そりかえる 二
……そんな「夢」を見てから起きた朝は、なんとなく霧がかったような寒い日だった。ここ二日ほどの例に漏れず、朝ごはんを食べ、温泉に浸かって寝汗を落とし、またおばあさんの屋敷に戻ってきた私は、このあとどうしようかとうんうん頭をうならせながら、昨日の夜と同じように庭先に足を放り出して座っていた。
まず、村には絶対に行きたくなかった。タツミさんがいるからだ。
なんとなく悔しい気もするのだけれど、こういうことを自分がどれくらい嫌がっているかというのは、決断しようと思ったときにこそわかるものだ。負けん気と何クソな気分で一度、シズさんに村行きを提案しようと思ったときに、私の頭の中で展開された圧倒的な行かない言い訳の量を
……そうなると、暇である。
どうしようかな……本当はもう一度神社に行ってあの人形を確認してみたいのだけれど、それだとまた倒れてしまいそうな気がして、そうすると昨日の二の舞ということも考えられる。それはよくない。だからといって、今この場であの夢を見られるかというと、実はさっきから何回も試しているのだが、一向に寝られないのだった。
ならば結局、無駄に広い部屋の中にいるのも寂しいので、やっぱり庭先で冷たい風を感じつつダラっと座っているくらいしかないのである。
……正直な話、見たいのはみんなの人形というよりも、ゲンのそれであるのだが。
これは今朝気がついたことであるが、今まで夢で見たみんなの姿は、最初神社で顔が浮かんできた時よりもかなりハッキリしてきているようである。イチロウのおでこにあるホクロだとか、イナミの可愛い唇の形だとか、カヤがよくする仕草だとか……とにかく、みんなの色々な特徴が、夢で見るにつれシックリと頭の中に描き込まれていくのがわかるのだ。しかし、そんな中でゲンの顔だけは未だに、ぼんやりと影をまとった最初の印象のまま固まってしまっている。というよりも、ゲンの顔だけがうまく思い浮かべられないことから、夢で見たほかのみんなの顔がちゃんと思い出せることに気がついたのだが……。
あ、いや、ヤキチもまだあんまり見てなかったっけ……確か最初のかくれんぼの時にはいたような気がするけど。
今のところまだ声を聞けていない、それどころか、動いているところさえ見られていないのはゲンだけである。夢の話を見ただの聞いただのと言うのは違和感があるけれど、でも、あれはやっぱりそれくらいの実体感を持った夢だったのからしょうがない。そんな中で、ゲンにまつわるズバリな噂話の夢なんか見てしまった日には、気にならない方がおかしいというものだ。随分と中途半端に思わせぶりな夢を見てしまったものである。ゲンっていったいどんな人なんだろうか……あの中に、気になる話がいくつもあった。
まず、彼は明るい人ではないようだ。そしてどうも、絵描きに
アマコやヨシにしたら、どうも放っておけないのだろう。でも、二人の気遣いは微妙に方向性が違っているような気がする。まずアマコは、本当はかまって欲しいと思いながらも兄の邪魔はしたくないと思っている。対してヨシは、小さい頃から一緒だったこともあって変な遠慮は一切なく、ただ単純にもっと周りと遊んで欲しいようだ。それにヨシは、あれだけプンプンしていたところを見るに、ちょっとゲンのことが気になっているのかもしれない。私なんか気にしまくりだし。性格は未だよく見えてこないけれど、でも、みんながゲンのことが好きと言われても一つも否定しなかったところを見るに、嫌な奴ってことはないだろう。なら、私だったらきっと追っかけまくりになるんじゃないかって気がするんだが……これは会ったこともない相手に期待しすぎか。
いや、会ったことないかはわからないのか……。
うーん、気になる。
そう言えばヤキチの話もしていたなぁ……。あれはなんだか、カイリに同情したくなるというか、ヤキチって本当にいやなやつなんだなって改めて感じた、それだけの話だった。なんだろう、情報の少なさはゲンと大して変わらないのに、ヤキチのことは全然気にならないのが面白い。と言うかだって、あれはただただ卑怯なだけの男だろうと、そう思う。そんなのにネチネチ絡まれるなんて、カイリも可哀想なものだ。
……むぅ、なんで私、ヤキチのことはこんなにわかっている気がするのだろう?
