なぁ、琥珀、今日私たち、日直だぞ?」
朝とはいえ、7月は暑い。夏服の裾を揺らしながら、汗をかきながらも軽々と走る浅葱と重たい荷物を抱えて全力で汗だくになりながら走る俺。対照的すぎて、自分でも笑えてくる、わけはなかった。
汗をダラダラと流したまま入る教室はエアコンが効いていて少し寒いだろう。カーディガンを腰に巻いている浅葱はそれを着ることもできるが、残念なことに男子はカーディガンが用意されていないため汗をふいて耐えるしかない。しかし、ここは廊下であり、教室みたく涼しい、なんてことはありえない。職員室まではまだまだ距離があるし蒸し暑い。
「高校生にもなって、日直が男女二人組とはな。」
「こっちもお断りだっての。…でも、琥珀みたいな身長のある男子はいいな!黒板を消す時にも高いところのものをとる時に便利だ。脚立いらずだな!」
なんだか複雑に感じるのは、気のせいだと思いたい。
「俺らのクラスだけ日直は朝早くきて鍵を開けて先生に時間割変更がないかを聞いて黒板を綺麗にしておくっておかしくね…。」
「あぁ、担任が面倒なんだろうな。おーどーだ!」
「王道…?」
謎の自信満々な言葉につい、首をかしげる。
「権力を使って私たちに勝手気ままに仕事を押し付けてるじゃないか。」
「あぁ、横暴な。王道だと全く別の意味になるから。」
国語は苦手だとは聞いていたがここまでとは…。そして、キョトンとした顔。事実だと思って疑ってなかったようだ。
「お、横暴って私、ちゃんと言ったぞ…!!」
いかにもやばい、間違えたなんて顔をしているのでつい噴き出してしまう。
「な、何が面白いんだ!」
「分かってなかったことバレバレ。あ、俺、担任探すから鍵とって先行ってて。」
「あ、うん。」
さーっと職員室を見渡す。まだ来てないってことは無いだろう。前からわかってる出張なら前日に言われるし、休みならメールが来る、らしい。しかし、それもない。
「あ、おはよう、馬村。悪い。トイレ行ってた。」
「おはようございます。時間割変更ありますか?」
「いや特にない。あとこれ、四条に渡しといて。」
担任が俺になにか封筒を渡す。
「写真部の中間展示の時の写真。上手く剥がせなかったやつとかもう一回現像したからって言っといて。」
文化部の中でも美術部、写真部、文芸部などの部活は活動報告として、学期ごとの中間に中間展示と称された作品展示が行われる。二学期は文化祭が中間展示となる。
「あぁ、はい。わかりました。」
担任である
「失礼しました。」
「遅いぞ、琥珀。」
職員室のドアを開けてすぐ。鍵を持って先に行ったはずの浅葱が壁に持たれて立っていた。荷物は下に置いてある。職員室に入る前に手渡したので、わざわざ置いて待っていたらしい。
「先に行けば良かったのに。」
「写真集でカバンが重いんだ。」
「そりゃそうだろ。5冊は多いに決まってる。」
置いてある荷物を持って、歩き出す。一瞬びっくりしたらしい浅葱がちょっと小走りで横に並んだ。小さな背が小さな頭がちょこちょこ、と効果音があてはまりそうに歩いていた。
「これ、坂口から。中間展示の写真だってさ。」
「あぁ、あれか。ありがとな。」
浅葱が受け取って写真を見る。空、川、自然ばかりの中に一つだけ後ろ姿の写真がある。
「何だ?」
「見覚えのある後ろ姿だな、と。桜先輩と蒼先輩か。」
「おぅ。影絵欲しいなって思って!ちゃんとふたりには許可もらったぞ!」
自慢げに笑う浅葱の笑顔がなんだか可愛く見えた。…可愛く…?いやいや、そんな訳はない。
「師匠~。」
