第8章 気象衛星センター

第21話 アニル

「行こうか、アイリーン」

 マイヤーズとのTV会議を終え、萩生田は立ち上がった。


「所長、IMLに戻るのはお薦めできません」

 アイリーンが言った。


 IMLの所内には、氷村以外にも萩生田の拉致に加担した者がいるのは確かだ。

 アイリーンは、誰が敵か味方か分からない中に、萩生田を連れ帰ることは避けたかった。


 相手は今日、萩生田の拉致と言う思い切った行動に出た。

 一線を踏み越えた以上は、これから先はなりふり構わず萩生田に危害を加えよとする可能性が高い。


 アイリーンはそう考えたのだ。


「危険は承知の上だ。良く考えてみてくれアイリーン。

 大統領が私の提案を承認すれば、これから数時間後には、我々が指示するポイントに向かって、核ミサイルが撃ち込まれるんだ。

 絶対に間違いは許されない。万全を尽くすためにも現場に立ち会う必要がある」


 萩生田の強い覚悟に、アイリーンは従わざるを得ないと覚悟を決めた。


「心配するな、アイリーン。君のコンバットスーツ姿を見れば、誰も襲って来やしないよ」


 地下からのエレベーターの中で、萩生田はアイリーンの心配を気遣って笑顔を見せた。

 しかしアイリーンは萩生田に笑顔を返すことはできず、その顔はこわばったままだった。


「少しだけ、待っていただけますか?」

 大使館の車寄せで、萩生田を車の助手席に座らせた後、アイリーンはもう一度自動ドアの中に戻っていった。


 再び車に戻ったアイリーンの左腋下には、肩掛けのホルスターに収められた、9ミリのベレッタ自動拳銃があった。

 これから戦闘が行われる可能性が十分にあるという、アイリーンの覚悟の現れだった。


 萩生田を守るためとは言え、IMLに物々しく銃器を持ち込むことなど、ほんの数時間前には思いもしなかった事だ。


 運転席に座ったアイリーンは、胸元の拳銃に手を当てて、その冷たい感触を確認した。

 そして何かを決意するかのような面持ちで、正面を見据え、アクセルを踏み込んだ。


       ※※※


 IML所内では、アニルが自室でモニター画面を注視していた。


 石垣島の周辺を表示する地図画像に重なり、ホンファの中心部には、次々と局地的な高気圧を示す赤い点が現れては消えて行く。


 そしてその都度ホンファは、ものみごとに進行方向を操られている。アニルはその気圧変化の振る舞いに魅入られていた。


 気象は解析する事はできても、働きかける事はできないもの。いつの間にか自分には、そんな先入観が染みついていたようだ。しかしそれは間違っていた……


 今、ハリケーンが何者かに自在に操られている。気象の中で最もダイナミックな営みであるハリケーンが――だ。

 

 信じられない。しかし、それは現実なのだ。


 アニルはホンファの行動の全てが知りたかった。

 ホンファが操られている理由は何なのか? 

 誰がホンファを操っているのか? 

 そして、どんな方法でそれが行われているのか?


