第297話 hard to think, easy to go! ・・・その5
わたしたちは市の総合体育館に自転車を飛ばした。
地方に拠点を置き、この体育館をホームとするプロバスケットボールチームの試合が行われているところだった。
真世ちゃんがこともなげに言う。
「ちょっとみんなに出てってもらおうか」
真世ちゃんがさっ、と右手を拝むような形にして唱えた。
「スミヤカスギルタイジョウヨロシ」
まさしくホームチームのエースがダンクシュートを決めた瞬間に、ヴィッ・ヴィッ、という重低音の電子音が場内に鳴り響き、天井からシャワーが降り注いだ。
「火災です、速やかに避難してください」
自動音声のアナウンスが流れる。
わあっ、とスタンド席の観客も、コート上の選手たちも小走りで出口に移動して行く。
「消防車が来る前に終わらせちゃおうよ」
真世ちゃんがそう言うと、既に近本はスプリンクラーの水に髪と衣服を濡らし、コートの中央に立っていた。
「仏のひ孫。誕生日まではまだ間があるぞ」
「誕生日が来ても何も変わらない、ってことにするよ」
今度はわたしは躊躇しなかった。
どんな文章でも早口で言う芸人のように小さな声でだーっ、と呟く。
「南無阿弥陀仏ということは誠の心と読めるなり。誠の心と読むうえは、凡夫の迷心にあらずまったく仏心な・・・」
最後の「り」の手前で邪魔された。
蚊だ。
蚊がわたしの目に数匹同時に飛び込んで来た。耳にも同じように。
「ふふ。もより、蚊など気にせず唱え切ればよかったな」
近本の言葉が
「もより!」
シイナがわたしの元に駆け寄った時、真世ちゃんはもう近本の胸の辺りにお弁当についていたお箸を突き立てているところだった。
「さすが仏のひ孫。なんの躊躇もなく人を刺すとは」
「あなたは人でも神でもないからどうってことない」
「ふふ。だが、刺した場所に何も無かったらどうかな」
近元の胸、ちょうど心臓のあたりに長さの真ん中あたりまで刺さり混んでいるはずのお箸の周囲の白いワイシャツには血の一滴も滲んでいない。
「うわ。すごいね。血管と神経だけじゃなく、心臓まで体の中でずらしたんだ。曲芸みたい」
「じゃあ、今度はわたしからいくぞ」
「いいよ」
近本は右手を上から手刀のようにブン、と振り下ろす。
「あっ!」
シイナの驚愕の声がぶつ切りに聞こえた。
ほぼ視力も聴力も一時的に失われたわたしは、かろうじてぼやけて見える画像から状況を理解した。
近本が空を切った右手の先から千枚通しのような鋭利な尖ったピック状の金属片が無数に放たれ、真世ちゃんの顔に向かって飛んで行く。
直撃する刹那、金属片が色とりどりのふわりとしたモノに
あ。花・・・
金属が色とりどりの菊の花に一瞬にして変わったのだ。その花たちは真世ちゃんの足元にぽとぽとと落ちる。
「き、貴様、
近本がいままで決して見せなかった驚きの表情をあらわにしている。
「あれ? 近ちゃん知ってたんだ。お釈迦さまがお悟りになる時、悪魔たちの放つ弓矢が全部お花に変わっちゃったのを」
「うーむ・・・」
「わたしはお釈迦様じゃないよ。けど、お釈迦様が初めて祇園精舎にお入りになった時の行列にわたし遭ってるんだって。ひいおばあちゃんが教えてくれたよ」
「なんと・・・それだけでここまでの力が・・・うーむ」
「近ちゃん、どうしてわたしの寿命を縮める術を知ってたの?」
「悪魔マーラーの秘術を買ったのだ。国際貿易、ってやつだ」
「わー。そんなヘンなことやってるんだ」
消防車のサイレンが近づいてきた。
「悪いがまた出直す」
そう言うと近本は当たり前のように姿が見えなくなっていた。
「もよもよ、大丈夫? ごめんね、わたしのせいで」
そう言って真世ちゃんはわたしの開けない瞼にそっと口づけてくれた。
「わ!」
5歳の女の子とはいえ、わたしは誰かからそういう風に顔に唇で触れられたことなどない。一気に体を強張らせた。
「大丈夫。そっと涙を流して」
真世ちゃんにそう言われると、ごく自然に涙が溢れ、わたしの瞼で死んだ憐れな蚊は洗い流されていった。
「今度はこっち」
すっ、と真世ちゃんの小さな掌がわたしの耳を撫でる。
えもいわれぬ不思議な感触に一瞬意識を失いそうになったけれども、わたしの耳の奥で出口を見失っていた蚊は、無事外へと飛んで出てくれた。
「もよもよもシイナもありがとう。お疲れ様。近本に随分とダメージを与えることができたね」
「でも、近本は無傷で」
「ううん。悪鬼神とはいえ相当精神的ショックを受けたはずだよ」
「え」
「だって、わたしがお釈迦様の力をいただいた仏だってわかっちゃったから。もしかしたら後悔してるかも、わたしの寿命を縮めようとしたことを・・・さ、帰って晩ごはん食べよ」
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