第91話 世界のすべてを引き換えに

 崔遥の仕事は、実に早かった。

 その翌日の朝には、天祥が午後にも参上するという知らせが届き、優慶は落ち着かない面持ちで午前中を過ごした。

 午後になって、ようやく天祥が顔を見せた時、優慶は思わず笑顔を浮かべていた。


「お加減が優れないと聞き及び、ご心配申し上げておりました」

 天祥がそう挨拶をして顔を上げる。

「……お顔の色が、少し優れませんか?」

 その言葉を聞いて、優慶が笑った。

「どうして、その方は、何時もそうなのだ。人の心配ばかりしておる。そなたこそ、天海が亡くなって、色々大変であったのだろうに」

「私の苦労など、陛下のそれに比べれば、些事にございますれば」

「……」

 優慶が天祥の顔を見据えたまま、ふと押し黙った。その沈黙の中で、その眼は、目の前の天祥ではなく、どこか遠くを見ている様な感じになった。

「……陛下?」

 天祥が声を掛けると、優慶が不意に我に返ったという様に、瞬きをした。


 心の病なのだと、崔遥からは、そう聞かされていた。その病の様子を垣間見て、天祥は息苦しさを覚えた。どうして、誰一人として、そのお心を守れなかったのか。どうして、こんなになるまで、優慶を追い詰めなければならなかったのか。 その憤りは天祥自身にも向けられた。その怒りは天祥の中で、今度こそ、何があっても、優慶を守るのだという、揺ぎ無い決意へと変わっていく。


「ああ……済まない。何か、時折、気を散らしてしまうらしくてな。どうも、そういう病なのだそうだ」

 優慶が自嘲気味に笑う。

「……ええと、それで。今日来て貰ったのは他でもない。そなたが結婚すると聞いて、その祝いを…言おうと思って……」

 言葉の最後の方は、口の中で呟かれただけで、外には出てこなかった。自分を見つめる天祥の恐ろしく真剣な瞳に、優慶は言いかけた言葉を思わず飲み込んだ。

「結婚などいたしません」

 天祥がまっすぐに優慶の目を見て言った。


「私は、ずっとあなたのお側にいるのだと、あなたをお守りするのだと、もう決めているのですから」

 そう宣言する様に言われて、優慶は戸惑った表情を浮かべた。嬉しいのに、それを素直に喜べない。崔遥に言われて、友という丁度良い距離を見つけられたのだと思って安心していた。

 それなのに、天祥は、そこを大きく踏み越えて、優慶のすぐ傍にまで近づいてくる。その心に寄り添う様に、すぐ傍まで。それは不快では事なく、むしろ嬉しい事であるのに、それを素直に受け入れる事が、何だか怖い気がした。


「……どうして、そなたは、その様に、いつも私の事を気に掛けていてくれるのだ」

 その本当の答えを聞くべきではないと思いながら、自分が思っている答えと違う返事を期待しながら、いつか聞いた様な問いを、また繰り返していた。


「それは、私が、優慶様の事が好きだからです。一人の女性として……」

 言われた瞬間、息が止まる。天祥の言葉を遮る様に、優慶が慌てて言う。

「聞いてはいけない事を聞いた。今の言葉は……」

 しかし、天祥は真剣な表情で優慶を見据えたまま、言葉を続けた。

「一度出た言葉を、元に戻す事は出来ません。そして、この心を偽ることも、私には、もう出来ません。私は、優慶様をお慕い申し上げております」

「そなたはっ、自分が何を言っているのか分っているのか?」

「全て覚悟の上で、申し上げております」

「私は皇帝で……女であってはいけない存在なのだぞ」


「そのお考えこそが、優慶様のお心を追い詰めているのではないのですか?そのお苦しみの根源は、性別を偽って帝位に就いている事にあるのではないのですか? 優慶様が皇帝であるという呪縛から、女であってはいけないという呪縛から解放されない限り、病を退ける事は出来ません」

「……だって、それは……そんな出来もしない事を……」

「私に全てを任せると、そうおっしゃって下さい。今、この現状を何とかせよと、そう命じて下さい。そうすれば、私は、この身を捨ててでも……」

「待ってくれ。私は……正直、自分がそなたの事をどう思っているのか分らない……そなたの気持ちは有り難く思う。だが、それは、多分そなたの言う好きとは、違う種類のものだ……私は……」

「優慶様、私はただ、あなたをお慕いし、だからお側にいたいと思うのです。その事に対して、見返りを求めようなどとは思っておりません。ただ、一つだけ……優慶様にお許し頂きたい事がございます」

「だめだ」

 優慶が天祥の言おうとしている事を察して、その言葉を遮る。だが、天祥は構わず言葉を続けた。


「どうかこの身を、優慶様の影として、お側にお置き下さい」


 男であるべき雷将帝として、優慶の代わりに玉座に座る。その意志を持たず、ただ影となり、その身代りになる。それは、天祥という存在をこの世から抹殺することでもある。

「そんな事を、この私にせよと言うのか?そなたの人生を引き換えにしてまで、守るべき雷将帝とは何だ。そんな事は、断じて許さぬ」

「優慶様、この国には皇帝が必要です。そして、現在、この国で皇帝と呼ばれる者は、雷将帝陛下をおいて他にはいないのです。戦など起こらない、強い国を作られるのでしょう? それを成し遂げる事が、皇帝である優慶様以外の何者に出来ましょう。だから、雷将帝という存在を、何が何でも守らなければならないのです。優慶様がお一人でそれを守るのがお辛いと感じているのなら、私が側にいて支えます。ですから……」

「ふざけるなっ。ならばそなたは、この私が、私の為に、その命を捨てよと言えば、捨てられるというのか」

「御意にございます」

 即答した天祥に、優慶が絶句する。

「……そなたは、馬鹿じゃ。何もかも捨てるというのか。こんな私の為に……」

「はい。ですから、何時いかなる時も、この私を側に置くと、そうおっしゃって下さい」

「……全く……大馬鹿者じゃ」

 優慶がため息交じりにそう呟くと、頃合いを見計らった様に、崔遥が姿を見せた。


「お話はお済みになられましたか?」

 そう言った崔遥を見て、優慶は悟った。

「これは、お前の差し金なのか」

「とんでもない。此度の件は、天祥の方から言い出した事。私はほんの少し、お手伝いをしただけにございますよ」

「この様に馬鹿げた話、止めるのが筋だろう」

「陛下。事態は急を要するのです。しかし、良い方策は浮かばず……溺れる者は、藁をも掴むと申しましょうか」

「本気か」

「御許し頂けますれば……もうすでに、我らは人々を欺いているのですから、今更、嘘が一つ二つ増えた所で、大差ございませんでしょう」

「……それが、大人の理屈という奴か」

「嘘も方便と申しますれば」

「そなたは、汚れ仕事も厭わぬと申すか……」

「宰相の任を受けた時から、その覚悟はしておりますゆえ」

 帝国安定の為には、女である雷将帝を葬り去る事。それが避けて通れない道であると知った時から、実は、崔遥はその為の方策をずっと考えていた。そこへ、天祥という存在が飛び込んできた。これを使わない手はなかった。


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