 そう、その思いは――、自分がまだ幼かった頃、初めて気象に興味を覚えたときのような、何の混じりけも無い、純粋で無垢な好奇心に似ていた。


        ※


「風はどこから吹いてくるんだろう?」

 子供の頃に心に芽生えた、小さな疑問がアニルの原点だった。


 インドの片田舎の貧しい村には、その疑問に答えてくれる大人は誰もおらず、毎日長い時間を掛けて歩いては、町の公営図書館に通って、気象に関する本を片端から読み漁った。


 そして、あらゆる気象現象に理由がある事を知った時、アニルは自然への畏敬の念を覚えた。


 地球の反対側で生じた、たった数度の海面温度の変化が、自分の村の天気に影響を与えているなどとは、それまで想像さえしたことがなかった。


 アニルは幼心に、いつか自分も気象の仕事に就きたいと思うようになった。


 そしてそれからは、必死に勉強をして学校で常に一番の成績をとる事が、自分に課したルールとなった。


 まだインドに根深く残っているカーストの壁を乗り越える方法と言えば、学力と言う明快な力で、自分をアピールする以外になかった。


 高校を卒業する時期になると、両親は地元の織物工場への就職を強く望んだ。そこは工員が2000人以上もいる日系アパレル企業の製造拠点だった。


 志願者が多く競争率は高いが、アニルの成績なら問題なく採用が決まるだろうし、それで一家の暮らし向きは随分と良くなるだろうと思われた。


 外資企業ならばカーストの縛りは薄いので、一生懸命働いて工場長に気に入られ、製造ラインの一つでも任されることになれば、弟や妹は大学に入れてやることができるかもしれない。


 しかしアニルはどうしても夢を諦める事ができなかった。そして両親の反対を押し切って、州の奨学金制度を利用して大学に進んだ。


 もちろんそこでも成績は、トップを譲る事はなかった。


 二年次の教養課程を終えた時、アニルは政府の交換留学生の資格を勝ち取った。

 そして三年次からオクラホマ大学に編入して、子供の頃からの夢だった気象学を専攻できることになった。


 そこで出会ったのが、教授になったばかりの萩生田だった。


        ※


 萩生田の研究室に入ったアニルは、すぐに頭角を現し、誰からも萩生田の右腕と認められるまでになった。


 萩生田の研究手法は素晴らしかった。コンピュータに地球の測地学的なデータを入力し、現在の観測データと共に計算をさせれば、自然界で起きているあらゆる気象現象に説明がついた。


 アニルはまるで自分が神に近づいたような気持ちだった。


 アニルは気象の世界でも、いつかトップに上り詰めるのだと思っていた。目の前には常に萩生田の背中があったが、必ずそれを越えてみせると真剣に考えていた。


 IMLでは萩生田の周囲に、ダグラスや張のような優秀な若手も集まっていた。

 しかし絶対に彼らに、自分の地位を譲りはしないと心に誓っていた。

 それがアニルを動かしてきた、原動力でもあった。


 ホンファの出現によって、アニルの心は揺れた。

 これまでアニルが築き上げてきた、あらゆる価値観が揺すぶられたと言って良い。


 気象が操れるものだと明らかになったというのに、自分はこれからもずっと受動的に、起きた現象の理由を探し続けるだけなのだろうか? 


 そんな事をしていて、自分は頂点の座に近づけるのだろうか? 


 目の前に見えている力―― 

 ホンファを操る偉大な力――

 手に入れたい―― 

 それをどうしても手に入れたい――


 そうだ、それこそが、自分の歩むべき道なのではないのか?


