第10話  関節師

「そろそろ本気でいかせてもらおうか・・・」

黒川は満面の笑顔で動き出した。

黒川如水の真骨頂は打撃ではなく、むしろ関節技であった。

身長や体重で他の格闘者達に及ばない黒川は、関節技を二十五歳の時に習い始めた。

関節技は、人間の関節可動部の動きを封じる技であり、靭帯を損傷させたり、捻挫・脱臼をさせることも可能な危険な技である。特にその利点は、梃子の原理を十分に利用しているために、身長・体重・腕力に勝る相手と対戦したとしても、技術で対等以上に渡り合える点で有効な技でもあった。

関節技の虜になった黒川は、ひたすら関節技を研究し、対戦者の肉体を幾度となく壊して技術を磨いていった。しかし、あまりの人体破壊振りに危険を感じた格闘技界は、黒川を永久追放にした。

それから、黒川如水は裏社会に身を置く事となったのである。

「ククク・・・本気だと?」

西牙は、両手を横に伸ばして構えた。

黒川は両足のステップを止めると、西牙の体にすばやく跳び付いた。

西牙の下半身に高速タックルである。

西牙はすばやく二・三歩後退すると、黒川の動きを両目でしっかりと認識する。

黒川は西牙の両足があった位置を両手で掴もうとしたが空を切る。

西牙が二・三歩後退したために黒川の動きが無駄になったのである。

しかし、黒川の動きは止まらなかった。

そのまま体を低く保ちながら、西牙の右手を両手で掴みにかかる。

西牙は両手を黒川の正面に出して、前蹴りを放つ。

空気ごとえぐる様な重圧な蹴りが、黒川の顔面に向かって飛んだ。

「チッ!」

黒川は体を反転させてその蹴りを避けると、西牙の右手を両手で掴む。

そして、捻る。

西牙は捻られる方向に体を預け、同じ様に回転した。

二人の男が同じ方向に体を回転させている。

(やるじゃねーか)

黒川は西牙の右手から両手を離すと、今度は西牙の腰に飛びついた。

「・・・・・!」

黒川は愕然とした。

西牙の体がピクリとも動かないのである。

(な・・・馬鹿な?)

黒川は信じられなかった。

そして、右足を西牙の左足に絡ませてフロア上に倒しにかかる。

だが、動かない。

ピクリとも動かないのだ。

(な・・・なぜだ?)

どれだけ体重差があっても、相手のバランスを崩せば人間は倒れるはずなのである。

それが通じない。

(こ、この男・・・)

黒川は西牙の腰に回していた両手を離すと、低い体勢のまま西牙の後方に回った。

「もらった!」

黒川は西牙の背中を眺めながら、後方から首に両腕をするりと滑り込ませる。

しかし。

西牙は顎を前方に動かすと、両手を上空に高々と上げた。

黒川の両腕が西牙の首を締める寸前のことである。

「クッ!」

黒川は舌打ちをした。

西牙の首を両腕で締め付けるはずが、上空に上げられた両腕が邪魔して締め付けることができないのだ。

その時。

黒川の立っている下方向から、ドス黒い空気の波紋が流れ込んできた。

色で現すと、確実に黒である。

(・・・・・!)

黒川は全身に走る寒気を感じて、左方向にステップを踏んだ。

西牙の上半身が前方に倒れ込んでいる。

黒川がフロアから爪先を離した瞬間、西牙の回し蹴りが飛んできていた。

もう、一秒。

いや、コンマ数秒遅ければ、黒川は顎に蹴りを受けてフロア上に倒れていたはずである。

(な・・・何者だ?こいつは・・・?)

黒川はゴクリと唾を飲んだ。

今まで裏社会でいろいろな男達と戦ってきたが、これほど自分の攻撃が通じない相手は久しくいなかった。

黒川は考えた。

俺の腕が鈍ったのか、それとも・・・この男が強すぎるのか、と。

「いいよ、お前」

西牙はニヤリと笑うと恍惚の表情を浮かべた。

「今夜は最高じゃないか・・・」

西牙は両手を横に広げて大きく息を吸った。

黒川の笑顔が一瞬曇った。

いや、そんなはずはなかったが、その様な表情を汲み取ることが出来るほど、黒川の笑顔は引きつっていたのだ。

「最高だと・・・?」

黒川の中で何かが爆発した。

(笑わせるな!)

