第21章 星を選ぶ指極
第90話 友という口実
優慶は、自室に籠ってぼんやりとしていた。あれ程忙しかった公務は、誰が引き継いだのか、全て煙の様に消えて無くなった。
病なのだから、しばらくは何もしなくて良いと言われた。 好きな事を、好きな様にやって構わないと、そう言われた。だが、皇帝の責務を果たす為に、全てを捨ててこれまでやって来たのだ。ただ、皇帝という役割を果たす事。それが優慶の全てだった。
今更、好きにしろと言われても、優慶の中には、好きな事も、やりたい事も、何も残っていなかった。代わりがないというから、死に物狂いでやってきたのに、病だという理由を付けられて、突然全てを取り上げられた。その事が又、優慶の心に大きな波を起こした。
お前では駄目なのだと、そう言われた気がした。臣下の者たち皆から、見限られた気がした。
そんな思いが、母が心に刻印の様に刻みつけていった言葉を、また心の奥から引きずり出した。
……お前がいなくなれば、この混乱の全ての片が付くのじゃ……
その言葉は、再び胸の奥で、優慶の心に刃を突き立てる。その痛みに耐えかねて、優慶の目から、また涙があふれ出した。
自分は、あの時に、母の手に掛かって死んでいた方が良かったのかも知れない。何故、自分は、生き延びてしまったのだろう。
ここにいても、何も出来ないくせに……
私ではない誰かなら、もっと上手く出来たかも知れないのに……
この国の為に、強い皇帝になりたかった。戦で人々が苦しむことのない平和な国を作りたかった。
その為に、全てを捨てて力を尽したのに、何一つ果たせない。何故自分はこんなに不甲斐無いのだろう。約束をしたのに。頑張ると誓ったのに。
そう思うと、その約束の相手の顔が浮かんだ。
「そうか……私は……そなたとの約束を、果たす事が出来なかったのだな……」
その呟きと一緒に、また涙が溢れた。
先の戦で負傷した劉飛は、未だ意識が戻らず、床に伏せたままだという。自分が不甲斐無い皇帝だから、劉飛も戻って来ない。そうなのだ。
風が窓を揺らし、音を立てた。
何かを期待してそちらへ向けた視線は、何も捉える事が出来ずに、頼りなく彷徨うばかりだった。こんな時に、天祥がいてくれたら……ふと浮かんだそんな思いを、優慶は慌てて打ち消した。
もう、天祥には頼れない。頼ってはいけないのだ。自分は皇帝としての責務を果たせないのに、忠誠だけを求める訳にはいかない。それが、忠誠を超えた好意であるというのなら、尚更だ。 天祥に寄り掛かるべきではないのだ。ただ、その思いを、都合の良いように利用するなど、あってはならない。 ただ、自分が楽になりたい為に利用してはならないのだ……
「失礼いたします」
不意に声がして、優慶は思考の迷路から抜け出した。宰相の崔遥が、書類の束を持ち、侍医を伴って立っていた。
侍医は優慶の容体を確認する様に、手早く体温と脈を測り、薬師に渡す処方を作成してすぐに出て行った。
「お加減は、如何でございますか、陛下」
崔遥が事務的な口調で言った。
「どこも痛くはないし、気分もさほど悪くはない。別にどこも悪くはない様に思うのだが……」
泣きはらした目でそう言った優慶を、崔遥は少し難しい顔をして見た。
「陛下はお疲れが外にお出にならず、体の中に貯め込んでしまわれる体質なのでしょう。故に、お体の方が休息を欲して合図を出しているのです」
「……合図?」
「陛下の御身は、この帝国に二つとない大切なお体です。お体の為にも、どうか、その涙が乾くまで、ご休息下さいます様」
言われた途端に、その瞳からまた涙が溢れてきた。自分の意志に関係なく、勝手に出てくる涙に優慶は困惑していた。それが病の合図だというのなら、自分はやはり病だという事なのか。そんな事を考えながら、優慶はその涙を気まずそうに拭って、話題を変えた。
「……時に崔遥、その書類はなんじゃ」
「はい。朝議の議事を書かせたものです。侍医の話では、今しばらくは外にお出になれないとの事でしたので、退屈しのぎにでもお読み下さい。御所望でございましたら、書物なども届けさせますが……」
「そうか……心遣い感謝する」
優慶は書類を受け取ると、早速それに目を通し始めた。その表情は、すでに皇帝の顔に戻っている。その様子だけ見ていると、病気には見えない。だが、その病は目に見えない病なのだ。心の病であると、侍医はそう診断を下していた。
その病を癒すには、心に負担に感じている事を、取り除くしか方法はないというので、取り敢えず、公務からは遠ざけて休養させた。だが、公務が無くなって暇になった時間を、皇帝は何をするでもなく、ただぼんやりと過ごしているという。 何もせずに、ただ思考の深みに嵌る様な状態は、この病には好ましくないという侍医の意見を受け、取りあえず、朝議の資料などを持って来てみたのだ。
……こちらの方が、気晴らしになるのかどうか……
そう思う崔遥の前で、書類を繰っていた優慶の手が、不意に止まった。
「何か気掛かりな事がございましたか」
「……別に、何でもない」
問われて優慶は、無造作に書類を閉じると崔遥に突き返した。それを不審に思った崔遥は、優慶の手から書類を受け取ると、同じ様に書類を繰る。そこに僅かに残った折り筋の痕跡から、優慶が最後に見ていた部分を簡単に割り出した。
そこには、天家の当主を、その養子である天祥が継ぐという事と、その天祥と姫家の息女の婚姻についての報告が書かれていた。天祥は、近衛の副隊長で、皇帝の寵の篤い臣下だという事は、崔遥も知っている。何しろ、ここ数年の間に、吏部尚書であった崔遥が一番多く作成した辞令は、その天祥のものだったのだから。
……よもや、天祥の婚儀が、気に掛かるのか……
何か、きっかけを掴んだ様な気がした。
「陛下、天祥を御前にお召下さい」
唐突に言われて、優慶が面食らった顔をして、その頬を紅潮させる。
「なっ……何故、天祥を呼ばねばならぬ」
見るからに狼狽する優慶に、崔遥はそこに思いがけない手ごたえを感じた。それを逃さないように、頭の中で用心深く言葉を組み立ててから言った。
「天祥とは、年の頃も近く、ご友人として懇意であったと聞いております。ご友人として、ご婚儀のお祝い事など、お伝えするのが宜しいかと存じますが、如何でございましょう」
「友人として、祝いを、……か?」
「左様にございます」
「友人として、か……」
「はい、ご友人として」
「……そこまで言うのなら、そなたに任せる。天祥がここへ参る様に、取り計らってはくれぬか」
「畏まりました。早速に、手配いたします」
崔遥は急ぎ足でその場から去って行った。 天祥に逢えると思うと、少し嬉しい気がした。
「それでも、会うのは、ただ友としてだ……」
確認する様に言った自分の言葉に、訳の分らないもどかしさを感じたが、友という口実が出来た事で、優慶の気持ちは前ほど重くはならなかった。その夜は、泣かずに眠りについた。
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