Ⅶ 月光

Ⅶ-1

 太一が玄関を出ていった途端に、幸也は後ろの階段を駆け上がってしまった。

 その後ろ姿を優しい眼で見送った真由美はリビングに戻ってソファに座り、壁際に置いてある電話とにらめっこしながら佳代に今日のことをどう伝えようかと思案した。


 佳代は幸也が帰ってくるのを待っているはずである。あんまり時間があいてしまっては、せっかくやり直そうと決心した佳代の心がぐらついてしまわないか心配だ。時間がたてば不安を抱えた決意というものは萎えてしまうものだから。


 しばらく思い悩んだ末、ありのままを伝えるのが一番いいだろうという結論に達して、電話の前に立った。


 受話器をとって一つ深呼吸をし、気持ちを落ち着ける。佳代のことは今まで苦手だったので、電話ひとつするのにもなんとなく緊張する。昨日の佳代の笑顔を思い浮かべ、もう一度深呼吸をしてから電話をかける。


 と、一回のコールですぐに佳代が出た。


 真由美は、帰りの遅い幸也を待っていたであろう佳代の気持ちを察して、申し訳なく思う。家に帰ったときにすぐ──あるいは幸也を探していたときにでも一度電話をいれておくべきだったと後悔する。


「連絡するのが遅くなってしまってすみません」


 最初に謝ってから、その理由を順を追って話した。佳代はただ黙って時々相槌を打ちながら聞いていたが、真由美が話し終わると優しい口調で言った。


「真由美ちゃん、謝らないで。私にそんなに気をつかわなくっていいのよ。あなたが謝る必要なんて全然ないわ」

「……でも」 

「あなたはいつだって幸也のことをとても大切に考えてくれていたから、私も安心してあなたに任せていられたのよ。あなたに、甘えてしまってたんでしょうね」


 受話器越しに伝わるぬくもりのある声音に安心する。


「私と幸也のことは、すぐに和解──っていうと変かしらね、……打ち解けるのは難しいかもしれないわ。時間がかかると思うの」

「それは多分そうですけど」

「私自身もね、気持ちの上では前向きになったつもりだけど、あの子を前にしてちゃんとそれを伝えられるかどうか、はっきり言って自信があるわけじゃないのよ」


 昨日、大丈夫だと言って帰ったけど、やっぱり不安だったんだ。


「でも、幸也は絶対わかってくれます」

「そうだといいわね。でも……問題は私の方にもあるのよ」

「え?」

「あの子が近くにくると、息が止まりそうになるの。それは意識して変えることができるのかどうか。自分でもわからないの」

「…………」

「あの子にしても、急に態度を変えることなんてできないと思うわ」

「確かに、……すぐには」

「でもね、私は気長に待つつもりなの。だから、私のことは気にしないで。これからもあなたの思う通りにしてちょうだい」


 とても、とても穏やかな声。佳代の落ち着きが伝わってくる。


「ただ、あなたの負担になるようなことだけはしないでね。今までだって甘えすぎるほど甘えていたんですもの、今更って思うかもしれないけど、また熱を出してしまったりしたら、こちらの方が申し訳なくって」

「いえ、そんな。あれは単なるあたしの不注意です。自己管理ができなかった自分の責任で、幸也のせいとかじゃないんです。本当に」


 慌てて否定する真由美に受話器越しにくすくす笑いながら言う。


「そうね。そうかもしれないわね。でも、無理はしないでね」

「はい」


 真由美は素直に答えながら、一瞬自分が誰と話をしているのかわからなくなるような気がした。

 昨日、鮮やかに生まれ変わったような佳代を見ていたとはいえ、受話器の向こうでくすくす笑いながら話す彼女は、本当に今までの彼女のイメージからかけはなれている。


「幸也がまだ興奮しているようだったら、うちへ帰らせるのは明日でもいいのよ。そちらでお邪魔でないのなら。明日は土曜日だし、真由美ちゃんが忙しくないのなら、一緒に来てくれると嬉しいわ」

「はい、行きます」


 真由美は即答した。本当は部活があったけど、こっちの方が大事だ。


「ありがとう。本当はね、昨日帰るとき『大丈夫』なんて言ったけど、内心とっても心細かったの。真由美ちゃんが一緒だととても心強いわ」

「そんな。あたしなんてなんの役にも立たないです。ただ幸也を見ているだけしかできなくって。自分が歯痒いんです」

「いいえ、あなたの力はたいしたものよ。あなたのおかげですもの。私がこうして決心できたのは」


 佳代はきっぱりと言い切った。


「あなたはどこかやよいおばあちゃんに似てるわね。人を包み込む雰囲気とでもいうのかしら。背中を押してくれる力みたいなのがあって、一緒にいるだけで勇気が湧いてくるわ」


 なんと答えていいのかわからず真由美が困って黙っていると、佳代はさらに続けた。


「明日、ぜひ来てちょうだいね。幸也に本心を話すときに、ついていてもらいたいの。私が、ちゃんと今の気持ちを伝えられるように」

「あたしでお役に立てるなら」

「お願いね」


 真由美は佳代の言葉が嬉しくてならなかった。自分が少しでも必要とされていると聞くと、自信が湧いてくる。

 その上、佳代は真由美が弥生おばあちゃんに似ているとまで言ってくれたのだ。


 弥生は真由美の理想である。


 いつかあんな風になれたら。


 そう思っている真由美にとって弥生に少しでも似ていると言われることはとても嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、電話を切ってからもしばらく顔が綻んでいた。

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