理想と現実

 その夜。星は不思議な夢を見た――。


 辺りを見渡すと、そこは見慣れないマンションの一室はそこにぼんやりと立っていた。


「あれ? ここは……どこ?」


 生活感はあるが、そこには星以外の人間は誰もおらず。大きな窓からは陽の光が差し込み、隅々まで綺麗に掃除されたその部屋には、白で統一された置物が並んでいてとても清潔感があった。


 間取りは4LDKで、外から見える景色を見る限りはここが高層マンションの上階であることが分かる。

 どこか懐かしい感覚を覚えながら、星はその部屋の中をゆっくりと歩いていた。


 その時、星の目に衝撃的な光景が飛び込んできた。


「な、なに? これ……」


 星はそう呟くと、部屋のすみっこに置かれた木製の戸棚の中の写真を見つける。

 その中には紛れもない星の母親と見知らぬ男性、そして知らない女の子が笑顔で写っている。


 写真を見た時、星の頭の中が不安でいっぱいになった。

 自分は今、VRMMO【フリーダム】の中にいるはずなのだが、それなのにこんな所に居るはずがないのだ――。


 心の中では自分に言い聞かせるのだが、見たこともない場所を夢で見るはずがない。


 星は自分が見ているものが信じられず、困惑した表情を見せる。


(うそだ……きっと、お母さんにすごく似た人の家に来ちゃったんだ……)


 星はそう心の中で繰り返し、自分の服を見た。


 寝る前と同じ服を着ていることを確認し、気持ちを落ちつかせるように数回大きく深呼吸をする。

 条件反射でした星のその行動は、人前で星が泣きそうになった時にいつも取る行動だった。


 こうすると不思議と落ちついて、吹き出しそうになる涙を堪えられることができたのだ。

 しかし、ゲームの中ではどんなに落ち着けようとしても何故か涙が溢れてしまうのだが……。


 溢れる涙を拭き取り、着ていた服をもう一度じっと見つめて。


(うん、大丈夫。エミルさんに貰った服だもん……まだ帰ってきてない。でも、ならここは……どこ?)


 星は冷静に再び辺りを見渡す。


 その時、ガチャン!っと玄関の鍵が開く音が聞こえた。


 突然のことでどうしたら良いか分からず、星があたふたしているとドアが開く。

 開いたドアから入ってきたは写真の女の子と、星の母親らしき女性が笑いながら楽しそうに会話をしている。


 しかも、母親らしき女性のお腹は大きく出ていた。そのことから、その女性が妊娠していることが窺い知れた。


「お母さん。足元気を付けてね!」

「ええ、ありがとう。優しいわね。月はきっと良いお姉さんになるわ」


 女性はそう言って、その子の頭を優しく撫でる。すると、女の子は嬉しそうに笑い。母親もそんな我が子に微笑み返す。


 そこには、ごく普通の親子の微笑ましい姿が広がっていた。


 だが、その姿を見た星の胸を締めつける。

 もう長い間、母親に優しいく微笑みかけられることも、笑顔で頭を撫でられたことも星には思い出せない。


 それどころか、母親の笑った顔もよく思い出せないほどだ……。


「お母さん……あんなに嬉しそうに……わ、私は……お母さんを困らせてばかりで……ごめんなさい」


 そう小さな声で謝ると、星の瞳から抑えようとしていた涙が、止めどなく溢れ出てきた。

 いつも遅くまで仕事をして疲れきって帰ってくる母親に、自分は何ひとつしてあげられないと、星はいつも気にしていた。


 だから、自分にできることは何でもやった。洗濯や洗い物。買い物など、できる範囲でやれるだけのことをした――だが、あの少女はただ扉を開けただけで、あんなにも褒められている。

 それを見て、ふと心の中に疑問が生まれた『自分はあんなに嬉しそうなお母さんに、褒められたことがあるのだろうか……』と――。


 今思い返してみても、星の記憶の中の母親はいつもどこか寂しそうにしている姿しか思い出せない。

 その光景を思い出して星は唇を噛み締め、俯き加減でその場に立ち尽くしている。すると今度は、男性の声が耳に飛び込んできた。


「――月。お父さんの方も手伝ってくれないかい?」

「うん! 今行く~」


 声を聞いた返事をして女の子は勢い良く、玄関から飛び出していった。


 だが、星にはもうそんなことが瞳に入らないほどに心の中から溢れる思いに大きく揺さぶられる様に壁に背中を付ける。


(私は……私も一生懸命頑張ってる……はずなのに……どうして? なにが、あの子と違うの……?)


