プリンセスとプリーチャー

@sodom_vs_godzilla

第1話 怪物山

青葉の露を舐める。

干し肉をかじる。

朝食は以上だ。

城に居た頃は、器に盛られた温かい食事に恵まれたが、今や旅鴉たびがらすの身となったセラにはこれが相応であった。

着物も、ボロの旅装束だ。

寝具とは名ばかりの布をクルクルと畳むと、出立。

旅籠屋はたごやが無い山地では、水捌けの良い地面を選んで夜営する毎日だ。山賊や野獣に備えて、見張りも相棒と交替で行う。

「眠いなぁ」

セラは溜息だか欠伸だか分からない吐息を漏らす。

「……」

相棒は応えない。

「お腹空いたなぁ」

「……」

「脚が痛いなぁ」

「……」

相棒は聾唖ろうあであった。

名をチャンゴといった。

二十歳を迎える牧師である。

ベッドや風呂、壁と屋根が恋しいセラであったが、黙々と歩くチャンゴの背を見ていると、あまりそんなことは言っていられない。という気はしている。

黙々、とは言うが、彼は黙するより他ない聾唖者。それでもセラを守り導く任を負うて、今日も裏街道や獣道を行く。

時折、セラの方を振り向き、ついて来ているか確認してくれる。耳が聴こえないからだろうが、セラにはそれが嬉しく思えた。セラは余裕を見せる為に微笑を返してやるのだが、チャンゴは、うむ、と何やら納得して正面に向き直るだけで、笑顔を見せない。元々表情の少ない男である。しかしながら、憮然としているわけではなく、どちらかと言うと、この苦難の道の一歩一歩をも愉しむ、ゆとりの有る表情で、これから行く山陵を見ている。物も言わないので、家犬にも似た愛嬌がある男だった。

「やれやれ」

だからして、セラが見せる微笑は、決して作り笑いなどではない。勿論、心から笑える状況ではないが、この男の持つこの飄々たる装いがセラの口角を少なからず引き上げてくれるのである。


二人が、人目を忍んでこの様な獣道を歩いているのも、訳があった。

先日も、食料の調達の為に街道筋へ降りて、民家の草刈りや行乞をしている時に、呼び止められたものだ。

「おい、そこの」

と。

セラが振り向くと、騎士が四人ばかり。

帯剣しており、保安士の証である油提灯のインシグニアを兜に頂いていた。

今思えば若い騎士達であった。

「名は何と申す」

と、一番厳めしい顔の騎士が問うて来た。

「ヤバぃ」

セラはチャンゴのマントを引いて、それに気付かせてやった。

チャンゴはさして驚いた様子を見せず、右手を胸に当て、頭を下げ、一礼した。

チャンゴは元々牧師。立ち居振る舞いは心得ている。

一応、セラも尼に化けているだけだが、王室教育のおかげで品ある所作が出来ないこともない。

それで乗り切れる局面もあった。

「牧師。お前耳が利かんな?」

「私はアハールです。尼をしております。こちらは……」

セラがいつもの嘘を言おうとすると、騎士の抜剣によってそれが阻まれた。

「下手人、セラ・モンドグロス王女と、チャンゴ・ヨルムトギョームとお見受けした。如何に」

「ち、違うわよ!」

鋭い奴らだ。それともセラの演技力が乏しいせいか。

「話は後で聞こう。来てもらいますぞ、陛下」

嫌も応も無いといった調子だ。このままでは捕縛されてしまう。

答える代わりに、セラは手を合わせ、

大剛霊礼賛之項タイゴウライライサンノコウ

正面を睨んだ。

御石木體我鎚成オンセキボッタイワガツチトナス

儀礼詠唱。

騎士達がそれを認めて青ざめ、セラに殺到しようと前に出ると、彼らの剣が空を向いた。

しかし、振り下ろされない。振り下ろすことができなかった。

「何だ⁉︎」

「しまった!」

「既に術が⁈」

剣が宙で釘付けされた様に動かなくなったのだ。

全く動かないことはないが、泥の塊の中に剣が埋まっている様だった。

そこでチャンゴが前に出た。

そして、あっという間に四人を斬り倒したのだった。

チャンゴが携えている、牧師が持つ智杖。それに仕込まれた、刀。

仕込み杖なのだ。

セラが血濡れの刀身をハッキリと見る間もなく、事は終わっていた。

それから二人は慌てて逃げだし、山に再び入った次第だ。

時折、そういうことがある。


セラ・モンドグロスは、弱冠十三歳にして、モンドグロス王室直系の女王である。否、であった。

先の大臣ら閣僚の謀反で座を追われ、命辛々、首都シュシアヘッタイトを落ちのびたのが三十日程前。

思えば、僅かな在位であった。

その日の夕刻、父王が暗殺され、夜に王子である兄が死んだ。

その場で謀反人共に囲まれてしまった為、殆ど在位すらしていない。

そして、生まれて初めて、都を出た。

このチャンゴと共に。

今はこうして、父の旧友である貴族の領地を目指して、旅をしている次第である。

街道を使えば半月で着く所だが、裏街道や山道、獣道を歩かねばならない為、倍以上のもの日数がかかっている。


陽が高くなる頃。

セラとチャンゴは脈々続く山並みのうち、一つの頂に達した。

木立の向こうには、山々の頂が連なっている。視線を下げると、谷間に小さな集落が見えた。

三十戸程の小さな集落だが、近くには谷川が流れており、傾斜もなだらかで、良い立地だ。

手入れの行き届いた畑があることから、敵性集落ではないだろう。

荒れていれば、それは野盗の巣窟だろうが、毎日額に汗しなければ、こうした趣にはなるまい。

セラとチャンゴは頷き合い、そちらへと降ることにした。

足を休めて、食料を調達する。それだけ出来れば御の字だが、欲を言うなら、風呂と一晩の宿と甘いお菓子を賜りたいところだ。少なくともセラはそう思っている。

「おっ菓子ー。おっ菓子ー」

しかし砂糖や果糖は貴重品だ。こうした痩せた山あいの村に期待出来るだろうか。

そんな懸念はあるものの、急に軽くなったセラの足取りに、チャンゴはおかしそうに眉根を吊り上げるのだった。


山路を降りて行くと、果たして、集落の家々がよく見える辺りまで辿り着いた。

集落は、大きな道の両側に家が軒を連ね、突き当たりには集会所を兼ねた広場と、マール教フロイス派の教会があった。

教会とはいっても、他の家と同様の木造平屋建てで、マールのシンボル(太陽と矢尻)が無ければ、大きな納屋にしか見えない。

そして、芋の畑が家々の周りに作ってある。

二人が降りて来たところに、小川が流れていた。

小川にかかる石橋は、年季の入った一枚岩削り出しで、苔生している。運搬は大ごとであったに違いない。車の類が往き来するのでなければ不似合いだし、意味が無いくらい立派なものだ。もしかしたら、戦中は重要な拠点だったのかも知れない。

チャンゴはそんなことを考えながら、セラの後ろを行く。

セラはというと、小川の魚を見て、歩を緩めている。煮るか焼くか、どう料理してやろうか、という顔つきだ。

チャンゴは、この集落に騎士団の手が回っていないか気が気でないというのに、のん気な娘である。

レン派の教会ならば、シュシアヘッタイトの影響下にないことになる。だが、フロイス派ならば分からない。フロイス派を国教としているマール騎士団領である。

レン派だったなら、少しは安心出来るところだが、ここはそうではない。

そしてこの石橋だ。手配書がここまで来ていることもあり得る。チャンゴは智杖を握り直し、石橋を渡り切る。

路は、村道へ直角に交わっていた。芋畑には人影がない。

二人が来た路に新しめの足跡がいくつかあったので、山菜などを採りに山に入っている人間が多いようだ。

煙突から香草が匂う家がある。燻製を作っているのだろう。来る冬に備えているのだ。

背高黍の畑に差し掛かると、こちらは人の気配がある。

「ごめんください」

セラが声を張る。

あいよー、と返事があり、生茂った背高黍の中から、若い女が現れた。

「ありゃあ、尼さんじゃが。それに牧師様も」

女は歳の頃は十代半ばから後半。だが、よく日焼けしているので肌だけで年齢は計れないだろう。もしかしたら、セラと同い年くらいかも知れない。

「ご行脚あんぎゃですか?」

ニコリと笑いながら膝の土をはらう。屈んだ拍子に胸元から見えた景色からすると、セラよりは身体が発達しているらしい。

「ええ、そうです」

セラが応える。尼の着るコートスカートで、セラは尼に変装している。コートスカートとは、胸より下に帯で留めるコートだ。尼が遠出をする時に纏う物である。

セラは、自らを「アハール」、チャンゴを「シャモン」と紹介した。いつも使う偽名である。

「うっどもン村ぁ小せえけども、どうぞごゆるりと」

女は、フエと名乗った。

フエの訛りはセラでもどうにか聴き取れる範囲だが、チャンゴは、唇を読むのがなかなか難しいかも知れない。ここいらでは山一つ越えると、もう方言が違ったりする。セラにはそれが面白い。

チャンゴがセラの背をつつくので、セラは手配書など、二人に関する通達が来ていないか探りを入れることにする。

「このあたりは物騒なんでしょうか?」

「さあ、どねぇでしょ。足刈り熊がたまに出るくれえかの」

「足刈り熊?」

「小さい熊なんじゃけど、凶暴での。草薮からいきなり足にかぶりつきよるンよ。線の細ェもんやこは足そのまま食い千切られっしまうけ、じゃけえ足刈り熊ゆうんよ」

「怖いですね」

「じゃろ?脚絆きゃはんにゃ丈夫な革使わないかんよ」

「熊さんの他は?」

ここでフエは意図を解したらしく、少し目を見開いた。

「ああ、うん、どうじゃろ。山賊が居着くにゃ、ちょっと厳しいとこじゃしね。あんまり聞かんね。じゃけん安心しんさい。このまま西へ行っても問題ねぇ」

「手配書の類が来たりは?」

突っ込み過ぎだとばかりにチャンゴが背を小突く。そんなに文句をつけるなら自分で尋ねれば良い、などと思いつつも、セラは口の端を歪ませる程度にとどめておく。

「来ゃーせんよ。お上はこねぇな村ぁ気にかけとりゃせんわ」

フエはあっけらかんと答える。

嘘を言っているふうではない。

胸を撫で下ろし、二人が村の責任者に面会したいと申し出ると、フエは畑にいる他の者にことわりを入れて、案内を申し出てくれた。


フエの案内で、村道の南端、教会寄りの少し大きな家に通された二人は、久しぶりの茶と、ここの特産であるらしい味付きの干し芋にありついた。

チャンゴの正面には、見るからに山男な四十がらみの男が座し、セラの正面には老人が座す。板間だった。履き物は脱いでいる。

四人は囲炉裏を囲むかたちで、鞍のような低い椅子に、跨るように腰掛けていた。床に座っているのと変わらない高さだが、床座より膝や尻が楽だ。使い勝手の良い椅子である。

「ほーですか。シャモン牧師様はお耳が不自由なんですのう」

チャンゴの正面の男は、山風が岩肌から削り出したような顔をしているが、これでも牧師であるらしい。チャンゴもどちらかと言うと、矢鱈神学書を字引くタイプではないが、この牧師は最早、聖典で尻でも拭きそうな、無頼ぶらい然とした風情がある。しかし、チャンゴと対象的な皺一つ無いマントを、パッと払って座った所作は、この牧師に品が無ければなせない作法だ。名を、ゴノイと言うのだそうだ。

隣の物静かな老人は、この村の長で、名はナクタハ。

生やし放題の白髪に白髭、赤銅しゃくどう色に日焼けしたくしゃくしゃの肌は、いかにも山奥の村の長といった趣きだが、太い節くれ立った指と、容貌とは不釣り合いな程に逞しい前腕は、自らもまだ畑に出ている証拠だ。

ナクタハはチャンゴの手を見て、ふむ、と漏らす。

チャンゴの手もまた、百姓の手をしている。節が太く、爪が分厚い。

「耳は聴こえぬでも、働き者でおられる」

ナクタハは皺の中で微笑んだようだった。

「もしや、聖堂騎士でいらっしゃるのかのう」

鋭い洞察力は年の功か。

「はい、シャモン牧師は、シュシアヘッタイト大教会僧兵そうひょう束ね方シュシャフ聖堂騎士団に所属していらっしゃいます」

セラが代わりに答える。これは事実であるし、シャモンという名の者も居たはずである。チャンゴは教会にあまり出入りしていなかったので、うろ覚えだが。

シャモンという気取った名前ならば、聖堂騎士団には居なくもなさそうなので、便利な名だ。

「アハール殿もシュシアヘッタイトの出ですかの?」

ゴノイが問う。

「はい。今は一身上の都合で、このシャモン牧師と浮草をしています」

浮草とは、浮草聖うきくさひじり。諸国を彷徨いながら修行する僧を言う。

「その若さで?それはそれは」

ゴノイは目を丸くする。セラ程の年頃の尼僧は少なくはないが、渡り者に身を落としてまで修行に励む少女など、そうはいない。尼僧の仕事は主に、傷病者の看護や、体や心の不自由な殿方の慰安といった、子供では難しい事柄が多いからだ。

「恐縮です」

しかしそれも、セラの大人びた口調のお陰で、もっともらしく聞こえる。王室教育の賜物だ。

だが、チャンゴはこの詐称の仕方には不満があった。

身分を聞かれても、何処ぞの寺院へ遣いに行く途中、とでも言えば良いことだ。いつも大抵そうする。何故、今日に限って、違う嘘を吐いたのか、チャンゴには解せなかった。

「アハール殿は、今、『一身上の都合』と申されましたがの?おうかがいしてもよろしいじゃろうかの」

ナクタハは、茶を舐めるのを止めて、問う。それとない聞き方だが、真剣な問いだった。

この御時世、旅にある人間の多くは、脛に傷持つ者だ。皆が無法無頼の輩とは言わぬまでも、流れ者には気をつけねばならない。

これはセラとチャンゴが、身形通りの人間か見定める為の質問である。

チャンゴはボロが出ないか気が気ではなかったが、ここはセラに任せるより他ない。

「はい、それは……、」

セラは質問を予期していた。

「このシャモン牧師と、夫婦の契りを交わしたからです」

チャンゴは横目で、セラの口がそうハッキリ動くのを見た。

チャンゴは、もしかしたら一瞬白目を剝いたかも知れない。

ふと見れば、セラは、はにかんだような流し目をよこしていた。

どういうつもりなのか解らないが、チャンゴは兎に角、芝居に付き合うしかない。うむうむと頷いておく。

「ははあ、なるほど」

手を打ったのはゴノイだ。

「フロイス派じゃあ司祭の結婚は認められてこそおりますが、まだまだその考えも浸透し難いところがあるもンですけえの」

「はい」

「ワシも牧師じゃけえ、よう分かります。特に、都会の大きな教会だと、居辛いでしょうのお」

この巌のような男にどれくらい分かるのかは怪しいが、そう言うのなら、そうなのだろう。

「お察しの通りです。シャモン牧師からお寄せいただいた好意を無下には出来ず、密会でえとする内、噂が噂を呼び、公となり……。そうなっては契りを結ぶ他ありません」

人が喋れないのをいいことに好き勝手を言いやがる。

チャンゴは口をモゴモゴさせながら、笑うしかない。

「両親が亡くなり、実家を処分したところでしたので、ちょうど良いとばかりに、旅に出ました」

嘘にも真実が混じれば、嘘をつく顔もいくらか自然になる。

「苦労をされとられますのう。しかし、やりますな。シャモン牧師」

チャンゴは、ゴノイの笑みに、半ばヤケで同じくらいの笑みを返してやる。

もうこの村では、俺はムッツリスケベで構わない。

「アハール殿は、」

ナクタハが口を開いた。

「いくつでいらっしゃるのかな?」

「歳は十五になります」

この年頃では一つ二つのさば読みは、命取りだ。セラの実年齢は十三歳と半。

十五と偽るには、少々、胸の双丘が足りない。

しかし、結婚は十四からという世の中なので、十五あたりを言わねば怪しまれる。

ここは一つ、発育が行き届かない体を装ってもらおう。

「ふむ。浮草聖の夫婦、か」

ナクタハは、ここでようやく、クッキリと皺を寄せながら、笑ってみせた。

「我々の村には足りン物も多い。しかし、それでも構わンとおっしゃるなら、どうぞ、いくらでも脚を休めて行って下されや」

通じたか、とチャンゴは内心で胸を撫で下ろす。

チャンゴの懸念は、セラに丸見えだったらしく、今思い切り尻を抓られているが、兎も角、良かった。

腑に落ちないのは、セラの作り話がいつもと違ったことだった。

しかし、それもすぐに解った。

ゴノイが奥に居た小坊主に、

「教会の空き部屋を一つ掃除して、寝具を虫干ししといてぇや」

と、頼む時に、セラに確認したのだ。

「ご夫婦なら部屋は一つで構いませんのう?」

なるほど。

追われる身のこちらとしては、同じ部屋の方が都合がいい。夜襲もあり得る毎晩を過ごすこの数ヶ月。たった二人きりの味方同士、一枚の壁で隔てたがばかりに、ということがあってはならない。セラから目を離すわけにはいかない。

旅籠屋ならば、一部屋取れば済むが、ここにはそんな物は無い。

教会に泊まる場合、未婚の男女は部屋を同じにはされまい。

同室となるにはこれしか無い。

それを見越したセラの機転だったのだ。

村に入って気を緩めていたのは、チャンゴの方だったのかも知れない。

セラのこういった軽やかさ細やかさは、チャンゴに真似出来ないところだった。

「はい。でも、寝具は分けて下さいまし」

「ほーですのぉ。一応、教会でもありますしの」

当然の措置を注文するセラの横顔は、どこか老獪さを滲ませていた。

「ありがとうございます」

礼を言い、甘辛い干し芋にかぶりつく。目を細めて味わい、鼻をひくひくさせて香りを楽しむ様だけは、年相応と言える。

ちなみに、茶と芋については、チャンゴが毒味をしてから、セラは口をつけている。いつも、何であれ、そうしている。チャンゴは病的に用心深いが、それに助けられているセラとしては、文句は言えない。


