お風呂4

 星がエミルに髪を洗われていたその頃――。


「――ぷはっ! ひっろ~い。きっもちぃ~」


 生き生きとした表情でカレンは広い浴槽の中を、見事なクロールで我が物顔に泳ぎ回っていた。


 少し離れた場所で肩までお湯に浸かりながら、その光景を見ていたエリエが不機嫌そうに眉をひそめて呟く。


「あんた。お風呂の中でなにやってるのよ……」


 行儀としては最悪なカレンだが、エリエが怒っているのはそれだけの理由ではない。先程から出たり沈んだりして左右に揺れているカレンの豊満な胸に、エリエの視線はどうしてもそこにいってしまうのだろう。


 それがエリエからしてみれば、この上ないほどに目障りなのだ。


「ふんっ、なんだよ。俺は久しぶり風呂に入れたんだからしょうがないだろ!」

「だからって泳ぐなんて――あんたもまだまだ子供よねぇ~」


 エリエにそう言われ、むっとしたカレンは不機嫌そうに浴槽の中で立ち上がると、そっぽを向きながら声を上げる。


「あーあー、そうだな。だが、少なくとも、俺よりも胸のないやつの言えるセリフではないよな!」qq


 自慢げな笑みを浮かべ腰に手を当て胸を張ると、エリエの目の前に大きく豊満な胸を曝け出した。そして嫌味としか聞こえないそのカレンの言葉に、今まで必死で耐えていたエリエがブチ切れる。


「くうぅぅぅ~。私より少し大きいからって……この男女!!」

「何だと! このちっぱい!!」

「ちっぱ――ってそ、そんなに小さくないわよこのバカ!」

「フッ。少なくても俺よりも小さいだろうが……この平胸。違うって言うなら比べてみるか? ほれほれ」

「ぐぬぬぬ……」


 エリエは顔を真っ赤にしながら、胸を突き出すカレンを睨みつけている。


 カレンは勝ち誇った様子でさらに胸を張ると、エリエのことを鼻で笑いながら見下したような笑みを浮かべている。


 そんな2人を見兼ねて、イシェルがいがみ合う2人の間に割って入る。


「――なるほどな~。胸の大きさは人それぞれやし……それに呼び方も人それぞれ……なあ~、2人とも。喧嘩両成敗って言葉は知っとる?」


 ゆっくりとした口調とは裏腹に、殺意を帯びた様なそのイシェルの声に2人は思わず凍りつく。


 エリエとカレンは慌てて、ビシッとイシェルの方を向いて背筋を伸ばす。


「ほな、仲直り。……ごめんなさいは?」

「「はい! ごめんなさい!!」」


 2人は息ピッタリに声を合わせて、お互い同時に謝罪した。だが、その声はまるで軍隊の様な返事だった。


 それを見たイシェルは「もうケンカしたらあかんよ~」とにっこりと微笑んでいる。 すると、そこに星の髪を洗い終わったエミルが、レイニールを抱きかかえた星と一緒に歩いてきた。


「あら? イシェ。もうサウナはいいの?」

「ああ、エミル――ちょっと休憩や。でも、やっぱりサウナはええな~。身も心もぽかぽかや~」

「そう。それは良かったわ」


 エミルとイシェルはそう言って微笑み合っている。


 それを聞いていた星が首を傾げながら、エミルの顔を見上げ尋ねた。


「あの、エミルさん……サウナって何ですか?」


 星のその言葉に、エミルがぽかんとした顔で、不思議そうに小首を傾げている星を見つめている。


(あ……あれ? 私、なにか変な事聞いちゃったのかな?)  

 

 だが、そのエミルの反応を見て星は少し不安になったのか、心の中でそう呟くと眉をひそめてエミルの顔を注意深く窺っている。

 すると、その横からイシェルが星の顔を覗き込むと、笑みを浮かべながら「行ってみる?」と星の手を引いて歩き出した。


 イシェルの申し出に、焦った様子のエミルが慌てて止めに入る。


「ちょっとイシェ。サウナって子供が入ってもいいの!?」

「入ってみるやけやし、大丈夫やよ。それにここはゲームなんやし、心配ならエミルも一緒にきたらええやん。気持ちええんよ~」

「えっ? でも、これで気に入って、星ちゃんがリアルでもサウナに行くようになると困るし……それにイシェ。私がサウナ苦手なの知ってるでしょ?」

「大丈夫。ちょっとだけやし、ええやん」


 イシェルにそう言われ、さすがに断れないと感じたエミルは浮かない表情をしながらも「ちょっとだけなら」とその後ろを付いて行く。


 サウナは浴室の一番奥の場所にあり、しかもその入口の前の両側には観葉植物が置いてあったので、一目では分かりにくい。その為、浴室に入った時には星は気が付かなかったのだろう。


