第93話 赤の小覇王
河南の城へと続く、その大路沿いに建つその屋敷の佇まいは、昔と少しも変わっていなかった。現在そこに住む人々は、自分の知っている者たちではないのだと分かっていても、懐かしさに、つい体が引き寄せられた。
華梨が、開いたままの門の蔭から、そっと中を伺うと、屋敷の中は、何やら慌ただしい雰囲気で、本来は門の辺りにいるはずの門番の姿もなかった。不意に、赤子がけたたましく泣く声が聞こえた。まるで、自分を呼びつける様なその声に、華梨は、戸惑いの色を浮かべる。心の奥の方で、すぐにここから遠ざかるべきだという思いが生じた。しかし、次第に近づいてくるその泣き声は、華梨を捕らえたまま、そこから動く事を許さなかった。華梨が立ち去ることが出来ずに、そこに佇んだままでいると、赤子を抱き抱えた女性が姿を現した。華梨に気付くと、女性が、少し困った様な顔をしながら、その口元に笑みを浮かべた。
「……母君様と違って、抱き心地が悪いのか、泣いてばかりいて。ほとほと……」
世間話をする様に、女性が華梨に話し掛ける。女の口ぶりからすると、この者は赤子の乳母である様だ。
「癇がお強いのかも知れませんね」
華梨がそう言って、赤子の顔を覗き込み、その額にそっと指を添える。すると、赤子がぴたりと泣き止んだ。その無垢な瞳が、華梨を不思議そうに見ている。
「……まあ。お見事です事。あなたは、八卦師でいらっしゃるのですね」
「いいえ。その様な大層なものではありませんわ」
答えながら、華梨は、赤子の瞳に捉えられた自分の姿を見ていた。
「宜しければ、中でお茶でも如何ですか?」
「いえ。私は、これから行かなければならない所がありますので、これで……」
「そう。それは残念ですわ。もし、そのご用がお済みになられたら、帰りにここへお寄り下さいな。私は、ここの奥を任されております楓弥と申します」
そう名乗って女は、親しげな笑顔を見せる。
「……ありがとうございます。ご縁がありましたら、また……」
華梨は、軽く会釈をすると、自分を捕らえるその視線から逃れる様にして、その場から立ち去った。
……あれは虎翔様……赤星王を宿した小覇王がどうしてここに……
かつて周家の屋敷であったそこは、今は河南の豪商杜家のものになっているという。ここに来る途中、耳にした噂では、河南の次の領官は、この杜家の人間が務める事になるのではないかという話だった。
そんな場所に、赤星王を宿した虎翔がいるというのはどういう事なのか。
……それも又、周翼の思惑なのだとしたら……
周翼は、何が何でも、この帝国を滅ぼすつもりでいるという事なのか。又、燎宛宮に戦を仕掛けるつもりなのか。周翼は、華梨の中に封じられている蒼星王の力が欲しいと言った。それもまた、戦の為の切り札となるという事ではないのか。
……憎んでくれて構わないから……
そう言った周翼の顔を思い出すと、涙が込み上げて来た。
……そっか。それが、私が周翼と一緒にいちゃいけない理由なんだね……
自分が傍にいれば、周翼は間違いなく、間違った方へ足を踏み出す事になる。だから、自分が抱いている蒼星王の力は、周翼の手の届かない遠い場所に、隠してしまわなければならないのだ。何よりも、周翼の為に。
見上げた視線の先に、河南の城が見えた。そこに行けば、きっと周翼に逢えると思ったのだ。ほんの少しでも、一緒にいられたら……そう思ってここまで来た。だが、運命はすでに分かたれていたのだ。
「さよなら……周翼……」
その景色が涙で滲んだ。
……悲しみはみんな、僕が引き受けるから……だから……もう、泣かなくていいよ……もうこれ以上、一つも傷は付けさせないから……僕がきっと守るから……
その声を聞きながら、華梨の体は蒼い光に包まれた。そして、人々が行き交う雑踏の中、その姿は、誰にも気づかれぬまま、その場から消え失せていた。
河南軍敗走の知らせを受けた河南では、今回の反乱を、領官であった李炎の独断であったとし、もはや反逆の意思無しとの誓約書を持たせた使者を、早々と燎宛宮に送っていた。 それに対し、燎宛宮からは、首謀者李炎と、その重臣たちを即刻引き渡す様にとの沙汰が下っていた。
もう数日中に、燎宛宮からの特使が河南にやって来る。その前に、領官の候補を上げておかなくてはならなかった。候補がいなければ、都から、燎宛宮の息のかかった者が領官として赴任してくる事になる。 そうなれば、河南は本当に、燎宛宮に抑え込まれる事になる。それだけは避けたかった。
そう、出来れば、この河南の人間で、燎宛宮とも適度に距離を保ちつつ、波風を立てずに、あくまで穏便に状況を処していける人物が望ましい。
「……そんな都合のいい人間がいるか」
杜狩はここ数日、その人選に頭を悩ませていた。頼みの周翼は、すぐ帰るという言伝てと共に、身寄りのない赤子を送って寄越したまま、いずこかに寄り道をしていて、未だ戻らない。