ナクタハ翁とゴノイ牧師は、簡単にこの集落について話してくれた。

ここはキヤンガ村というのだそうだ。

チャンゴの予想通り、戦中は補給物資の備蓄を留めておく兵站へいたん基地だったらしい。キヤンガというのは、その基地の責任者の名前に因んでいる。

終戦と同時に必要が無くなり、廃墟となっていたところを、

「わしの家族が最初に住み着きましての」

ということだ。

ナクタハがどういう事情で、こんな山奥の廃墟に住むことになったのかは語られなかったが、恐らく難民として流れて来たのだろう。当時、戦災で故郷を無くした人間が大勢いたという話を、セラもチャンゴもそれぞれ父親から聞いていた。

キヤンガは数十年の内に少しずつ人も増え、今では二十五世帯が暮らす村となったという。

基本的に自給自足の生活だが、時折、農作物を麓まで売りに行くこともあるそうだ。そこで村では手に入りにくい物を買ったり、物々交換したりするのだと言う。

そして麓では、キヤンガから来たと言えば良い待遇を受けると言う。

「なんでか分かるかね?」

ゴノイが少し胸を張りながら問う。歳に似合わず愛嬌のある男だ。

「さあ、何故でしょうか」

「別にわしらは金を持っとるわけでもねえ。ただ、この村のモンは皆、気立てがええからなんよ」

「気立てが」

セラが反芻する。

「礼儀正しゅうすりゃあ、相手も礼儀を返してくれる。恩には恩が返ってくる。そういう教え方ですよ」

「教会ではそのように?」

「勿論です。しかしまずは、しつけからかの。教育は家庭からじゃ」

理論は分かるし、良いことだと思うが、そうそう都合よく行くものだろうか。

ズルい者、怠け者、悪者。奸悪かんあくで世の中は満ちている。

「疑りなすっとられる」

ナクタハが、ふ、と笑った。

「あ、いや、その」

「や、や、仕方ねえわな」

ゴノイがからからと笑う。

「まあ、暫くゆっくりしてってくれりゃあ、わかりますて」

セラは多少困惑こそしたものの、二人の柔和な笑みにいくらか気が和んだ。チャンゴとは言葉が交わせないので、久しぶりに人と話したということもある。

チャンゴはというと、元来、人と関わるのが苦手な性分なので、こういった自称の「良い人」が余計嫌いだったりする。しかし、まだどんな人物か知れぬ以上、好き嫌いを決めてかかるのも良くない、と、考えを改める。

それに、食べ物を振舞ってもらっておいて、批判する権利などあるまい。

宿まで提供してもらえるのだし、文句など言えようはずもない。そもそもチャンゴは言う口も持たない。

そういう自分もいるし、そしてやはり、「人里は苦手だ」と思う自分もいる。

チャンゴは茶を飲むだけで、どんな表情も作らなかった。


ゴノイ牧師の助手であるところの小坊主の案内で、外に出ると、村の人間が十人ばかり待ち受けていた。

各家を守る女房達に、子供らだ。野良仕事や山仕事の装束は解れや擦り切れが目立つが、屈託ない笑顔は、都会の者への引け目など感じさせないし、他所者に対する訝しみなど微塵も無い。

まれびと信仰という奴だろうか。外からの客人が幸いをもたらすすと信じられる地域もあると聞いたことがある。キヤンガもそれに近いものがあるのかも知れない。

歓迎の言葉は有難いが、質問や食事の誘いを受け流すのは容易なことではなかった。

小坊主の人払いと誘導が無ければ、もっと時間を食ったろう。

「ありがとうございます」

教会の戸をやっと閉めたセラが礼を言うと、小坊主は頬を染めて俯いてしまう。

これくらいの歳の男の子は、同年代の女子より、若い奥方に憧れたりするものだ。チャンゴにも経験がある。

「カカです」

彼は名乗ると部屋まで連れて行ってくれた。

普段は物置替りに使われているらしき客間だった。石積みの上に、木の壁。床は黒光りする踏み固められた土。

寝床は、両壁際に一つずつ。繊維質の植物を編んだ敷布団には、クシュクシュした何かが押し込まれていて、よく弾む。掛け布団は柔軟な厚布で、少しチクチクするが、温かい。虫干ししたばかりだからだろう。

窓は奥に一つ。ガラスも何もはまっていない、雨戸だけ付いた物だが、開け放すと、裏の木々が涼風に揺れている様が見える。流れ込んで来る葉の香りが心地良い。

無料で使うには上等な部屋であった。まだ昼過ぎにも関わらず、ここでぐっすり眠りたい気分だ。

カカに再び礼を言い、彼が出て行くと、セラはブーツを脱ぎ捨てて寝床に飛び上がり、「うにゃんうにゃん」と寝具を愛おしげに抱きしめた。

温かい寝床。柔らかい寝床だ。

「すみません。それと……」

ふいにカカが扉から顔を覗かせた。

「あ。あっ、はい」

セラは慌てて身を起こすが、衣服は乱れ、髪の毛を二本ほど食べてしまっている。

「水は、裏手に瓶がありますので、そちらをご利用下さい。木桶の水は雑用水ですので、飲まないように」

カカは可笑しそうに、だがそれを押し殺して、告げると、扉の向こうに消えた。

「あ、ありがとうございます」

とセラが言い終わるより早く、扉が閉まる。

セラがチャンゴの方を見ると、チャンゴが声無く笑いながら荷を解いていた。

せいいっぱい大人ぶってみてもすぐにボロが出る。

それを笑われたのは分かるが、しかしそれを「あんたの耳が不自由だから代わりをやってんでしょ!」と言ってやり込めるわけにも行かない。

むくれていると、チャンゴが近づいて来て、頭を撫でるついでに、口の端で食っている髪を直してくれた。

『ありがとう、セラ』

チャンゴは掌でそう言ったようだった。セラの心の機微を見透かしたようである。

チャンゴは時折、こうしたくすぐったいことをしてくれる。

「なによぅ」

その手を払うわけでもなく、わざと嫌そうな顔をしてやる。

こういうキャッチボールは、壁や屋根が無いと、出来ない。気持ちに余裕が無いと、ふざけ合いなど出来るものでない。こういう緩んだ雰囲気は久しぶりだった。

しかし、急にそれを楽しんでいる自分が急に恥ずかしくなるもので。

「お水、汲んで来て!顔と足、洗いたい」

ふて腐れるように言う。

チャンゴは、はいはい、と頭を振って部屋を出て行った。


少し落ち着いてから、二人は辺りを散歩した。

勿論、只の散歩ではない。地形を把握し、いざという時に備える為の、偵察を兼ねた散策だ。

村の者何人かと軽く挨拶を交わし、さばりつく子供らをやっつけて、教会に戻った。

村の栄養状況はまずまずの様で、皆健康体に見える。賊が出にくいとは言え、村を囲む木々には鳴子が十分仕掛けてあった。対人用と対獣用で鳴子の仕掛け方を変え、拍子木の大きさも変えることで鳴り方も変えてある。

対人用は、ちょっと見ただけでは気付かないように隠されており、更に、足元に対獣用を張り巡らすことで、こちらにおとりの役目を与えている為、対人用に気づき難い仕組みになっていた。

なかなかの仕業であった。

二人がこの村に近付いた方向は村からよく見える開けた路だったので、仕掛けが無かったのだろう。曲者は正面からは入っては来まい。

そんな村をぐるりと回ってみて、チャンゴはどこか言い知れぬ違和感を覚えた。

ハッキリと言えない、どこか他の村と違う所。

それが何か分からないが、妙だった。

しかし、チャンゴはその考えを止めた。何でも訝しむのは自分の短所である。


村の通りに戻ると、とある家の前で何人かの女房が、木鉢で木の実をすり潰していた。

すりこぎと手を使って、木鉢の中を掻き回し、時折、その中の木の実をつまんで、口に含んで噛んでいる。

何かの下拵えだろうか。

「ねぇ、あれ何作ってるの?」

ただの料理には見えない。

チャンゴの袖を引くと、チャンゴも物珍しそうに目を瞬かせている。

「あんたでも知らないことあるのね」

セラが言うと、チャンゴは少し笑う。

と、そこへ女房達が声をかけて来た。

「尼さん、牧師さん、どしたんでー?」

「お散歩かな」

「こっちゃ来んさい来んさい」

二人はそちらへ寄って、見物させてもらうことにする。

と、やおら女房の一人が噛んでいた木の実を手に吐き出して、それを木鉢の中のペーストに練り込んだ。

セラは驚いて、

「何を作ってるんですか?」

と問う。

「何て、酒よ、酒」

セラは更に驚いた。

酒は、搾り汁を空気に触れない様、瓶に閉じ込めて天然発酵させるものだとばかり思っていた。

と言うか、酒の出来る仕組み自体、よく知らなかった。

しかしなるほど、こうして唾液で糖化させる方法もあるのだ。

だが、この方法は少々、

「きちゃねぇ思いよんじゃろ?」

屈託なく女房が言う。

「いえ、そんな」

セラは慌てて首を振る。

「ははは。まぁ、酒になりゃ関係ねぇけ」

「そぉそ。それにな。この仕事は村の美人にしか許されん仕事じゃけ」

「安心しんさい」

からからと笑う元美人達。

「はぁ」

セラはどんな顔をして良いのか分からず、キョトンとしてしまう。

チャンゴはというと、どんな木の実が混じっているのかをしげしげと観察している。

実を言えば、チャンゴは口噛み酒のこと自体は知っていたりする。

原始的な酒の作り方である。

こうした酒の作り方以外にも、原始的なパンと言えば、小麦粉を水で練って焼いただけの物がある。

材料を買い、それを各自で調理するとなると、その辺りが限界で、かつてはそうした、売り手と買い手のみの関係しか存在しなかった。

しかし、材料を仕入れ、それを上等な酒や、乳脂肪を練りこんだパンに加工し、売る。そういった加工食品屋が登場し、食料を提供するようになった。

売り手と買い手の間に、加工する人間が入ったのである。

そして経済が生まれたのだ。

だからして、こうした原始的な酒というのは、田舎でしか見られない稀有な物となっているのである。

チャンゴはそんなことを考えつつ、木鉢の中を見ていると、セラに脇を小突かれてしまう。

「またなんか一人で納得してる」

チャンゴが手を広げて、「何だよ」という仕草をすると、

「一人の世界に行かないでってこと」

と姫君は宣った。

こう見えてセラは寂しがり屋なのだ。

「仲睦まじいなぁ」

女房達がからかうと、セラは「いやそんな」などと大人っぽく返す。

「折角じゃ。一杯飲んでくか?酒ならなんぼかあるで?」

女房の誘いに対しセラは、

「いえ、まだ昼ですし、ご迷惑でしょうし、あと、あと……」

唾で作った酒にビビる都会から来た姫は、しどろもどろになって引き下がった。

「お邪魔しました」

チャンゴの手を引いて退散する様を見て、女房達はまたからからと笑った。


そんなことはあったものの、この村に不安材料はまず無いと確認した二人は、しばし交代で昼寝することにする。早急に疲れを取り、体力を養わなければ、その分出立も遅れてしまう。

セラは「どっちから?どっちが先に寝る?」と問うが、早くも布団に包まっている。

チャンゴが、どうぞ、と促すと、「いいの?ありがと」と言いながら、もう丸くなっている。

まあ、良い。

休息の時とは言え、やることはある。チャンゴはとりあえず、ブーツの手入れから始める。足元の環境は旅人にとり、第一に考えねばならない事柄だ。

泥を落とし、汚れを拭い、獣脂じゅうしを擦り込む。暫く置いて、浮いた脂を再度擦り込み、馴染ませる。そして陰干しにしておく。

ついでなので、セラのブーツも手入れしてやる。

二人のブーツは、竜脚竜りゅうきゃくりゅうの脇腹の革で作られた、上等な品だ。

節制せねばならない旅において、唯一金をかけたのがこれだった。

遠征する兵士にとって、足元は命取りになる要素である、と、チャンゴの父ランドは常々言っていた。

王室常備軍が寒冷地に赴く際、詰め物が出来ない程ピタピタのブーツを履かせて送り出した為に、凍傷で足の指を失う者が続出し、行軍困難となったという話など、特に印象に残る話だった。

ランドは、他にも沢山の話をしてくれたものだ。

大体が、放浪時代か戦争中のことだった。話されたところでピンと来ない内容が多かったが、今なら分かる。壁も屋根も無く、いつ敵に遭遇するとも知れない暮らしをしている今だからこそ、分かる。一片の干し肉の有り難みや、一滴の清水の貴重さ。闇を照らす月の明るさ。それらを、日々痛感している。

そして、父ランドが最後に授けてくれたのは、一本の杖であった。

智杖ちじょう

マール教の司祭が携える祭器である。

元々は、放牧者が家畜を導くのに用いる杖を模して、祭事に用いられる様になったと言う。

父ランドが肌身離さず持っていた品だ。

その杖を、チャンゴは手に取る。

南でのみ取れる高級木材の黒檀こくたん製で、銀の細工が施してある。ズシリと重いが、それは見た目以上の感がある。

仕込み杖だ。

「つっ」と鯉口こいぐちを切り、柄を握って「しゃりっ」と引く。

鋼の刀が姿を現す。

刃渡りは、腕一本半分。

片手で扱うには限界の長さだ。

砂鉄を溶かし、固め、何度も折り込みよく鍛えた末、冷水と粘土で冷やす。鍛冶職が工夫を凝らし、ついに出来上がった品だ。

こういった製法は、日進月歩、日々新しい物が考案されているが、この刀については随分完成されている。

決して折れず、曲っても暫く静置すれば元に戻る。

良い刀であった。

三つある目釘めくぎを抜き、切羽せっぱを外す。水を、空ろになった柄の中に流し、固まった血や汚れを洗う。散歩中に拾った枝に布の切れ端を巻き、柄の中をよく拭う。鞘も同じように清掃する。

柄を直し、刀身の血脂ちあぶらをよく拭って、仕込み杖の手入れを終える。

「かつん」と、鞘を戻す。

まだまだ、この仕込み刀で斬らなければならない人間が、いる。

そいつらを斬って引っ掻き突き刺して、進む。

人を斬ってショックを受ける人間がいるが、チャンゴは違った。

人を斬るようになる前と後とで、変わったことなど無いし、むしろ、夥しい血を見た直後は、酒に酔ったように頭がボーッとする。気持ちが良くなる。

気分が高揚し、眠れなくなる。

チャンゴにとって人を斬ることは、苦ではない。時々聞く話だが、斬った相手の肉や骨を断つ感触が柄を通して掌に残り、夢に見る人間が居るそうだ。確かに、感触はよく分かる。その上、ぱっくり開いた傷口だってよく見えるし、血の臭いと、絶命時に漏れる糞尿の香りまでが鼻を擦り上げる。

だが、そうした物も、握ったエモノが良い刀ならば、いくらか心地が良くなるというものだ。

この刀ならば、何のストレスも無く人が切れる。

ただし、相手を斬る時は、自分も死ぬ覚悟を決めて掛かる。

自分の間合いは、即ち相手の剣が届く範囲でもある。傷つかずに仕留めようという程度の気持ちでは、踏み込みが甘くなる。だから、相手の白刃に身を捧げるつもりで挑む。それくらいの覚悟でなければ、一太刀で仕留めることは出来ない。

騎士道とは死ぬことと見つけたり、と先人は言った。常に死を覚悟していなければならない。

その緊張感を、常に抱えている。

その薄氷の上から免れるには、先へ先へと進むしか無いのだ。


チャンゴが皮剥ぎナイフや刻みナイフ、髭剃りの研磨をしていると、フエが訪ねて来た。

「ごめんつかあさいや」

セラが寝ぼけ頭を枕から引ばかして、応える。

「はぇ……」

「すんません。お休みンとこ」

「何かご用ぇすか?」

欠伸混じりに問うと、フエは悪戯な顔で、

「ちょいね、来て欲しいんよ」

と手招きする。深刻な様子とは違う。むしろ遊びに誘うような調子だ。睡眠欲より好奇心が勝る年頃であるセラを誘うには、充分な言葉だろう。

「何ですか?」

ご覧の通りである。

セラが言うより早く、チャンゴはブーツを履き始めるのだった。

フエに連れられ二人が行き着いたのは、畑の端、共有農具を仕舞う物置小屋がある一角であった。

そこには小屋の影に身を潜めた五人のガキンチョ。五人とも尻をこちらに向けて、何やら畑の方を窺っている。

そこにフエが声を落として、

「どねえな?こっち来よった?」

と話しかける。

「フエ姉ちゃんかな。んーん、まだじゃ」

子供達は、豪く真剣な様子で、畑から目を離さない。何かを待ち伏せしているようだ。

何事だろうか。

賊の類ならば、大人達が出張って来ているはずだ。女子供などは寧ろ匿わなければならない。

物騒なことではないのだろうが、どうやら遊びとも違う空気に、セラとチャンゴは身を硬くする。

「尼さんも牧師さんも、ラッキーじゃな」

セラと背丈がそう違わない男の子が、ひっひと笑う。

「ラッキー?」

セラが片眉を吊り上げる。チャンゴと顔を出し見合わせるも、いつも訳知り顔のチャンゴですら、眉根を寄せて首を振っている。

「まあ、見ときンさいや」

彼は舌なめずりして、畑の方に向き直る。

「お、来たで」

見れば、畑の向こうの茂みで、動いている物があった。

そう大きくない、黒い毛並みの、動物だ。

セラは先程フエが話していた足刈り熊を思い出した。あれがその熊なのだろうか。

「熊?」

セラが囁くように問うと、

「や。ありゃ猪じゃ」

フエが答えた。

「つまり、豚さん?」

「ぶた?ああ、ま、そうな。野生のブタじゃ。よう芋を食いあさりに来よるンよ」

豚は、人里で家畜として飼われている畜生としての呼称だ。

セラは基本的に城の外には出なかった為、猪は勿論、生きた豚でも、彼女には珍しい。もっとも、皿に乗った肉として対面することは多かったが。

なるほど。

ただ追い払うだけなら、簡単だ。フエ達が真剣なのは、あの猪を美味しくいただいてしまおうという魂胆があるからだろう。

「何を使うんですか?」

肉を傷めず仕留めるには相応の道具が必要だ。セラが先回りして問うと、フエは感心したように、ニマッと笑った。

「けえじゃ」

フエのかわりに、男の子が、手にした物を見せながら言った。多分、これだ、という意味だ。

一見、只の長細い厚布だが、拳大の石が、両端に一つずつ入れてある。

投擲とうてき武器だ。

投げれば遠心力で石が振られて打撃力を生み、更に、布が絡むことで相手の自由を奪う、そういう武器だろう。

「『サミイ』ゆーんじゃがよ、知っとる?」

布地の真ん中を掴んで石で膨らんだ両端をぶら下げると、何というか、男性の象徴の後ろに控えた右大臣左大臣に見えなくもない。チャンゴは噴き出しそうになるのを堪えて、感心したように真摯な顔を作る。いや、実際感心した。形体を無視すると、よくできた武器ではある。