浅葱はクラスの男子から師匠、女子からは、あっさー、と呼ばれ親しまれている。男女ともに浅葱には話しかけやすいらしく、今、男女の間の架け橋となっているのは浅葱だと言っても過言ではない。しかし、浅葱自体はクラスの中心人物になる気も、中心にいたいわけでもないらしい。たまに面倒なんだろう。写真集を頭にかぶせ寝たふりをしていることがある。
「おはよう。鍵が遅くなってごめんな。」
「いいよ、それより先週のグラビアの切り抜き持ってきたけど、いる?」
クラスの男子がカバンから出して見せたファイルを受け取って、じっくりと眺める。ヨダレがダラダラ垂れている。
「師匠はわかりやすいな〜。それ、ファイルごとあげる。」
苦笑しながらファイルを指して笑う。いつもの事のため、あまり気にしてないらしい。
「ありがとう!でもファイルは返すからちょっと待ってよ。」
鍵を開けて教室に入って、ファイルから丁寧に切り抜きを出して、ファイルを返した。そして、俺が持っていたカバンを椅子に置き自分が持っていた空のファイルに入れる。帰ったらきっとコレクションファイルに入れ直すんだろう。
「うへへ〜。」
これが女子の笑い方といってもいいのだろうか。グラビアを見てヨダレを垂らしてる。
「師匠相変わらずだな!ヨダレ垂れてるぞ〜。」
「あっさー、これ読み終わった雑誌!いる?」
漫画雑誌のグラビアの切り抜き、ファッション誌、アイドル雑誌、声優雑誌、写真、があるものを毎日のようにみんなが持ってくる。ちょっとした貢物のようだ。
「おはよ、大師匠。朝から師匠囲まれてんな〜。」
「おはよう、大師匠言うの辞めろ。」
「琥珀、これやる。」
クラスメートにぱっと差し出されたのは美術館の割引券。しかも2枚。割引された2枚を含めた3枚分を3人で割り勘して美術部で行くのも可能だし、ひとりで2回も可能だ。それから…浅葱を誘ってふたりで行くという手も無きにしもあらずだろう。
「いいのか、もらっても?」
「俺の家、美術館好きなやついなくてさ。どうせ余るなら美術が好きなやつに行ってもらいたいし。」
「さんきゅ!」
素直に嬉しくなって、すぐさま財布に割引券をしまう。ちょうど、美術館に行きたいと思っていたんだ。
「あ、あとこれ、師匠に渡しといて。姉貴が買ってた雑誌なんだけど。」
「わかった。」
今日の帰りも荷物は重いんだろう。みんながくれる雑誌に切り抜き。どこに保存してるんだろうか。ワンルームのあの部屋にそんなに収納スペースはない。だとしたら実家か。いつも気になっている。あの大量の写真集はどこから出てくるのか。
「おはよう、ホームルームするから席つけ~。」
坂口が欠伸しながら入ってくる。いつも通りの坂口がいつも通りの朝礼を始める。窓の外を眺めると何もないグラウンドだけが広がっていた。
授業も普段と同じように進んでいく。平凡で平和な日々はあくびが出るくらいにはつまらなくて、でも知らずに笑うくらいには楽しいのだろう。
「おい、馬村。ぼーっとしてんなよ。」
授業中だったことを忘れていた、とは言えない。
「すみません。」
平謝りも一部の日常。俺よりも前の席の浅葱がぱっと振り向いて、ばーか、と口パクして笑った。うるせぇ、と口パクしたところで浅葱はきちんと前を向いた。…あれ、浅葱あいつ教科書見てない。写真集を広げてやがる。だいたい真ん中あたりの席なのでバレてなさそうだが不安しかない。ハラハラとただ浅葱を見守った。あれは、今日持ってきた写真集だろうか。男達の黒い肌が見えるからきっと筋肉祭りだ。はぁ、とため息を一つこぼし、ノートに向かい合う。何とか板書を写し、話を聞こうとは努力する。授業中の先生の声は子守唄にしかならない。いつの間にかノートにはミミズが這う。諦めてノートを閉じるわけにもいかずに、なんとか目をこすり、また眠りかける。…昨日何かいいテレビでもしてたっけ…?夜中まで起きてた覚えがある。いや、覚えがある程度じゃない。確かに夜ふかしをした。こうも寝かけているのだから当たり前か。