庭先に鳥が何羽か降り立って、またすぐに飛び去っていく。
なんだかなぁ……もうおばあさんに夢のことを話してしまおうかしらなどと考えながら、ポケーっと庭に生える大きな木を眺める。
また鳥が、今度は庭先をスーっと横切っていく。
それを目で追う。
庭を囲う竹柵の、その一角。風が背の高い草を揺らしたときに、小さな違和感を感じ取ったのは、その時だった。
ぼんやり閉じかけていた目を、パッと見開く。
……あれ?
今のはなんだろう?
それは、気のせいとも取れるほどに頼りない、一瞬の認識の揺らぎだった。いや、実際勘違いなのかもしれない。ボヤけてきた目が起こした錯覚だったのかも……とちょっとだけ尻込みしてから、どうせヒマなんだよなと思い直し、サッと軒先から飛び降りた。裸足だけれど、まぁ構うまい。気のせいだろうがなんだろうが、今は何でもいいからやることが欲しかった。
ヒンヤリとした感覚を足の裏に感じながら、庭を端まで足早に駆け抜けていく。よくよく見てみるとこの庭、どうにも世話が甘いようで、敷地の中は雑草が高々とはびこって見栄えの悪いことになっている。竹柵の周辺なんかもうぼうぼうだ。それはそれで自然な風景だから私は決して嫌いじゃないが、そのせいでそこにある違和感も今まで見落としていたわけである。
虫の跳ねる草むらをかき分けて、茶色い柵の下までたどり着いた私は、思わず「あは」っと笑みをこぼした。だって、思いっきりそこに穴があいているんだもの。朽ちた竹が黒く崩れているのを、誰かがポッカリと切り取ったみたいにわざとらしい穴。なるほど昨日の夜、あのタツミさんはここから忍び込んできたというわけだ。でも、あの人がここに穴を開けたわけではなさそうである。糸状にささくれた竹につく土の色や、柵のむこうへと水が流れ出しているみたいに自然に繋がった草の生え方から、この穴の秘密の抜け道としての歴史と風情が臭っていた。
ただ……あれだな。タツミさんが通ったんだとしたら、その割に狭いな、この穴。ここから入って来たんだとしたら、あの人けっこう頑張ったってことになる。なんだかなぁ……そんなにまでして私の顔を見に来たあの人は、いったいなんなのかしら。あんな嫌な人初めてだ。って、そりゃそうか。今の私の状態だと、何もかも初めてに決まっているのか。
……さて、どうしようか。ここから抜け出すのは
うーん……。
きっと冷静に考えれば、今日一日静かに過ごすっていうのが正解になるんだろう。そうわかっていたが故に私は、深く考えるのをやめてさっさとしゃがみこんで、目の前の隠し穴をサッとくぐり抜けてしまった。なぁに、ちょっとだけ外を見てすぐ戻ってくれば良いのである。例えばシズさんが私がいないことに気がついて、慌てて探し出すにしても、きっと名前ぐらいは呼ばわってくれてから騒ぎ出すはずだ。なら、ここからそう遠くまで行かなければ、ただ私は返事をして戻りさえすればいいだけである。それにこれくらいのウロつきなら、大して怒られずに済むんじゃないだろうかという見立てもあった。一人でこっそり湖まで抜け出した時だって叱られはしなかったし。
抜け穴をくぐった先もまた、背の高い草の中。ところどころ茶色く変色している緑の葉に、赤と黒で模様が付いてる虫が二匹、目の前にぴたっと張り付いている。それを捕まえようと手を伸ばしたら、意外にも丸っこいその虫は羽を広げて、さっと飛んで逃げて行ってしまった。
足や二の腕をくすぐる草葉の感触が、スースーして気持ちいい。
立ち上がり、とりあえずは周りを見渡す。
言ってしまえば、そこはなんの変哲もない森の中だった。今更珍しくもない、神社への道と同じように鬱蒼とした薄暗い木々の下。ただちょっとだけ離れたところに、崖と呼んでも差し支えなさそうな傾斜が見えるだけである。
ふむ。
つまんないな。
戻ろうかとも思ったけれど、しかし、些細ながらも決心して脱走した手前、盛り上がってしまった気分をそう簡単に落ち着けられるはずもなく、そうすると当然、煙のように上りたがりの私の目を惹きつけていくのはあの崖しかないのである。
後ろ髪を引かれる思いは当然にあったのだが、おそらくは生来のものであろう私の探検精神に釣られるまま、ジリジリと崖に向かって進んでいく。途中で自分の足の裏を見てみたら、思った以上に真っ黒けでびっくりした。でも、あそこを登るのなら裸足の方が良いだろうな。
……ふと、自分がもうあれを登る気でいることに苦笑い。いや、流石にまずいかな? と、形だけ悩んでいるふりをしていながらも、広く大きな葉でぎっしりの傾斜の前に来た時には既に足がかりの算段を付けているあたりが、きっと私の子どもたる証明だろう。これは後から思ったことだが、この私の無謀とも取れる行動力って、もしかして記憶の喪失が原因なんじゃないだろうか。例えば私は先日、足が「しびれた」と言う状態になってから、座り方には気をつけるようになった。神社に行った時にシズさんの体が弱いのを知ってから、彼女に頼るのを少し控えようと思ったりもした。そんな風に、人は経験から慎重さを得ていくものだって、なんとなくそう思う。だから今の私がこんな風なのは、きっと失敗の経験さえ記憶から綺麗さっぱりなくしてしまっているが故であるという推論も、あながち間違いとは言えないんじゃないだろうか。自分の顔を見たとき、思っていたよりも年が上に感じたのも、実はそういう原理が関係しているのかもしれない。