それを持った少年が三人。

止めの棍棒を持った少年と、血抜き解体用のナイフを持った少女が一人ずつ。

少年が棍棒をチャンゴに渡して来た。

「トドメは大人でねえと難しいんよ。追いつく脚と、打つ力が要るけえな。頼めるか?牧師さん」

なるほど。二人が呼ばれたのはそういうことらしい。チャンゴは棍棒を受け取ると、その重さを確かめながら頷いた。

これで用意は万端だった。

「見とき」

五人とフエは畑の方を窺う。

チャンゴとセラも、その後ろから覗く。

見れば猪は、畑の芋を掘り返して食らい始めていた。凄い勢いで食っている。豚のようにがっつく、という言い回しの所以がよく分かるというものだ。

「お芋が食べられちゃう」

セラが囁き声で悲鳴を上げる。

「慌てなさんな」

フエが訳知り顔で、セラの口を塞ぐ。セラは、そんな畑を荒らす猪を傍観する歯痒さから、ウズウズと体を動かす。チャンゴに視線で『何故?』と問うと、チャンゴは笑っていた。何か合点がいったふうに、『見てろ』と促してくる。

チャンゴも、よく獣を獲る。

野宿する辺りで獣道を見つけると、そこを通っている動物の種類や大きさを足跡で見極め、罠を仕掛ける。翌朝、様子を見に行くと、たまに獲物が掛かっている。勿論、そいつを肉にするのもやってくれる。猟師に転職してもそれなりに暮らしていけるに違いない。

そんなチャンゴだからこそ、彼らの考えが分かるのだろう。

従い、待つ。

猪はガツガツと芋を平らげて行く。

暫く待っていると、セラ以外の七人が、ピクリと何かに反応し、顔を見合わせた。頷き合い、身構えた。セラには何が起きているのかサッパリだったが、見守るしかない。

次の瞬間、少年三人が猪目掛けて、フルスイングで「サミイ」を放っていた。

くるくると回転する三つのそれが、直線に近い放物線を描いて、猪を直撃する。

内一つが、後ろ足をホールドした。

よろめき、鳴き声をあげて走り出そうとする猪だが、止めの棍棒を振りかざしたチャンゴが既に走りだしていた。ナイフの少女も続く。

棍棒が打ち下ろされた後は、テキパキとしたものだった。

首の後ろにナイフを差し込んで絶命させ(セラは短い祈りを唱えてやった)、動脈を切って血を抜き、足関節の軟骨をぐるりと抉って足を外す。この旅でセラが解体作業を目の当たりにするのは、これで数度目。少し慣れて来た。最初の時は、肉が喉を通らないほど胃液で喉が焼けたものだった。

皮を剥いだら、四肢と皮を埋めてしまう。埋めるのは、他の獣が嗅ぎつけて来ないようにする為だ。チャンゴもよくそうしている。だが、ここにおいてチャンゴのやり方と違う点があった。

わたは出さないの?」

セラは疑問を口にする。

「出すで。出すけどの……」

肛門から刃を入れて、切り開く。どうやら消化器系は直腸と大腸を取り出したようだが、他は手を付けない。肝臓や腎臓等は別に料理するらしく、少年少女らで持ち帰る。

チャンゴとフエとセラで、村の真ん中にある家まで、猪を運ぶ。フエの家なのだそうで、フエの母親が火を起こして待ち構えていた。

「ありゃ牧師さんに尼さん。いらっしゃい」

フエが笑うと作る皺と同じところに、皺が刻まれている。よく似た親子だ。

かまどに、香草と酒を塗した猪を放り込んで、暫く待つ。待つ間は、村のことや、ここらの地勢について話を聞く。セラが聞きたがったのは、専らメシの話だが。

話の間に、手を洗い流した子供達が、フエの家に集まりだした。

また賑やかになって来たところで、

「さっきの話なんですけど」

セラが話の合間に切り出した。

「このブタさんを仕留めようと機を伺ってた時、皆さん一斉に、ここぞ、と思われたように思えたのですが、あれは?」

「うん?ああ、あれ」

フエが頷いた。

「風向きが変わったんよ。こっちが風上になったんで、猪に気取られるから、仕掛けにゃならなんだ、っちゅうわけじゃな」

「あいつら鼻がええ。深〜く埋めた芋も嗅ぎつけてきゃあがる」

子供達が代わりに答えてくれる。

なるほど。そういうことだったのか。チャンゴもそれを察知できていたあたり、獣を狩る時に風の向きは気にせねばならないというのは、常識なのだろう。

陽が傾いてきた頃、ようやく竈の蓋が開き、脂が弾けるブチブチという音とともに、濃厚な肉の香りがまろび出てきた。

フエが言った。

「さあ!今夜はこの猪で、祝いじゃ!」


夜風吹く星空も煮えたつ熱気であった。

教会前の広場に火が焚かれ、それを囲む様にむしろがしかれていた。そこに座した村人達が、手に手に杯を持ち、酒を飲み交わしていた。肴のメインは猪。

肉を切り分けている内から、お祭り騒ぎになっている。

猪の腹を捌いて、中を取り出した時、セラは、ああ、と思った。

猪の胃袋。それがパンパンに張っていた。中身は、

「お芋……」

猪が直前まで食べていた芋だ。それが胃の中で、茹だっていた。芋のガツ詰めだ。

なるほど、猪に芋を食わせたのは、この為だったのだ。

こいつを食う前に、簡単な挨拶をさせられたが、セラは何を喋ったか覚えていない。目の前のこの御馳走に気を取られて、挨拶どころではなかった。

独特の風味の肉に、ほどよくほぐれた芋が合わさっている。溶けた脂を吸った芋の濃厚なことと来たら。油断していたら涙がこぼれそうな味だった。

村人達も満足気に肉を頬張る。育ち盛りの子供達は、頬いっぱいに詰め込んだ肉から溢れてくる汁を拭いながら、食らっている。

肉も良いが、セラが気に入ったのは、大ぶりなキノコのグリルだった。こちらもよく焼いてあり、芳醇な肉の様な味がした。

さて、酒宴となると、酒である。

セラは、例の口噛み酒を前に躊躇していた。

これを飲まないというのは、彼らに無礼だろう。

しかし、口をつけ難いのも確かだ。

チャンゴは普段から飲まない質だし、秘密裏にセラの身辺警護の任もある為、断っている。

これが良くない。

飲みたくないのだろうと思われてしまう。

ならば、飲むのはセラの役目だ。

でも、やはり、しかし。

悪い人達ではないのだ。

無礼はしたくない。

そこへフエが盃を持ってやって来た。

「乾杯じゃ、アハールさん!」

ここで呑まねば、もうキッカケは無い。

「は、はい」

盃を合わせ、ええいままよと流し込む。

鼻腔に香ったのは、清々しい山風と香木。

舌に残るのは、甘さの強い、僅かな酸味。

「あれ?美味しい」

「あれ、とは何じゃ」

思わず出た感想に、フエが笑う。

「あ、いえ、すみません。そんなつもりじゃ」

「わかっとる、わかっとる。さ、もう一杯」

フエは更に酒を注ぐ。

これは美味い。強い酒ではないし、洗練されてもいないが、色々な味がする。

今度はよく舌で転がして、味わう。

もう一杯、干してしまう。

「他のもあるで」

「いただきます」

セラは機嫌よく盃を差し出すのだった。


背高黍から作った酒も、実に美味かった。腹から元気が出る味だ。元気に任せて、座ったまま、歌に合わせて体を揺する。前後に、左右に。

やがてクルクルと景色が回りだす。

何時の間にか立って、フエと一緒に跳ねていた。右手の杯からこぼれた酒が腕を濡らしているが、そんなことも気にならない。

チャンゴは、そんなセラの様子を眺めながら、水を飲む。責任上、酔っ払うわけにはいかない。

「酒はお嫌いかの」

杯を軽く掲げて、ゴノイが問う。

「飲まんのですか?」

ゴノイは、チャンゴにわかりやすいように再度、口をはっきり動かしながら、言った。

チャンゴは頷き、胸に片手を当てて、申し訳ない、とジェスチャーする。

「気にせんで下さい。酒が無くとも楽しめる人生こそ、本当なんじゃけ。クーワンの加護に感謝」

ゴノイはカラカラと笑う。

クーワンは快楽を司る精霊だ。シュシアヘッタイトにいた頃は、その名を看板にした居酒屋で、セラとラスケン、妹のマイラと四人で、よく酒盛りをしたものだ。あの平穏な日々は何処へ行ったのか。


セラの兄で、王子だった、ラスケン。

チャンゴの妹で、騎士の、マイラ。

今ではラスケンが死に、マイラとは敵対し、セラと自分は騎士団に追われる身だ。ああいう時が、また戻るのだろうか。

セラを見やる。

火に照らされた無邪気な笑顔。だが、火に隠れた側には影が落ち、夜の闇に溶けている。

半身を闇に食われた様な姿で、酔い、踊っている。

気丈に振舞っていても、父親と兄を失ったばかりの小娘だ。せいぜい今くらいは楽しんでも良いだろう。


宴もたけなわ。

絡んできたセラとフエを、チャンゴがあしらっている時であった。

「おい。余所者」

宴会に似つかわしくない、棘のある声がした。

チャンゴは声こそ聞こえないものの、目の前のその男を認めることが出来た。チャンゴを正面から睨んでいた。

目が険しく、眉間の皺が灯りで深々と刻まれた男は、年の頃が十代後半。青年という割には少々表情が厳しい。歳頃と顔つきではチャンゴと同じだが、体格が良かった。チャンゴより頭一つ分は上背があり、肉の厚みも二倍はある。首が牛のように太い。

たまにいる。

体がデカくて負け知らずのガキ大将が、そのまま大きくなった様な奴だ。

先程からチャンゴのことを見ていたのは気づいていたが、どういうつもりなのかわかりかねていたところだった。

「おい、ラオ、どねえしたんじゃ」

「やめえや、ラオ」

ゴノイはじめ何人かが、制すようにそう呼んだ。

「何、余興じゃ」

ラオはそう言って、興のひと欠片もない顔で酒をあおった。その顔が赤く膨れ上がる。酒のせいか、または何かに怒っているのか。

チャンゴはゆっくり立ち上がった。

ラオがこれ以上近寄って来れば、座っていると反応出来ない。

「どしたんよ。失礼じゃが。やめんさい」

フエが鋭く言った。酔っているとは思えないほどハッキリした声だった。

「引っ込んどれぃ」

ラオは取り合わず杯を干し、捨てる。視線をチャンゴから外さない。

取伏とりふしじゃ」

ラオは歯を剥いてそう言った。

取伏とりふし」とは、徒手格闘のことで、特に打撃を用いないルールのそれを言う。主な手が、投げ、絞め、極め、押さえ込み、である。

徒手格闘には、他に「組打くみうち」があり、これは先程の規定の他に、拳や足で相手を打っても良いというものだ。

「取伏」は、「組打術くみうちじゅつ」の一部として騎士団他様々な武力組織の基礎訓練に含まれる。

また、「取伏」は往々にして、子供の喧嘩や、遊び、見せ物として、市井に嗜む者が多い。所謂、民俗レスリングである。

「やろうや、取伏」

ラオは、それをチャンゴに挑んでいるのである。この体格だ。組めば無敵で鳴らしてきたのだろう。

それにしても、チャンゴは未だに分からなかった。ラオが喧嘩を売って来る理由だ。ただ単に余所の人間が気に食わないにしては、目が血走っている。

「どうなんじゃ」

話し合おうにも、チャンゴにはそれが叶わない。聾唖には辛いところだ。

観念したチャンゴは、マントを外すことで、それに答える。

「ちょっと、止しなさいよ。あんた牧師でしょ?」

セラが割って入ろうとするも、マントと杖と薬入れを押し付け、黙らせる。

「よっしゃ」

ラオは満足気に腰を落とし、構えた。両手を軽く開いて前に出す。

成り行きだ。仕方ない。

チャンゴも同じ様に構える。お互い右足が前。ただし、チャンゴの足のスタンスは少々広めで、前後への瞬発力を重視した構えだ。

村人達もこうなっては見守るしかない。だが、子供や若い男子など、半数は面白がっている様子で囃し立てている。

ゴノイとセラが村長のナクタハを見やると、ナクタハはゆったりと酒を飲みながら、二人に目配せした。程よいところで止めるつもりなのだろう。

ナクタハはどこかチャンゴの実力を見抜いているところがある。セラはそう思った。そうでなければすぐに制止している。それくらい二人には体格差がある。

チャンゴは「取伏」も「組打」も、剣術同様、父ランドから血が出るほど仕込まれている。

ランドはその道の達人だったが、このラオは素人同然だろう。そして、ランドとラオは、身長がそう変わらない。初めてのことなど無い。それに相手は酔っている。ここまではチャンゴにとって有利な点だ。

だが、肉の量が違う。力の強い妹マイラと取伏をやることもあったが、それとこれとではまた話が違う。肉の量の差は、時に訓練の差を凌駕する。体格に勝る素人に、玄人が不覚を取ることがあるのだ。特に、攻撃手段を制限される「取伏」では、それが顕著である。

さて、ラオとチャンゴは見合って動かない。

いや、少しずつ間合いが詰まっている。ラオが、爪半分ずつ、詰めている。

チャンゴは待っている。ラオの間合いを。

チャンゴは、ラオの間合いに入り、ラオが堪らずしかけて来るのを待ち、懐に飛び込むつもりなのだろう。

セラは思う。

チャンゴがラオより優っているのは、眼と脚、胆力。だとするなら、相手の出方を読み、その出鼻を挫くのが良い。ラオが来ようとするところを逆に飛び込み、その飛び込みざま、投げ飛ばす。そうするつもりなのだろう。