黒川は両足でステップを踏むと、もう一度西牙の体に低い体勢で飛び込んだ。

高速タックルである。

西牙は黒川の動きを静かに眺めている。

(俺の腕が落ちただと?)

黒川は、笑顔のまま西牙の体に肩から飛び込んだ。そして、電光石火の如く西牙の左手を両手で掴んで捻る。

西牙は右手で黒川の動きを止める。

しかし、黒川の動きは速かった。

(俺の腕は落ちてはいない!)

その右手に両手を絡ませると、西牙の腕を折り曲げる。

ミチッ。

靭帯が軋む異音が黒川の耳元に響いた。

(これで終わりだ!)

黒川は梃子の原理を利用した関節技で、軽く西牙の右腕を折り曲げた。

ボグン!

気味の悪い異音が鳴り響いた。

「・・・・・?」

(ん?)

しかし、黒川は自分の両手にいつもの感触がないことを感じた。

たしかに、音は鳴った。

だが、今までならこの角度で折り曲げれば、関節部分の骨を壊していたか、相手の靭帯が断裂していて、気持ちのいいバツン!という異音が聞こえていた筈なのである。

(な・・・なんだと?)

黒川は全身に寒い悪寒を感じた。

(こ、この嫌な感じは・・・)

黒川は両手を離すと、西牙の体から数歩後ずさりした。

「あぶないじゃねーか・・・」

西牙はニヤリと笑って言った。

黒川は西牙の右腕をしっかりと見た。右腕がダラリと垂れ下がり、確実に何かしらの衝撃を与えている筈である。

「ククク・・・」

西牙は低い声で笑うと右肩を左手で掴んだ。

そして。

床に向かって少し腰を落とし、右手の掌を床に押し付けて力強く押した。

ボグン!

西牙の右肩から骨と骨がこすれる音がした。

(・・・・・!)

黒川はハッと気が付いた。

「そういうことか、そういうことか」

黒川は笑顔の表情のまま静かに言った。

「ククク、あのままだと俺の靭帯が壊される所だったからな・・・」

西牙は、右腕の靭帯を壊されると思った瞬間には動いていた。

一秒。

いや、そんな時間さえもなかった筈である。

コンマ何秒の世界で判断しているのである。

西牙は、捕まれている自分の右腕を軸に、右肩を引っ張って反対方向に自分の体を捻った。

右肩の肩甲骨から右腕の上腕骨が外れる。

いわゆる、脱臼という行為である。

しかし、脱臼とは激痛を伴い、故意にできるものではないのだ。地面に変な倒れ方をした時に起こったり、おかしな引っ張れ方をして起こることが多いが、自分からその様な行為をする人間はいる筈がないのである。

だが、西牙はやってのけたのである。

それも、自分で脱臼を治して、肩を中心に右腕をぐるぐると回している。

「お前・・・何者だ・・・?」

黒川は笑顔であったが、幾多の表情が出せるのであれば、まさしく「驚」であったに違いない。

「俺か?俺は、西牙丈一郎」

西牙はそう言うと、ゆっくりと黒川に近付いて行く。

「さて、そろそろ本気を出せよ、黒川」

西牙はじわりじわりと黒川に歩を進めて行く。

異様な殺気を漂わせている。

ドス黒くて、闇の中に吸い込まれるような空気。

(な、なんだ・・・こいつの気味の悪い空間は・・・)

黒川は両手を左右に広げる。

そして。

西牙は右腕を前に差し出した。

(・・・・・?)

黒川は笑顔のまま、その行為を呆然と眺めた。

右腕を前方に出して立っている西牙丈一郎。

「こ・・・これは・・・?」

黒川の顔色が、みるみる変わっていくのがわかった。

笑顔しか作れない黒川如水の表情が、確実に怒りの表情に一瞬変化した。

「ククク、チャンスじゃねーか・・・。ほれ、掴んで自由にしていいんだぜ・・・」

西牙が頬を吊り上らせて笑う。

「お・・・お前・・・」

黒川は頭に血が上るのがわかった。

「俺を馬鹿にするのも・・・いい加減にしろよ!」

顔全体が赤くなり、両手両足がぶるっと震えた。

こんな若い男に舐められていると思った瞬間、黒川の怒りは爆発していた。

幾多の格闘家達と戦った経験を持つ黒川にとって、このような行為をするふざけた男は今まで一度も見たことがなかった。

いや、そんな行動を取れば、確実に黒川の関節技によって関節や靭帯を壊されて泣き叫んでいたからである。

しかし、西牙丈一郎は現実にその様な行動をとってきた。

よほどの馬鹿なのか。

よほど自分に自信があるのか。

「俺を舐めているみたいだな!」

黒川は西牙の差し出された右腕を両手で掴んで叫んだ。

(ありがたく頂いておくぜ!)

