はんしん

田脇小足

第1話

 六車潤むぐるまじゅんは納戸に置かれた古い姿見の前に立った。立っているだけで汗がにじむ、六月の昼下がり、外では気の早い蝉がせわしなく声を上げていた。

 姿見にかけられたちりめんは、半分くらいのところで後ろにめくられているので、潤の全身を映すことはない。その細い腰から膝くらいまでを、うすぼんやりと映していた。

 廊下はうだるような暑さが充満しているというのに、納戸の中はひやりとしていて涼しい。天井に開いた小さな吹き抜けのような穴から差し込む日光も、床に近づくにつれて薄らいでいる。潤はそのかすかな明かりを頼りに、姿見の中を覗きこもうとしている。

 ちりめんを握る手は、じっとりと湿っている。胸元には、玉のような汗が浮かんでいる。潤は額に滲む汗を手の甲で乱暴にぬぐい、一気にちりめんをたくし上げた。

 そこに映る潤は、女そのものだった。切るのが面倒くさくて伸ばしっぱなしになった前髪は、やはり横に流して正解だった。母からくすねた赤いルージュは、彼の年には不釣り合いな濃さではあったが、女らしさを高めるのには一役買っていた。

 第三ボタンまで開けた白いシャツはもちろん女物だ。ひざまでの長さのスカートから覗く足は、きちんと手入れしたため、つるりとして日光を跳ね返している。あとはもう少し、ごつごつした感じがやわらげばいいのに。潤は自分の腿を、無意識に撫でた。

 その時、廊下からどかどかと床を踏みしめるような足音がした。まずい、と潤は肩を縮め、逃げ場はないかとあたりを見回した。しかし、足音は迷うことなく、納戸に近づいてくる。そして、扉が乱暴に開かれた。

「何やってるの、このクズ」

 潤の全身から汗が噴き出した。言葉を発そうとするが、口がわななくばかりで言葉にならない。そうしているうちに、胸ぐらをつかまれて突き飛ばされた。背中をまともに打った潤は咳き込む。

「さっさと脱いで、ちゃんと洗ってよね」

 潤は、差し込む日光に目を細めながら、咳き込んだ。

「ごめん、水無みな……」

 潤の顔に、唾が吐きかけられた。


水無と潤は、双子の姉弟だ。両親は、六月に生まれたふたりに駄洒落のような名前を付けた。潤は特にどうとも思わなかったが、水無は物心ついたころから自分の名前を嫌っていた。

「『水が無い』なんて変な名前をつけるのが意味わかんない。あいつら、馬鹿なんじゃないの」

 水無は普段、口数少なく従順で、如才ない少女を気取っていたが、弟の潤の前では、その荒々しい本性をさらけ出していた。彼女の本質は、おそらく両親すら知らないだろう。潤は、両親の前でこのようにふるまう彼女を一度も見たことがない。

 幼いころの潤は、そんな水無の態度におびえは感じていたものの、喜びも覚えていた。血を分けた自分にだけは、心を開いてくれている。そう考えていた。

 しかし、最近はその乱暴さもエスカレートしはじめていた。先ほどの唾もそうだし、わき腹をライターであぶられたこともあった。

「声を出したら一体どうなるか、わかってるんでしょうね」

 服を脱がされて床に転がる潤を見下ろして、水無は顔をゆがめ、低い声で囁いた。潤は近づけられるライターの火を見て震え、呼吸を浅くした。やがてそれがわき腹に達すると、大きく痙攣して自分の腕に噛みついた。

 火あぶり自体は十秒にも満たず終わった。こらえきれず、潤が泣き出したのだ。嗚咽を漏らすまいとして歯を食いしばりながらぼろぼろ涙を流す潤を見て、水無はつまらなそうに息を吐いた。

「何よ、せっかく手当してやったのに」

 水無はライターをその場に放ると、潤を顧みることもなく部屋を出て行った。

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