第5話 柚葉の家
その日はあっという間にやってきた。一週間なんてすぐだった。そう退院の日である。
毎日長い一日を過ごしていたはずなのに、いつの間にか時間は過ぎ去っていた。まだ、柚葉は目覚めていない。
お昼頃には両親が迎えにやってくる。なので午前中の内に悠輝の病室を訪れていた。
「私はもう退院だぞ」
寝ている柚葉の、自分の体の頬に触る。相変わらずたいした反応はなく、寝息を立てているだけである。
「お前も早く目を覚ませよ」
言葉を掛けても勿論返事はない。いつ目を覚ますのか。それは誰にも分からない。だから、それまでは柚葉の振りをしながら待つしかないのだ。
「じゃあ、片付けとかあるから、もう行くね」
反応が無い柚葉に声を掛け続ける。
「退院してもお見舞いに来るから」
最後にそう言って、自分の病室に戻る。体力も大分回復したので、二つの病室を行き来するくらいなら、もうほとんど疲れない。
私物を片付けて、両親が来るのを待つ。時間的にそろそろ来るはずだ。
少しして、両親とお兄ちゃんがやってきた。荷物を持って貰い、手ぶらで病室を出る。
受付で手続をして病院から出ると、医師や看護師さんが何人か見送ってくれた。
車に乗って、自宅に向かう。30分かからずに到着した。
エレベーターに乗ってマンションの5階まで上がる。いつもなら、508号室に向かうところだが今は柚葉だ。一つ手前の507号室で足を止める。鍵を開けて貰って中に入った。
「おじゃっ……ただいま」
お邪魔しますと、言いかけてしまう。柚葉になっても自分の家という気はしない。
何度も遊びに来たことがあるので、だいだいのことは分かる。とりあえず、入って左側の部屋に入った。
全体的に水色のものが多い柚葉の部屋。カーテンや布団などほとんど水色。柚葉の好きな色だ。ピンクピンクしているよりは居心地は悪くなさそうだった。これからはここを借りて生活することになる。
それでも、その部屋が女の子の部屋であるのを感じられて、少しドキドキした。
「そういえば、最近柚葉の部屋に入ってなかったな」
柚葉も別に呼んだりもしなかったし、自分としても女の子の部屋に踏み入るのは幼馴染みとしても気が引けて入ることがなかった。
「昔とそんなに変わらないかな……」
部屋の中を見回すが、最後に入った頃から大きく変わってはいないと思う。
見回しているとタンスの上に一匹のぬいぐるみがあるのが目に入った。これは……。
「コグマルだ」
ファンアニの一番人気のキャラクターコグマル。一人でちょこんと座っている様は少し寂しそうでもある。
特別ファンアニが好きなわけでもなかったはずだし、買うか貰うかしたのを一つだけ飾ったのだろうか。イラストなら、2、3対セットで別のキャラクターと並んでいることが多いコグマルをぽつんと置いている扱いが少し笑えた。
「入っていいか?」
部屋の外からお兄ちゃんの声が聞こえた。どうぞと返事をする。
「父さんたち買い出しに行ってくるみたいだけど、何かいるものあるか?」
「いや、別に」
「そうか」
そう聞かれても、特に何が欲しい訳でもない。そもそも本当の柚葉じゃないのに頼むのも良くない気がする。
「あと、お風呂沸かしたみたいだから、入ってきたらどうだ」
「お風呂……」
入院中は、看護師さん同行で入れて貰うか、体を拭いて貰うかで落ち着いて入れていなかった。出来ればゆっくりと湯船に浸かりたいところではあるのだが……。
「この体で入るのか……」
一人で入ると完全に裸を見てしまう。それは柚葉に悪いのでは……。
「そんなこと言っても、元に戻るまでお風呂無しってわけにもいかないだろ」
確かにそうだ。お風呂に入って体を洗って、衛生的にするのは必要なことだ。
「じゃあ、二人が出かけてから、目隠しした私をお兄ちゃんが入れてくれるとか……」
「多分そっちの方が柚葉は怒るぞ」
そうなのだろうか。男の幼馴染みに見られるよりは、身内の兄に見られた方がマシな気がしたのだが。
「うだうだ言ってないで、さっさと入れよ」
そう言ってお兄ちゃんは部屋から出て行った。手伝ってくれないなら自分で入るしかないだろう。