        ※


 アニルが見つめるモニター画面の中では、先程突如現れた西向きのベクトルが、刻々と強さを増していた。


 このままだとホンファの軌道は、真っすぐに上海に向かいそうに思えた。


 ホンファの半径は300㎞近く、大陸棚の移動で勢力は若干落ちたが、まだカテゴリー4の後半で、アジアを襲うハリケーンとしては過去最大級だろう。


 進行速度は若干の増減はあるものの、平均すれば110㎞程でずいぶんと速い。


 もしも上海を直撃するとしたら、日本時間の10時頃だ。暴風域には6時頃には突入する。時差を考えると上海は朝の5時。

 そんな早朝に、強烈な雨と風に見舞われることになる。


 これまで大きなハリケーンを経験したことがない上海だ。昨夜まではホンファが来ることなど予想もしておらず、今頃市民たちは、安らかに眠りについていることだろう。


 先程IMLからは、中国政府に警報と避難勧告を発信したが、深夜のこの時間にそれに気づく人々は数ないはずだ。


 ほとんどの市民が目を覚ますころには、もう外は強風と豪雨の真っただ中だろう。


        ※


 アニルのスマートフォンの着信音が短く響いた。萩生田からだ。


「アニル、その後の動きはどうだ?」

「移動速度は110㎞程で安定しています。このまま真っすぐに上海に向かいそうです」


「ホンファが何物かに操作されている事を加味した上で、これから先の移動予測をしたい。できるか?」


「ホンファが上海に向かう事が前提で有れば、移動予測はできると思います。この20分間のホンファの移動には、一定の法則があります」


「法則? どんな法則だ?」

「進路のベクトルは短い尺度では変動がありますが、長い尺度で見ると安定した単振動状のカーブです。

 長江気団の勢力が強い地点では速度に揺らぎが観測されます。

 要するに東向きの勢力が強いところでは、それに抗うために、速度の低下が発生しているという事です」


「君はそれをどう見る?」

「ホンファが操作されているとしたら、効率よく移動するための最適化が、一切行われていないということでしょう。

 何となく、目的地をセットして自動運行させているような印象です」


「分かった。それでは予測の必要条件だが、5時15分から30分までの15分間に渡って、ホンファの目の予想位置を可能な限り正確に知りたい。誤差の許容は50㎞以内だ」


「それは無理です。2時間以上先の位置予測だと、恐らく誤差の幅は300㎞以上になるでしょう。

 50㎞以内に誤差を収めるとしたら、30分先の移動位置を予測するのが限界です」


「逆に考えれば、5時30分の30分前、つまり5時の時点で予測を行えば、誤差50㎞以内でのホンファの目の位置が導けるという事だな?」


「その通りです」


――ICBMの発射時間直前まで粘り、そこで着弾地点を入力すれば良い――

――ぎりぎりだが何とかなる――


 萩生田は心の中でつぶやいた。


「分かった、アニル、それで良い。予測プログラムの開発にはどれくらいでかかる?」


「1時間ほどで出来ると思います」

「すぐに掛かってくれ。それが上海を救える最後の希望だ。私は今、そちらに向かっている。

 君のプログラムが出来る頃にはIMLに着けるはずだ」


       ※※※


 吉松の乗ったパトカーは緩やかに減速し、ゲートの50mほど手前で停まった。


「話を付けてくる、ここで待っていてくれ」

 吉松は運転席に警官を残して、ドアを開けた。


 ゲートの中にパトカーを入れなかったのには、吉松なりの考えがあった。

 警備員詰所からIML内に、いきなり警察来訪の一報を伝えさせたくないからだ。


 IMLの所内で何が起きているのか分からない中で、無用に自分の動きを、相手に悟らせたくはない。

 まずは守衛と話をして、構内をパトロールしてすぐに立ち去ると伝え、それから構内に入れば良い。


 そして中の様子を観察し、それから対応方法を考えようと吉松は思った。


「今晩は、警察です」

 警察手帳のバッジを掲げながら、吉松は歩いて守衛所に近づいて行った。


「こんな遅い時間に、何のご用でしょうか?」

 警備員が答えた。


「大した用ではありません。ハリケーンが近づいているということですし、構内に危険な場所が無いか、ちょっと見させていただこうと思いまして」


「こちらは国連の管轄する敷地です。治外法権ではありませんが、警察の方が入るには、中のものからの要請か、政府の許可か必要になります」


「いえいえ、そんな大げさなものではありません。

 上のものからの指示で、土砂崩れや倒木の危険のある場所がないかどうか、ざっとパトカーで見て回るだけです。そんなに時間はかかりません」


「困りますね、一応規則と言うものがありますので」

 警備員が僅かに顔を上げたその瞬間だった……


 吉松の背筋に、冷たいものが走った。


 警備員の唇の右側が、やや引き攣ったように持ち上がっていたからだ。


――あの男だ――

 官僚と日銀職員を殺した男に違いない。吉松は確信した。


 なぜ警備員詰所にいるのかは分からない。

 しかし、あの男が、本来ここにいるべき正規の警備員と入れ替わっている。


――どうする?――

 吉松の頭の中は、一気にフル回転をし始めた。

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