楓弥は、半年前に生まれた息子と共に、その赤子の世話で手一杯で、ろくに話を聞いて貰えなかった。そしてまた愚図愚図と愚痴をこぼす杜狩に対し、
「そんなものは、旦那さまが、さっさとお引受けになれば宜しいではありませんか」
と、あっさり言いのけられた。
「恐れ多くも、河南の領官をそんなものとは、何事か……」
咄嗟に言い返せなかった言葉が、今更、呟きとなって零れ落ちる。自分には、荷が重すぎる。それは、杜狩自身が一番分かっている。
「燎宛宮から、使者が来るそうだな」
不意に傍らで声がして、杜狩は驚いて顔を上げた。そこに周翼が立っていた。
「……だから、そういう不意打ちは、心臓に悪いのですがっ」
相も変わらずといった杜狩の様子に、周翼が失笑する。
「周翼様……」
「いや、済まない。使者が着く前に、体裁は整えておかねばなるまいな。杜狩、河南領官は、お前が受けよ」
「周翼様っ」
「杜家は、この河南の要だ。そなたが領官であれば、誰も文句は言うまい」
「私には無理です」
「何も、お前に燎宛宮と戦をしろというのではないぞ。大切なのは、この河南の力を損なうことなく、守る事だ。今は、それでいい。この河南の隅々まで知り尽くしているそなたなら、さほど難しい事ではないだろう」
「しかし……」
「お前を、戦に伴わず、河南に留め置いたのは、何の為だと思う」
「まさか、その為だったと言うのですか」
「出来れば使わずに済ませたい切り札だったのだがな……それとも他に相応しいと思う者がいるのか?」
「……岐水から来ていただいた稜鳳殿では……」
咄嗟に、戦に同行しなかったという事であれば、かの者でも構わないのではないかという気がした。稜鳳になら、領官の経験もある。
「残念ながら、俺には手配書が回っているんだ」
戸口にその稜鳳が立っていて、苦笑いをしている。
「新しく宰相になった崔遥様は、俺が燎宛宮で官吏になりたての頃に上司だったお方でな、随分と可愛がってもらって、一人前にして頂いた恩師みたいなお方なのだ。弟子の一挙手一投足など、先の先までお見通しという、実に恐ろしいお方だった」
杜狩の中で、稜鳳の言う崔遥の人となりと、手配書の件が重なり合い、一つの答えを導き出す。
「まさか、此度の仕儀が見抜かれたと……」
「まあ、そういう事です。だから、俺は名を変え、ひっそりと、なるべく目立たぬ様にしていなければならないのですよ。という訳で、領官になるなど到底無理なのです。というか、俺は、杜狩様程、適任な者は他におらぬと思うのですが……」
「杜狩はとても謙虚なのですよ」
周翼がからかう様に口を挟んだ。
「周翼様……」
「杜狩様、人間、時には進んで苦労してみるものですよ。杜狩様が領官におなりなら、ごく私的な書記官として、お手伝いさせて頂きたく思いますが」
「だそうだ、杜狩。結論を出せ」
周翼が杜狩を見据えて、そう言った。
周翼にも李炎と共に、燎宛宮への出頭命令が来ていた。周翼は顔が売れているから、稜鳳の様に、他人になり済まして、ここに留まる事は難しいのだ。それに、河南が燎宛宮への
もしもの時は、河南を守る事を最優先に考えて、出来うる限りの手を尽くせ。留守を任された杜狩は、戦の前に、周翼からそう言われていた。その言葉に従い、河南での徹底抗戦を唱える者たちを抑え込み、燎宛宮に使者を送ったのは、杜狩の判断だった。
「……分りました。周翼様がそうお望みならば、やってみましょう……お任せ下さいと、胸を張っては言えませんが、善処はさせて頂きます」
「杜狩、目に見える戦いだけが、戦ではない。私たちの戦は、まだ始まったばかりだ。これから、この河南は、平和の礎となる大切な場所となる。だから、ここを何が何でも守り切れ。杜狩……河南を頼む」
周翼がそう言って、深々と頭を下げた。その姿に、杜狩は慌てて立ち上がって、頭を垂れた。
「この身に代えましても必ず」
そう言わざるを得なかった。
「……お前には、いつも迷惑ばかり掛けているな。迷惑ついでに、虎翔の事も、くれぐれも頼む」
「虎翔?」
「ああ、お前に預けている赤子の名だ。私の息子だと思って、大事に育ててやってくれ」
「え……ご子息様なのですか?周翼様のっ?」
「いや。……みたいなものだという話で」
杜狩の絵にかいたような驚き様に、周翼が苦笑する。
「私の大切な人の子だ。そう……いずれ、この河南を統べる事になるかもしれない。そうなったら、杜狩は領官を退いても構わないよ」
「何年先の話ですか……」
終着点を示してもらったのは有難いが、それが遥か先の事だと言われて、杜狩は軽くため息をついた。
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