チャンゴは嫌な汗をかき始めていた。

構えてみてわかったが、思ったよりもラオはやる。

技が使える男らしい。日常的に取伏をやるのだろう。油断すればやられてしまう。

この間合いの詰め方は、素人のそれではない。上手い。

だが、考えたところで始まらない。自分に出来る最善を尽くすしか無い。

そんなことを思いながらも、チャンゴは少し楽しくなっていた。死ぬか生きるかの場所でなく、こうしたところでのやり合いも、悪くない。

と、ラオが急に踏み込んで来た。大きな手が、チャンゴ向かって伸びる。予想したより、速い。

が、チャンゴはそれより先に動いていた。咄嗟の反応だった。

伸びて来る手を払う様にラオの横を取り、踏み込んで来る足を土踏まずで掬う。

ラオがつんのめる。

そのままラオの体が転がる、かと見えた。

足をすくわれながら、ラオは払われた手でチャンゴの袖を握っていた。その手で倒れざまチャンゴを引き寄せ、転倒に巻き込んだのだ。

二人がもつれ合い、ラオの背中から地面に落ちる。

めまぐるしい攻防が始まった。

首を極めようとチャンゴが狙う。ラオはさせじと身を起こす。

チャンゴが、今度は地面に着いたラオの手を狙う。

ラオはチャンゴに覆いかぶさり、それを防ぐ。

噛みつき合った犬同士のように、グルグル回りながら互いに関節を取り合う。

二人が同時に立ち上がり、また組み合う。

チャンゴが投げの体勢に入った。入った時には、腰で担ぎ上げるように、鋭く体を跳ね上げる。剣で斬り込むような速さだ。

しかし、何と言うことか、ラオの体はビクともしなかった。

ラオが投げられまいと踏ん張ったからではない。脱力したのだ。

脱力。

闘いの最中に。

同じ重さでも丸太と水袋では感じる重さが違う。水袋を担ぎ上げるのは、丸太に比べると厄介だ。

力が入って体が強張っている者は持ち上げやすく、力を抜いて身を任せている者はそれが難しい。例えば死体が重いのはそういうことだ。

取伏の極意とも言える理論であり、チャンゴもよく言われたことではある。

だが、だからといって、投げられそうになった時に力を抜くなど、なかなか出来ることではない。

それをこの酔った田舎の若者が、やってのけた。

チャンゴの背中に覆いかぶさるようにして投げを防いだラオが、チャンゴの体を抱え上げる。

チャンゴは自分の両脚をラオの右脚に絡めて耐える。組んず解れつを繰り返しているうちに分かったが、ラオは力の加減が上手い。

脱力が上手いので、そうそう投げられない。

どうしたものかと考えあぐねているうちに、

「ったぁあああああぁっ!」

ラオがチャンゴを担ぎ上げるように投げ飛ばした。

凄い力で掬い上げられてチャンゴも泡を食ったが、くるりと受身を取ることが出来た。地面も柔らかかったのも手伝って、怪我は無い。

「そこまでじゃ」

ナクタハが割って入り、ここで決着となった。取伏は、倒してから押さえるか極めるかしての決着が普通だが、明らかに相手の抵抗力を奪う程の投げが出た場合も、決着である。

「ラオの勝ちじゃ。もうよかろ」

ナクタハはラオを制して言う。

「けどもよ」

ラオは不満そうだ。

「なんじゃ」

「牧師さんは息をあげとらん」

確かにチャンゴの呼吸は、多少速くなってはいるが、乱れていない。

「まだやれるはずじゃ」

ラオは肩で息をしながら言う。酒が入っているかどうかの問題より、チャンゴの体力が優っているのだろう。

「何をそんなにムキになっとるんよ!」

ラオの尻を蹴っ飛ばしながら、フエが言った。チャンゴとセラは目を丸くする。ラオ程の巨漢を足蹴にするフエの気性もさることながら、二人の関係が気になった。

「フエか、痛えじゃろが」

「阿呆っ。お客様であり牧師様であるシャモンさんになんちゅうことを!」

フエがシャモンことチャンゴの肩に手をやる。

「……ふん」

「なんよ。なんが気に入らんのよ?」

そこでナクタハがフエの背をそっと叩いた。

「それはの、お前さんじゃ、フエ」

「え?」

フエは勿論、セラとチャンゴも狼狽した。

だが、周囲の者達は訳知り顏で酒をやっており、ラオは居心地悪そうにそっぽを向いてしまう。

「なんなんですか?」

フエはナクタハに問うた。

「お前さんがシャモン殿にばかりかまうから、面白うなかったんじゃろ。のう?ラオよ」

聞けば、ラオは以前からフエのことを好いており、フエもそれを何となく知っていたものの、あまり相手にしていなかったのだそうだ。

ラオは不器用故にハッキリ物が言えず、対するフエはハッキリ言われねば分からない。

そんな二人であったらしい。

そこへ、シャモンという都会から来た若い牧師が現れ、フエが楽しげにじゃれているのだから堪らない。

そして、先程、酒の入ったラオはシャモンことチャンゴに喧嘩を売ったのである。

ナクタハの話の間じゅう、ラオは赤くなったり青くなったりしていたが、セラには、このラオという男が随分可愛く見えた。

それは多分、フエも同じであろう。

「なんよぅ。もぉ」

ラオの分厚い胸板を小突きながら、照れ臭そうに笑っている。

「ちゃんと物が言えん人じゃねえホンマに」

「うるせえ」

「ほら、シャモンさんに謝りんさい」

ラオは言われてハッとし、チャンゴに向き直ると、胸に手を当てて頭を下げた。

「すまなんだ、牧師様」

チャンゴは片眉を吊り上げながら、セラを一瞥する。セラも何だか可笑しそうにしている。

「ただのう」

ラオが頭を擡げて、チャンゴを見下ろしながら、

「勝負についちゃ、ワシゃ納得しとらんからな。またやろうや」

と、先程と打って変わった良い笑顔で、言った。

「そねーな謝り方があるかなアホ!」

フエがラオの尻を蹴飛ばすと、大きな笑い声が上がり、また宴会は元の調子に戻った。いや、むしろ、これまでラオに気を使っていた一部の者達も素直に楽しめることとなったので、余計に盛り上がったようであった。


翌朝。

頭蓋骨の中で石臼が脳髄を擦り潰している感覚に苛まれ、セラは目覚めた。

猛烈な尿意と吐き気、亡霊の如き気怠さで、軽いパニックに陥りながらも、何とか便所まで辿り着いたセラは、用を足しながら膝の間に頭を挟んで呻くことにする。このまま半日過ごしたい気分だった。

そういうわけで、この日はセラにとって短くも長い一日となった。

夕方頃、ようやくまともになった体を布団から引きずり出し、粥をたらふく食い、チャンゴの報告を聞く。チャンゴは喋るわけではないので、身振りや筆談で互いに応じる。

チャンゴはこの日まず、出立にあたって必要な物のリストを作ったのだという。リストを手に村の人間を尋ねて回ったのが、ちょうどセラが便所で禁酒の誓いを改めていた頃。

リストの半分はどうにかなったという。だが、残りは村の「仕入れ」の後になりそうだった。

「仕入れ」とは、このキヤンガ村と麓の町との間で行われる物流のうち、こちらから出向いて物を買って来ることを言う。

それが三日後に控えているのだそうだ。

しかし長居しては良くないからと、物の補充は十分とは言えぬまでも明日には出立するとの旨を伝えると、村の者達やナクタハから「少しくらい長居されたとこで、こちらは迷惑などと思わンですよ」とのことで、甘えさせてもらうことにしたらしい。

屋根のある場所での滞在は喜ばしいことではある。先を急ぎたい気持ちもあるのでセラとしては複雑な気分だが、致し方あるまい。

「うん、仕方ないわね」

二ヘラと笑いながらつぶやいてみる。暫くは美味い食事にありつけるぞ、という下心が丸見えの笑みだ。

その顔に、チャンゴが指を突きつけた。「ただし」という意味だろう。

「な、なによ」


気候的に涼しくなってきたとは言え、随分汗をかいた。

「疲れたぁ」

土の上に横たわる。既に作業着は土まみれなので気にしない。

「アハールさん、お疲れ様」

フエが声をかけて来る。こちらは余裕のある様子で額の汗を手拭いで押さえている。

アハールことセラは息を吐きながら応じる。

背高黍の収穫を手伝っている最中だった。

農民の生活は朝から昼までが仕事で後はノンビリしたものだ、と父親から聞いていたが、今は昼過ぎ。この村では当てはまらないらしい。

「ほれ、休憩したら次は向こうじゃ」

フエはニコニコしながら言う。

「はぁーい」

セラはまた溜息混じりに返し、よっこらしょと身を起こす。

刈り取り鎌を拾うと、フエに付いて歩く。

「アハールさんは若いのに鎌をよう使うねー」

「教会の畑を手伝ってましたから」

嘘ではない。セラはシュシアヘッタイト教会の管理する荘園で野良仕事をしたことがある。父王バルディンとランド牧師による教育の一環であった。下の人間の仕事が分からずに人の上に立つべからずという理念によるものだが、幼いセラには随分辛い経験だった。しかし、その経験もこうして活きているのだから文句は言えない。

セラは今、村の仕事を手伝っている。滞在を延ばしてもらう御礼にと、チャンゴがナクタハに申し込んだのだそうだ。

余計なことを、などとは思わないが、釈然としない。自分が牧師なのだから、有難いお説教とは行かぬまでも、耳触りの良い文言の一つも板に大書して寄贈するとか、そういったやり方は無かったのか。

と、文句の一つも言いたくなる。

「お、シャモンさんも戻られたの」

フエが山路の方を見やって言うので、セラも従う。

見れば、シャモンことチャンゴは他の若者達の倍の量の薪を背負って、山路を降りて来ている。これでは愚痴の一つもこぼせまい。

「へえー。シャモンさんはえらい力持ちじゃねえ?」

「無理してるだけかも」

セラに文句を言わせない為なら、あれくらいはやる男だ。どのみち耳が聞こえないというのに、こちらに何も言わせない憎たらしい奴である。

「さ、ウチらももう一息じゃ。行こうや」

「はぁーい」

不承不承といった返事でフエに続くと、フエが軽く噴き出した。

「なんか妹が出来たみてえじゃ」

「え?」

「いやすんません。アハールさんが可愛いけん、つい」

「もー」

セラは同じ笑みで応じながら、

兄のことを思い出していた。土の匂いを嗅いでいると、荘園の手伝いをサボって、ランド牧師から逃げ回っていた兄ラスケンの笑い声が、聴こえて来るようだった。

その兄も、目の前で死んだ。

暗い記憶が背中に貼りついて来るのを振り切るように速足で歩き、

「さ、行きましょ」

出来るだけ快活に言った。

セラは進まねばならなかった。

こうしてはいられない。

疲れなど忘れて、セラは黙々と鎌を振るい、その日の作業を終えた。


とは言え腹は減るし、眠くもなる。

「疲れたぁー」

セラはフエの家で風呂をいただき、教会の部屋に戻って来ると、布団に潜り込んでしまう。

しかし、それも束の間。夕食の匂いで飛び起きた。

何時の間にか戻っていたチャンゴと礼拝堂兼食堂に行くと、やはり夕食が用意されていた。

「呼びに伺うところでしたのに」

小坊主のカカが配膳している。

「恐れ入ります。まー、その、そろそろかなーと思いまして」

匂いに釣られてやって来たなどとは言えまい。

ゴノイ牧師が手を拭いながら炊事場からやって来た。どうやら彼が腕を振るったらしい。

「マールの恩恵と、ナキ、フフカ、マクマンに感謝して、いただきます」

ナキは骨の精霊で、フフカは肉の精霊、マクマンは血の精霊だ。この三つの霊は「健體霊けんたいれい」と呼ばれ、人間を含む全ての動物の肉体を作る精霊達だ。食事の度この霊達に祈り、各々自身の健康と、肉体を捧げてくれた動植物に感謝するのがマーレスト教のマナーである。

胸に当てていた右手で匙をひっつかんで、夕餉を食べ始める。

労働に勤しんだ後の飯は美味かった。温かいので尚更だ。

「いかがでしたかな?」

ゴノイが言った。

「おいふぃれふ」

「あ、いや、この村のことです。今日は野良仕事なぞしていただいてしまいましたが、少しでも居心地良くして差し上げたいと思うとりましての」

セラは慌てて口の物を飲み下し、

「ああ、はい、これ以上無いほど良くしていただいてますよ。ありがとうございます」

と礼を言い、冷や水を飲む。

「そりゃあ良かった。シュシアヘッタイトに戻られましたらば、是非ともこの村のことを宜しくお伝え願いますわ」

「勿論です」

ゴノイは満足気に、匙で煮込みを頬張る。

「ご飯も美味しいですし」

「そうですかな。何より何より」

「城下の食事よりも美味しいんですもの」

セラが過ごしていたのは無論城中である。

「アハール殿は貴族の出でいらっしゃるのでは?」

「はい。そうです」

「都会で食べる、料理人がこさえたご飯より、ここの食事がええと?」

「そう思います」

セラは部屋着のローブのお腹を、内側から指で弾いて、「おもいます」と裏声で重ねる。胃袋もこう言ってます、という冗談だ。カカが噴き出し、ゴノイも破顔する。

お世辞ではなかった。事実、王室付きの料理人達が振舞う料理より、美味い。旅路にあるが故の有り難みで、そう感じているわけでもないだろう。不思議なことであった。

「ははは。恐縮ですのう。しかし、それは正しい」

「というと?」

「田舎者や貧乏人ほど、美味い物を食うとります。旅の上で感じませんでしたかな?」

「うーん。はい、確かに。そうかも知れません」

「美味い物は、そうそう人に教えたりしませんからの。それに何より……」

ゴノイは一拍置いて、皿の上の料理に視線を落とす。しかし、焦点だけは遠くを見るようだった。

「飢えに飢え、必要に迫られて、何でも食うたからですよ。彼らに感謝せにゃいかんです」

セラは思い出した。自分が気に入ったあの茸のグリル。茸はその種の殆どが毒を持つ。それを煮て毒抜きをし、食べられるようにする。そういった工夫も、食べ物が他に無かったからだろう。

今、セラ達が食べている物は皆、先人達が食して、可としたから食卓に並んでいるのだ。その中には有害な物もあったろう。死んだ者もいただろう。

「そうまでして知った美味い物。これは宝石みたいなもんですわ。商売目的でない限り、人に教えたりせんでしょうのう」

セラは何だか頬を張られたような気がした。自分が城で当たり前に食べていた物でも、そうした背景があったのだ。

自分はどうだ。

酒の作り方一つ知らなかったのだ。

口にする物で、特に見た目でギョッとするような物。例えば生の玉鱗貝ぎょくりんがいなど、どう見てもヘドロの化身だ。そんな物でも食うと美味いし、高値で取引される代物だ。それを最初に食べようと思った人間がいたのだ。

「貧乏人ほど美味いもん食うとるっちゅうのは、真理ですわな」

セラはゴノイが笑うのを見ながら、そういう人々が今も大陸に沢山いることを憂いていた。

父王バルディンから聞いたことがあった。食うに困り、自分達の子供を煮て食べていた寒村の話だ。苦界に苦難多けれど、餓え程辛いものは無し。今思えば、子供に食べ物の有り難みを教える寓話にしては、出来過ぎている。あれは本当の話なのだろう。

そんな人々を増やしてはならない。セラは復権を益々強く誓うとともに、目の前の智者が作った暖かい料理をよくよく噛みしめるのだった。


それからは、よく骨休めをした。

二日の後、「仕入れ」に行く者達を見送りに出たセラとチャンゴは、フエとラオに、必要な物を記した端書と金を託し、待つことにする。

例の宴会以来、フエとラオは仲睦まじい。今回の仕入れ隊に二人が加わっているのも、逢引じみた感じがあり、何とも微笑ましかった。

「いってらっしゃーい」

牛に荷車を引かせながら行く彼らを、見送る。

その後は教会で水汲みと掃除、聖典の読み上げと御祈りをし、昼過ぎからはやって来る村の人の話を聞いたり(ほとんど世間話だが)していた。

そうこうしていると、もう夕暮れが近くなっていた。

教会の炊事場にゴノイとともに立ったセラは、夕飯の支度を手伝っていた。セラの、不慣れながらもクルクルと立ち回る様を、ゴノイは面白がっているようだった。

ゴノイとカカ、セラとチャンゴ。四人で食卓を囲むのも慣れて来た。

セラが貴族の出だと察しているゴノイは、ここらでは高級品の塩の壺を、当たり前のように食卓に置いてくれているのだが(普通は塊のままだし、厨房から出さない)、セラは遠慮して使わない。それを更に察して、先にカカが塩を料理に振りかける。「一番立場が下の自分が使うのだから御遠慮無く」という意味だ。セラはそれを合図に塩を使うようにしている。その流れがチャンゴからもよく見えているし、他にも、大皿の置く位置や、それぞれの匙の持ち方や、食べ方、色々が馴染みになって来ていた。

「いよいよ明日にはご出立ですのぉ」

ゴノイが笑いながら言った。

「寂しゅうなりますわ」

「なかなかこの山奥じゃお客さんも来ないですもんね」

セラが言う。

「いや、それもありますが、お二人の朗らかさに、心が和やかになっとったもんですけぇの」

「恐縮です」

いつも大抵会話はこの二人が交わす。カカとチャンゴは、その会話を受けて、互いに目配せしたり首を傾げたりする役だ。それも、今夜迄である。

「さ、さ、存分に」

ゴノイは少し多めに作った芋煮を、セラとチャンゴの器に盛る。

そうして夕食を楽しんだ後、早々に部屋に引き上げることにした二人に、

「仕入れ隊は夜中に戻りますけぇ、品物は、朝にお部屋まで届けます」

と、カカが告げた。

「ありがとうございます」

セラはカカの肩に手を添えて礼を言った。カカはまた赤くなりつつ、「では」と短く言って、去った。


寝床に入ったセラは、開け放した窓から見える、黒い木立がたてるざわめきを聞いていた。

闇に溶けた葉の間に煌めいているのは、星々だ。

「いい村ね」

誰に言うでもなく、呟いた。チャンゴに言っているつもりだが、チャンゴの耳には聴こえない。そんな独り言だ。

「畑仕事や山仕事は、そりゃ大変だけど、それでもさ、なんか、いいなって思う」

望郷の念あいまって、そう感じるのだろうか。

「家族やご近所さんと、みんな毎日一緒で、幸せそう。旅人がこういうところに、腰を落ち着けたくなる気持ちってなんかわかるな」

皆、気持ちの良い人ばかりだった。無事復権できた時には、このキヤンガ村に良くしてあげたいものだ。それくらいに思っている。

「いつか、私も、ここの人達みたいに」

その後は言葉にしなかった。形容し難い願望だったというのもあるが、言葉にしたところで、セラの失った物が戻ってくるわけでもない。手にしている幸せの種を、自分で撒くしかないのだ。隣の畑を羨んでばかりもいられない。

