第192話 夏だよ(その12)
途中、鎖にすがって渡らなくてはならない危険な場所も乗り越え、ようやく全員山頂のわずかな平地に立った。
「夢の話だから実際に見るまで自信なかったけど・・・」
わたしは足場ぎりぎりに立って、昨日猿が落ちた斜面を見下ろし、指差してみんなに解説する。
「あの岩場の裂け目、人間の口に見えない?」
みんな下を覗き込み、無言で、うん、と同意する。
「鬼の口だよ」
「鬼?」
わたしはそのまま続ける。
「お釈迦様が鬼の口に餌食として飛び込んで悟りを得ようとしたエピソード、知ってる?」
頷く者もいれば、知らない、と首を振る者もいる。
「諸行無常 是生滅法。悟りを得ようと修行を続けるお釈迦様に鬼が上の句を告げてからこう言うのね。”下の句を聞きたければ私の口に飛び込んで、私の空腹を満たしてください。さすれば教えてあげよう” お釈迦様は、よろしいですとも、と悟りを得るために飛び込んだ・・・すると、黄金の仏様が現れたの。仏が鬼の姿となってお釈迦様を試していたのよ。生滅滅己 寂滅為楽。お釈迦様は仏様から下の句を聞き、悟りを開いた・・・猿たちはそれを真似ていたんだよ」
「猿たちが?」
空くんが訊き返した。わたしは自動口述モードに入っていく。
「下に見えるあの口が鬼の姿を借りた仏なのか、それとも単に猿の命を喰らいたくて口を開けている本当の鬼なのか、それは分からない。でも、猿たちは悟りを得られるだろうと念じて飛び込んだ」
「なんで猿が悟りなんか・・・」
「悟ってあの女の子を地獄から救うためだよ、大志くん。横山は霊峰、阿弥陀様の化身。その神聖な山で一人の女の子が憐れな死を遂げ、未だに地獄でさまよっている。その子の魂を救うために猿たちは悟りを得たいと鬼の口に飛び込んだんだよ」
「外道どもよりよっぽど崇高だね」
「奈月さん・・・猿たちの尊い行動に報いるためにも、今、その女の子を救うからね」
わたしは、ざっ、と神社の正面に向き直り、腹式呼吸で鼻からすっと息を吸い込んだ。そして、ぶわっ! と一気に吐き出す。
「神様っ!」
みんなわたしの声に、びくっ、と動きを止める。残りの息で言葉をつなぐ。
「あなたは神様ですよねっ!? ならば、わたしの願いを聞き給え!!」
もう一度腹に力を込め、吐きだす。
「女の子を救い給え!! 地獄から極楽に拾い上げ給え!!
すうっ!!
「我が願い、聞き届け給えーっ!!」
ごうっ! と突風が吹き下ろす。
「あう!」
「わあっ!」
みんな叫ぶ。わたしは怒鳴る。
「みんな、目を閉じて!」
きゅっ、と目を閉じる。びちびちっ! と小石かと思えるぐらいの大きさの砂粒がそれぞれの顔面に叩きつけられる。
「耳も塞いでっ!!」
一斉に耳を両手で押さえ、内耳まで砂粒が飛び入り、鼓膜を突き破らんとするのを必死で防いだ。
わたしたちは、何十秒もこの風圧に耐えなきゃならなかった。
風の勢いが治まり、静寂が訪れても10秒ぐらいそのまま我慢してた。ようやく目を開け、耳を塞いだ両手をはずす。
「おお・・・」
学人くんの低いつぶやきに空を見上げると、山頂から上の雲も、かき消えていた。
熱量が体の側面に加わってきたので横を見ると、雲海から昇って来る朝日に目を射られた。
「お願い、聞いてもらえたみたいね」
わたしがこう言うと、牧田さんがびっくりした顔をする。
「え? 上代さん。あれってお願いだったの?」
「恫喝かと思った。だから神様が怒ったのかと」
牧田さんと大志くんのコメントを聞き流し、わたしはスタッフさんが口を開くのに耳を傾けた。
「女の子、即死じゃなかったんですよね・・・何度も何度も岩に打ちつけられて、想像もできないほど苦しみながら死んでいった・・・だから地獄に堕ちたんでしょうね・・・」
お盆近くになってスタッフさんから暑中見舞いの絵葉書が届いた。可愛らしい雷鳥の親子のイラスト。
山頂では猿を見かけなくなったそうだ。
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