 そんな言葉が頭の中を駆け巡り、胸が苦しくなる。

 上を向いて頭の中では涙を流さないようにと、強く命令しているのに嗚咽が漏れるほど、涙が止めどなく溢れだし、行き場のない悲しみが星の心を満たしていく。


 こんな姿をお母さんに見られたら『弱虫だと』きっと嫌われてしまう。


(隠れなきゃ……)


 そう思っても、不思議と体が動かない。


 脳が命令しても体がそれを拒絶する。母親の優しい声と数日ぶりに嗅ぐ懐かしい匂い。それは、紛れもない母の匂いだ――。


 しかし、今自分の目の前で行われているものが自分ではなく。知らない女の子を愛おしそうに見つめる母の笑顔に、星は困惑し行き場のない感情だけが溢れる。


 星の心の中で『どうして?』という感情だけがぐるぐると渦巻いている。


 その時。母親の顔が星を見てゆっくりとこちらへ向かってきた。


 もう隠れている暇もない。


(今この家にはお母さんと私しかいない……追い出される!)


 星は遂にばれたと思い。無意識のうちに目を瞑ってしまう。


 だが、星のそんな心配をよそに母親は、星の横をまるで誰も居ないかのように通り過ぎていった。


「……えっ?」


 星は何が起きたのか分からず、きょとんとしている。


 半信半疑のまま、とりあえず外に出ようと玄関まで走り出したその時、玄関のドアがめいっぱい開き大きなモミの木を抱えた男性が入ってきた。


 星は驚きながらも、咄嗟に壁際に背中を付けてそれをやり過ごす。

 その後、再び外へ向けて勢い良く走り出した星の行く手から、女の子が調度良くドアから中に入ってきた。


「いっ……あう~」

「いった~い。なに?」


 2人は勢い良くぶつかると、お互いにその場に尻もちをついてぶつけた場所を押さえていた。

 星が前を向き直すと、女の子は不思議そうに星の方を見つめている。何故かは分からないものの、どうやら彼女には自分の姿が見えているらしい……。


 それを見て「しまった」と思い。星は慌てて両手で自分の口を塞いだ。


 女の子は不思議そうに首を傾げながら、星のことを見つめている。

 

「どうしたんだい? 急に転んで」

「ううん。何でもない!」


 男性のその言葉に女の子は首を横に振って、徐ろに立ち上がった。

 

 星はバレていないことが分かり、ほっと胸を撫で下ろした。


「月。悪いけど玄関の鍵を締めておいてくれるかい?」

「は~い」


 女の子は元気に返事をすると、玄関のドアを閉め鍵を掛けた。


(あっ、閉められちゃった。どうしよう……)


 青ざめた顔で閉じられたドアを見つめる星。


 しばらくその場にぺたんと座り込み。思考を巡らせていると、1つの解決策が浮かんだ。


(そうだ――自分で開ければいいんだ!)


 そう思いついたと同時に、星の右手はドアノブに向かって伸びていた。

 星の手がドアノブを掴もうとした瞬間。すっと、そこにあったはずのドアノブが姿を消す。


 星はそれを見て慌てて目を擦って、もう一度ドアノブを確認する。しかし、そこにはしっかりとドアノブが付いている。


「おかしいなぁ……」


 星は首を傾げながらそう呟くと、再びドアノブに手を伸ばす。


 だが、結果は同じで、またそこにあるはずのドアノブはすっと姿を消す。

 もちろん。ただ透明になったわけではなく、完全に姿が消えているのだ。


(ここが、私の夢の中の世界なら……)


 星はその場で少し考え込む。


(夢……幻――幻を現実にする方法は……強く念じればいいんだ!)