「おやすみ」

セラは息を吐くと、寝床に潜り込む。

チャンゴは、暗い闇を、半ば閉じた目で見つめていた。


夜中であった。

「夜分にごめんください」

耳が効くセラがまず目を覚ました。フエの声だった。

それ以外は、しん、と静かなので、一瞬聞き違いかとも思ったが、

「はぁい」

と返事をして、杖を握ったまま眠っているチャンゴを揺り起こす。外套を羽織る。

「お休みのとこ、すんませんなぁ。今しがた帰ったとこですわ」

扉を開けると間違いなくフエが立っていた。

「いえいえ。お疲れ様でしたね」

油灯に火を入れて、フエを迎え入れる。余所行きの格好のままのフエは、疲れた様子もなく、いつもの笑顔であった。

「明日の朝にはご出立ゆうことじゃけ、寝かしおいて差し上げるんがええのはわかっとるんじゃけども、ちょいと、お話がありましての」

「何ですか?」

「今すぐに……、」

そう切り出したところで、

「なんじゃフエここにおったか」

ラオがのっそりとやって来た。梁で頭を打ちそうになりながら、部屋に入る。見ると、他にも仕入れに行った者達が、何人か後ろにいるようだが、ラオの影で見えない。

「夜分にすんませんのう」

声を揃えて言う。

「いえ、それよりどうかされたんですか?」

セラが目をしぱしぱさせて、問う。

チャンゴも部屋の隅で静かに様子を見ている。肩幅に広げた足のスタンスからして、不審な訪問に警戒するような立ち方だ。

「うむ、うちの酒がいい値段で売れてのぉ。で、余分な儲けで蒸留酒を仕入れたんで、皆で今から長の家で酒宴をやろうやぁ言いよるとこじゃけ、誘いに来たんですわ」

答えたのはラオだった。

「そおそお」

フエが頷く。

「ウチはアハールさんにお土産もあるし、渡したかったんよ」

「なんじゃい、そんなん買っとったんか?何なら」

「あんたにゃ関係ないけぇ」

「ちぇ」

二人の会話の調子を面白がりながら、セラは快く応じた。

「ほな、わしゃ破戒坊主を誘ってくらぁよ」

ラオは部屋を出て、ゴノイの部屋へ向かった。

ラオはすぐにゴノイと共に戻ってきた。ゴノイは何か執筆でもしていたのか、煤油の跡を手に付けていた。

「ほんなら行こう」

フエとセラと、後で二人を村長宅までエスコートする若者一人が部屋に残ることになり、チャンゴとラオ、ゴノイと他の者達は先に村長宅へ向かうこととなった。

チャンゴは訝しげな様子だったが、一行に半ば強引に連れて行かれてしまった。出て行く時に、セラに向けた一瞥は、どこか不安げであった。前回セラが飲み過ぎたことを気にしているのだろうか。

「何よあの目」

セラは欠伸をかますと、フエに向き直った。

「で、お土産って何ですか?」

甘い物だろうか。期待で小鼻を膨らませたセラは、眠気を忘れて問うた。

「けぇじゃ」

これだ、という意味の方言も、ようやく聴き取れるようになってきたな、と思いながら、セラはそれを手に取った。

後ろの若者が動いた気配がした。


外は夜風が吹いていた。

チャンゴは感覚が敏感だ。

その風がいつもと逆に吹いているのを感じて、どこと無く不安を覚えた。

逆風。

毎日見ている景色でも、吹いている風の向きが違うだけで、違和感がある。

村長宅へ着くと、酒宴の準備が整っていた。椀と例の低い椅子が並んでいる。

「やあこりゃシャモン殿まで」

ナクタハ翁はくしゃりと皺をたたんで笑いかけてきた。

「けぇが今日仕入れてきた酒じゃ。醸造所で作っとるもんじゃけ、強えぇぞー」

皆の椀に注いで回る年少の若者が、チャンゴにも注ごうとしたところ、チャンゴは断る素振りした。胸に手を当てて謝辞を添え、酒は嗜みません、というジェスチャーをする。

それには誰も不満気な顔はしない。疲れているのか、顔も上げない。しかし、

「まあ、そう仰らず。シャモン殿に振舞う為に仕入れさせたそうですし」

ゴノイが椀を掲げて述べた。

ふと、チャンゴは思った。

ゴノイはつい先程、仕入れた酒のことを聞いたばかりのはずだ。立場としてはチャンゴと同じのはず。この訳知り顔はどうだ。そして、「仕入れさせた」と言うが、ナクタハの指示なのか。明朝には出立の浮草聖に、酒を?

風向きが怪しいのは、外だけではない様だ。

どうも話が変である。まるで、口裏を合わせられていない嘘のようだ。

酒は、運ぶには重い。チャンゴの為にわざわざ仕入れたなら、チャンゴが断れば、口々に飲め飲めと言ってきていいはずの彼らである。それが何故黙っているのか。

まるで、慣れない芝居をしているように、緊張している。そんな横顔が並んでいる。

「一杯で構いませんけ、どうぞお付き合いいただけませんかのう」

芝居だとすると一番上手なのはゴノイだろうか。

チャンゴはゴノイの目の動きに気がついた。ゴノイの目がチャンゴを見つめ、次に椀を見、ナクタハをそうと気づかれないように見、チャンゴに戻す。まるでチャンゴに何かを訴えるように。

そして、

(逃げて)

そうゴノイの口が動いた。喉を見れば声がでていないのはわかる。

全身が総毛立つ。

どういう訳だ。

何故彼らは、嘘を。

何故急に。

セラは無事か。

他にも手勢はあるのか。

杖を取ろうと、手をゆっくりとマントの下で動かして行く。

ひょいっと、杖が後ろに引かれた。見れば、カカが背後に立ち、杖を手にしていた。

「シャモン殿の杖は重うございますね」

笑うでもない表情のまま、言った。睨みつけられるよりも恐ろしい心地がする。

抜かった。奪い返しに立ち上がるか。しかし、体はまだナクタハの方を向いている。

「これこれ、カカよ。シャモン殿がお困りじゃ」

ナクタハの方に向き直ると、ナクタハは柔和な笑みを浮かべているだけだ。そのまま、言葉を次ぐ。

「いや、チャンゴ殿とお呼びするかの」

ナクタハの口から、ここ暫く久しい名が滑り出てきた瞬間、チャンゴは立ち上がりざま、ナクタハに躍りかかった。

セラと引き離された以上、人質を取るのが上策。それにはナクタハが適している。そう判断していた。


「騙したのね」

セラは、フエによって、後ろ手に縛られていた。

「悪ぃのぅ、お姫様。や、女王様かの」

フエはいつものあっけらかんとした調子で話す。背後に回られているので表情こそ見えないが、悪びれもない様子だ。

教会の礼拝堂へ連れられ、冷たい床に跪かされている。

正面の若者は木の棍棒を持っている。いつかの猪に止めを刺した、あの棍棒だ。若者は確か、ヒグルといったはずだ。既に報奨金の額を頭に思い描いているのか、にやにや笑っている。

「あんたにゃ分からまぁがよ。かつかつの生活っちゅうのが」

先程、フエが手渡した「お土産」である、手配書を突きつけて来た。

「のう?セラ・モンドグロス姫」

手配書には、炭油インクで描かれたセラとチャンゴの人相書きと、出鱈目な罪状が書き連ねられ、報奨金について詳しく書かれていた。

麓の町に貼り出されていたのだろう。不覚だった。

手配書によれば、セラは兄と共に領内務省のインフラ費を使い込んだ上、それがバレて王である父を謀殺した従犯者であるらしい。

「どうするつもり?」

セラは気丈に振舞った。臆してなどいない、という態度を取ることで、格の違いを知らしめるつもりだ。

「おっと、あんまり口を開くなや?知っとるで。呪文のようなもんを唱えて、人を呪い殺すそうじゃが。そんなん口にしようもんなら、コイツで歯を叩き折るけぇよ」

棍棒を手の内で弾ませながら、ヒグルが言う。方術について多少の知識があるらしい。

「あの牧師さんも、向こうで捕まっとろうて。でも、お上に引き渡す時は一緒じゃけぇ、心配すな」

「なめないでよね。あいつが大人しく捕まるもんですか」

「侮ったらいかんのはそっちで。お姫様」

言ったのはフエだ。セラという人質を取られたからと遠慮するチャンゴではない。彼らにはそれ以上の、チャンゴに対する抑止力があるということだ。

「どういう意味?」


チャンゴの喉元に突きつけられた刃は、老人の手に握られているとは思えない程、揺るぎが無い。

仕掛ける瞬間の隙を突かれた。飛びかかると決めてから、実際に飛びかかるまでの、僅かの間。

気付けば刀を突きつけられていた。

「ほう。良い眼じゃ。足を止めねば喉を突いとったぞ」

チャンゴは目を動かして刀身を見る。見覚えがある。騎士団の古い官給品だ。刃の焼きつけ跡が独特で、チャンゴの仕込み刀に似ている。刃渡りも同じくらいある。

そして、その向こうの暗い双眸を睨み返した。

こちらも見覚えのある眼だ。殺気を孕んだ眼。しょっ中見ているあの眼だった。

「わしも元々は騎士でのぉ」

ナクタハはその眼つきのまま、笑った。

下手に動けばそのまま喉を突かれる。

「すまんのぅ」

ナクタハは、椅子から少し腰を浮かせ、左足を引き、完全な「構え」を見せていた。

そうか。

チャンゴは思った。

この跨るようにして座る、低い椅子は、いざという時に立ち上がりやすい。客を相手にしていても隙を見せない為の、武人の作った物であった。それがこのナクタハなのだろう。だとすれば納得が行く。

チャンゴを後ろから抑え、手を縛るラオ。そのラオが持つ取伏の技。それを仕込んだのもナクタハだったのだ。

達人だ。

今の動きを見ても分かる。

一筋縄では行かない。

「村長」

ゴノイが声を上げた。

「急なことじゃったんで、一応は話を合わせとりましたが、私ゃどーも反対です」

「ゴノイ、何を言う。これは御上意ごじょういじゃ」

「しかし王室と教会に背くことになります」

モンドグロス王室はフロイス派教会を保護し、国教としている。そして教会は王室の権威を認めている。そういう相身互いの関係なのだ。

マール騎士団領は、モンドグロス王室とフロイス派教会によって保証されている。否、されていた。

城で実権を握る官僚達には、騎士団領を存続させる権威は無い。彼らは何かを「宣言」出来ても、「保証」は出来ないのだ。

彼らが立てるのは、同じ領土領地でも、違う国である。

ナクタハとゴノイは、元兵士と僧。主張が違うのは当然だ。

「いかに権威があろうと、立場を失えば人は人。風の前の木っ葉じゃ」

「いけません。人の命運は当人が拓くもの。我々が関わって良いものではありますまい」

「お尋ね者を匿ったとあっては村の名折れ。潔く突き出すのが領民の義務じゃろう」

「要は報奨金が目当てなのでしょう?」

ナクタハは顔を顰めた。縛り上げられたチャンゴを見、ようやく刀を鞘に戻したナクタハは、ゴノイに向き直った。

「それの何が悪い」

「金で極楽へは渡れますまい」

「しかし、金で永らえる命もあるんじゃ。自在天じざいてんがあるなら、何故我等に銭の雨を降らさんのじゃ」

ゴノイは歯を噛んだ。

そこでチャンゴは引っ立てられ、ナクタハの指示で教会に連行されてしまった。


暗い地下室であった。油灯ゆとうの仄明かるい炎だけが、揺れている。

土とカビと、油の臭いが混ざり合って、墓場に居る心地がする。

セラとチャンゴは、両手足を麻縄で縛れた形で、壁を背に座っていた。

ブーツと外套を剥ぎ取られた二人は、秋口とは言え底冷えのする地下で、肩をくっつけてようやく暖をとっていた。

先程から、チャンゴが素足に小石を挟み、地面に字を書くことでようやく筆談していた。

「金?そう言ったの?」

セラが問うと、チャンゴは頷く。

「お金に困っているようには見えなかったけど……」

セラは考えを巡らせようとしたが、一度頭を振った。

「いや、今はどうここを抜け出すか考えないと」

ここは教会の地下であった。食糧庫として使われているものだが、今は二人の為の監禁部屋だ。土を掘り起こし、柱を打ち込み、石と板で壁を作ってある。傷み方を見る限り、何十年も前に作られた様である。村になる前、兵站基地だった頃の備蓄庫だろう。もしかしたら捕虜を入れておく地下牢だったかも知れない。

捕虜。

兵士ですらない我々が何をしたと言うのか。

キヤンガの村人に何をしたと言うのか。

体の良いことばかり言っておいて、こういう意地汚い真似をしやがる。

だから人里は嫌いなのだ。

チャンゴは奥歯を噛み締めた。思考が憤激に凝り固まりそうになるのを、必死に堪え、チャンゴは周囲を見回す。

こんな時こそ冷静にならねば。

深呼吸しながら、暗がりに目を凝らす。

麻縄を切るのに使えそうな物はないか。縛られたまま、転がり、這い回り、部屋中を調べる。

セラの方術を使うか。

いや、彼女の術は「硬の法」と「流の法」が少々程度。あとは、「空の法」で、そよ風を起こせる程度だろう。

器用に縄を解いたり、切ったりはまだ出来ない。戸板を吹っ飛ばすくらいは出来るが、縄をどうにか出来なければ、逃げられないだろう。

朝には騎士団の追手がやって来る。ここを脱するだけでなく、距離も稼がなくては。少なくとも、馬が入れないような山深くまで逃げなくてならない。

セラもそれはわかっていた。

追手は近い。

だが幸いにも、仕入れに出た者達は、麓で手配書を見た際に通報していないようだ。

でなければ、今頃こんな所に放り込まれてはいまい。

情報提供のみなら報奨金も驚く額では無いが、捕縛引き渡しとなれば跳ね上がる。

その上で、保安士に通報するつもりなのだろう。

今、使いが走っているのだとすれば、刻限は早くて明日の昼前だ。

気持ちが焦る。

苛立ちと焦燥感が胸を焼くようだった。

縛られた腕に力を込めて、もがいた。

チャンゴで無理なものを解けるわけもなし。ダメで元々だった。

しかし、

「あれ?」

縄にゆとりが出来ていた。

「んーっ」

よいしょと引っ張ると、腕が自由になっていた。

「やった!」

セラは両手をチャンゴに見せる。

チャンゴは目を丸くしたが、すぐに、「早く」と急かした。

足の縄も解いたセラは、チャンゴの縛も解く。

「最近お菓子を食べてないからかしら」

セラは呟きながら自分の手首をさする。確かに細く滑らかだが大理石であるまいし、麻縄が食い込まない程ではない。

チャンゴは階段の上の、戸の向こうの様子を窺う。

隙間から見ると、通路の真ん中に机を置き、何人もの男達が、鎌や棍棒を手に詰めていた。素手でこれを相手にするのは、なかなか大変だろう。

セラはそれに聴き耳を立ててみる。

「王女さんには悪ぃけども、けぇで村にシャンとした柵を作れるのぅ」

「ほぉじゃのう」

「足刈り熊に悩まされることも無うなるのぅ」

聞き知ったことは大体こうだ。

例の足刈り熊に怪我をさせられたり、食い殺された者は数知れない。鳴子くらいではどうにもならないほど、足刈り熊は狡賢く、人の味を気に入っているらしい。

チャンゴに身振りと口の動きで教えてやる。

「いやぁ、けえで、手足無くした、穀を潰すしかねぇモン達を、畑に埋めるなんちゅうことも、せんで済むんじゃ」

冷たい汗が、セラの背中に噴出した。

畑に、埋める。

働くことが出来なくなった者を、殺して肥料にしていたと言うのか。

「そもそもよ、ええ苗を買うて来たら、墓に植える必要もなかろうて。毒にやられた土地でも育つ苗を買うんじゃ」

平和な村の肥沃な土地の秘密。

村に到着した日に、村の周りをぐるりと巡った時、覚えた違和感。

この村には、墓が無い。

医師も居ないし、傷病者もいない。

凶暴な獣がウロウロしている界隈で、これは妙な話だったが、これで分かった。

働き手でなくなった人間は、殺してしまっていたからだ。

そしてその骸を埋めた所に、時期が来ると種を蒔いて、畑にしていたのだ。ゴミや糞尿だけでなく、人間まで、肥やしにしていたのである。

セラとチャンゴに振舞われた料理を思い出すと、背筋が寒くなる。

もしかすれば冬にもなれば人肉食すら行われるのではないか。

彼らは、その後ろめたさを、宗教に頼り、人に親切にすることで、誤魔化して来たのだろう。

こんな邪悪もあるまい。

そして、恐ろしくも悲しい話だ。

だが、自分がその生贄になるつもりは無かった。

二人は地下室を捜し、武器になりそうな物を見つけようとしたが、小石と木片くらいしか無かった。

セラの方術とチャンゴの拳骨で切り抜けるしかないと、腹を括ろうかという時、チャンゴが何かに感づいた。

セラが、チャンゴの視線を辿ると、油灯の明かりが揺らめいていた。

「どうしたの?」

セラが問うと、チャンゴは油灯まで歩き、その火を見つめる。

火が揺れている。

上の戸には隙間があるとはいえ、この地下室はほぼ密室。

何故、火が揺れるのか。

ここには、そうと気づかない程に、風がある。

セラもそれを察した。

「うん、ベターな感じ」

二人は、同じ方を振り向いた。

部屋を捜索した際に、壁の板が僅かに浮いている箇所を見つけていた。先程はどうとも思わなかったが、そこが怪しい。

板の隙間に手をかざすと、有るか無しかの風が、ようやく感じられた。

ここは元々騎士団の兵站基地。脱出用の地下道だ。もしかしたら、普段は搬入用に使っていたのかも知れない。

どちらにしても、村の人間がこれに気づいているのかわからないし、どこに通じているのかもわからないが、活用しない手はない。

その壁板を調べると、下の端から指が何とか入りそうだった。そこを持って、二人掛かりで引いてみる。

ざりざりっと噛んだ砂に引っかかりながらも、板が外れた。

土の壁にポッカリと空いた穴。先は真っ暗だが、風が吹いているところからして、外に通じているはずである。

油灯の皿をセラが持ち、先行する。チャンゴは穴の内から板を閉めて、後に続く。

穴の径は一人分がやっと。もしチャンゴが先を行っていてつっかえれば、セラも立ち往生だ。

セラが先に立ったのはそういうわけだ。

穴は僅かに下っていた。地下室が入口で更に下っているので、斜面に囲まれた村からはかなら離れた所に出るはずだ。やはり脱出路だったのだろう。地下室の水捌けにも役立ったはずである。よく出来てきる。

セラはそんなことを考えながら、穴を補強している木材を跨いで行く。

ふと、セラが足を止めた。

木材の表面に、沢山の文字が刻まれていた。全て人名のようだった。

この地下道を掘った坑夫達のサインだろうか。

その中に、「キヤンガ・ヤコワル一等竜士いっとうりゅうし」とあった。

キヤンガ村の名の由来となった、騎士の名前だったはずだ。

何故騎士の名、しかもこの地の責任者の名が、ここに刻まれているのか。

考えても仕方ないので、セラは先を急ぐことにした。ここにはもう戻らないし、関係無いことだ。

果たして、虫の音が聞こえて来た。薮に出るらしい。

どん詰まりの、扉替わりの板をどかす。虫の声が大きくなった。

出口は、太い茎を持つ草が生い茂り、塞いでいた。その茎を踏んで倒し、二人は何とか外に出た。

「ここはどこかしら」

灯りで周囲を照らすセラが呟く。

ふいに、

「お二人」

声がした。

セラが身構える。チャンゴはそれを見て、そちらを振り返る。セラはチャンゴの耳がわりだ。いつでも音や声に対して素早く反応しなければ、それだけチャンゴの対応も遅れる。そのコンビネーションを見た声の主が、

「ほう」

と感嘆する。

「誰?」

「わしじゃ」

野太い声。

「ゴノイ牧師?」

彼は、カチンっと、ランプの石槌を打って火を起こし、灯った炎で自らの顔を照らした。

ゴノイだった。

「やはり地下道に気付かれましたのう。流石は陛下」

「もしかして、私達をあの地下室へ閉じ込めさせたのは、あなた?地下道のことを知っていて」

「そうです。縄を解くように言ったのですが、それは叶いませんでした。しかし、実はもう一人、同じことを考えた者がいましての」

ゴノイの背後から、もう一人が現れた。

「ごめんよぅ、姫さま」

フエだった。

「そっか、あなたが私を縛ったのよね。だからあんな簡単に解けたのね」

「縄の強さの塩梅がむっかしかったで。芝居もなかなか」

「ありがとう。二人とも」

良い人間も居たものだ。さっきまで恨んでいたのを悪く思う。

「二人を助けたいと思ったのが、わしだけでのうて良かった」

「ほんまじゃなぁ」

セラは二人の手を握って礼を言い、状況を聞いた。

ここは村から離れた大きな谷の中腹。

地下道のことはゴノイしか知らない。

ゴノイは先程まで、こうなれば自分が地下道を遡り、救出に行くしかないと考えていたところ、フエから「二人を逃がしたい」という相談を受け、話を聞けば、上手く互いの処置が功を奏しているではないか。

そして今、連れ立って迎えに来たというわけだ。

「逃げ道を教えちゃる」

フエはまるで姉の様に、セラの肩に手をやった。

「ありがとう、フエ」

思えば、仕入れから戻ったフエが、いの一番にセラ達の所へ来たのは、セラを誘い出してチャンゴと引き離す為ではなかった。他の皆が捕まえるつもりだと知らせるためだったのだ。

ラオ達を相手に芝居をしていたフエの心中は、穏やかでなかっただろう。

だが、フエの思惑と違ってラオ達も直ぐにやって来たので、セラの縄を緩く縛るくらいしか手立てが無くなったというわけだ。

フエを抱きしめたくなるセラだったが、後でも構うまい。

セラとチャンゴは、ゴノイから外套とブーツを受け取り、身支度する。食料は袋に雑穀少々だけだが文句など言っていられない。

「それと、チャンゴ牧師。すまんが、杖なんじゃがのう」

ゴノイは申し訳なさそうに、頭を掻いた。

「カカの奴が部屋に取り込んでしもうて、持ち出せんかったんですわ」

チャンゴは顔色も変えずに頷いた。

「すみませんのう。さて、道案内はワシらがしよう」

ゴノイが促した方とは逆に、チャンゴは歩きだした。

「チャンゴ殿っ。そっちは違うで。そっちは村の方じゃ」

フエの制止に、チャンゴは頭を振った。強い意志がその眼に灯っている。

セラは、

「チャンゴ。今は、逃げることを考えましょ。それが大事よ」

と訴える。

チャンゴ自身も、それは分かっていた。武器であり形見でもある智杖は大切な物でこそあるが、セラを守る為の物である以上、状況が危うくなっている今、捨て置かねばならない。

しかし、あの卑劣な人間達の手に父の形見を盗られたみとあっては腹の虫が治まらない。

「どうしても、必要なの、ね?」

セラが問いかけると、チャンゴは見つめ返した。

「こういう時だけは私よりガキなんだから。仕方無いわね」

セラがチャンゴに並ぶと、ゴノイは半ば呆れた顔で、

「そんなん言うとる場合じゃあねぇ思いますけどの」

と、また頭を掻く。

「すみません。でも、食料も心許ない以上、遠くには行けませんし」

「しかし……」

そこでフエがセラの手を取った。

「行こっ。うだうだやりょーったら夜が明けてしまうわ」

渋々のゴノイを含めて、四人は再び村へ向かった。


闇に沈んだ村は静まり返っていた。

夜中も過ぎ、朝が近づいている。

星の傾き方でそれがわかる。

村の周りに張り巡らされた鳴子に気を払ううちに、こんな時間までかかってしまった。

ランプを用心の為に消してあるので、月の明かりだけが頼りだった。

「今のうちね」

セラが木立の中から、村を窺いながら呟く。

四人は静かに歩き始めた。

畑の方から村に近づく。

と、背高黍の畑から、ぬうっと人影が現れた。

背高黍と同じくらいあるその背丈。この村には一人しか居ない。

「ラオっ」

フエが言った。

ラオはこちらに近づいて来た。

「どねぇした、フエ。こんな夜更けに」

「あんたこそ」

「わしゃ、何人かと祝い酒を、の。随分飲んでよぉ。んで、畑に肥やしをやりに来たっちゅうわけじゃ。うん?」

ラオはそこまで来て気づいたようだ。

「お姫様に聖堂騎士殿。ははあ」

合点が行った様子で頷く。

ここでゴノイが前に出た。

「ラオ、どきねぇ。ほんで黙っとれよ。わしらはこの人達を逃がすんじゃ」

ゴノイに続いて、フエはラオの手を握り、

「後でちゃんと説明するけんね」と諭すように言う。

セラとチャンゴは見守るしかない。

「わしゃ反対じゃな。じゃけど、条件次第で黙っとってもええ」

「なんよ」

「シャモン、いや、チャンゴ、とか言うたかの。わしともう一度勝負じゃ」

ラオは低い声で、言う。

「アホっ。こんな時に何をっ」

フエを遮り、ラオは続ける。

「こんな時じゃけえよ。長老相手じゃ本気にもなれなんだしのぅ。最悪、あんた死んでも構わんじゃろ」

怖いことを言う。だが、この村について知った今、そう驚くに値しない言葉だった。

「ラオっ。いかんて。話を聞き!」

フエが言うも、既にチャンゴは歩を進めていた。

「チャンゴっ、ダメよ」

セラの言葉は、たとえチャンゴの耳が聞こえたとしても、届いていなかったろう。

あまり時間が無い。

それに、口論していては、他の者にも気付かれるかもしれない。

やるしかない。

ラオは前回のことで自らを過信している。

それがチャンスだ。

それに、戯れで使ってはいけない技というものが、ある。

ラオが前に出る。この前と同じだ。ラオから仕掛けるつもりだ。

だが、何かを察知したのか、ラオが急に後ろに跳んだ。低く構えて、様子を窺う。

「牧師様、おめえ怖え眼をするなぁ」

ラオは既に薄く汗をかき始めていた。

セラ達からは、チャンゴの背中しか見えないし、チャンゴはただ立っているだけに見える。

ラオには一体どんな景色が見えているのだろうか。

と、チャンゴが足を踏み出した。腰が少し落ちてこそいるが、無造作に歩いている。

間合いを計ることもせず、ただ、近づく。先日とは違う攻め方だ。

ラオほどの体格の者に対し、この様な詰め方をする相手は、なかなか居ないだろう。

ラオも初めての経験に違いない。

ラオは、跳び退きそうになるのを堪えて、その場に踏み止まった。

そこへチャンゴが飛びかかった。懐へ、体当たりをかますように、飛び込んで行った。

速いが、何の工夫も無いタイミングだった。これではラオに技を合わせられる。

案の定、ラオは膝蹴りを合わせた。拳が出なかったのは、チャンゴの入り方にラオが戸惑った為だろう。

その太腿に、チャンゴは肘を打ち下ろして応じた。それでもラオの膝は相殺し切れず、チャンゴの体が浮くくらいの威力があった。

二人が組み付いた。

この前と違い、互いに髪を掴み合おうとし、更にそれを互いに防ぎ合う動きだ。ラオも多少は実戦の機微がわかるらしい。

髪を掴むと、相手をコントロールし易いのだ。

実戦でなければ使われない手。

それがラオにも分かっている。

しかし、チャンゴが上手だった。

ふいに頭を沈め、胴にタックルを決めた。

相手が頭髪を狙って重心が高くなりがちなところを、ふいに低く攻める。

功を奏してチャンゴが有利な体勢になった。

ラオがチャンゴの胴体に腕を廻し、体を抱え上げようとする時には、既に、チャンゴはラオに足を絡めて投げの態勢に入っていた。

これでは技が素直過ぎる。と、傍観する三人は思った。

この前のように、ラオは上手く脱力して、凌いでしまうだろう。そう予想された。

しかし、

「ぐああっ」

いきなり悲鳴を上げたラオが、宙で反転し、鈍い音と共に脳天を地面に叩きつけた。

見事に投げが決まっていた。

「ラオ!」

フエが叫び、駆け寄る。

セラとゴノイも、顔を見合わせ、続く。

チャンゴは膝まづいて、ラオを見降ろす。三人は駆け寄り、ラオを傍で見て、今の投げがようやく分かった。

ラオの横っ腹に、血が滲んでいた。投げの時に、チャンゴが噛み付いたのだ。

相手が脱力によって投げを防ぐなら、体を硬直させてやれば良い。それには、痛みを与えてやれば良い。

通常ならば当て身、つまり、突きや蹴りを当てて、それを誘うところだが、ラオとは、体格が違いすぎる。当て身が効き難いのだ。

だから、噛み付きを使った。

肉を噛み切られる痛みに身を強張らせない者が居ようか。

子供の喧嘩のようだが、これがなかなかどうして侮れない。

現にこうしてラオを簡単に倒してしまったのだ。

「ラオっ」

フエが呼ぶも、聞こえていないことは皆の目に明らかだった。

如何に丈夫とは言え、全体重を乗せて頭から地面に投げられたのだ。

首が折れ曲がり、裏返った目玉が土に塗れていた。

「惜しい青年じゃった。マールのお導きがあらんことを」

ゴノイが右手をラオの額に当て、死者の祈りを捧げる。

フエが、声も無く、くず折れた。

「そんな……。もう少しじゃったのに。アホゥじゃ、ラオ。このアホゥ」

ラオの胸に額を押し付け、呻く様に泣いた。

「フエ……」

セラはその背に手をやろうとしたが、身を起こしたフエがそれを払った。

「なんで!なんでこねぇならにゃいかんのよ!」

怒りに歪んだ顔は、暗闇でもハッキリそうと分かるほどだった。

「フエっ、声が大きいって!」

「関係ねぇわ!ラオと一緒にこの村を出るつもりじゃったんじゃ!それをこの人でなし!」

「静かンせぇ!」

ゴノイが口を塞ごうとすると、フエは振りほどいて立ち上がり、

「もう構わん!ウチはなっ、二人を山から下ろしたら、お上に突き出して金を作るつもりじゃったんじゃ!その金で自立するつもりじゃった!ラオと二人でな!それがなんでこうなるんよ!」

「フエ、おめえ正気かっ」

ゴノイを押し退けてセラがフエに食ってかかる。

「嘘でしょっ」

「嘘なもんか!一人ンなった今、もうどうでもええ!」

フエは、ラオにも内緒で画策していたのだろう。ラオは芝居をするには知恵が足りない。だから、フエはまず一人で、セラ達を一時解放し、取り入ったのだ。

しかし、もう芝居をする気力も無ければ、その意味も無いのだ。

「なんで!いい人だと思ってたのに!騙してたのね!」

「ここで暮らしたら分かるわ!もううんざりなんじゃ!」

二人は胸倉を掴み合い、互いに噛みつかんばかりの勢いだ。流す涙の意味は違えど、同じ形相で怒鳴り合う。

「二人とも静かにっ」

ゴノイは慌てるしかない。

チャンゴは、セラの前でフエを捻って黙らせることも出来ないので、人が来る前に動くことにした。

しかし、立ち上がったところで、更に人影が現れた。ラオよりかなり小さい。

「やれやれ。何かと思うて来てみりゃ、アホゥが揃ぉとるわ」

ナクタハだ。

「ラオを苦も無く倒すとは、なかなかやるのう。お前さんがやったんじゃろう?チャンゴ牧師」

なるほどこうして見ると、佇まいに凄みがある。強さを感じさせない強者程怖いものは無い。

「ゴノイよ。どうやら逃亡の幇助に失敗した様じゃのう」

「村長、私はやはり……」

ゴノイが強い調子で言おうとするのを、ナクタハは遮った。

「わかっとる。わしもな、お前と同じ意見じゃ」

「どういうことです⁈それならば何故⁉︎」

「村の者達の手前、ああするしかあるまい。ここに至って、目の前の金蔓を逃しては、積った不満も弾けよう。だから、格好だけ取り、後をお前に任せたんじゃ。教会で寝起きするお前ならば、地下道のことも知っとるじゃろうしな」

ナクタハの言葉を信じるならば、そういうことらしい。

ナクタハは、村人には二人の拘束を命じていたが、その実、二人が逃げられる様ゴノイに託していたと言う。

だが、本当だろうか。

そこで、村のあちこちから灯りが現れ、こちらに向かって来た。

この騒ぎだ。村人達が起き出してしまったのだろう。

「しもうたのう」

のんびりした声でナクタハが呟く。

「貴方は、元々騎士だったと聞きました」

セラが進み出る。

「お願いです。戴冠の折には、必ず御礼を致します。何とか……」

「うむ、何とかしたいところじゃ。任されよ」

皆が集まって来た。

灯りの他、手に手に棍棒や刃物を持っている。

彼らは倒れているラオと泣き伏しているフエ、セラとチャンゴを見、状況を察する。ガヤガヤと、逃亡者二人と、共に立つゴノイへの処遇について口々に言いながら、三人を囲むように散開していく。人々の眼に映る炎の色が、物凄かった。

人は群れると別の性格を露出する。連帯感は、残酷なことでも正当化し、遂行させてしまう。

セラは初めて、人の群を恐ろしいと思った。騎士団領の国主である父親を見て育ったセラには、騎士団はまだ「話の通じる相手」ではある。

凶暴な亜人種の連中や賊の集団なども、分かりやすいものだ。

だが、この者達は違う。

異質な敵だった。

本来ならば善良な人々。

それを、欲が怪物に変えてしまうのだ。

フエですら、私欲で裏切ったのだ。

それが群を成している。

群となると、歯止めは余計に効かなくなる。

父はよく一国を纏めていたものだ、と思う。

この小さな村ですら、セラには説き伏せられる気がしない。

目の前にいるのはこれまでとは違う、異形の敵であった。

セラは奥歯を噛んで、何とか踏み止まった。

その背を、温かい手が撫でた。

チャンゴだった。

目を合わせることはしない。同じ方向を睨みながら、二人は立っていた。

「皆の衆」

ナクタハが声を張る。

一同は傾聴して言葉を待った。

「どうかのぉ。ここは、このお二方には村からお引き取りいただこうや」

ナクタハの言葉にざわめく一同。

チャンゴがセラに視線を送る。

「逃がしてくれる、みたいだけど、どういうこと?」

セラが身振りを混じえて伝える。

チャンゴの渋面が一層きつくなる。

ナクタハは続ける。

「勿論、お二方はお尋ね者じゃが、こうなっては、お二方もタダでは捕まるまいよ。のぉ?」

と、セラに向かうナクタハの顔は笑っていた。

セラは、皆が挑みかかって来るなら、方術を使い抵抗するつもりだが、それが分からないナクタハではないはずだ。皆の気が逸り、誰かが仕掛ければ、死人が出よう。その状況でよく笑っていられるものだ。それとも、人が死ぬことなど何とも思っていないのか。

ナクタハの側の灯りが、風で揺らぎ、その皺だらけの顔が闇に消えた。

「わしはここの村ができる前、ここが騎士団の駐屯地じゃった頃に、ここにやって来ての。あの戦争を戦った」

灯りが再びナクタハを闇に立たせた。淀んだ眼がセラを見つめていた。

「この山あいの村々と協力し合って、前線に物資を送る任務に着いとった。じゃが、休戦協定が結ばれたその日、周りの村落の連中は、ここへ略奪にやって来た。キヤンガ司令以下部下三十名は、地下道を抜けて脱出を試みたが、失敗した。皆、地下道で死んでしもうた」

セラはあの地下道で見た、刻まれた名前達を思い出した。キヤンガの名もあった。あれは、あそこで死を覚悟した者達のサインだったのだ。灯りも無く、暗闇の中で彫ったのだろう。歪な字体だった。

だが、何故死んだのか。

地下道まで逃げ込みながら、何故?

「あなたが殺したんじゃないの?」

セラは思ったことを口にしていた。

「ほお。姫君様、何故そう思いなさる?」

「あなただけが生き残ってることから、推測しただけ」

「良い勘をしてなさるのぉ。そうじゃ、地下道の出口を塞いで煙で燻して殺した。皆な。ついでに、略奪に来た者共も地下道に誘い、こちらも同じ様にしてやったんじゃ」

からから笑いながら、ナクタハは言う。なんという男だろうか。

村人達が、さもありなんといった様子で聞いているところを見ると、作り話でも呆けているのでもないだろう。

そうやって得た金と物資で、自給生活をする基盤を整えたのだろう。

「なんでそんな話を?」

「うむ。姫、人は狡い。それが人の性なんじゃ。許されよ」

この村に来た日に見せた様な、柔和な笑みだった。最早正直なのか嘘つきなのか分からない。

嘘つきが、自らを嘘つきであると認める。

そこにはロジックの上で矛盾が生じる。

こちらを惑わす言葉だった。

「さ、もう行ってつかぁさい」

こうして見ると、ただの老人だ。

だが、これが人という怪物の姿なのだろう。

セラは思う。

雰囲気に流されて信用するな。

彼等はセラの方術を恐れている。

セラとチャンゴが背中を向ければ、「サミィ」が飛んで来るという寸法だろう。

そうでなくとも、二人を泳がせてから、後で捕まえる手段もあろう。ここらの山は彼等の庭だ。

ナクタハが本当に二人を逃がそうと考えていてくれているのなら、気心の知れたゴノイは何故黙りこくっているのか。これは、ナクタハの言葉を簡単に信じるなという意味の沈黙なのではないか。

チャンゴも同じ様なことを考えているだろう。どうしたものか。

と、いきなり、セラの首が後ろに引かれた。

「皆!動くなや!」

セラの喉に、冷たく鋭い物が当てがわれていた。

フエが、セラを抱えて山菜取りナイフを突きつけ、一同を脅していた。

「悪う思わんといてや」

フエの声が囁く。泣いていたせいか、嗄れている。別人の様だった。

「ええか!ウチはこのお姫さん連れて山降りるけーよ!追うなや?追って来たら、殺しておめえらンせいにして消えるけぇな!わかったか!」

「フエ!」

進み出たのはフエの母親だった。こちらも御多分に洩れず、手に鎌を持っている。

「母さん!悪う思いなや!」

「止しなさい!皆さんにご迷惑よ!」

あたしらには悪いと思わないのだろうかと、セラは歪んだ笑みを浮かべそうになる。

そこへ、カカが進み出た。

「やめて下さいっ」

カカはチャンゴの杖を携えている。

「その方はお城に戻らねばならないんですっ。だから騎士団に引き渡さねばっ」

カカなりに思うところがあったのだろうが、単純に慕った女性の危険に反応しただけだろう。

カカが、フエとセラの方に歩み寄ると、

「来んな!ウチは本気じゃ!」

フエが恫喝する。

次の瞬間、カカの前に影が立った。カカの手の杖から仕込み刀を抜きざま、フエの右手を斬りつける。

返す刀でカカの首を斬り飛ばし、鞘である杖をその手から奪う。

カカの小さな頭が、ごすん、と地に落ちる。

そこへ噴きこぼれた血が降り、カカの頬を打つ。

夜の血飛沫は真っ黒に見えた。

チャンゴの恐るべき早技。

快刀乱麻を断つ。

フエの母親の叫び声が一際大きく響いた。

動揺する村人達の一団に、チャンゴは斬り込んだ。

セラは、そのチャンゴの背と、首を失ったカカの体が倒れていく様を見ながら、何かを叫んでいた。

自分でも何を叫んだのかは分からない。

意味のある言葉ではなかったかも知れない。

カカに向けたのかチャンゴに向けたのかも、分からない。

ただ、チャンゴを止めなければ、と思った。

「こっちじゃ!」

セラは、左手で落ちたナイフを拾ったフエに、山路に連れて行かれた。

「早う!」

いつもこんなことばかりだ。誰かに手を引かれて、走っている。

血と刃。怒号と悲鳴。それらを背に走る。

憤怒と悲哀を抱き、地を蹴るしか無い。

村からいくらか下った山路の途中、

「もう嫌っ!」

フエの手を振り払い、両の足で地を掴んだ。

「お姫さん?」

「嫌よ。行かない」

フエはナイフをしまうと、血が滴る右手を押さえる。

「あんな、ウチは……」

溜息のように、言葉を吐く。

だが、それがいきなり絶叫に変わった。

血を吐くような叫び声。

セラの目の前で、あっという間にフエの体が逆さになり、更に足首を支点に一回転する。

めきめきっ

という音が鳴る。

フエが地面に落ちると、叫びも止む。

何が起こったのか。

視線を上げると、宙に白い物が浮かんでいた。

ギザギザしたそれは、紛れもなく獣の牙だった。

それが低い声で唸り、ふいに消え失せると、代わりに二つの光る目玉がセラを見つめ返した。

セラの背丈ほどの目玉は、のそり、と音を立てて膝くらいの高さになる。

下からセラを見つめている。

足刈り熊。

初めて目にした。しかし、暗闇に溶け込んだそいつの姿は見えない。見事な隠密術である。

バリバリと音を立てて、何かを食べ始めた。

暗くて見えはしないが、セラには分かった。

食いちぎった、フエの足首だ。

今が昼日中ならば、セラの目の前には凄惨な光景が広がっていることだろう。その証拠に物凄い血臭がしている。

だが、これは好都合だ。

この隙に逃げることが出来る。

「お姫さん……」

フエが何とか息を吹き返した。

「助けて……。ウチな、さっきまでは悪いこと考えとったけど、今度はホンマに逃がそうとしたんよ……?さっきは、皆を騙そうと……、ああしただけで……」

痛みと失血で朦朧としながらも、言葉を吐き続ける。

これも、最早信じていい言葉なのか分からない。

「信じないわ。でも……」

セラは初めから、逃げるつもりなど無かった。

「こうする」

目の前の闇の権化が、再び動き始めた。フエを食おうとしているらしいが、セラのことが気になる様子で、セラの方に近付いて来る。

血生臭い息が、セラの方を向いている。

セラは、「儀礼詠唱」を始めた。

方術の第一。

元服も迎えぬ小娘一人。野獣に立ち向かうにはこれしかない。

大空霊礼讃之項タイクウライライサンノコウ

「空の法」を行う。空気を操る術だが、余程高等でなければ、それで獣を倒すことなど出来ない。

だが追い払うだけならば、やり方がある。

力を腹の底に溜め、全神経で「空気」を感じ、それを「見る」。

御身手槍成我仇怨討オンミテヤリトナシワガキュウエンヲウタン

練り上げたエネルギーを撓ませる。突風程度で熊は揺るがない。

ならば、

「波っ!」

空気を奪う。

目の前の空気を引き裂き、隙間を作る。一瞬ではあるが、真空を発生させる。

パンっ

空気が裂ける音がした。

足刈り熊は飛び上がって、頭を掻き毟る。

鳴き声が殆ど聴こえなかったのは、周囲の空気が消失したせいだろう。

闇の形をした熊は、更に濃い闇へと風のように走り去った。今度は矢鱈賑やかな足音だった。

セラは肩で息をしながら、その足音が小さくなるのを聞く。

「……怪物達の夜ね」

今宵を評すセラは、玉の汗をかいていた。

踵を返すと、セラは村へと戻る道を急ぐ。背にフエのすすり泣きを聞きながら。


「何っ?セラと兄者を捕まえただと?」

「はい。山奥の村落にて、セラ・モンドグロス王女と侍者を、捕縛せしこと昨晩遅く。その旨、当地駐在保安衛生団に急ぎ取次ぎ願いたいとのこと」

騎士マイラ・ヨルムトギョームは、報せを受けて飛び起きると、鎧を肩に引っ掛けて旅籠の表に出た。

服を着ていると判り難いが、浅黒い肌と尖った大きな耳、そして毛に覆われた後ろ首は、彼女が亜人種のセクメト族であることの証だ。

亜人とは、人間族と違った身体的特徴を持つ人種のことだ。主に陸生獣人のことを指す。

中でも戦闘種族のセクメトは女傑族だが、筋力が強く、かつ、根が単純な性質を持つ為、兵隊向きと言われる。

マイラは、その特徴に全く当てはまる優秀な騎士である。

部下が馬を引いて来ると、鞘帯さやおびや鎧の胴紐を結びながら詳細を聞く。

乾物屋の前へと向かうと、そこに別の部下と、男が一人居た。

「彼がそうです」

男は百姓だった。

「保安衛生団の方ですかのう?」

男がマイラに問う。

「いや、保安士ではないが、我々は姫一行を追う特命を受けている。話は聞いた。案内してくれ」

マイラは、二人の部下と、男を連れ立って出立した。

行き道でパンと水で朝食を摂る。

「お前も食わんか?夜通し走ったのだろう」

マイラは薄く焼いたパンを半分に千切り、百姓に差し出した。身分の違う者でも対等に接するマイラには、目上目下は関係無い。

「宜しいんですかぃ?ありがとうございます」

「名は?」

「カダと申します」

部下二人は目を合わせて、やれやれと頷き合う。

上下社会の最たる組織である騎士団にありながら、マイラは気ままに日々を送っている。

何故なら、マイラが属するのは少し変わった性格を持っているからだ。

真紅のクリムゾン・微笑スマイル」と呼ばれる、非公然騎士団。領内に跋扈ばっこする異能、蛮勇が雇われ、これに帰属している。組織行動は殆ど無いが、それは各々が皆人格破綻者である為だ。

このマイラが良い例である。

騎士団に入る前は、札付きの放蕩無頼の輩であった。

それが今では勅命を受けて動く一等騎士だ。今度の命を受けて部下を持つにまで至っている。

部下二人はヒラの三等騎士で、「真紅のクリムゾン・微笑スマイル」騎士団員ではない。捜索の手伝いに付けられた人員である。

本来ならば遠征に参加しているはずの、この二人の部下は、名をヤッカとサナグと言い、どちらも騎士三年目の若者だ。亜人で、しかも女、その上同い年のマイラに従えられているが、不満顔一つしないのは、マイラのキャラクターによるものだろう。

明け透けだが嘘が無く、愚直だが明晰なマイラは、案外リーダー体質であると言える。

尤も、当初このリーダーに不貞腐れていた二人を、マイラが盛大にぶちのめしたことも働いているだろうが。

強い者が偉い。それが騎士団領だ。

「松が増えてきたな」

山道を登りながら、マイラが呟く。

「それが?」

ヤッカが問うた。

「松は痩せた土地に育つ。百姓の村があるには少々厳しい所だろう」

マイラが答えると、カダが頷く。

「ええ、その通りですわ。なかなか作物が育ちませんで、苦労しとります。足刈り熊もよぉけおるんで、人も寄りつきません」

するとサナグが目を見張った。

「足刈り熊」

「サナグ、知っているのか?」

「はい、隊長。シュシアヘッタイトの方ではニシシロキバグマと呼ばれている、小型の熊です。気性が荒く攻撃的で、他国防衛の要となっているこの白牙山脈を防壁たらしめている要因の一つです」

「なるほどな。だが、なぜそんな所に村を構えているんだ?」

男が頭を掻く。

「へぇ、それが、ワシらの長が、お上の構えていた基地跡に住んだのが最初とか」

「ほう。騎士団の基地があったのか。確かに、先の戦の時には、この山々は前線となったと聞いているが」

「ワシらの長も、元々は騎士であられたそうで」

「合点が行った。あの二人を捕らえたのだ。只者ではあるまいと睨んでいたが、そういう訳か」

どこか悔しい気持ちがこみ上げて来るのを、ふんっと鼻を鳴らすことで我慢したマイラは、カダに尋ねる。

「お前はその村で生まれたのか?」

「えぇ、そうです。その村におった母と、鉱夫として山に入っとった父の間に生まれました」

「鉱山なのか」

「だった、というべきかも知れませんのぅ。鉱物を取り尽くして、今は穴ぼこしか残っとらんとかで。あとはまぁ、鉱毒ですわなあ。鉱毒で土がやられてしもうとりましての」

「そういうことか」

マイラは合点が行ったふうに頷いた。

そこでヤッカが口を開いた。

「戦中、坑道を利用した、基地同士を結ぶ地下道が多くあったと聞いています」

「ふむ、なるほど。しかし本当に、お前達が居てくれて助かるよ。私はどうも地理歴史に明るくないんでな」

マイラは、兄であるチャンゴのことを思い出していた。

勤勉であった兄は、不良のマイラと違い、よく勉強をしていた。

街でマイラが喧嘩に明け暮れている間にも、チャンゴは山や森に入って薪や食料を取って来ていた。

マイラより地勢に明るく、ナイフ一本あれば高い山をも越えられるチャンゴ。

今回の状況と相成って、そんな兄に自分が追いつき、捕まえられるだろうかと、マイラは不安だった。

だが、そのチャンゴが、よもや百姓衆に捕まるとは。

チャンゴは耳が不自由なので、それも無理もないと思われるだろうが、セラも一緒だというのに、どうしたことだろう。

セラもまた、只の小娘ではないのだ。その気になれば大人衆を蹴散らすことも出来よう。

「騎士団ですら、あの二人には手を焼いていたというのに、よく捕まえたものだな」

「ええ。でも、あたくしらも、最初っからそのつもりだったわけでもねぇんですわ」

マイラはカダに事の詳細を聞いた。

「要は、騙し討ちだな?」

「そう言われちゃ身も蓋もねぇですが、お上に逆らっちゃあおえんですけぇ」

マイラはカダの笑い方が気に食わなかった。自らを卑下しつつも、どこか太々しい。

だが、似た笑い方をする人間を、他にもマイラは知っている。

こういう笑い方をするヤツは一筋縄では行かない。チャンゴは一筋縄で行く人間ではない。


歩いていると、マイラの鼻に臭う物があった。

まだ視認出来ない程遠くからだが、確かにそれは臭っていた。

人間の鼻では嗅ぎ分けられないであろう、僅かな人血の匂い。

セクメトであるマイラには、それが分かる。セクメトは猟犬の如く鼻が利くのだ。

山は様々な匂いに溢れている。

水、泥、土、石、苔、草木。水は水でも、流れがあるのと、そうではないのは、匂いが違う。土は土で、石が砕けたのと、腐葉土とではまるで違う。時折出くわす動物と、その死体の臭いも、獣それぞれで違う。糞の臭いもだ。それらが鬱蒼とした木々の香りの中に溶け合い、山を形作っている。

山が深ければ深い程、その匂いは濃くなる。

そんな中に人血が香れば目立つ。否、鼻立つ。

「おい」

「何でしょう、隊長」

「この先に、何かある」

「何かとは?」

「多分、人の死体だ。大量の血が風に溶けている」

ヤッカとサナグは、静かに剣の鍔の位置を確かめ、鞘帯を直す。マイラの鼻の良さは、よく知っている。

カダが無言で歩調を早める。

果たして、山道の途中に木の根が張り出しているところがあった。

遠目には何でもない木の根だった。

しかし、近づくと、それに寄り添う様に寝そべる少女の死体があった。すぐに死体と分かったのは、顔が失血で青ざめていたからだ。

「フエ!」

カダが声を上げた。

駆け寄り確かめるも、既に息は無かった。見れば、フエの右脹脛から先が千切れた様に消失していた。この傷で失血したのだろう。

「知り合いか?」

「村の娘です。惨い。この傷は足刈り熊じゃろうのぅ」

そこにヤッカとサナグが追いつく

「腕に刀傷もあるな。だが、致命傷になったのは、この脚だろう」

ヤッカは死体を一瞥して、傷から所見を述べた。腕の傷は、明らかに刃渡りがある物でつけられた傷だ。チャンゴの仕込み杖のそれとよく似ていた。

「熊の足跡もあるな」

サナグが言う。

確かに、そこら中に足跡が残っていた。だが、熊は娘の片脚だけ食い、どういうわけかここから去った様だった。

「しかし、わかりゃあせん。なんで止血せなんだか。そうすりゃあ、助かったかも知れんのに」

カダが言うとおりだ。繊維質の蔦が周囲にある。撚り合せれば止血帯に出来ただろうし、着ている物でも良かったろう。片腕が傷で不自由だったから?いや、口と、もう片手で出来たはずだ。