……結果を考えず行動が先走るこのクセに痛い目見るのは、考えてみれば時間の問題だったわけである。無論、そんな予感など先の小さな虫ほどにも感じていなかったこの時の私は、ただただ崖のてっぺんを見据えながら、あそこから見下ろした景色はどんなだろうとか、登りきった時の達成感、誰かが探しに来た時の言い訳なんかに思いを巡らせつつ、裾をまくって鼻を膨らましていたのだった。
今目の前にある崖じみた傾斜は、しかし、完全に崖と言うほどには傾斜が厳しくない。それどころか草もギシギシに生い茂っており、よじ登るのは比較的簡単そうである……というか、登るという表現さえはばかられるだろう。一昨日私が挑戦した湖前のあそこと比べれば、万が一足を滑らしたって平気だし、先にこっちで練習してから挑めばよかったなと今更に思うくらいだ。だから私は大した冒険のつもりもなく、最初の一歩を踏み出してからは、ためらわずグングンと適当にそれを登り始めた。
本当にやんちゃなんだから……ヨシがいたら叱られるかな?
足の指で草の茎を無意味に掴んだりしながら、ウジャウジャ飛んでる小さな虫をかき分けて進んでいく。こういう虫って、もっと低いところというか、地面の近くにしかいないような気がするけど、それって単に上に行けば行くほど小さすぎて見えなくなっているだけなんだなと痛感。途中一匹鼻の中に入りかけて、慌ててプーっと息を吹き出したら鼻水が出た。それを適当な葉っぱで拭き取りつつ、変な臭さを感じながら、グングンと視界を空へと運んでいくうちに、意外にあっさりと頂上付近にまではたどり着いてしまった。下から見たらもっと高さがあった感じがしたけれど、こんなものか。で、あと少しであるが、そこから先、私の背の丈ほどもない分だけ岩肌が見えていて、傾斜がほぼ垂直に近い。が、やっぱりここにもたくましく生えている植物はしっかりあるし、表面も凹凸がないわけではない。ここを迂回すればもっと安全な経路も見つかるかなとは思ったが、せっかくなのでここから行っちゃえと決心して、深呼吸。
ガシッと岩肌に手をかけながら、傾斜が緩いギリギリのところに足を持っていく。すると、ちょうど崖から顔を出せるような形になって、多少苦しいながらも両腕を肘のところまで掛けられた。
あぁ、なら簡単じゃないか。
フンッと力んで、軽く飛び上がるような感じで、右足を一気に崖の上まで登らせる。それで少しだけ体勢を崩しかけて、左腕から体を落っことしかけたけれど、右の手で手当たり次第に掴んだ草で持ち直す。この時初めて下を見たのだが、登って来た実感と比べて倍くらい高かったのでビックリした。やるじゃないか私とちっぽけな達成感にほっこりしつつ、できるだけ慎重に全身を崖の上にズリ上げてから、「やった!」と声を上げつつ、草もまばらな崖先に仰向けで寝転がった。
太陽が、曇り空の間からちょっとだけ、祝ってくれてるみたいに顔を覗かせている。あぁ、気持ちいいな。あったかいな。
顔の上を飛ぶチビ虫を払いつつ、しばらく呼吸を整えてから、ムズっと体を持ち上げて、茶色い地面に正座した。
耳を澄ますと川のせせらぎが、そんなに遠くないところからシャラシャラと聴こえている。こんな高いところに川なんてあるのかと、ちょっと驚く。周囲はこのあたりだけ草がまばらで日当たりも良くて、ちょっと先はもう、いつもどおりの森の中。
川か……それがあの湖に流れ込んでいるのなら、きっと近くに滝もあるはずだ。見つけてみたい気もしたけれど、でもさすがに、これ以上ここから離れちゃうのはマズいだろうか。ここならギリギリ屋敷からの呼び声が聞こえると思うが……。
よっこらせっと、跳ねるように立ち上がる。
振り返ってみれば、思わず叫んでみたくなるような爽快な景色。起伏に富んだ山々と、村の家々の黒ずんだ屋根、そして想像していたよりもずっと大きな湖が、視界を青空と二分して広大に拡がっている。あぁ……これだから高いところって大好きだ。見下ろす景色の雄大さ、四方
と、思考を巡らせつつ、またなんとなく下を見て、ハッとする。
これ、
途端に足元がムズっとして、思わず崖の淵から半歩だけ遠ざかる。
うわ、けっこう怖いじゃん……。
あぁもう、私って本当にバカなんだから……。
正直かなりガクッときた。ここを降りる怖さというよりも、そのことをまるで考えていなかった私のとんでもないマヌケっぷりに、一人で恥ずかしくなってしまったのだ。私ってもしかしてイチロウやソウヘイと同類なのかな?