そして。

右足で西牙の右膝の皿の部分を蹴った。

(俺を舐めたことを公開させてやるからな!)

黒川は西牙の体がガクンと腰を落としたのを感じた。

「右手の関節と靭帯・・・ボロボロに壊してやるよ!」

黒川は全体重をかけて、西牙の右腕を捻った。

(決まった!)

黒川の脳裏では、西牙が床にひれ伏し右腕を押さえて叫んでいる姿が鮮明に見えていた。

だが・・・。

「・・・?!」

黒川は自分の体が動かないことに気が付いた。

全体重をかけて押し曲げた筈である。

しかし。

西牙の体、いや右腕はビクリとも動かないのである。

「ククク・・・」

薄気味悪い笑い声が、黒川の背後から聞こえた。

(あ、ありえるわけがない・・・)

黒川の頬に冷たい汗が流れ落ちる。

「どうした?終わりかよ・・・」

西牙はゆっくりと腰を上げていくと、右腕に力を入れる。

黒川の体がどんどんと押し返されていく。

「ば・・・馬鹿な・・・」

黒川は背中に嫌な危険を感じた。

今まで生きてきた中で、そう何度も味わったことのない動物的本能の危険信号である。

黒川は後方に飛び跳ねると西牙を見た。

西牙は白い帽子を床に放り投げると、ボサボサの茶髪を右手で掻きむしった。

「仏の黒川よ、お前は本当に最高だな・・・」

西牙は黒いトレーナーに両手をかけると、ゆっくりと脱いだ。

「俺をここまで楽しませてくれてうれしいぜ・・・」

西牙は黒いトレーナーをゆっくりと床に放り投げた。

そして・・・。

黒川はゴクリと唾を飲んだ。

両目が西牙の上半身を凝視した。

(な、なんだ・・・あの体は?)

黒川の全身に寒気が走った。

西牙の上半身を見た黒川は、今まで生きてきた中で二度目の恐怖と言うものを感じていた。

一度目は、両親に幼児虐待されていたあの時。

そして、今回が二度目の恐怖であった。

(ば、化け物か?)

黒川は爪の先から頭の毛髪までもが、西牙丈一郎の恐怖に怯えているのを感じた。幾多の格闘家達と戦ってきた黒川であったが、死の恐怖を感じたのは初めてであった。

「やっぱり、裏の世界の人間は最高だな・・・」

西牙は首を左右に振ると、上唇を舌で舐め回した。

恍惚。

そう、西牙の表情は快感を味わっている人間そのものであった。

西牙の上半身は、人間の域を超えていた。

全身の骨格に最低限の柔軟な筋肉が付いていた。

筋肉の種類は、打撃系と寝技系の筋肉が均等に散りばめられていたが、その体付きは神をも凌駕する程の創りであった。

ギリシャ彫刻の男性像よりも遥かに素晴らしく、相手を壊すために、殺すために、創られた完璧な肉体美であった。

そして、幾百数もの傷跡がさらに目を惹いた。

その傷跡は、切り傷、殺傷、銃弾の跡などである。

「そ、その無数のキズは・・・なんだ?」

黒川は静かに言った。

「ククク、聞いてどうする?冥土の土産に持って行くか・・・」

西牙は黒川の目前まで辿り着いた。

「ははは・・・」

黒川は動けなかった。

動物的本能が黒川の体を萎縮させたのである。

(こ、こんな奴・・・裏の世界でも、なかなかいないぜ・・・)

黒川は、百獣の王ライオンに睨まれた子犬のようであった。

額から冷たい汗がにじみ出る。

西牙は、黒川の右肩に手を置いた。

そして、そのまま床に力一杯押し付けた。

「ぐひっ!」

黒川は小さく呻き声を上げた。

右肩の鎖骨と肩甲骨が砕け、黒川はすばやく後方に飛んだ。

しかし、西牙は同じように床をふわりと蹴ると飛び上がった。

(こ、この化け物が!俺を試しているのか?!)