(この中にサウナが……どんなものなんだろう……)


 星はそう思いながら、扉を食い入るように見つめている。どうやら、星はサウナをなにか固有名詞だと勘違いしているようだ――。


 その時、横にいたエミルが不安げな声を上げた。


「ねぇ、イシェ。やっぱり私はいいわ……暑いの苦手だし……」

「ここまで来てなにを言うてるの! 何事も経験やよ! 好き嫌いはあかん!」

「経験って……経験したから言ったのだけど……」


 そう言って表情を曇らせるエミルの顔を見上げ星が口を開く。


 エミルのその様子から、どうやら彼女はサウナは苦手の様だ――まあ、大人でもサウナは息苦しさと暑苦しさがあって駄目という人は珍しくない。


「エミルさん! 大丈夫です。サウナが出てきても私が守ってあげますから!」

「えっ? ええ、もし出てきたらお願いするわね……」

(この子。こんなに目を輝かせて……本当にサウナが何か知らないのね……)


 星のその決意と期待の入り混じった瞳を見て、エミルは深いため息をついた。


 星はため息をついているエミルの顔を見つめ、どうして彼女がため息をついているのか分からず、首を傾げている。 


「ほな、開けるよ~」


 イシェルが扉を開けた瞬間、部屋の中からとてつもない熱風が星を襲った。


 初めてな体験に星は驚き、思わず数歩後ろに下がる。すると、扉が閉まり。星は扉の前に取り残されてしまった。


「うわー。びっくりした! サウナって暑いんだ……」


 星が目をぱちくりさせながらそう呟くと、横からエミルの声が聞こえた。


「そうよ。満足した? 星ちゃん」

「え、エミルさん!? どうしてここに!?」


 星は状況が飲み込めず、驚きを隠せない表情で横に立っているエミルの顔を見上げている。

 どうやらエミルも、扉が開いている間にサウナに入りそこねたらしい。まあ、彼女の場合は故意に中に入らなかった可能性の方が大きいのだが。


 数十秒の沈黙の後、エミルは星の顔を見つめると、彼女が徐ろに口を開く。


「――イシェは放っておいて私達はお風呂に入りましょうか」

「……はい」


 星は小さく返事をすると、エミルと一緒に浴槽の方へと向かった。


 エミルと一緒に浴槽に行くと、そこにはお互いに広い浴槽の端の方へと座り無言のまま顔を合わせようとしない2人の姿があった。


 険悪なムードを醸し出しているエリエとカレンにため息をつくと、エミルがそんな2人に声を掛ける。


「2人ともどうしたの? そんな恐い顔して」


 エミルはそう言いながら、2人の間に割って入るようにお湯に浸かった。


 その隣に星もお湯に体をゆっくりと沈める。お湯は熱いというよりぬるい方に近く、星には丁度いい温度だ。


「別に……恐い顔なんてしてないし……」

「俺は別に……」


 2人は小さな声で呟くと、更に不機嫌そうな表情になる。


(はぁ~。この子達にも困ったものねぇ……)


 エミルは困り果てたように頭を抱えると、ふと星の方を見た。


 星は桶にお湯をすくってその中にレイニールを入れると、頭にできたタンコブにゆっくりお湯をかけながら、未だに目を覚まさないレイニールを心配そうに見つめていた。


 おそらく。この行動からみても、星はこのお湯を温泉と勘違いしているのは間違いないだろう。

 確かに傷の回復効果はあるが、それは既存のプレイヤーに対してで、扱いがどこに属しているか分からないレイニールに効果があるかは分からない。


 だが、例え温泉だったとしても、頭にかけてすぐにコブが治るほどの即効性はないだろうが……。


 エミルは真剣な面持ちで、レイニールの頭に今度はお湯をぺたぺたと擦り込むように付けている星に声を掛けた。


「……星ちゃんは何をやってるのかな?」

「えっ? あ……温泉は体に良いって言うので……」


 エミルの方を向くことなく、真剣そのものな顔付きでレイニールの治療に専念する星が言葉を返す。


 それを聞いたエミルは言い難そうに口を開く。


「それがね……このお湯は温泉ではないのよ」

「…………」


 その直後、星の手が止まった。


 当然だ。今まで温泉だと思っていたお湯が温泉ではないと分かったのだ――それは傷口に軟膏を塗っていたものが、実は軟膏ではなく保湿クリームだったことくらいに衝撃的だった。