覚悟を決めて部屋のタンスから、下着や着替えなどを探す。
引き出しを引くと、一番上の段に下着類は入っていた。綺麗に並んで入っている下着を見て顔が熱くなる。
手前にあった水色の水玉模様のものを手に取ると、罪悪感で胸が苦しくなる。
「お、落ち着け。入院中も持ってきて貰ったものに着替えていたわけで……」
下着を見るのも着替えるのも初めてではない。
しかし、入院中はあまり見ないようにしながらさっと履いていたし。自分から着替えようとしないので、ママや看護師さんに手伝って貰いながらだった。
つまり、自分で手にとって、ちゃんと向かい合うのは初めてである。それどころか、この後はお風呂に……。
「っ!?」
意識をすると、さらに顔が熱くなる。鼓動も早くなり、落ち着かず、手足をじたばたと動かした。
一人だと、今までと違い目を逸らすには限界があるかもしれない。この体になってからというもの見ないように見ないようにしてきたが、これは……。
大丈夫だろうか。自分は見ないで居られるだろうか。可能不可能の前に、人の居ないところでは、見たいという欲求に負けてしまうのでは? これでも心は男の子なのだ。異性の体に対する好奇心はあるのだ。自制心が保つ気がしない。
「……」
逡巡するが、答えは出ない。
しかし、大丈夫でなくても入らないわけにも……。
しばらく、うーんうーんと唸っていたが、悩んでいても仕方がないと、お風呂場に向かうことにする。
用意した着替えを持って、脱衣所にいく。一枚、また一枚と着ている物を脱いでいく。極力見ないようにしながら、少しづつ脱ぎ進めていく。
顔を真っ赤に染め、一枚脱ぐごとに息を荒立てながら、その身をさらしていくその姿は、端から見たらとても不審なものだろう。
「うぅ……柚葉ごめんっ」
一言謝ってから、最後にショーツを下ろして、一糸まとわぬ姿になる。脱衣所にある鏡の方を見ないようにしながら、慌ててお風呂場へと突っ込んだ。
構造は自分の部屋である508号室と同じなので、使い方は困らない。お風呂のお湯でかけ湯をして体を温める。用具を確認して、まず一通り洗うことにした。
風呂椅子に座って正面を見ると鏡があって、鏡の中の柚葉と目が合ってしまった。裸を見てしまっている気恥ずかしさから目を背ける。
シャワーでお湯を被りシャンプーを泡立てて髪を包む。女の子の中では特別長くない柚葉の髪でも、悠輝の頃よりも長いのでいつもより時間が掛かってしまう。
そのまま顔、体と石けんで泡立てたスポンジで洗っていく。体にスポンジを押しつけているとどうにも意識してしまって恥ずかしい。そうこうしていると、正面の鏡はいつの間にか曇っていてはっきりとは見えなくなっていた。
一通り洗い終えて、湯船に体を沈める。あまり見ないように視線を天井に向けた。
「ふぅー」
久々にゆっくりお風呂に浸かることが出来て少し落ち着いた。お風呂に浸かるのは結構好きだったりする。
「今、裸なんだよな……」
柚葉になって以来極力見ないようにしてきたが、心は男だ。女の子の体が気にならないわけではない。柚葉は結構可愛い方だし。
見たい。どうなっているか確認したい。この体で1ヶ月近く過ごしているし、見ないようにしていてもある程度見えてしまってはいる。今更はっきり見ても変わらないんじゃ……。
「いやいやいや。それは柚葉に悪いって! 仕方なく見えるのと、しっかり見るのとじゃ全然違うって」
大きな声を出して邪念を振り切ろうとする。それでもいつの間にか視線は少しずつ下がって、天井から正面まで来ていた。
「うぅっ」
やっぱり気になるし、確認したい。
「でも……」
それと同じくらい付いていないのを見るのも怖かったり。
しばらく、あーだこーだと悩んでいたら、体が大分熱くなってきた。このままではのぼせてしまうだろう。
「……上がろう」
勝手に裸を見るという不誠実な真似はしないでお風呂から出ることにする。
足を滑らせないように足下を確認する。久々にお風呂に浸かってリラックスできたせいか、意識して視線を外すのを忘れてしまった。うっかり視界の端に捉えた、その部分に視線は吸い寄せられる。
