正しいトイレの使い方 その九(了)

 腰のグロック23に右手をかけ、左手で自慢のビッグガンをつまみ、便器の中で逃げまわるピンク色のボールに小便をかけながら、鋼太郎はあの日のことを思い出していた。


 『自治会』に取り押さえられ、事情聴取という名の拷問を受けることになったものの、ビニール袋を被せられてすぐに事の顛末を洗いざらい喋った。


 情けないの一言であるが、どんなに暴れても馬乗りになった女隊員を振りほどくことはできず、殺すことが目的でないと解っていてもビニール袋を被された恐怖は耐え難く、包み隠さずに話すことにした。


 シテス・スペクトラの彼女がとても残念そうだったのが印象的だった。


 『自治会』の者達はあまりにも鮮やかに美人局にひっかかった鋼太郎に笑いを堪えることができず、室内の至る所で物色する隊員の誰もが声に出して笑っていた。


 しかし美咲とのまぐわいについては興味津々で、根掘り葉掘り事の詳細をあれこれと問いただした。


 他人にとっては笑い話でしかないこの出来事はすでに一週間以上も前のこと、いまはこれまでと同じように迷宮探索へ出掛けるが、色々と一人で考えたい時間が欲しくてなり、このように『思い出の公衆便所』へ来ては束の間のプライベートと思索を満喫していた。





 別に会いたいとは思わないが、他にも公衆便所はいくらでもあるのについ美咲と出会ったここへと足を運ぶのであった。


 いかにも荒くれ者といった風情の男達が騒々しく入ってくることもあったが、こうして銃に手を掛けて警戒しているせいか、あの日以降何事も無くこうして用をたすことができた。


 きっとこれからも――と思ったちょうどその時、


「小僧! 銃を置いて床に腹這いになれ!」


 というダミ声が公衆便所内に響き渡り、ドカドカと乱暴な足取りで男が入ってきた。


「お断りします」


 鋼太郎はグロック23に手をかけたまま、ピンク色のボールに弾ける黄色のアーチを眺めていた。


「なんだとぅ?!」


 男は声を張り上げたが、鋼太郎は動じなかった。


 大きな溜息をついた。


「こんなこといつまで続けるんです? 鉄兵さん」


「へへへ、バレてたか」


 鉄兵は横にならびジッパーを下ろすと小便をしながら、鋼太郎のものを覗きこんだ。


「なるほど」


 うんうんと頷きながら鉄兵は小便を続けた。


「バックパックとグロック、本当にありがとうございます」


 美咲に盗られたバックパックは返ってくるはずもなく、やむなく入っていたもの一式を買い直すこととなった。


 自治会から解放される際にグロック23は没収されてしまったのだが、後日鉄兵はそれを取り戻し鋼太郎に手渡したのだった。


「なあに、気にすんな。金で済むんだっらそれでいいじゃないか。グロックを取り返したのは、正確には俺じゃなくて『ガーデン』の連中だよ」


「『ガーデン』の人が?」


「『自治会』は建前上ボランティアだが、構成員の半分は各派閥から出てる。資金も拠出してる。利害関係が偏らないように員数は調整してるらしいが」


「なんでそんなことを?」


「ここ品川駅で気持よく商売をしたいんだろう。競合する部分はあってもどこかが独占を目指して抗争になったら大変だからな。それを避けるためのストッパーも兼ねてるんじゃないか? 『自治会』はああやって不届き者をとっ捕まえたり仲裁に入ったりするんだが、その際には『謝礼』を出すのが慣例になってる。だけど今回のケースみたいにポン引きが死んで借り主がいなくなった部屋の場合、中のありとあらゆるモノは奴等が差し押さえて処分したのち利益を分配するんだ。一応は人が死んでるから証拠物件としてグロックも差し押さえられるが、いつのまにやらぽっぽに入れられて誰かの私物になるのがはずだった」


「つまりそれって、『ガーデン』の人が横領してそれを戻してくれたってことですか?」


「いや。我ら銃火器販売店『ガーディアン』のお得意様に渡ったものを誰かがくすねるのは許しがたい――って自治会内の不正を指摘して、被害者から物を取り上げるのは如何なものかと説いて取り戻したそうだ。とは言え一応、桜子の姐さんには礼を言っとけよ」