 エミルはレイニールを横目で見ると話を続ける。


「私のドラゴン達もそうだけど、巻物に戻して再召喚までの時間放置してればHPが全回復するけど……この子に関してそれは適応しないだろうしねぇ……」

「剣に戻るかも分からないですし……戻せる自信もないです……」


 エミルの話を聞いた星はそう小さな声で呟くと、しょんぼりと項垂れる。

 そんな時、桶がカタッと音を立てると気を失っていたレイニールが「う~ん」と唸った。


 星はすぐにレイニールの方に振り返って声を掛ける。


「――レイ! 大丈夫?」

「……あれ? ここはどこじゃ?」

「…………」


 目を覚ましたレイニールの口から出たその言葉に星は一瞬頭の中が真っ白になり、あわてふためきながら叫んだ。


「ど、どうしましょうエミルさん! レイが記憶喪失に! こういう時はえっと、えっと……そ、そうだ! 人工呼吸!!」

「――人工呼吸!? ちょっと星ちゃん。落ち着いて! まだ記憶喪失って決まったわけじゃないから、ねっ?」

「でも、でも……」

 

 レイニールの口に顔を近付けた星をエミルは慌てて止めた。

 まあ、記憶喪失の人間に人工呼吸をしたところで、効果はないだろうが、星がそれだけ混乱していることは良く分かった。


 なおも落ち着かない様子でおどおどしている星に、レイニールが声を上げる。


「――大丈夫じゃ、主。我輩は『少し前の記憶しか』失っておらぬぞ?」

「……本当?」


 瞳に涙を浮かべながらそう尋ねる星に「ああ、本当じゃ」と力強く答えるレイニールを見て「良かった」と言って、星は胸に押し付けてぎゅっと抱きしめた。


 星に抱きしめられたレイニールは頻りに手足をばたつかせている。


「うぅ~。苦しいぞ、主……」

「あっ! ご、ごめんなさい。でも、嬉しくて」


 星は抱きしめていたレイニールを放すと、ほっとしたように空中で翼をはためかせる。


 空中からエミル達の入っている浴槽と自分の入っていた桶を見比べると、むっとしてレイニールが急に不機嫌そうな声を上げた。


「それよりも主。こんな小さなのではなく、我輩もそっちの大きい方に入りたいのじゃ!」

「ああ、レイごめんね! でも……まだ、もう少しこっちの小さいのの方で慣れてから……」


 星の言葉をバカにされたと感じたのか、レイニールは更に不機嫌そうにむっとしながら浴槽の上に飛んで行くと、浴槽の真上でレイニールの体が光り輝く。

 それはいつも、レイニール変身する時に行うお約束みたいなものだ――。


 星は嫌な予感がして咄嗟にエミルの背中に隠れた次の瞬間。レイニールはさっきの金髪ツインテールの女の子の姿に変わり、翼という浮力を失ったレイニールの体が勢い良く浴槽の中へと落ちてきた。


 すると、星の嫌な予感は的中し、レイニールの落ちた場所には大きな水柱が上がり、咄嗟にエミルの背中に隠れた星以外。周りにいた全員にお湯がかかった。


「――うわっ!」

「――きゃっ!」

「…………」


 湧き上がったお湯の被害にあったカレンとエリエは悲鳴を上げ、一番近くでレイニールの跳ね上げたお湯を浴びたエミルは無言のまま一点を見つめている。


 星はほっとしたように息を吐いて、エミルの背中から姿を表す。

 お風呂のそこに沈んでいたレイニールがしばらくして勢い良く水面に顔を出すと、エミルが凄い形相でレイニールを目を細めて睨んでいる。


「うぅ~。ぷはっ! やっぱり大きい方が気持ちが良いのう!」

「……ちょっと、良いかしら?」


 静かにゆっくりとした口調でそう言ったエミルの声からは明らかに内に秘めた怒りを感じる。


 星はそのピリピリとした空気にいたたまれず、ゆっくりとエミルの側からエリエの方へと移動した。

 星のこの動きは、この後に起きるであろう出来事を予期しての予防策の様なものだ。だが、嵐の中心部にいる当の本人は、このピリピリとした重苦しい空気をまったく感じていないのか。 


「あはははっ! どうした。そんな恐い顔をしてないで、おぬしも一緒に泳ごうではないか!」

「そうね……あなたにはまず。ここがプールではないということをじっくりと教える必要があるわね……ちょっと、こっちにいらっしゃい!!」

「――わっ! な、なにをする! なにをするのだ!!」


 エミルはレイニールの腰の辺りに腕を回し、暴れるレイニールを脇に抱えながらバタンッ!と勢い良く浴室のドアを閉めると脱衣室へと出ていった。


 3人はなにが怒っているのか理解できずに互いの顔を見合わせている。するとその直後、扉からエミルの怒鳴る声とレイニールの悲鳴だけが浴室内に響き渡ってきた。


「レイ……」

「……エミル姉。こわっ!」

「見てみたいけど、行く勇気はないな……」


 3人はそれぞれにそう呟くと、2人が消えて行った扉を見つめた。


 ここにいる誰もが外で何が起きているのか、確認しようとする者はいなかった。

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