ずっと気になっていたこともあり、一度見てしまうと中々視線を逸らすことが出来ない。
今の自分の体を、柚葉の体を見下ろす。初めて近くで見る同年代の女の子のその部分に、最初はドキドキし目を奪われたが、次第に男のものが無い違和感の方が大きくなっていく。
少しの間、じっと見てしまってからはっとする。しっかりじっくりと見てしまった。
「……柚葉ごめん!」
慌てて、浴室から飛び出す。お兄ちゃんが用意してくれたのか、置いてあったバスタオルで勢いよく体を拭いて、そそくさと着替える。脱衣所から外に出ると、リビングでテレビを見ていたらしいお兄ちゃんと目が合った。
「おう、結構長湯だったな」
「……和兄っ」
動揺しているせいか昔の呼び名で呼んでしまう。顔が熱い。お風呂から上がったばかりだからではない。
「俺は変態だぁっ!」
叫びながら、柚葉の部屋へと逃げ込んだ。とんでもないことをしてしまった。どうすれば良いのか分からず、パニック状態だった。
しばらくして、お兄ちゃんが様子を見に部屋にやってきてくれた。叫んでいた理由を話すと、呆れた顔をされる。
「いや、入れ替わってるんだし仕方ないだろ」
「しっかり見ちゃったし……」
「気にしすぎだって」
そう言いながら、お兄ちゃんが頭をぽんぽんしてくる。そういえば乾かしてなかったので頭がひんやりとした。
「逆に考えろよ。柚葉だって目を覚ましたら悠輝の裸見ちゃうんだぞ」
「男と女じゃちょっと違うじゃん……」
尚も言いつのると、はぁと溜息を吐かれる。
「とにかくだ。お前が柚葉である限り、お風呂入ったりとか日常生活のあれこれは仕方がない。一々気にするなって」
「でも……」
「柚葉だって仕方がないって言うよ。兄の俺が言うんだから信じろよ。な?」
そう言われても申し訳ないのは変わらない。しかし、柚葉のままだとある程度仕方がないのは確かに事実だ。
「……分かった。柚葉が目を覚ましたら、全部謝る」
「おう、そうしろ」
お兄ちゃんが優しく笑ってくれる。一人でも自分が悠輝だと知っていて、信じてくれる人がいる。相談に乗ってくれる兄がいる。何だか妹というのも悪くない。そんなことを改めて考えた。出来れば弟の方が良いけど。
「とりあえず、頭乾かしてこい。風邪引くぞ」
うん、と頷いて脱衣所に戻る。そこにドライヤーがあったはずだ。男の頃より長い髪は特別長いわけでもないのに乾かすのに時間が掛かった。
お兄ちゃんの隣でテレビを見ながら過ごしていると買い出しに行っていた両親が帰ってきた。
両手に一杯の袋を抱えながら、今日は退院祝いに腕に縒りを掛けて料理をするとママが意気込んでいる。
それを見て何かを思い出せそうで思い出せなかった。ふと、お兄ちゃんの方を見ると少し嫌そうな顔をしていた。
夕飯までの間、お兄ちゃんと並んで二人でテレビを見て過ごす。入院していた間は見ることが出来なかったので久々のテレビだ。
「あ、これ……」
悠輝の頃よく見ていたロボットアニメが始まった。2ヶ月近く見ていなかったせいで話が少し進んでいたが、毎週あらすじが入るし、進みも遅いので大体内容が掴めた。Aパートを夢中になって見る。CMに入ったところでママに見られていることに気がついた。
「ど、どうかしたの……?」
「ううん。なんでもないわ」
何でも無いとは言うが、その表情は不思議そうにしている。何かおかしなことをしてしまっただろうか。少し考えてはっとした。
「柚葉は、こういうのあまり見てなかったかも……」
周りに聞こえないような小さな声で呟く。声に出してみると、その考えが確信に変わった。
柚葉は上に男の兄妹がいることもあって、自分から買ったりはしなかったが少年漫画とかも読むしゲームとかを一緒になってやっていたりはした。男の子系のアニメも暇なら見ない訳でもないのだが。
「ロボットとか特撮とかは、完全に見てなかった……」
そう呟いて頭を抱える。柚葉が普段見なかったものを夢中になって見ていたら、不思議がられても仕方がない。
見るのを止めて部屋に戻ろうと立ち上がりかけたところで、CMが終わってBパートが始まる。
個人的には、ロボットアニメは大好きだ。変形したり闘ったり、動いているのを見ているとそれだけでわくわくする。出来れば続きが見たい。でも……。