 鉄兵はボタンをプッシュし、小便器の水を流した。


 鋼太郎の小便はすでに終わっていたが、ものをつまんだまま立ち尽くし、小便器につながるステンレスパイプに映る自分の影を眺めていた。





「あいつら有名な美人局らしいな。色んな名前を使ってたが大抵共通して三人組と髭が出てくるらしい。ポン引きはあと三つも部屋を持ってたそうだ。あとは女の名前に特徴ありだ。みどり、美樹、美奈子、美代、みすず、美智子それから――」


「美咲」


「そうそう、それそれ」


 手を洗い、鏡の前で短髪の髪型を整える鉄兵に応えた。


「しかし驚いたよ。自治会から連絡があって駆けつけてみれば、拘束されてる鋼太郎君がいるんだもの」


「半べそをかきながら、が抜けてますよ」


 鋼太郎は鉄兵の隣の洗面台で蛇口をひねり、そっと水に手を浸した。


「そんなに卑屈になるなよ」


「でも『ガーデン』の力がなければグロックは没収されてたし、バックパックは買い直すことになっているんですよ。無実と判明しても念のためと言って拘束が長引くところで、鉄兵さんが保釈金払ったのを、僕は知っているんです」


 洗面台を叩く鋼太郎の拳は震えていた。


 蛇口から流れるでる水がシンクの中で砕ける音だけが、しばし二人の間を占めていた。


 俯く鋼太郎へ鉄兵は諭すように言葉をかけた。


「言っただろう、金で解決できるならそれでいいじゃないか。それよりも君が死ななくて何よりだ。皆もそう思ってる。君がどう行動しようが自由だ、首輪をつけるつもりなんてさらさらない。だがくれぐれも無茶はしないようにしてくれよ」


「……鉄兵さん」


「うん?」


「サイコロを転がすように人を売り飛ばす組織なんて――身近に存在するもんなんでしょうか?」


「どこにあるかは知らんが――存在するよ」


 鉄兵は可能な限りそういう話題から鋼太郎を遠ざけておきたかった。


 かつて『ガーデン』に所属していた時分、そういう輩を相手に躍起になっていたことについて、敢えて言及することはなかった。


 そういったものに対する憤懣やるかたないと思う気持ちは尊重すべきであるが、成り行きで関わってしまった『ガーデン』という組織に、鋼太郎が傾倒していって欲しくはなかったからだ。


 荒事に関わったためか、鋼太郎の顔に剣呑なものが時折見え隠れるするのが妙にひっかかった。


「それより気にすべきことは他にあるんじゃないか?」


「……と、言いますと?」


 鉄兵を見上げる鋼太郎の目つきが鋭い。


「おいおい勘弁してくれよ。ストレスでいまにも胃に穴が空いちまいそうなんだ」


「?」


「鈍感にも程があるぞ。リンコはひたすら機嫌が悪いし、雪緒ちゃんは俺に説教するし、千登勢ちゃんはニコニコするだけで何も言わないし……」


「千登勢さん笑ってるなら、別にいいのでは?」


「身体の周囲が陽炎のように揺れるあの物凄いプレッシャーを感じないのか? 『自然体が一番! なるようになりますよ』なんて言うんだが、あのニコニコ顔は無言の圧力となって俺の胃をキリキリと苛むんだ。パーティーの円満に対する努力が足りないと言ってるようで……辛い」


 鋼太郎は深い溜息をついた。


 まるで肺の中の空気をすべて絞りだすような長さだった。


「実際、その二人と折り合いが悪いのはどうしたらいいんでしょう」


「今はどうしようもない。俺に出来ることもない。すまんね」


「そんな……」


「考えてもみろよ。いつもの飯屋でいくら待っても一向に来る気配がない。みんな心配してたんだ。そこへ自治会から連絡があって駆けつけてみれば、口やら首やら耳やらに口紅の跡をつけた鋼太郎君とご対面。話を聞けば美人局にひっかかって荷物を盗られたなんて聞いたら――怒るやつも出てくるのは当然だ、そうだろ?」


「……その通りです」


「そんなにしょぼくれるなよ。まあ、でもなんとかなるだろ。多少は仲を取り持つつもりだが、変におべっか使うのは逆効果だからな? あの二人はそういうのに敏感だ」


「本当に、いつも足を引っ張ってばかりですみません」


「いいってことよ。それよりもう出ないか? いつまでも便所で話してると吐く息まで小便臭くなりそうだ」


 鉄兵は、鋼太郎の肩を叩いて出口の方向へと促した。





 公衆便所から出た二人は商業区へ向かって歩き始めた。


 商業区と同じフロアにあるといっても外縁部にあるここは人通りが少ない。


 がらんとした通路には、鉄兵の野太い声がよく響いた。


「話は全部聞いた。悪党は死んだそうだが、あんまり思いつめない方がいい。自分で手にかけてないといっても、目の前で人が死ぬのはどんな状況であれ、心の奥底まで届くような傷を残す。いつでも気軽に相談してくれ。カウンセラーの資格はないがね。なんなら千登勢ちゃんにでもいい」