まま、落ち着け。別にこんな難しいところから帰ることもないだろう。何かきっと他の道筋があるはずだ……どうせならそれを探す名目で滝でも見つけに行くのもありだったりして。
と、また良からぬ企みが胸の内でこっそり頭をもたげ始めたのに苦笑しつつ、ため息一つついて振り向いた矢先に、足にヌメっと、気持ち悪い感触。
ちょっとだけビクッとして、すぐに何も考えず下を見た。
ゲコ。
「あっ……」
ゲコ、ゲコ、ゲコココココ……。
喉元が引きつった。
頭の中が一瞬にして真っ黒になり、ぶわっと熱湯が全身を駆け巡る。
ひ、ひいぃっ……!?
反射的に私は飛び退いた。
自分の今いる場所など考える余裕もなしに、無我夢中で跳ね退いた。
か、かか、かえるだぁ……!!
タスケテぇ……。
ずるっと足元が滑る、嫌な感じ。
……あ。
ま、待って……と念じたころには、遅かった。
事態の深刻さに気がついた頃には既に、私はあろうことか崖の端を踏み台にするように、空に向かって飛び出していた。
かえるとは別種の、冷たい悪寒。
つばを飲む。
やばい。
やばいやばいやばい!
この……大バカっ!
喉元がでんぐり返るのを感じながら、闇雲に、一心不乱に腕を伸ばすが、宙に掴めるものなどある訳もない。足をバタつかせたって、体が浮き上がるわけもない。
悲鳴を上げるヒマもなかった。
なすすべなし……。
私の体が、落ちていく。
視界がグルンと、何もない大空へ。
壮大な雲が私を見下ろす。
ギュッと、胸が締め付けられた。
衝撃を予感したから。
が、何もない。
落ちていく。
暗くなる。
これ以上はダメだろうと、勝手に私が決めていた限界を超えて、下へ下へ……。
ものすごく不思議な感覚だった。
目以外の全てが上に取り残されているような、腹の空っぽさ、気持ちの悪さ。
ダメだよ、跳びすぎだ……。
鼓動を気にする余裕もないほどに、全身が緊急事態を告げている。
今私は、かなりの高さから落ちている。
これはまずいかも……。
強烈な痛みを覚悟して、必死に首だけを内側に丸め込む。
不思議と恐れはあまりなかった。
いや、あるいはこれこそが、真の恐怖なのかもしれない。
ただただ必死で、体を守ろうとしていた……命を保とうとしていた……ように思う。
そこからは何があったのか、よく覚えていない。
頭の中を色んな映像が、音が、行き来していた。
水のしぶき、消える明かり、動かない脚、悲痛な叫び……。
「……ミレ……スミレ……そんなぁ……」と、かすれきった誰かの慟哭の声。
一瞬、全身に衝撃。
腹の中から、巨大な塊がのどを突き破ってこみ上げてきた気がした。
自分の全てを吐き出して、体がめくれ上がってしまうんじゃないかと思った。
未だかつて味わったことのないほどの振動……。
って……だから、今の私にはなんだって、はじめてばかりなんだから……。
バカな私。
小さな虫が、上は髪の先から下はつま先まで、ジンジンと這い回る。
きっと坂の上で、私の体はなおも転がり落ちて……。
そして……。
篠笛の音色が、ピラピラと響いて……。
プッツン。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます