第5章 画策
第13話 帰路
氷村の運転する車は、IMLに戻る山道にいた。
つい先ほどまで、一ツ橋インターチェンジからずっと、着かず離れずの車がいたが、坂戸西スマートインターチェンジを出たところでその車影は消えた。
取り越し苦労だったかと、氷村はそれまでの警戒心を解いた。
時折ルームミラーで、後部座席の男女の顔を観察したが、彼らの表情は能面が張り付いているかのように変わらない。まるで感情が無い機械のように見える。
ヘルムートによると、その男女は半島の国から送りこまれた工作員なのだそうだ。
拉致、あるいは殺害した人間になりすまして、日本国民として浸透し、何年も或いは何十年も母国からの指令をじっと待っている者たちだ。
彼らが属する組織――確か、統一戦線と言っていた――とは、ヘルムートがイエメンにいた頃からの関係らしい。
深くは知らない方が良いと言って、彼はそれ以上の事は語らなかったが……。
不意に氷村スマートフォンが着信した。画面に目をやると、たった今まで脳裏に浮かんでいた人物、ヘルムート・ベルゲマンの名が表示されていた。
「どうでしたか? ヘルムート」
氷村は訊ねた。
「君の言った通りだったよ。相手は、装備から推測してアメリカの特殊部隊にまず間違いないだろう。レーザーライスフルで、3カ所やられた」
「重症ですね」
「一口に重症と言っても幅がある。今回は軽度の重傷といったところだ。左頬に熱傷深度3程度の火傷。
ケロイドが残りそうだが、この件が一区切りしたら皮膚移植でもしよう」
「他の2か所も同じような火傷ですか?」
「右の脇腹には穴が開いたが。しかし、急所は外れている。レーザーメスで切られたようなものだから、出血は少ないし、感染症の心配も無い。
左目は網膜が焼けてしまったので、視野が半分になってしまったが、銃の照準を合わせるのには問題は無いだろう」
いやいや立派な重症だと氷村は思った。普通の人間なら死んでいてもおかしくない。
「しかし、逃げおおせたわけだ。まったくあなたの強靭な精神と体力にはいつも驚かされます。今はどちらに?」
「靖国神社のすぐ裏手。総連本部の近くの、統一戦線のアジトだ。
奴らは我々と主義も主張は異なるが、こういう時は、目先の利害だけで繋がっている方が、信用できるからな」
「これまで支援してきた甲斐もあったという訳ですね」
「そんなところだ」
「これから国外に出るまで、ゆっくり体を休めてください」
「ああ、そうするつもりだ。ちょっとネズミの駆除を済ませたらな」
「ネズミ?」
「そう、ネズミだ。ここにくる間、ネズミが一匹付いて来てきた」
「米国の特殊部隊ですか?」
「違うな。身のこなしに無駄が多かった。
確かめるために、何度もわざと隙を作ってやったが、襲ってはこなかった。多分日本の警察だろう」
「何故警察があんなところに?」
「やつらは荒っぽい戦闘行動には向いていないが、犯罪捜査に掛けては世界随一だからな。
一昨日、お前が連れている2人に指示して、こちらになびかない官僚3人を殺った。それで尻尾をつかまれたんだろう」
「そういうことですか。まあ、我々にとっては明日の朝までに、全ての決着がつく話。大丈夫でしょう」
「ああ、全く問題ない」
「ところで、萩生田所長はどうなりました?」
氷村は話題を変えた。
「あの場に置いて来た。襲撃してきた奴らに、保護されているだろう」
「仲間たちはどうなりました?」
「過度な反撃はせず、投降するように言ってある。全員が拘束されているはずだ」
「尋問を受けるでしょうね」
「彼らは末端の情報しか知らない。我々の計画には何の影響も無いよ」
「ところでヘルムート、もうすぐ我々の行動は表面化します。
そうなれば、責任感の強い萩生田所長の事ですから、必ずIMLに戻ろうとするでしょう」
「確かに、黙って外で、傍観していられる男ではないだろうな」
「そこでもう一度、彼を確保できるチャンスがあるはずです」
「どうやってやる? もう君は信用されていないだろう」
「次は少々荒っぽく、ここにいる2人を使わせてもらいますよ」
「というと?」
「IMLの入口ゲートで見張らせて、戻ってきたところを、確保してしまえば良いでしょう。
ここの二人だって、私達がIMLから退避する際の護衛役よりも、そっちの方がずっと遣り甲斐があるはずです」
「よかろう、任せるよ」
その言葉を区切りに、ヘルムートの電話は切れた。
「今の電話で、依頼事項は変更だ」
氷村はそう言って後部座席を振り返り、「この顔を記憶してくれ」と2人に、自分のスマートフォンを手渡した。
そこには萩生田の写真が表示されていた。
「その男の名前は萩生田という。今我々が向かっている場所、IMLの所長だ」
男たちは萩生田の顔写真を凝視した。
「お前たちの新しい任務は、ミスター萩生田をもう一度、生きたままで確保することだ。
しかし、もしも彼に護衛が付いていて、抵抗されるようならば殺害しても構わない」
二人は氷村の言葉に、無言で頷いた。
氷村のワンボックスが大きく左にカーブをすると、闇夜の先に明るいライトで照らされたゲートが見えてきた。
※
氷村がゆっくりと車のスピードを落とし、ゲートの前に車を止めると、脇にある詰所の中から顔なじみの警備員が出てきた。
氷村は運転席側のパワーウィンドゥを一番下までおろした。
「遅くまでご苦労さん」
氷村はポケットからIDカードを取り出し、警備員に手渡しながら、気を引くように声を掛けた。
「ああ、氷村さん。夕方お帰りになられたのに、どうなさったんですかこんな時間に」
「今日はまだ、大事な仕事が残っているからね」
「それはご苦労様です。今日はまだ、ほとんどの方が残業なさっていますよ。
大型のハリケーンが近づいて来ているからだそうです。日本に上陸しなければ良いですね」
「今度のハリケーンは強力なので、もしも上陸したら大変な事になるよ」
警備員が氷村との会話に気を取られている隙に、後部座席の2人は、運転席とは反対側のスライドドアを静かに開き、車外に抜け出していった。
男は車の背後に回り込んで、氷村と警備員の会話を伺った。
女は闇に乗じて一旦車から大きく遠ざかると、ライトの死角を突いて詰所に忍び寄っていった。
女が向かう詰所の中には、もう一人、別の警備員の顔が見えていた。
氷村は女が、詰所の扉付近に達したのを見極めるやいなや、サイドウィンドゥ越しに右手を強く差し出して、警備員の口を塞いだ。
すぐさま車の陰から男が飛出してきて、警備員の首に腕をまわし、頸椎をひねった。
人目を気にしない状況なら、毒物を使うよりもそっちの方が手っ取り早い。
驚いて詰所を飛び出したもう一人の警備員は、扉の陰に潜んでいた女が後ろから羽交い絞めにした。
女もやはり手慣れた様子で、警備員の頸椎をひねった。
ものの数秒ほどの出来事だった。
氷村は男が携行していたジュラルミンケースを車から下し、二人の目の前に置いた。
ロックを外してケースを開けると、中にはウレタンの緩衝剤に守られて、2丁のアサルトライフルが収められていた。
それぞれにグレネードランチャーまでが装着された重装備だ。
氷村は、銃を点検する2人に向かって言葉を掛けた。
「タイムリミットは、明朝の3時までだ。それまでにミスター萩生田が現れなければ、任務の成否に関わらず現場から離れて、出来るだけ遠くに逃げろ」
2人は氷村の指示に無言で頷いた。
「困窮した君たちの母国に、我々が支援を行っているのは、ただの善意ではない。分かっているな?」
再び2人が頷いた。
※
L&Wビルを1階まで下りた萩生田は、まだ少しだけ足元が覚束ないような感触を覚えていた。
萩生田は兵士の一人に支えられるようにして、正面入口まで移動し、アイリーンが運転してきたテスラLSに乗り込んだ。
「アイリーン教えてくれ。私の身には一体何が起きていたんだ?」
助手席に座るなり、萩生田はアイリーンに話しかけた。
「所長は今日の夕方、お出掛けになった直後に、何者かに拉致されてこのビル連れ込まれました。犯人たちの目的はまだ分かりません」
「あの男たちの中に、氷村はいたのか?」
「身柄を確保した犯人の中にはいませんでした。お言葉から察すると、やはり氷村事務局長が絡んでいたのですね?
一体どういう状況だったのか話していただけませんか?」
「部屋を出た後、一旦は車に乗ったんだが、バッテリーの不調のようで、モーターが始動しなかった。
何度試しても駄目だったので、事務局に別の車を用意させようとしたところに、偶然氷村が通りかかったんだ」
「車のバッテリーには細工がしてありました。氷村事務局長は最初から所長を拉致するつもりで、待ち伏せしていたんだと思います」
「その後は車内で気を失って、気が付いたらここにいた。私が車中で意識を失う間際、氷村は誰かに電話をして、『確保した』と言っていた。
多分あれは、私の事を指していたのだと思う」
「他の犯人と接触はありましたか?」
「私に銃口を向けていた背の高いゲルマン系の男と話をした。名前は名乗らなかったが、奴がグループのリーダーだろう」
アイリーンはそれが、先ほど屋上で撃ちあった男だと直感した。
「男との話の内容は、どういうものでしたか?」
「私に仲間になれと言った。それと、彼らの組織がハリケーンを操っているのだとも」
「一体相手はどんな組織なのですか? 目的は何ですか?」
「詳しくは何も明かさなかったが、目的は世界平和のためだと言っていたよ。馬鹿げた話だ」
※
アイリーンが運転するテスラLSは、裏通りを抜けて大通りを左折した。
「ひょっとして、ここは神保町の辺りか?」
窓の景色をぼんやりと眺めていた萩生田が、急に閃いたかのようにアイリーンに訊ねた。
「そうです。ご存知の場所なのですか?」
「私が大学を出て最初に務めたのは気象庁。ここのすぐ近くだ。
気象庁職員が飲みに行くのは、大抵が神田駅方面だが、私は飲み屋で上司や顔見知りに出くわすのが嫌だったので、いつも逆方向の、この辺りまで歩いて来ていた」
「犯人がここに拠点を置いたのは、気象庁に接触しようとしたのでしょうか?」
「それもあるだろうが、気象庁に限らず、官僚機構全体との接触が目的だったのではないだろうか」
「と言いますと?」
「神保町という町は地理的に、霞が関や虎ノ門、大手町など官僚組織が集中する場所とアクセスが良く、永田町や、麹町など政治の中枢にも近い。
防衛省のある市ヶ谷とも一駅の距離だ」
「なるほど、地の利があったのですね」
「そうだ。しかも奴らにとって都合が良い事に、ここは出版の街と学生街の印象が強いので、よほどの変わり者でなければ、政府の関係者達は出入りしない」
「密談するには好都合の場所という訳ですか……」
「ただの推測だ。しかしあの男は、もう既に政治家や官僚たちを、何人か自分達の仲間に取り込んだと言っていた」
※
アイリーンと話をしていながらも、萩生田には先程自分の身に起きた突然の出来事が、まだ夢の中の出来事のように思えならなかった。
加えて隣でハンドルを握るアイリーンのコンバットスーツ姿が、萩生田の心から現実感を奪っていた。
目の前のフロントウィンドゥには、アイリーンが接続してくれたタブレット端末から、ひまわり14号の衛星画像が表示されていた。
外部からはIMLの専用回線に接続できないので、萩生田が見ているのは、気象庁のホームページで公開されている気象画像である。
そこからは詳細な情報は得られないが、それでも全体像は把握できた。
ホンファの進行方向は、ほぼ北に一直線となり、現在は台湾の南東に位置している。
ハリケーンの規模はまだカテゴリー3のままだが、半径は萩生田が最後に見た時より一回り大きくなっているように感じられた。
萩生田が首相に会うためにIMLを出た時には、勢力を落としながら、太平洋側に抜けていくであろうと予測されていたホンファ。
しかし今やそれは、全く予想とは異なる方向に進んでいる。
恐らくこのまま北上し、石垣島、宮古島を飲み込んだ後で、尖閣諸島を通過し東シナ海に至るだろう。
その後どうなるのか?
東向きの進路で日本列島に上陸するのだろうか?
萩生田にはホンファが、まるで獲物求めて徘徊する獣のように思えて仕方がなかった。
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