グラスウォール その九(了)

「やあみんな久しぶりだね」


 カフェバー・グリーンドルフィンの雇われ店長・吾郎がいつものように爽やかに迎え、一行をカウンター席へ案内した。


「一週間ちょいぶりくらいか? ちょっと入り用があって潜ってたんだが、その後はどうよ?」


 鉄兵は熱いおしぼりで顔に次いで首元を拭きながら尋ねた。


「一週間は姿を見てないね。おかげさまで客はリラックスできるし、店の収入は増えるし、俺は路頭に迷わなくて済むしで多少は身銭を切ったかいがあったよ」


「いつ金をだした? 終始そこにつっ立ってただけじゃねえか」


「ひどいな。凛之助が持っていった鍋の賭け金、あれの三分の一は俺の懐から出したものだ」


「目の前の人参てわけか」


「そういうこと。なんにしても全て丸くおさまったわけだから、細かいことは言わない約そ――」


「どったの?」


 凛はがぶ飲みして空になったグラスを吾郎に差し出した。


「凛之助さん、一件落着って話でしたよね?」


「そだよ」


 吾郎がもつ銀色のポットがぶるぶると震えていた。


「ならウィンドウにへばりついているアレはなんでしょうか?」


「は?」


 振り返る一同は声を揃えて言った。


「げっ!」


 イモリかヤモリのような格好で張り付き、その男が呼吸をするたびガラスが白く曇る。

 

 結局告白することのなかった千登勢のストーカー・優一であった。

 

 ガラスに強く押し付けているために、せっかくのハンサムが台無しで醜く顔が歪む。

 

 しかしそれは些細なこと、本人にとってはもっと重要なことがあった――

 

 

 目の前に、無色透明だが分厚く硬くこごえるほど冷たい壁がそびえているのに気付いたのは、いつだったのかはもう思い出せない。

 

 ぶつかって初めて気付くそれは、叩いても銃弾でも壊すことはかなわない。

 

 少しでも近づけないかと壁に身体を擦りつけてみるもまったくの無駄、抗う姿は本物のガラスを前にしての下手くそなパントマイム。

 

 目的とするものは透けて見えるだけに心焦るも、いっこうに距離が縮まる気配はない。

 

 だがこの残酷さに敗れるつもりはさらさらない。

 

 しかし抗えども抗えども、その儚く脆くも強固で透明な壁は厳然と拒絶する。

 

 この壁を作り出しているのは、他でもない自分であることに気づいてもなお、この壁を打ち砕くことは出来なかった。

 

 それに気付くことは壁を強く意識してしまうことによにり、その頑強さにひと役買ってしまうからだ。

 

 胸も頬も冷たいガラスにくっつけるこの愚かな行為は、苦痛であると同時に幸福であった。

 

 息で曇ったガラスに思いを連ねることも可能であるが、それを読んでもらには遠すぎる。

 

 手は届かないが、思いを寄せるあの人を目にすることはできるのだから――


 

 だから今日もまた、カフェバー・グリーンドルフィンのウィンドウに優一は張りついた。



「これはどういうことなのかな?」


 さすがの吾郎もお怒りのようで、こめかみに青筋を立てていた。


 顔は笑っているものの銀のポットをにぎる拳のゴツゴツが怖い。

 

「知らないよ! アイツ、千登勢ちゃんに一目惚れしてストーカーやってて、使用済みパンツで手を打とうしたんだけど間違えて雪緒ちゃんの渡しちゃってってって――」


 凛はそこまで言うも、ゴクリと生唾を飲み込んだ。


 鉄兵と雪緒がいまにも掴みかかりそうな鬼の形相で睨んでいたからだ。


「いや、だから、緊急事態だったから、ら、えーと。もう大丈夫だと思ったんだけど、けど、あー、駄目っぽいね」


 凛の目は泳ぎ、たじたじでいつもの威勢はなかったのも当然、いまの鉄兵と雪緒を目にすれば誰でも萎縮し正視できるはずもないのだから。

 