「わ、私部屋に戻ってるね」
やっぱり見るのはやめておいた方が良いだろう。柚葉として不自然な行動は避けた方が良い。
「もうすぐ夕飯だし、ここで待ってろよ。俺これは見たいけど終わったらチャンネル替えてもいいからさ」
少し大きい声でお兄ちゃんはそう言って、立っている私をテレビの前のソファに座らせた。
「う、うん……」
多分フォローしてくれたんだろう。そう思ってお兄ちゃんにだけ聞こえるくらいの声でありがとうと言った。
そのままアニメを見て過ごして、終わった後にリモコンを受け取る。チャンネルを変えて適当なバラエティ番組を映す。
「柚葉、手伝ってくれる?」
しばらくテレビを見ていると台所のママから呼ばれた。
「テーブルを拭いてからお皿を運んでちょうだい。まだ辛かったら無理しないで言うのよ」
ママの所まで行くと、そう言って乾いた布巾を渡された。お兄ちゃんは呼ばないで私だけ呼ぶのは、多分女の子だからなんだろう。
素直に頷いてから動き出す。布巾を濡らして絞る。最近していない動作で握力が落ちているのか、女の子だからなのか、上手く水を絞ることが出来ない。
「くっ……!」
「テーブル拭くのは俺がやっておくから、柚葉は皿を持ってきてくれ」
いつの間にかやってきたお兄ちゃんは、言いながら布巾を私の手から取ると、それをぎゅっと絞って持って行ってしまった。
仕方がないので皿を運ぶことにする。出来上がった料理を見て何を思い出せなかったのかを思い出した。
「はい、召し上がれ」
食卓に皿を並べ終えて、みんなで席に着く。目の前には、よく分からないものが皿に盛られていた。どう見ても不味そう。
柚葉の母親は、料理がド下手だったのだ。お兄ちゃんの表情の理由はこれである。
両親共働きの柚葉の家は兄妹で出前や弁当などでご飯を済ませることが多かった。そして、よく二人揃って俺の、悠輝の家で一緒に夕飯を食べに来ていた。
そんな仕事ばかりで家事が出来ない母親も子供のことを思って、たまに料理を振る舞う。しかし日頃からしていないせいなのか、そもそものセンスのせいか、その料理の数々はかなり不味いらしい。
悠輝の頃に、怖い物みたさで柚葉に料理の残り物を味見させて貰ったことがあるが、酷い出来だった。
さて、このまま食べては吐き出してしまいそうな未来が見えるがどうするか。
目の前にはたっぷりと盛られた何だか分からない料理。これはいったい何だろう。
「どうしたの? 体調悪いの?」
食べ始めない私を心配してか、ママが聞いてくる。料理が下手という自覚がないのだろうか……。
もしかしたら、兄妹二人して気を使って、無理して食べているのかもしれない。それなら、ここで残したり味を否定したりは出来ない。それなら。
「まだ、あんまり食べられなくて……。お兄ちゃん、半分取ってくれない?」
少しでも食べる量を減らすためにお兄ちゃんに押しつけることにする。お兄ちゃんは一瞬嫌そうな顔をしたが、私の皿の上にあった謎料理を自分の皿に半分ほど取ってくれた。
残りは食べなくてはならない。もしかしたら、柚葉の体なら慣れていて美味しいかもしれない。覚悟を決めて一口食べる。
「っ~!?」
一口食べて、そのあまりの不味さに吐き出しそうになる。柚葉の体でも不味いものは不味いらしい。慌てて水を飲み込んで喉の奥に押し込む。これを平然と出してくるなんてママは味覚障害なのでは……。
口に含んでは水で流し込むのを繰り返す。変な汗を掻いてきた。一度止まると食べきれないと感じて、一気に食べきる。
「ごつそうさまっ……」
吐き出しそうなのをこらえようと口元に手を当てながら、柚葉の部屋へと逃げ込む。
柚葉や和兄はこれにいつも耐えていたのか。これがお袋の味と考えると二人が可哀想に思えてくる。
「お袋の味……」
頭の中に浮かんだ言葉を口にする。自分が思い浮かべるのは、自分の……悠輝の母親の味。
「また食べられるのかな……」
その味を思い出すと少し涙ぐんでしまった。
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