「大師匠、寝てたでしょ、わかんないとこ教えてもらおうと思ったのに~。」
前の席の女子がくるっと回って俺にいう。その声に次々と、え、という声が聞こえてくる。浅葱もその1人だ。
「嘘だろ、琥珀!」
「残念なことにほんとだ。寝てた。それより大師匠やめろ。」
大師匠なんて呼ばれて気恥しい以外なんとも言えない。
「…仕方ないか。嫌だけどあの人に頼ることにするよ。」
本当に嫌そうなため息を一日中ついたまま、授業が終わった。
「こんにちは、」
美術室に入る。弱小文化部である美術部と写真部は美術室を部室として使っている。絵の具の匂いがつんと鼻をくすめた。
「やっほー、コウにあさ〜。」
「こんにちは、遅かったね。日直?」
正反対の挨拶がこちらに向けられる。可愛らしく手を振りながらスマホから目を離さないしお先輩に絵の具の準備をしていた手を止めてこちらにニコッと笑いかけてくれるあかね先輩。全く正反対だ。
「しお先輩、英語教えて!ください!」
「…え、また?」
手を口に当てて大げさに驚いている。可愛らしく見えるけど、しお先輩は男だ。少し長い髪と低い背と萌え袖。制服がズボンでなかったら確実に女に見えるだろう見た目。外面はものすごくいい。ただ…身内に見せる性格は最悪だ。
「人にモノを頼む時の態度は、教えたよねぇ?」
「お、お願い致します!!」
浅葱が勢いよく土下座する。
「こら、
普段はぽわんと雰囲気の優しいあかね先輩がしお先輩にはきつい言葉も平気でいう。さすが幼なじみと言うべきか。
「あかね、邪魔しないでよっ。優等生は言うことが堅いんだから。」
「はいはい、ごめんなさい。紫音ったら本当に悪趣味なんだから。」
サッとあしらうように言葉を返して、あかね先輩はまた準備に取り掛かる。描きかけの絵はまだ完成には程遠いらしい。毎日真面目に色を塗り重ねている。
「ぁ、コウくん。桜先輩が間違えてコウくんの画材使っちゃったって。今買いに走ってるよ。」
そんな、別に気にしないでいいのに、と言えば、あかね先輩が正論を返す。
「あたしらはほぼ自費で出してるんだから、部費で買ったものは共同だけど自費のものまで共用にしたらメリハリつかなくなっちゃう。」
はい、と頷いて写真部のふたりをこっそり見ると、何故か写真集をふたりしてのぞき込んでいた。
「ふへへ、この大山優奈たまりませんなぁ…この、ポージングはもちろんだけど光の具合とか、」
「えぇ?!前原敦美の方がいいって。」
「なるほど。しお先輩は貧乳派なんだ、です。」
…まだ、15:30。昼間だ。おやつの時間が少し過ぎたくらいの時間だ。
「あれ、でもあかね先輩はきょ」
「あさちゃん!黙って!!」
顔を真っ赤にさせてあかね先輩は浅葱の話を遮った。しかし言いたいことはわかってる。聞いてないふりをするしかない。他にどんな逃げ方があるのか、いや、他にはない。俺の顔が赤くなってないことを祈るばかりだ。
「僕は美乳派です。大きさより、か・た・ち!大山優奈垂れそうだもん。」
「前原敦美、胸なんてほぼないじゃん、ですよ〜」
ぱっと思い浮かぶのが恥ずかしい。
「まだ昼間だぞ、おふたりさん。あさも紫音もここにはお前ら以外もいるんだからな。それからあさ、期末大丈夫なのか?追試なかったか?」