「鉄兵、賭け金返せよ」


 吾郎の言葉はあからさまに棘があった。


「無理だ」


 吾郎の要求に、逞しい腕を胸の前で組む鉄兵は男らしくきっぱりと断った。

 

「お客様、もう一度おっしゃっていただけると助かるのですが」


「無理だ。ないものはない。ないのだから払えない。むしろ苦労して全部さばいた俺を褒めてくれ。スコアにして千登勢ちゃんたちが住む部屋の更新料に使っちまった。だからもう手許にはない、諦めろ」


「ご自慢の鎧を質に入れろよ」


「ふざけんなッ、この子らに死ねっていうのか?」


「くそっ」


「吾朗さんよ、仮にも飲食店業やってんだ、店の中でクソはねーだろ、クソは」


「なんだとこの野郎、誰のせいで怪我してここにつっ立ってると思ってんだ?」


「よく言うぜ。自分の店が持てたって大はしゃぎだったのは誰だ、健忘症か? おっと失礼、なんだかんだで雇われでしたね」


 口に手のひらを当てプププとわざとらしく笑う鉄兵に、吾郎は掴みかかった。


「あ、あの、ちょっと二人とも」


 鋼太郎は勇気をふりしぼって二人を止めにかかるも、三人娘は止めに入るつもりはないようで、我関せず、何やら話し込んでいた。


「このオシャレ顎髭にはギャフンといわせにゃならん。だから包茎はだまってな」


「い、一応ムケてます……」


「童貞の出る幕はない。引っ込んでいてもらおうか鋼太郎くん」


「それは関係ないと思うんですが――」


 鋼太郎の消え入りそうな声へ追い打ちかけるように、バシン、とカウンターを叩く音が響き渡り一瞬店内は静まり返った。

 

「行ってくる」


 刀の鍔を左親指で押す雪緒はスタスタと出口へ向かった。

 

 一切の引き止めを拒絶するように、ポニーテールは微動だにしなかった。

 

 雪緒が向かうならやむを得ないとばかりに、吾郎と鉄兵は掴み合いと罵り合いをストップした。


 それはあらかじめ打ち合わせでもしていたかのような引きの良さだった。





「そうか千登勢ちゃんのストーカーか、わからないでもない」


「でへへ」


 神妙な顔をしてつぶやく吾郎に、千登勢は照れ笑いをした。


「さあてどうなることやら。吾朗、これで追い払えればオーケーなんだろ?」


「もちろんだ。ただし三週間は猶予期間をもらうぞ。それでも現れなかったら――白か」


「白だな」


「白ですね」


 見事な曲線を描くポニーテール。

 

 たなびく紺地のスカート。

 

 まぶしく輝くパンティは冬の白。


 投げ飛ばされる雪緒の姿はウィンドウに縁取りされた一コマとして切り取られ、店内の者たちの記憶に刻まれた。


 ストーカー優一は強かった。

 

 抜刀した雪緒をいとも鮮やかに投げ飛ばすほどの技量。

 

 抜き身の刀を見ても怖じることのない胆力。


 ガラスの壁一枚破ることさえ出来ないが、雪緒をやすやすとあしらうほどの『強さ』があった。


 その秘密はなんであろうか。


 答えは至極簡単なものだ。


 『恋は人を強くする』という格言が真であることを体現しているだけ。

 

 恋をしている――だから彼は強いのだ。



 ここでひとつ訂正しなければならない――彼はもうストーカーではない。



 日増しに募る思いが彼を強くするのであるが、しかし『壁』を破ることはできない。

 

 いま彼の心中を知ることができるのであれば、ストーカーと罵る者はいない。

 

