Ⅳ-3
「ほんとに笑顔をなくしちゃったんだねぇ、あの子は……。笑うと天使みたいだったんだけど」
風呂からあがってきた真由美が前に座ると、帳簿をつけていた八重子は顔をあげてしみじみと懐かしむように言った。
「……あたしがちゃんと、ずっと側についていてあげてたら」
「あんたがまた自分を責めてどうするの」
苦笑して真由美の頭を撫でてやる。
「私はね、これで良かったと思っているんだよ。あのままあんたがつきっきりになってあげていたら、あの子はあんたに頼りきってなんにも一人でできない子になってしまったかもしれないからね」
まだ湯気のあがるコーヒーを一口飲んで、マグカップを両手で包み込む。
「自分の力の及ばないことがあるときは人に頼ることも必要だけど、一人の人に寄りかかり過ぎてしまうと自分で何とかしようとしなくなってしまうでしょう? 自分を甘やかすことを教えるのではなく、自分で頑張れるところまで手をひいていってあげるのが、あんたの役目なんだよ」
朱里と似たようなこと言ってる。
つまりあたしは、幸也を溺愛しすぎてたんだなぁ。いつの間にか過保護になってしまってたんだ。
「佳代さんも変わる努力をするって言っていたし、あの子はこれからね。わだかまりは大きいけど、それを乗り越えてお互いをわかりあえたら──そしてあの子自身が自分の力を認められたら、あの子はとても優しく強い子になるでしょうよ。もともと感受性の強い素直な子だから」
八重子はもう一度コーヒーに口をつけ、片手を真由美の頬に伸ばした。
「あんたはあの子を広い世界にひっぱりだしてやりなさい。心配なんてしなくてもいいの。まだ歩けないような赤ん坊でも海に放り込まれたら自力で泳ごうと手足を動かすんだから。突き放してしまうのではなく、幸ちゃんが自力で泳ぎ始められるまで、見守っていてあげたらいいの」
ぺしぺしと頬を叩く。
「うん」
真由美は即座に頷いた。自分に頼らせるのではなく、見守りながらひっぱっていく、なんて難しいことが果たして自分にできるのかどうかわからないけど、とにかくやってみよう、自分にできる限りのことはしてみようという意気込みだけはあった。
「……さぁ、あんたももう寝なさい。風邪がぶり返さないように暖かくしてね」
「は~い。おやすみなさい」
「おやすみ」
素直に返事をして二階へあがり、そのまま自分の部屋に入りかけた真由美は、幸也の部屋の隙間から灯りが漏れているのに気づいて足を止めた。
「幸也? まだおきてるの?」
小声で訊いてみるが返事はない。軽くノックしてからそっとドアを開けると、幸也はベッド際に置いた仔猫達の籠を覗きこんでいる。
「ちょっと……いい?」
幸也は目をあげて顔だけ覗かせている真由美を見て、こくん小さくと頷いた。
「もうみんな寝ちゃってるね」
幸也の隣に座って同じように籠の中を覗きこんで、小声で言った。
指先でそっと頭を撫ぜてみる。仔猫たちはぴくりとも動かない。
「かわいいなぁ。……どこで拾ったの?」
「……川の土手」
「あんな人通りの少ないところに……。よかったね。お前たち。幸也に見つけてもらえて」
満腹になって安心している仔猫たちは熟睡していて目覚める気配はない。
「この仔猫たち、飼うの?」
何気なく訊いてみたが、返事がない。
「おばさん、猫が嫌いなの?」
幸也がああまでも家に入るのを嫌がったのは何故なのか、本当のことを知らない真由美には、それが原因だとしか思えなかった。
「もし駄目って言われたら、うちで飼ったらいいから、言うだけ言ってみよう? 私も一緒に言ってあげるからさ」
返事はないけれどそのまま話し続ける。
「う~んとね、明日、帰りに小学校に寄るから校門のところで待っててよ。久しぶりに一緒に帰ろう。それから、猫も連れて幸也の家まで行って、二人でおばさんに頼んでみよう。ね?」
「……わかった」
最後にやっと応えてくれたことに安堵する。
真由美は、佳代が極度の猫嫌いや猫アレルギーでなければいいと願った。あまり好きではないという程度だったら、今の佳代ならば、幸也のためにきっと飼ってくれるだろう。
もし飼うことになれば、まだしばらくは慣れないだろう二人の行動のぎこちなさも、この仔猫たちがいることで多少は解消されるだろう。
警戒心をといて安心しきった幸也が無邪気に仔猫たちとじゃれあうのを、生まれ変わったように爽やかな笑顔の佳代が編み物でもしながら見守っている情景を胸に思い描いて真由美は涙が込み上げてきそうになった。
本当にそうなる日が、もうそこまでやってきているのかもしれない。
「あ、そうだ」
真由美はふと思い出して部屋に戻り、数冊の本をとってきて幸也の前に置いた。
「また今度読んでみて。……おやすみ」
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