追試は夏休み三日前。それに合格しないともれなく夏休みはお盆休みと日曜日を除いてほぼ毎日補習となる。中間テストの時はなんとか放課後と土曜に行われる補習を受けずに済んでいたが、今回はどうなのだろうか。
「僕が前にテスト問題と浅葱の答えのメモを見る限り、現代文、古典、数Ⅰ、数A、
基本的には平均点の半分以下が追試の対象となる。しお先輩によると浅葱は中間テスト同様現代文、古典、英語が赤点対象となっている。
「ぁ、大正解だよ!です。しお先輩。」
「大正解!じゃないよ、ばかあさ。僕テスト前に教えたよね?」
あ、あははと頭を掻きながら困ったように笑う浅葱にしお先輩は追い討ちをかける。
「蒼ちん先輩もさくちん先輩もあかねもコウも総出で教えた気がするんだけど?」
途端に、蒼先輩とあかね先輩、そして俺が頷く。俺も教えてもらったとはいえ全員で張り付いて浅葱に勉強させたのも事実で、あんなに勉強したのに覚えてないとは、教えたこちら側もショックだ。
「だって、英語は母国語じゃないし、古典なんて何語なのかもわかんないんだもん。です」
いつもの少し硬い雰囲気が抜けたいじけたようなしゃべり方が何だかおかしい。だが、その言葉遣いに笑える暇はない。
「あさ。お前の母国語は何なんだ。」
「日本語だ、です。」
あ、もう無理だ。手遅れだ。
「追試ってどんな問題出るんでしたっけ、蒼ちん先輩。」
「はぁ?知るかよ。」
学年順位トップクラスのしお先輩と、上位の蒼先輩が追試の仕組みなんてわかるわけないか。
「浅葱受けるの二回目だろ。前回どうだったんだよ。」
「まったく同じ問題で60点以上。」
ぱっと浅葱の点数を思い出す。暗記が必要な教科の現社と生物はなかなかの点数だ。丸暗記すれば何とかなるかもしれない。幸いにも追試まであと、2日はある。もう無理だ、なんてことは無いだろう。
「ただいま〜。」
空気をぶち壊すような鼻歌でご機嫌よく桜先輩が入ってくる。朝あった時よりも元気なのは、何故だろう。
「あれ、桜入ってきたらダメな雰囲気だった?」
はてなマークが頭の上に浮かんでそうな顔で俺達に話しかける。
「あさちゃんのテストですよ。桜先輩。」
「…あさちゃんまた英語?」
浅葱が桜先輩から顔を背ける。それを肯定と取ったらしい。桜先輩が珍しくため息をつく。
「とりあえず部活の時間だから部活をしましょう。あさちゃんあとで覚悟しといてね。」
浅葱の顔ががさっと青ざめたのは気の所為じゃない。その証拠に少し手が震えている。
「コウくん。絵の具間違えて使っちゃったからこれ。使っちゃった方は桜が使わせてもらうね?」
「別に気にしなくても良かったですよ?」
「一種の伝統みたいなものだし、桜自身ちょうど欲しい色もあったから。ね。」
どうやら黙って受け取れという事らしい。ありがとうございます、と一言行って受け取る。
「桜先輩は絵、完成したんですか?」
「…あ、は、は?」
曖昧な笑い方は絵が完成どころか、全然進んでいない証拠だろう。もしかして、色を塗り始めたくらいか。珍しく風景画を描きたいなんて言ってたしな。
「ほら、桜先輩、早く進めないと蒼先輩といる時間が減りますよ。」
「それは困る…!」
キャンパスを取り出してきて、急いで広げる。
「桜…それ終わる?」
俺達の会話が聞こえてきて気になったらしい蒼先輩が桜先輩の絵をのぞき込む。その言葉に、俺とあかね先輩も桜先輩の絵をのぞき込む。下書きが終わっていない。
「終わらせる…。って、あっちゃんもコウくんもどうなの?」