 代わりにこう蔑むだろう――『ロリコン野郎』と。


 恋する少女の純真無垢なはにかみ笑いが、彼をクラスチェンジへと導いた。


 顔立ちの整ったハンサムな好青年・優一は、相手がどうあれ、とにかく女子中学生に本気で恋をしてしまい、人並みに悩むのだった。

 

 故に無色透明の『壁』にぶち当たる。



 葛藤



 それでも退くわけにはいかない。


 だからこそ彼は今日もウィンドウに張りつき、この無色透明で脆くも強固な壁に挑み続ける。


 しかしながらいつか抱える問題の解決方法を見いだしたそのとき、彼はカフェバー・グリーンドルフィンのドアノブに手をかけるだろう。


 そのときまで、恋する乙女に恋する彼は無敵のままなのであった……。




 

 今日も迷宮をあてどなく巡り巡る。


 いつものメンバーで。

 

 そしてときには慌てて逃げ帰る。


 前髪ぱっつん二本のおさげを揺らす凛は、指差す鉄兵の太い腕をかいくぐり、セーラー服に返り血を点々とつける雪緒の横をすり抜け、敵前面へと躍り出るや小さな両手に抱えるウージーサブマシンガンの引き金を絞った。


 激しく振動する銃をよく制し、無駄なく流れるように銃口をターゲットに移していく。

 

 放たれる威力は使用弾・九ミリパラベラムのそれ以上。


 鉛の螺旋が肉を裂き、骨をえぐり、悉くを殺す。

 

 残るは血臭と硝煙の中に鋭い目つきで動くものを伺う小さな『魔術師』のみ。

 

「リンコさんよぉ、お子様はもうちょっと下がっててもらえると大人のヘボいプライドが保てて嬉しいんですけど」


 凛はなにも言わず、冗談めいて語る鉄兵の横を通り過ぎた。


 その後ろ姿をを追いかけ、鉄兵は振り返った。

 

「聞き飽きたと思うけどよ、銃弾をばら撒くのはスコアをばら撒くのと一緒ってのは覚えてるよな? ちょいとサービスしすぎじゃないかね?」


「いま使わないでいつ使う? それになんのためにチーム内で弾薬を共通にしたの?」


 きつい目をして睨む凛は口を尖らせた。


「ごもっとも。ま、そりゃそうなんだが――」


 パンと乾いた音が鳴り響いた。

 

 息絶え絶えながらに顔を上げた化け物の頭部が水風船のように弾けた。

 

 シルバーステンレスのシグザウエル・P239が小さな手に握られていた。


「お見事。さて今日はそろそろ引き上げ時かね、どう思う千登勢ちゃん?」


「ですね」 千登勢は莞爾にっこりと微笑んだ。


「それじゃあ帰ろうか。金がかかるから携帯電話のワープはなし! 先頭は雪緒ちゃん、殿は鋼太郎君、リンコは中央の千登勢ちゃんを守りながら先頭のサポート。気を抜くな、晩飯にありつけるのは迷宮から生還した者のみだ!」


 うつむく凛の手をとって千登勢は歩き始めた。


 しかし引かれていた小さな手は振り払われ、千登勢の温もりから熱の冷めない銃へ。


 

 走り、走り、走る。


 

 先陣を切る雪緒が斃した化け物の死体が点々と流れてくる。


 それに躓かないようにしつつ先頭との距離をキープ。


 銃はニュートンの法則に忠実で、リズミカルにバックパックが肩に食い込み、脇腹が痛くなる。

 

「ちくしょう、早く大人になりたいよ……」


 その言葉は熱い吐息とともに後方へと流れ、誰に届くことなく冷えて消えた。


 しかし発生源の熱量が冷えきることはなく、尽きることもない。

 

 思いを寄せるかぎり、小さな魔術師・恋する乙女の凛は無敵なのだから……。


 

 走り、走り、走る。

 

 

 合間に響く叫び声、銃声がこだましつつ五人の足音は遠ざかっていった。


 一人も欠けることなく――


 迷宮探索はつづく。

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