 目を閉じて心の中でドアノブが掴めますようにっと念じて、神妙な面持ちでドアノブに向かって手を伸ばした。すると、今度はギリギリまでいっても消える気配がない。


 星は生唾を飲み込む。すると、右手でぎゅっとドアノブを握って引っ張った。


 少しの手応えの後にスポッ!と、確かな手応えとは裏腹にドアノブが抜ける。


「…………」


 予想外の事に星の頭の中は真っ白になり、思考回路が停止する――。


 無言のまま自分の右手に握られたドアノブと、ぽっかりと穴の開いたドアを交互に見た。

 星が呆然としていると、後ろの方から楽しげな笑い声が聞こえてきた。


 慌てて振り返ると、そこにはリビングのテーブルに腰掛け、楽しそうに笑い合っている3人の姿があった。


 その光景は星が長い間、最も自分が欲しいと感じていた平凡な家庭そのものだった。


「――お母さん。凄く幸せそう……でも、どうして? あそこに居るのが、どうして私じゃないんだろう……」


 廊下からそれを見ていた星は、がっくりと肩を落としてしょげ返る。


 星の記憶なら母親と父親。そして自分でなければ説明がつかない。いや。生まれる前に父親は亡くなったのだから、そこに自分がいても説明はつかないのだが……。


 母親には、自分が生まれたその日に父親が交通事故で亡くなったと聞かされた。もちろん。当時は星も幼くその意味は分からなかったが……。


 しかし、夢とは元々そうなればいいという願望のようなものだ。だからこそ現実味がある必要性はないはずなのだが、この夢は夢と言うにはあまりに現実的で、星には酷な夢だと言わざるを得なかった。


 夢とは本来希望に満ち溢れているもので、唯一現実を忘れさせてくれる空間――誰しも瞼を閉じれば、夢は全てを受け入れてくれる。

 弱い自分も――受け入れがたい現実も――そして過去に叶えられなかった夢すらも……夢は幻なのだから、どんな願いも叶えてくれる。


 だからこそ、自分の目の前で行われているその一家団欒の中にいるのが、どうして自分ではなく。見知らぬ女の子が入っているのか、それがどうしても星には理解できなかった。いや。理解したくなかったというべきかもしれない。これではまるで悪夢だ――。


「……こんなの……こんなの、酷すぎるよ……」


 目の前で行われている光景を見ていた星はその衝撃に耐えられず、地面に両手を突いて泣き崩れる。


『それは、あなたが必要ないからだよ? 星』


 失意のどん底にある星に、何者かの声が耳元から突然飛び込んできた。


 その聞き覚えのない声に、星は驚き身を仰け反らせる。


「――誰!?」

「ふふ、そのうち分かるよ……今日は挨拶だけだから……またね!」


 驚いてきょろきょろと辺りを見渡している星に、そう言い残して、その声は聞こえなくなった。


 っと同時に星が目を覚ました。


「はぁ……はぁ……嫌な夢だったな……でも、あの声は一体誰だったんだろう……?」


 そう呟いた星の体は、汗でびっしょりと濡れていた。


 ふと横を見ると、隣でエリエが気持ち良さそうに寝息を立てている。


(ちょっと、気分転換に外に出てみようかな……)


 星はそう思うとエリエを起こさないように、ゆっくりと布団から出て、テントの外へ出ようとテントから頭を出した――。


 その時、偶然階段へと向かうカレンの姿が目に入った。


(……カレンさん。どこに行くんだろう)


 星はそう思いながらカレンの背中を見送ると、自分は焚き火の前に腰を下ろした。

 もうボスの部屋の前ということもあり、もう見張る必要はないのだろう。前回とは異なり、焚き火の前には誰も居らず、ただ赤い炎がゆらゆらと辺りを優しい光で照らしている。


 星は焚き火の前に腰を下ろすと、じーっと揺らめく炎を見つめていた。


(なんだろう……凄く心がもやもやする……)


 星は自分の胸に手を当てると、表情を曇らせた。

 あんな夢を見た後にカレンの姿を見たからだろうか、その理由は分からないが、物凄く気持ちがもやもやしていた。


 その時、カレンに言われた言葉がふと頭を過る。


『お前みたいに遊びで来てる奴がいると、場の雰囲気が乱れて迷惑なんだよ』


 星はそれを思い出すと、しょんぼりしながら膝を抱えた。

 

「やっぱり。私がいると……皆、迷惑なのかな……」


 悲しそうに小さく体を丸め、掠れそうな声で呟く。


 今までも何度も同じようなことを学校で言われてきた言葉だったが、ここまで落ち込んだのは初めってのことだ――思わず星の口から言葉が出る。


「――結構……頑張ってたんだけどなぁ……」


 星はここに来るまでの道中のことを思い出すと、無意識の内に涙が頬を伝う。


「だ、だめ……泣いてるところを……誰かに見られたら……だめだよ……」


 慌てて服の袖で目を押さえる。だが、涙は止まるどころかどんどん溢れてくる。


 しばらくの間、星はそのまま声を殺して泣いていた。

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