この娘は何故手当てをしなかったのか。

「助かりたくなかった理由があるのかもな」

マイラが言った。

「というと?」

「分からん。この娘にしかな」

兎も角、この娘は、助かったかも知れないのに、その努力を自ら放棄した。結果はこの通りだ。それ以上でも、以下でもない。

「弔いは後だ。先を急ごう」

マイラが先行する。

「村までいくらもあるまい」

「ええ、そりゃそうじゃけども、何故それを?」

マイラは馬の上で振り向いた。

「血の臭いは、ここからだけではない」


焼け焦げた原に、死屍累々。

幾十の死体が並んでいた。

一人のずんぐりした牧師と子供達が、それらを並べて鎮魂の祈りを捧げている。

「ゴノイ牧師!こりゃ一体⁉︎」

カダが、その眺めを前に叫んだ。

ゴノイと呼ばれた牧師が振り向いた。牧師のマントは着けていても、チャンゴとは容姿が違う。

それを見、ヤッカとサナグも剣を収める。二人はチャンゴの特徴をマイラから聞いている。太い体躯のこの牧師はそれに合わない。

「カダ。戻ったんか」

ゴノイは、この惨状の中、きびきびとした足取りで、こちらへやって来た。

「何があったんじゃ、こりゃ。エヒルは⁈女房は?」

カダの肩を掴んだゴノイは、彼に何か耳打ちして、その背を優しく叩く。

すると、カダは死体が並ぶ方へ無言で走り行き、何かを、否、誰かを探した。

やがて、何事かを叫んだカダは、その場に倒れ伏してしまった。その泣き声が木霊する。

それは、子供らに、ようやく治まった嗚咽を蘇らせてしまうに十分だった。

「やはりこうなったかよ」

マイラが誰に言うでもなく呟いた。

ゴノイがマイラ達の方を向き、挨拶する。

「騎士様方、わざわざこんな所まで御足労お疲れ様でございます。折角で申し訳ないんじゃが、こういう次第でございまして」

色々な物を乗り越えて来た顔つきをしている。このゴノイという牧師はここで見た以上の体験もしているのだろう。そういう皺の刻み方をした顔だ。

「マイラ・ヨルムトギョーム一等騎士だ。捕縛対象は何処か」

「あのお二人でしたら、南へ向かったようです」

「いつ向かった?」

「夜明け前のことですけ、もう随分になりますのぉ。それに、あの尾根へは馬では入れんですけぇ、出直されたが宜しいかと」

「それは我々で決める。礼を言うぞ、牧師」

「はぁ」

「二人はどの道を行った?案内を頼む」

「こっちです」

ゴノイが先に立つ。

三人は急襲に備えて馬を降りている。驚いた馬に振り落とされては反撃が出来ない。

「隊長さん、つかぬ事をうかがっても宜しいですかの?」

ゴノイが歩きながら、マイラの方を向く。

「私の名前か?人種か?」

マイラは待ち受けた様に、逆に問うた。

「お名前です。その、追っておられる逃亡者の名前も……」

「そう。ヨルムトギョーム牧師は、私の兄だ」

「そうでしたか」

「見ての通り、血は繋がっておらんがな」

「確かに」

「私には分かるぞ。お前が何を見たか」

「……」

「最初は、女子供を殺ったろう?思うに、首の無い童の骸があったが、あれか?」

「……左様で」

「多勢を相手取る時の上策だ。まずそうやって気勢を殺ぐ。そしてそれは不意打ちであったはずだが?」

「その通りで」

「父上が教えた通りの手だ」

マイラはどこか得意げだ。

「それで、その後は?聞かせてくれんか」

ゴノイは俯く。歩きながら、ゴノイは語った。


ゴノイは惨劇から目を離さなかった。離すことが出来なかった。

何より人命を尊ぶ聖職にありながら、あろうことか憧憬の眼でチャンゴという男を見ていた。

世に美技妙技数あれど、本物はこの様であるのか。

真っ直ぐ駆け寄り、邪魔な枝を払う様に人を斬る。

技を披露する剣士と言うより、忙しそうに働く職人の動きだ。

よく見ると、一人に二太刀浴びせている。確実に相手が死ぬように。

向かってくる者にも背中を見せて逃げようとする者にも、平等に二太刀。

武器を捨てて許しを得ようとする者の頭を、真向両断、胸まで斬り下ろす。

それを見た者達は更に震え上がる。

足が止まるのや、我武者羅に向かって来るのを、また草刈りの様に斬って行く。

やがて、村人達はすっかり平らになっていた。

むせ返るような血の匂いの中、チャンゴと向き合っているのはナクタハだけになっていた。

「ようもまぁやってくれたのう。チャンゴ牧師」

死屍累々たる周囲を見回してなお、表情は穏やかであった。余程の胆力が無ければ、こうは振舞えない。

「太刀筋がええのぅ。生半な鍛え方ではその様にゃ振れん」

ナクタハも、腰の剣を抜いた。

「じゃが、わしもまだまだ捨てたもンじゃねえぞ」

老人とは思えぬ殺気が、その剣先から迸る。チャンゴは臆することなく、それを受ける。初めてのことではない。しかし、目の前に立っているのは、明らかにチャンゴより手練れの剣士だった。

どう出たものか。

ナクタハよりチャンゴが優っている点。それを利用するしかない。

かくして、界隈きっての人殺し二頭が、互いを睨み合った。


村人達が持ち出した灯りは今や全て地面に落ちて、周囲の枯草を焼いていた。夜風に揺れる火が、大きくなりつつあった。

ゆっくりと、二人が動き始めた。

互いに右に動く。

ナクタハは右手を右胸まで引き、左手を臍の前にして、剣を担ぐ様な構えだ。打込み構えと呼ばれる、オーソドックスな騎士の構え。

チャンゴは両手を下げ、軽く両肘を曲げて、剣先が右向き一文字になる様に構えている。

互いに右へ足を送りながら、間合いを詰める。

二人が描く円が、小さくなって行く。

チャンゴが軽く剣を振った。斬りつけに行ったのではない。峰に付いた血を、ナクタハの顔に向かって飛ばしたのだ。

「甘いっ」

ナクタハは左足を引き、身を屈めて躱す。今度はナクタハが仕掛けようと前に出る。

チャンゴが左に振った剣先を、足元に下ろし、今度は振り上げる。

今度は、血とは別な物が飛んでいた。

重りが詰まった袋。

サミィだ。

チャンゴが斬り殺した村人が落とした物だった。

初めからチャンゴはこれを狙っていたのだ。

チャンゴがナクタハに勝る点、それは、眼だ。人は老いると動体視力が弱る。肩や眼の動きを読むことは出来ても、ふいに飛んでくる凶器は見えにくいだろう。暗ければ余計だ。

その通りだった。

「むっ」

ナクタハは狼狽しつつ、サミィを剣で受ける。だが、受けたのは回転する二つの重りの中心。振れた重りがナクタハの額を強か打った。

痛みと衝撃で、目の前に星が飛ぶ。このきな臭さ、何十年振りだろうか。

懐かしい感覚に、戦場での思い出が蘇る。

赤々とした新鮮な傷口を晒した死体。

真っ黒に焼け焦げた死体。

黒ずんだ緑色に腐敗した死体。

それらの臭いまで思い出す。

この若い牧師と、姿を重ねる青年が居た。その青年も、この牧師の様に人を斬っていた。

そうだ。

どこかで聞いた名前だと思っていた。

ヨルムトギョーム。

同じ名前だった。

三十年以上前に見た、あの青年。

「貴様」

チャンゴの刀が真っ直ぐ振り降ろされ、言葉は断たれた。


マイラは溜息を吐いた。

「すると、頭を断ち割られていた老人の死体があったが、あれはここの長か」

「はい」

ゴノイは村の端で足を止めた。目の前の茂みに、山道の入り口が開いていた。

しかし、道の先は細り、下草は深く、生い茂った枝葉が視界を遮っている。

「その後、お二人はこっから山へ入られました」

「追いにくい道だな。確かにこれでは馬も使えまい」

するとヤッカが馬を離れ、

「自分が先行します」

と、道を駆けて行った。数ヶ月間追ってきた相手が近いと分かり、気が逸っているのだろう。

「ヤッカめ、眼が血走ってたな」

マイラとサナグも馬をゴノイに託す。

礼を言い、山道に入ろうとする二人の背に、ゴノイが声をかけた。

「騎士様。私ゃ、ぎょおさん人間を見てきました」

マイラは足を止める。

「人間は卑しい。良い人間でも、ふとしたことで悪に走る。じゃからこそ、御教えを以て救わにゃならんのですよ。許し、正さねばならんですよ。けど、貴女のお兄様は……」

「嘘をつけ、牧師」

マイラが遮る。

「色々とお為ごかしを言ってはいるが、お前さんの本音はそんなんじゃない」

「……」

「お前さん、兄者が手練れと分かって肩入れしたな?だから助かった。生き残れたんだ」

マイラが鋭く言った。

ゴノイは息を吐くと、観念した様に肩を落とした。

「おう、おう、そうじゃ。わしゃ、見抜いた。理由無くとまで行かなくても、理由さえあれば人を斬りたくて堪らない人間じゃとな」

「腕前も、見抜けたか」

「おう、あの手、あの眼。味方をしておいた方が良いと分かりましたわ」

そこで、けたたましい鳴子の音が響いて来た。ヤッカが罠にかかってしまったのだろう。

「獣用の鳴子じゃな。音が向かいの山稜で跳ね返り、南の山向こうまで響いたじゃろう。これでお兄様は、貴方方の位置を知ることが出来た」

「くそっ。急がねば。暫く馬を預かってくれ。二日で戻る」

マイラは吐き捨てる様に言い、サナグと共に、ヤッカを助けに行く。


セラは鳴子の音を聴き身を固くした。

だが、予定通りのことだと心の内に唱えて、ゆっくりと教会の戸を開けた。

チャンゴと共に外を窺う。

そこへ、馬三頭を連れたゴノイがやって来て、

「さ、今のうちじゃ」

と手招きする。

「有難うございます。何人来てましたか?」

既に旅装束のセラがゴノイに問うた。

「三人です。思うたより少ねぇわ。他に別で待機しとるわけでもなさそうじゃし、今のうちですわ」

ゴノイはチャンゴの顔を見る。

「三人のうちのお一人は、チャンゴ牧師殿の妹君だとか、言うとりました」

「マイラね」

セラが代わりに答えるが、チャンゴも顎を引いて頷いて渋い顔を作る。

「皆様のご関係及び心中、察するには余りありますわい」

ゴノイはそう言って手綱をチャンゴに渡す。

セラは背嚢を負い直し、テキパキと荷を馬に載せるゴノイに向かうと、思っていたことを問おうと口を開いた。

「何故、貴方は……」

「助けるんか、ゆうことですか?」

「はい。事情こそあれ私達はあんなことを……」

セラは自嘲気味に微笑する。本来守るべき臣民を殺したのだ。セラが手を下していなくても、殺したことに変わり無い。

「姫様、わしゃのぅ、思うたんですわ」

ゴノイは、セラの力無い微笑みを見て、教会の前に並んだ死体達を指差す。

「官位やら宗教やら、家族やら友人やら、善意やら悪意やら、人生を彩る諸々は、死んだら失せる。人は、飯食って、子供育てて、死ぬ。それだけじゃ」

何も知らない子供達は、黙々と大人達の供養をしている。朝起き出して来た彼らには、村は山賊に襲われた、と説明してある。更に、彼らがマイラ達に口を滑らさないよう、チャンゴとセラが隠れているのは秘密にしている。だから、セラには、彼らに対する謝罪すら許されない。心が痛むとは真にこのことだ。

穴に葬られた親達に土をかける彼らの気丈さよ。その様を眺めるゴノイは、泣いていた。

「ここの村に来た時、ここの人らは死んだ者の肉を食いよーった。逃げて来た人非人や咎人の吹き溜まりじゃった。戦後三十年経ってもその有様じゃった。若かったワシは、ここをせめて普通の村にしよう思うて、頑張った、つもりじゃった」

ゴノイは振り返った。もう泣いていなかった。

「結局、一本の刀が、千の言葉に優ったがの」

チャンゴは俯くしか無い。

「見事な太刀捌き、正直、立場を忘れて魅入ってしまいましたわい」

ゴノイは皮肉を言っているのではない。事実を述べているだけだ。

「見て下さらんか。静かに眠るこン人らぁを。救いこそ出来なんだが、罰と死が訪れて、皆安らかじゃ」

「貴方は、それでいいの?」

セラが問う。

「勿論、良う無いですわ」

ゴノイはあっけらかんと言った。

「ワシは、それでも、千の言葉を信じます。千で足りにゃ、万の、億の言葉で。それがワシのやって来たことですけ」

「だから、私達のことも許すと?」

「ワシではなく、マールが許す。許して下さる」

「これからも、それを続けていただけますか?」

セラもまた、言葉を武器にする政治家の端くれだ。血気に逸った村人達を諌めて説き伏せることが出来れば、どんなに良かっただろうか。

その努力すら出来なかった。

どんな文句も頭に浮かばなかった。

言葉を武器に戦うことは、何よりも難しいことなのだ。

「貴方は正しい。どうか、続けて行って下さい」

「陛下の御命令とあらば」

ゴノイは笑って、セラの肩を優しく叩いた。

光を司る神を崇める司祭に相応しい笑みだった。


「もし耳が聴こえたら、少しはその耳も痛んだんじゃない?」

セラは先を歩くチャンゴの背中に向かって言ってやる。勿論、聴こえてはいまい。

馬は、断った。

ゴノイと子供らは、山を降りると言うので、今後の足しにして欲しいと思ったからだ。新しい生活を始めるには、何かと入り用だろう。

マイラ達を案内して来たカダという男については、ゴノイも話が出来ないそうなので、どうとも言えない。チャンゴに女房を斬り殺されて咽び泣いていた。こっそりと出て来て良かった。もしカダに気取られていたら、騒がれた挙句、チャンゴの仕込みがまた血に塗れることになったろう。

ゴノイには幾許いくばくかの路銀も渡した。旅の身であるセラが路銀を出すと言うのもおかしな話だが、仕方あるまい。ゴノイは今や大勢の孤児達を抱えているのだ。いくら渡して足りないくらいだと、セラは思う。

「ああするしか、無かったのかしら」

セラはチャンゴの背に呟いてみる。村の大人達を皆殺しにしてしまった。チャンゴがやったことではあるが、セラも同罪だ。セラも、それを望んでいなかったと言ったら、嘘になる。

痛快ですらあった。

それが恐ろしい。

本来なら親切な人達の死を、痛快に感じたのだ。

何と恐ろしいことか!

セラの様な元服前の娘にすら、暴力への欲求があったのだ。

自分の背中に、大きな毛虫がへばり付いていたことに気付いた心地がする。

しかし、その毒毛虫は、決して振り払うことが出来ない。直ぐには。

「次も同じことにならないとは、限らない。もし、またあんなことになったら、私……」

目線を足元に落としかけたその時、チャンゴの仕込み杖が高く鳴いた。

湿った音を立てて、チャンゴの正面から赤い物が横の茂みに飛んだ。

チャンゴの頭上の枝から、蔓の様な物が垂れていた。それが、ズルっと枝から落ちる。

頭を切り飛ばされた蛇だった。

毒こそ無いが、胴が太く、不意に出会うと噛む種類の蛇だ。

だが、気づいたのなら、避けて通れば良いはずだ。そうすれば無用な殺生はせずに済んだものを。

セラはチャンゴの背を見、昨夜のことを思う。

そして今更ながら、気付いた。

チャンゴは殺しが好きなのだ。

率先して人を斬ることは無いが、理由さえあればいつでも刃を抜く。

あの時、仕込杖を取り返しに村へ引き返したのも、人を斬り殺す理由が出来たからだ。殺戮に至る正当な理由があったからだ。

チャンゴはそんな自分に気付いているのだろうか?

自分もチャンゴもあの村人達も、皆のことが、恐かった。


セラとチャンゴの、二人の背を見送ったゴノイは、誰に言うでもなく呟いた。

「助かったわい。わしも役者じゃのう」

言ってから、適当な軒先にどっかりと腰掛けた。パイプで煙草を吸う。

怖い人間を味方にすることは、何よりの処世術だ。

ゴノイ自身、嘘を言っているつもりは無いが、相手にとって耳触りが良い様に言い方を変え、多少なりとも無償で世話をしてやれば、大抵悪くは思われない。

笑顔と奉仕は身を助ける。神ではない。

「化物が」

深々と吸った煙を吐き出すと、それが風に消える。

また風向きが変わっていた。

「今度はどっちじゃ」

風に訪ねたところで答える者は無し。ゴノイ牧師は旅の支度をすることにした。


死体があった。

フエの死体だ。

「やっぱり」

昨夜、熊を追い払った後、セラは真っ直ぐに村へ引き返した。

フエの弱さと卑劣さに腹が立っていたからだが、今こうしてその遺体を目の前にして、セラは立ち尽くした。

フエは死を以って、セラに謝罪しているのだ。

または、絶望して自暴自棄になったか、だが。

フエは恐らく、今度こそセラを逃がそうとしたのだろう。それを分かって欲しかったのかも知れない。

だから、自戒の意味も込めて、どういう手当も自らに施さなかった。

「そう考えれば、少しは人間に希望が持てそう」

チャンゴは、セラの口がそう動くのを見て、どうかな、と言いたげに首を傾げる。

二人は、フエの鎮魂を祈る。

埋めてやる時間も道具も無いので、始末は獣達に任せることにして、そこを離れる。

異教では鳥葬や、獣葬がある。

獣葬については、田舎の寒村等に見られる風習だが、それは死体を食べに来た獣を獲る目的もあるからだ。

もしかしたら、キヤンガ村でも行われていたかも知れない。

ゴノイはどんな顔で、それを見ていたのだろうか。

食うに困った人間は、動物と同じだ。

セラは山道に力強く足を踏み出しながら、

「でも、人間っていう怪物を、私は信じるわよ。例え噛みつかれても」

と、言った。

チャンゴが人を信用しないのを頼みにする様に、セラは信じることを拠り所にせねばならない。

何より、彼らを飢えさせ、怪物へと変えたのは、王室だ。

セラにはその責任があった。

道は険しかった。


マイラ・ヨルムトギョーム一等騎士は、持ち前の嗅覚で逃亡者を追ったが、二日目の朝、それがセラのパンツをかぶった猪であると気付いた。風向きが変わり、いよいよ獲物の細かな臭いが分かった時のマイラの顔たるや、ヤッカとサナグがギクリとする程だった。

三人が行った道なき道は、正に本物の獣道であったのである。

三人は直様キヤンガ村へと取って返した。

しかし村はもぬけの殻で、預けた馬の姿も無い。

鞍や馬具も勿論無い。

逃亡者の情報提供の懸賞には、高すぎる。

肩を落として麓の町へと降りると、町ではある噂が流れていた。

キヤンガ村が無くなった。

逃亡中の姫の怪しい術で皆殺しにされた。

難を逃れた牧師は、村の孤児達を人買いに売り払い、馬も金に変え、どこぞへ消えた。

いやいや、違う。あの牧師は孤児院に子供らを預けたのだ。

他にも生き残った男が居たが、恐怖で狂い死んだ。

いや、全ては嘘で、本当は大きな足刈り熊が村を全滅させたのだ。

善良な村人達だっただけに可哀想だ。

などなど。

どれが本当の話なのかは謎だが、一つだけマイラが頷く話があった。

「山に怪物が出たらしい」



つづく

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