「あたしは色塗り始めてますよ。それに、文化祭の美術部展示、3枚じゃ物足りないじゃないですか。」
「俺も色塗りしてますよ。」
えぇ、と文句と絶句が混じったような桜先輩の態度が自分より年下の女の子を見てるような感覚に陥る。文化祭のための作品を最低でも二作は作りたい。そう思ったら、夏休み中にもう1枚は絵を描きたい、という事になる。
「さくちん先輩、ばかあさに説教してる暇ないんじゃないですか~?お説教なら僕に任せてくれてもいいんですよ?」
「そういう紫音はどうなんだ?」
「僕はもう何個かピックアップしてますよ。ピンッてきた時に撮らなきゃですからね~。」
写真部の三人の写真は全く系統が違う。蒼先輩は一番綺麗に撮れる場所で一番きれいに撮れる時間に、なんて計算してから写真を撮る。しお先輩は感覚的、瞬間的に撮る。それが授業中であろうと、だ。浅葱はその中間で、両方あるのだが景色より人や動物の写真の方が多い気がする。動いているものの、その一瞬を捉える、その瞬間が好きだと前に言っていた。とは言いつつも、感覚的に撮ることや、計算して撮ることも多いので、とにかく写真であればなんでもいいんでは、と最近は思うようになった。どちらかといえば、浅葱はしお先輩よりだ。
「で、あさ、毎日英単語見るようにって、僕がわざわざ単語帳作ったよね?どこにある?」
「…か、鞄の中に。」
「ふーん…。コウ、鞄開けて。どうせ今日もカバン準備したのコウでしょ。」
逆らったら怖い。浅葱のやめてくれという表情を感じ取りながら、しお先輩の早く開けろという目線を感じながら、仕方なく鞄を開ける。
「大山優奈と前原敦美だけじゃなくて、ABCの特典写真集に筋肉祭りにscreamの5つ。あと筆箱と財布…。どういうことかなぁ?ばかあさ?」
単語帳は入っていない。
「単語帳はそんなに重くないと思うんだよね。ばかあさ。そんなに重いのもちたいなら、広辞苑と英和辞典と和英辞典毎日持って歩く?」
しお先輩の笑みに浅葱が泣きそうになりながら首を横に降る。
「今度また持ってなかったら、僕はもう助けないからね。」
流石にこの言葉には誰も反論しなかった。しお先輩の怒りも最もだ。まあ、諦めろとでも言うような顔で皆が浅葱を見る。しお先輩は絶対に有言実行する。
「うう、気をつける、です。」
「わかればよろしい、なんて言わないよ。当たり前のことなんだから。ほんと、あさはバカなんだから。」
あまりにもバカが多い。そのためか浅葱の拳が少し震えていて、唇がきゅっと結ばれている。
「ちょっと、バカって言い過ぎだ。しお。」
「本当のことじゃないですか。当たり前のことをやらないでできない奴をバカと言わずになんというんですか。当たり前のこともやらずにできない助けてなんて虫が良すぎます。」
正論は時として人を傷つけるという。今をそうだと言わずなんといおう。まるっきり正論のしお先輩だが、浅葱がテスト前は写真集を見つめる時間を減らして頑張っていた事実も知ってる。
「…蒼兄、今日はちょっと帰るね。」
小さく、泣きそうな声で俺達に背を向けたまま放った。カバンは当たり前のように置いていく。後で持っていくしかないか。
「…失敗した。ごめん。」
しお先輩が俺達に謝った。なんとも珍しいことが起こるもんだ。
「どういう意図だったんだよ。」
「んー?蒼ちん先輩聞きたい?」
「妹分泣かされて黙ってられるか。」
はぁ、と大きなため息をついて蒼先輩がしお先輩の向かい側に座った。俺達は黙って絵を描くしかなかった。
「みんなあさには甘いから。僕くらい厳しくしとかないと、と思ったんですよ。それに気の強い子だと思ってたから、僕に怒りを覚えてやるかなって。」