「ありがとうございます」


「さあ晩飯食いにいこうぜ、みんな待ってる。その暗い顔がふっ飛ぶようなウマイやつにしよう。出所祝いがまだだったもんな!」


 鉄兵の屈託のない笑顔に、出所祝いなどという悪い冗談も、不思議なことになかなか素敵な響きに思えてくるのであった。


「それと――」


「それと?」


「女のことは忘れるんだ。なにか伝えたいことでもあるんだろうが、君に出来ることは何もない。あの便所に足繁くかよっても会うことはないよ」


「別にそういうわけじゃ……」


「ならばあそこで用をたす訳は?」


「孤独を、満喫しているんです」


「かー、中二病くせーなあ。そういうのはさっさと卒業するに限る。後遺症が残ると後々厄介だぞ」


 鉄兵は、鋼太郎の腕をぱしりと叩いた。


 終電後の地下街のような、閑散とした縦横に走る商業区への通路に鉄兵の笑い声が響いた。


 してやったとばかりに、鋼太郎はニンマリと満足そうにほほえんだ。


 しかし鋼太郎から小さな溜息が漏れて出たが、鉄兵はそれにきづくことはなかった。





 盗られたバックパックの中身で、なくなって困るような大事なものはない。


 いや、どれも大事なものだが金で取り戻せるようなものばかりだ。


 だからといって取り返したい気持ちがないわけではない。


 かといってどうすることもできない。


 追いかけようにも、どこへ行ってしまったのか皆目検討がつかない。


 別に会ってどうこうするわけではないが、彼女のその後は気になる。



 気味が悪い。この狂った世界で遠足に行く子供みたいに笑って――



 僕の股間に膝蹴りを入れ、部屋を出て行く直前に彼女が呟いた言葉だ。


 この世界から抜け出すには一定の『スコア』をもって改札を通るしかない……。


 銃と自分の『赤いカード』を手に入れ自由となった彼女は、迷宮以外でどのようにして『スコア』を稼ぐのだろうか。


 色香で人を騙して追い剥ぎ行為を続けるのだろうか。


 いや、それはないか。


 きっと彼女を弄んだ男達に復讐して回るのだろう――


 考えは尽きない。


 あの髭面を銃で撃つことはなかった――そのことについては礼を言うべきだろう。


 そうでなければ自治会に拘束された後はどうなっていたか分からない。


 目の前で髭面が死んだことは、大変なショックをだったろうと鉄兵さんは言ったが、別に大したことはないように思える。



 あの名も知らぬ髭面は、美咲さんを『便女』と呼んで美人局に利用した。


 女の人をトイレ扱いし、人をモノ扱いした報いを受けて死んだ。


 遅かれ早かれあのような結末を迎えるのは想像に難くない。


 たまたまその場に僕が居合わせた。


 たったそれだけのことなのだ。


 心残りはひとつだけある。


 彼女が言ったあの言葉。


 僕は死ぬべきだ、と。


 とても気になる。


 なぜだ。



 ぼうっとした表情であるく鋼太郎が心配になり、鉄兵は何気なく声をかけた。


「よう。出所祝いをするとして、なに食いたい?」


 鋼太郎はすこし顔を傾けたが、すぐに答えた。


「肉汁したたる分厚いステーキ。できれば――レアがいいですね」


「奇遇だな、俺もそれにしようかなと思ってたんだ」






 ――自治会のある突入隊員たちの会話――


「よお、聞いたか? 奴さん自分の商売道具に殺されたそうだ」


「それでか、金目のものがないのは逃げた女が持っていっちまったからだよ」


「クソッ、本当に何もねえな」


「おっ、いい感じのジョークを思いついた」


「言ってみな」


「あの髭のデブが死んだのはなぜだと思う?」


「なぜだ?」


「アイツは背中に何発も弾を食らった、それは『ベンジョ』の使い方を間違えたからだ」


「……笑えねえよ」


「そうか? ケッサクだと思――熱ッ!」


「屑が……」


 シテス・スペクトラの女隊員が指で弾いた、火のついた煙草はその男の顔に当たった。


 後ろ手で拘束され、廊下を歩かされる鋼太郎は鼻を鳴らして笑った。

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