黒川は自分の右肩を見た。

ぐんにゃりとへこんで、肩の盛り上がりがなくなっている。

そして、すでに右腕・右手・右指五本が動かないことを悟った。

(くっ!)

黒川は左手の人差し指と中指を広げると、西牙の両目に突き立てた。

目潰しである。

相手の両目に突き刺されば、眼球を傷つけることが出来て視覚を奪うことができる技だ。

空中に浮いている二人。

西牙は黒川の指を右手で簡単に掴むと折り曲げた。

ぼききっ!

「ぐっ・・・・・・!」

黒川は叫んだ。

西牙は左手で拳を作ると、そのまま黒川の顔面を殴った。

めききっ!

西牙の拳が黒川の顔面に吸い込まれる様に突き刺さる。

(こ・・・殺される・・・!)

黒川は意識が遠のいて行く程の衝撃を顔面に受けた。

体が空中で二回転したのを感じた。

そして、白い物体が飛ぶ。

無数に。

(な・・・なんだ・・・?)

黒川は両目を細めて、白い物体を凝視した。

「・・・!」

歯だ。

それは、黒川の歯であった。

黒川の体が床に轟音と共に落ちる。

「おいおい、最後まで楽しませてくれるじゃねーか、お前」

西牙はニヤリと笑った。

黒川は震える体を動かして立ち上がった。

右肩はぐんにゃりと下がり、左手の人差し指と中指は掌とは真逆の方向に折り曲がっていた。

真っ赤な血が床のフロアにボトボトと落ちる。

鼻は顔面に陥没し、下顎は後方にめり込んでいる。

「ひぃ・・・ひぃ・・・!」

(や、やめろ・・・もう、やめろ・・・)

黒川は何かを話そうとしたが、言葉すらも発することができない状態になっていた。

「ククク、うれしいのか?俺と戦えて?」

西牙は黒川を見た。

(人間なのか・・・こいつ・・・。いや、人間じゃない!)

黒川は足腰をガクガクと震わせていた。

「そうかそうか、最後にプレゼントが欲しいのか・・・」

西牙は両目を輝かせると、両手を左右に広げ両足を閉じて立った。

ゆっくりと両足を広げて腰を落とす。

体を半身だけ黒川に向け、右拳を力強く握り構えた。

そして。

揺れるように。

床を。

蹴った。

爪先から足首に力が伝わり、膝を通して腰に充電される。

腰の回転を伴い、さらに倍増した力は肩で爆発した。

爆発した力は、肘・手首を経て拳に宿る。

「・・・・・・!」

黒川は目を疑った。

西牙の体が目前に迫ったと思うと、下方向から右拳が飛んできたからだ。

いや、その時はすでに黒川の意識はなかった。

人間の領域を超えたスピード。

右拳が黒川の顎を捕える。

轟音が鳴り響いて、黒川の体は床から離れた。

そして、そのままフロアの天井に突き当たり、バウンドして床に打ち付けられた。

それは、おもちゃの人形を天井に力強く叩きつけて落ちてきた情景そのものであった。

黒川はフロア上で仰向けに倒れている。

ピクリとも動かない。

西牙は小さく息を吐くとゆっくりと動いた。

「おい、お前・・・もう笑ってないぜ」

西牙は黒川の顔を見た。

もう、笑ってなどいなかった。

いや、黒川の顔面は、笑っているのか笑っていないのかさえ判別出来ないほどの有様になっていたからである。

黒川如水の誤算は、自分の格闘スタイルである寝技・関節技に、西牙を引き込めなかったことにあった。

体重九十三キロの西牙丈一郎。

体重六十五キロの黒川如水。

喧嘩や格闘技において、身長や体重はもっとも重要な要素と言える。

体重差が二倍もある相手を打撃で倒すことほとんど不可能に近い。

しかし、寝技や関節技は、体重差など関係なしに相手を倒すことができる唯一の方法なのである。

そして、一番の要因は西牙丈一郎の強さを見誤ったことにあったといえよう。

対峙した瞬間に、西牙丈一郎の強さ・怖さを感じることができなかった時点で、黒川如水の敗北は決まっていたのである。



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