「…気が弱い訳では無いけどな…。あいつもいろいろあって、」
「そのいろいろってなに。」
しお先輩の敬語が外れて真っ直ぐに蒼先輩を見つめていた。桜先輩もあかね先輩も筆を置いている。
「…おいおい話す。」
「…ふーん。」
とりあえず話はまとまったらしい。桜先輩もあかね先輩も筆をまた動かし始めた。
「…でも蒼があさちゃんに過保護なのは本当のことよね。あさちゃんのお家も複雑なところあったし…。」
「桜。」
蒼先輩が桜先輩の名前を低い声で呼んだ。桜先輩は言いすぎた、とばかりに口をつぐんだ。
「ごめんなさい。」
いろは荘の暗黙のルールの一つ。必要以上にお互いの家族のことは語らない。それが破られる日はまだまだ先のことでありたい。
昨日泣いていたであろう浅葱を朝迎えに行く。カバンは、届けたもののきちんとは顔を見ていなかったので心配だ。
「おはよ、浅葱?」
「おはよう、琥珀。…もう出れるぞ」
今までなら写真集を見て涎を垂らしていた時間だ。浅葱は机について単語帳をめくっていた。カバンも俺が持とうとするとするりと俺の手を避けるように自分で持った。
「…追試、絶対に受かってしお先輩に謝るまでは写真集封印する。」
何も聞いていないはずなのに浅葱がそう告げたのは俺の目がそう聞きたそうにしていたのかも知れない。
「写真集封印までしなくていいんじゃないか?」
「けじめだから。」
英単語帳を捲りながら、歩いてくる。
「ストップ。歩きながらは危ないからやめろ。あと、これ。今回の国語と英語のテスト問題、俺なりにまとめといたから丸暗記して。」
答えと少しの解説と、そんなことを夜中ずっとやっていたから今日もまた寝不足だ。
「…ありがとう。琥珀。」
「ん。それより、行くぞ。」
朝も、部活中も浅葱としお先輩は話さなかった。いつもならどこか写真に対して同じような変態性で盛り上がるのだが、今日だけは目もあっていなかったように見えた。いつもの喧嘩ならどちらも1日で忘れていることが多いのだが、今回は浅葱もしお先輩も忘れられないらしい。そんな状態のまま、追試の返却日を迎えた。
「琥珀、やったぞ!」
「おめでとう」
丸暗記はできるんだな、とは言わないでおく。
「し、しお先輩!」
浅葱の大きな声が響いた。そして、ぱっと頭を下げる。
「すみませんでしたっ!」
「…なんのこと?僕が作った単語帳見てなかったこと?」
なんのこと?なんて、わざとらしい。本当はわかってるはずなのに、わざとわかっていないふりをする。
「それもだけど、カバンの中にいれてるって、嘘ついたことも、です。」
「…やればできるんだからさ、最初からやりなよ。まあ今回は写真集までたってたみたいだし、僕も言い過ぎたし、両成敗ってことで。…お、おつかれ…」
言い過ぎたと言っても謝ったりはしないあたりがとてもしお先輩らしい。最後の言葉で浅葱を気遣ってるのがわかる。なんだかんだでずっと気になっていたのだろう。この人も全く素直じゃない。でも本質は蒼先輩や桜先輩と同じように俺達を見守ってくれているんだろう。
「蒼兄~、桜ちゃん、あかね先輩~!合格したよー!です。」
テンションが上がっているのか、いつも以上に下手な敬語で、ギリギリの点数の追試を掲げて和の中へと入っていく。これで夏休みは無事に過ごせるだろう。ほっとしたため息と、夏休みへの期待を持って、俺も輪の中へと入っていった。
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